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関ヶ原の合戦に西軍に与した長宗我部氏は改易され、山内一豊が土佐24万石を与えられ掛川から移ってきます。山内一豊ってのは「悪運」と「お愛想」だけで出世したような御仁ですが、さすがに敵地着任の際は影武者を数人用意したようです。この領主の交代が後年の山内家直属の武家と旧長宗我部系の元武家との土佐藩の身分構造を生むことになるのですが・・。
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駐車場から追手門へ向う奥まった場所に『山内一豊』の騎馬像があります。銅像本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4mあり、皇居前の楠木正成像を上回りますが、楠木正成像は内部まで銅入りで重さは約7トンあります。
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追手門を抜けると高知出身の憲政の功労者『板垣退助』の像があります。土佐藩上士の出身ですから城内にあっても不思議はありません。自由民権運動のおり岐阜でテロにあい『板垣死すとも自由は死せず』のセリフが有名ですが、当然こんな事は言っておりません。
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今度は初代・山内一豊の妻・千代(見性院)の馬の手綱を引く像です。例の有名な逸話、妻の千代は嫁入りの持参金(へそくり)で一豊の欲しがる名馬を購入、当時の主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたと・・・。そんな馬鹿なと思う逸話によります。閑話休題。姫路城は別格として「高知城」の姿は感激もんです。坂本(嘘クサ)龍馬だけの高知ではありません!。