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歴史は時としてに"イタズラ"を仕掛けます。埼玉県川越市の喜多院には「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」が今も残っています。寛永15年の川越大火で喜多院が全焼してしまい、将軍家光は江戸城紅葉山の御殿の一部を移築するように命じ、資材を運ぶ為の河川の整備までがなされます。後年江戸城が全焼となり、結果として川越の街に江戸城の遺構が残る事になりました。後年、歴史はさらに”イタズラ”を仕掛けます。Pt↑)は上野寛永寺の根本中堂ですが、旧寛永寺は彰義隊戦争でほとんどが焼失してしまいます。この建物は明治12年に川越喜多院の本地堂を移築したものです。この根本中堂は本来の寛永寺の建物ではなく場所も異りますが、入口の”額”は、旧寛永寺の額を使っているようです。
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根本中堂裏手です。右側の建物内の書院に徳川慶喜が蟄居していた”葵の間(蟄居の間)”が保存されています。鳥羽伏見戦に敗れ、軍を見捨てて江戸へ逃げ帰り、この地で2ヵ月ほど蟄居、慶応4年4月21日に江戸を離れて水戸へ向かいます。彰義隊戦争はこの後で勃発します。多くの作家達が”徳川慶喜”に付いて書いていますが、この方ほど理解しにくい方はおりません。根っからの”お殿様”には間違いないようです。
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Pt↓)記憶違いでなければ竹林の奥が”葵の間”です。Pt↓中)徳川霊廟勅額門です。この奥に5代綱吉公(常憲院殿)・8代吉宗公(有徳院殿)・13代家定公(温恭院殿)・天璋院殿(13代正室)の墓所があります。TVの影響なのでしょうか、天璋院の説明板はキッチリしています。今年も寛永寺では、日付限定で「徳川歴代将軍霊廟の特別参拝」がおこなわれています。
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