安政元年(1855)、江戸町火消しの頭であった新門辰五郎の妻が重病となったおり、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ病気は全快したそうです。そのお礼の意味も込め伏見稲荷神社から分霊して創建されたのが『被官稲荷神社』で浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の「被官」とは”官を被(こうむ)”から就職・出世にご利益があるようです。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。社は創建時のもので「一間社流造」という神社本殿形式になっています。覆堂は大正時代に造られたようです。
また、様々な形式の神使の狐があちこちに見られます。親子狐・鍵や玉を咥える狐。社額は石造りで狐が付けられています。本殿の隣にずらりと並んだ通称『お姿』は壮観で、これだけ並んでいるのは豪徳寺の猫くらいなもんです。浅草神社によると「浅草神社は九つの神社を兼務している」そうです。うち6社は「稲荷社」という構成です。
また、様々な形式の神使の狐があちこちに見られます。親子狐・鍵や玉を咥える狐。社額は石造りで狐が付けられています。本殿の隣にずらりと並んだ通称『お姿』は壮観で、これだけ並んでいるのは豪徳寺の猫くらいなもんです。浅草神社によると「浅草神社は九つの神社を兼務している」そうです。うち6社は「稲荷社」という構成です。