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常陸丸事件(ひたちまるじけん)とは、日露戦争中の明治37年6月15日玄界灘を航行中の陸軍輸送船3隻がロシアウラジオ艦隊の巡洋艦により、反撃の兵装も護衛の艦隊もなく一方的な攻撃を受け降伏拒否などにより撃沈させられた事件です。「常陸丸」事件は日本国内の世論を震撼させ、乗員の悲壮な行動は大日本帝国軍人の立派な最期として万世に伝えるべきということで、千鳥ヶ淵公園に「常陸丸殉難慰霊碑」が建てら、乗員の合同墓が「常陸丸殉難近衛後備隊将士之墓」として青山霊園に建てられています。千鳥ヶ淵公園の慰霊碑は一時は撤去されるものの昭和40年靖國神社境内に再建されています。Pt↑)
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「常陸丸」の戦死者は陸軍958名、海軍3名、乗組員130名の総計1,091名に達し、生存者は近衛歩兵第一連隊本部の96名、第十師団糧食一縦列32名、海軍関係者1名、各種乗組員18名の計147名とされています。国民の非難は日本海の警備を担当していた上村中将率いる第二艦隊にも向けられ、事件から二か月後の8月14日の蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を壊滅されるまで続いたようです。Pt↑)青山霊園内「常陸丸殉難近衛後備隊将士之墓」です。
丸腰の輸送船や病院船が攻撃されるのは後の大戦では多発しています。この事件は明治の日本人が経験したことのない事件だったのでしょう。