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内務卿大久保利通。明治11年(1878)5月14日午前8時頃、自宅(千代田区永田町・現内閣府辺り)を出た大久保は赤坂の仮御所(現迎賓館)に参内するため馬車で出発、現清水谷公園の現場で石川県士族の島田一郎らに襲撃され頭を中心に16ヶ所も切られ即死しています。止めの短刀は喉を貫いて地面に刺さったというのですからまさに「惨殺」です。島田一味は『ひそかに皇国の時状を熟察するに、およそ政令法度上 天皇陛下の聖旨に出に非ず 下衆庶人民の公議由るに非ず 独り要路官史数人の臆断専決する所に在り』と大久保への斬姦状に記載しています。Pt↑)は実際の現場近くの清水谷公園に造られた「紀尾井坂の変の石碑」です。正直管理が最低です(!)。草ぼうぼうの荒れ放題とは、ここでも大久保利通の不人気ぶりを象徴している様です。
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島田一味の暗殺計画には木戸孝允・岩倉具視・大隈重信・伊藤博文・黒田清隆らがあがっているのですが、毎時11年、西郷と木戸はすでに亡く、大久保が殺害されたことで一新の大物はいなくなります。伊藤博文は37歳、大隈重信40歳、山縣有朋40歳。ということは誰が一番得をしたかというと・・。『木戸さんも西郷も長州の先輩達も皆逝ってしまった、大久保がいなくなれば俺たちの天下だ・・』と武士でもない下層階級出身の高杉の使いパシリが後ろで糸を引いたのかも知れません。因みに犯人は2ヵ月後に処刑となっています。
事件のあらましが記載された案内板も劣化が激しく、表面のコーティがボロボロです。鹿児島中央駅近くには「大久保利通像」がありますが、なんと造られたのは没後100年(!)の昭和54年(1979)の事です。西郷に比べてつくづく不人気のようです(苦笑)。