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吉田寅次郎こと吉田松陰が江戸小伝馬町で”国賊”として30歳で斬首されるのは安政6年(1859)10月(明治改元の9年前)のことです。刑死から世田谷の長州藩別邸に改葬されたのは4年後。その地へ松陰神社が造られたのは明治15年(1882)。萩に松陰神社は明治40年(1907)。世田谷までが23年。萩までは48年の年月が過ぎています。この間に『吉田松陰』は神様になってしまいました。国賊として松陰が江戸へ護送された後は、松下村塾の塾生は地元萩では村八分にされ、高杉晋作の妹達は縁談断られまくり、高杉は松陰との絶縁宣言までしています。松陰先生の評価にしても時代とともに革命家→憂国の士→理想の教育者とコロコロ変遷していきます。吉田寅次郎こと松陰の神格化への路とはなんだったのでしょう。
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幕末期の長州藩内は粛清や暗殺や内戦がごく日常的になっていました。京都での夜な夜なテロ活動。政変で追い落とされると御所に攻め入る暴挙(蛤御門の変)、攘夷を唱えて下関戦争、幕府が長州征伐を示唆すると藩内部の分裂は壮絶な殺合いに発展してしまいます。そこで松陰先生の神格化して結束を図ったのが筋書きのようです。さらには後年都合よく利用したのが伊藤俊輔や山縣恭介らの最下層の士分でもない連中ということでしょう。
ついでに高杉晋作(死亡時は谷清蔵)の騎兵隊にしても捏造が激しく、藩の兵力不足を補うための無頼の輩や農民たち”士分”してやると騙し、戊辰戦争では残忍な殺戮や強奪を繰り返します。戊辰戦争後に山口凱旋した騎兵隊は5000名。待っていたのは大リストラ大会でした。騎兵隊№2の山県有朋にも見捨てられ、不満行動を起こせば上司と崇めた木戸孝允率いる正規軍に鎮圧され、多くの兵士は斬首されてしまいます。その木戸孝允(桂小五郎)は反乱軍の鎮圧や山県有朋や井上馨らの汚職事件のもみ消しと大忙し(!)で結局は早死してしまいます(苦笑)。
親子・兄弟・身内同士の殺し合いがばかりの歴史を綴ってきた長州藩の結束のシンボルとして「カリスマ松陰先生伝説」必要だったのでしょう。松陰先生が所詮は地方区で全国区ではない理由が納得できます。それにしても某国の首領様伝説と類似していますね。
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