旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

台東区

上野・西郷どんの犬

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いろいろと騒がしい日々となってしまいましたが、上野公園の花見も花見宴会が自粛となってしまい例年とは様子が異なっています。”見るだけ歩くだけ”となってしまっても青空に映える満開の桜は良いものです。
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何回となく記事項としてきた上野公園の西郷隆盛と薩摩犬ツンの”犬を連れての兎狩りの像”ですが、仁科邦夫氏の”犬たちの明治維新・ポチの誕生”に面白い話が書かれていました。他の資料と総合すると西郷像は西南戦争のほとぼりも冷めた明治31年(1898)に完成しています。人(西郷)は高村光雲、(犬・ツン)は後藤貞行と皇居前の楠木正成&馬と同制作者によります。国家反逆者の西郷像については色々とあったようですが、本来の構想は鹿児島と同様に軍服姿だったのが途中から「丸腰姿」の変わったようです。以前から見慣れた銅像ですが遠近法(?)による西郷の体と頭のバランスに違和感は感じていましたが…。
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実際の西郷の身長は当時としては大巨人の約180㎝でこの像の身長は約370㎝と倍の高さとなっています。これに対し薩摩犬・ツンは原寸なのです。超が付くほどの写実主義者の後藤貞行は『犬の大きさ倍にしてくれ』との依頼を断り原寸にこだわったようです。像は足元から見上げるを前提で造られており、少し離れた場所からみると犬の大きさとのバランスが悪く感じるのはこんな理由です。製作には息子の菊次郎、弟の従道、従弟の大山巌や西郷戦死を見届けた河野主一郎氏が監修しているのでリアルな像となっているようです。
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台東区・かっぱ橋道具街

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浅草通りの菊屋橋交差点から言問通りまでが食器や調理器具、食品サンプル、飲食店の内装関係等々を扱う専門店が並ぶ「かっぱ橋道具街通り」です。ここまで料飲調理関係に特化した問屋街は他には知りません。東京メトロ銀座線・田原町駅が最寄りですが以前は浅草通りに都電が走っていて、Ptの菊屋橋交差点の右100mの停車場はよく利用したものでした。遥か40年程前のことです。PT↑)交差点から見るニイミ洋食器店ビルの屋上には巨大なコック像は(合羽)橋のランドマークとなっています。問屋街とはなっていますが殆どの店舗は小売りOKのようです。
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交差点を前方が「かっぱ橋道具街通り」で交差点の左右側には仏具店が軒を連ねています。面白いもんで殆どの仏具店は北面しています。売り物の仏壇が日焼けしないようにとの配慮だそうですが…。道具街通りを進むと一角に「かっぱの河太郎」なる岐阜駅前の織田信長並みに黄金に輝く像が建っています。平成15年に合羽橋道具街誕生90年を記念して造られています。この商店街では「河童」をキャラクターとしていますが、商店街は「合羽/かっぱ」で「河童」とは関係があるような無いような(苦笑)。Pt↓)のデカイ甲虫は食品サンプル店の看板です(笑)。
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狐と馬が…矢先稲荷神社

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台東区松が谷2丁目の「矢先稲荷神社」です。五穀豊穣を司る「倉稲魂命」と七福神の「福禄寿」が祀られています。倉稲魂命=伏見系の稲荷社なのですが神使(眷属)の狐はおりません。Pt↑)拝殿の格天井には神武天皇から昭和までの馬とゆかりの人物や馬の姿、武具、服装などが精密に描かれた「日本馬乗史」が設えてあります。解説には昭和39年に「海老根駿堂画伯」により約5年の製作期間を経て昭和39年に奉納されたとあります。天井画なので若干の距離もあり見上げ続けるのは結構シンドイ思いをします。(社務所に「日本馬乗史絵」なる図説/¥1200がありました)
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由来によると、寛永19(1642)年に3代将軍徳川家光により武道の練成のため、三十三間堂がこの地に建立建立されました。この堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど”的の先”になることから「矢先稲荷」となったそうです。元禄11年(1698)年の江戸大火で焼失し、三十三間堂は深川に移転するも稲荷社は再建され、関東大震災や東京大空襲などの困難をへて現在に至っています。
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2020・谷中七福神

