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山谷堀から奥州街道越しの都立浅草高等学校あたりからが”浅草弾左衛門屋敷跡”です。組織としての弾左衛門は穢多の頭として関八州の非人や傾城屋(遊郭)などを統括し被差別民が被差別民を統括するという支配構造でした。穢多身分は皮革の生産や罪人の管理など「穢れ」の仕事に携わり、車善七を頭とする非人は社会化からの落ちこぼれ民で穢多身分とは異なります。さらに武家が困窮して大道芸等で暮らす「乞胸(ごうむね)」と呼ばれる人達も被差別民として存在します。幕府公認、非公認の遊郭、遊女達を含めると”浅草近辺地域の特殊性”が見えてきます。
山谷堀公園の公衆トイレ付近が、浅草橋~浅草~小塚原と移転した処刑場の跡地のようです。その隣には明治24年に西巣鴨に移転した「西方寺」があり、箕輪の「浄閑寺」とともに吉原遊女の投げ込み寺でした。この弾左衛門、非人頭の車善七、乞胸、吉原傾城屋の話は、実に興味深いのですが…。とてもじゃないけど手に負えそうもありません(苦笑)。

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