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「板橋宿&旧中仙道」のイメージで訪れるとガッカリします。”それらしきもの”は殆どありません(苦笑)。驚くのはやたら自転車が多い事です。江戸時代は、上宿・仲宿・下宿の総称が「板橋宿」と呼ばれていました。千住、新宿、品川の規模はないものの、150人もの「飯盛女」が置かれ繁栄していました。明治時代の”街道”から”鉄道”への時代変化に適応できずに板橋宿は衰退、「板橋遊郭」へと変貌して行きます。繁栄は昭和中期まで続くのですが、明治17年の大火で板橋宿の大半が焼失、焼け跡に集まった人達(600世帯・2500人?)が暮らす「東京最後の貧民街」を形成するようになります。Pt↑)は地名”板橋”の由来となった石神井川に架かる橋です。橋を渡ったゆるい上り坂からが「本町・坂町商店街」で「旧岩の坂地区」となるようです。中のPt)は 真言宗豊山派の文殊院。「三ノ輪の浄閑寺」と同様に死んだ遊女の投込み寺で、墓地には遊女の墓があります。
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