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「京都七福神」を最古とする説もあるようですが、江戸享和年間(1800年頃)の随筆「享和雑記」に記載のある「谷中七福神」最古説が有力と思われます。この時代の谷中は寺町で四季の観光名所も多く自然発生的に確立されたのでしょう。谷中七福神は「不忍池弁天堂」から始めます。「弁財天」は「吉兆天」を追い出して残った女性神(後述あり)。宝船の絵では他の神は爺とメタボを抜いてなのでセンター位置にいます。「愛嬌」を司り音楽神・芸能神の担当です。
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七福神巡りではお寺と神社が混載していることが多いのですが、谷中七福神はすべてが「お寺」なので二礼二拍手なのか合掌なのかを意識する事はありません。不忍池から上野高校の坂を登ると【天台宗・護国院=大黒天】です。「大黒天」はヒンズー教の神様で司るのは「富財」。五穀豊穣・財産・台所の神として敬われます。
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続いて谷中霊園に近接する【臨済宗・長安寺=寿老人】です。寿老人と福禄寿は”同じ神様”とする説もある、中国・道教の神様です。元々両神は幸運をもたらす南極星の化身であり南極星信仰が日本では別々の形で根付いたようです。寿老人の特徴は鹿を従え桃を持っています。七福神での担当は「長寿」です。
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都内有数の古寺には【天台宗・天王寺=毘沙門天】が祀られています。江戸時代天王寺は目黒不動尊・湯島天神と共に富くじの興行がおこなわれました。インドのヒンズー教の神「毘沙門天」は面白い神様で、如来の廻りに四天王として北方を護る時は「多聞天」、単独になると「毘沙門天」とグループ活動とソロ活動で名前が違います。面白いのは「毘沙門天」の正妻は「吉兆天」ですが「毘沙門天」と「弁財天」とは愛人関係にありました。これを知った正妻の「吉兆天」は自ら身を引いたことで七福神の女性神は「弁財天」だけとなった…。良い話です!
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西日暮里近くの【日蓮宗・修性院=布袋尊】が祀られています。インドと中国道教の神々ときて、この「布袋尊」は唐代末期に中国に実在していた僧侶です。伝承では18人の子供たちを従え、背負った袋の中身を人々に分け与えていたことから、死後は弥勒菩薩の生まれ変わりとして神格化されたようです。司るのは「大量」。
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【臨済宗・青雲寺=恵比寿神】では日本古来の神の登場です。大国主命の子息で、福を表す「鯛」と福を吊り上げる「釣竿」を持っています。商売繁盛や海の守護の神として敬われ、七福神の担当は「正直」です。
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ラストはJR田端駅近くの【真言宗・東覚寺=福禄寿】です。福禄寿の福は子孫繁栄、禄は財産、寿は健康長寿を表し福と禄と寿が揃ってこそ司る「人望」が生まれるとされます。七福神とはインド、中国、日本の神々と実在の人物迄が混じる【神様の多国籍軍】であり「多数の神に願いごとをするとどの神も助けなくなる」という考え方により「格の低い神様」ともされます。お役所の担当窓口のようなものかも知れません。

東京国立博物館・特別公開

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令和の即位に伴う儀式で10月22日の新天皇が即位を公に表す「即位礼正殿の儀」で使われた「高御座と御帳台」が上野の「東京国立博物館」で特別公開されることとなりました。同じ国立でも昨日は「競技場」今日は「博物館」と忙しい日が続きます。当日、開館の40分前には博物館入口には寒空に約200名(?)のが並んでいました。特別公開は高御座関連の見学のみは無料でその旨のタグが支給されます。展示期間は12月22日から1月19日(休館日あり)まで。博物館本館の2部屋を使い1部屋には「高御座と御帳台」が展示され1部屋には装束やお道具の数々が展示されています。
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「即位礼正殿の儀」はTV放映され記憶にもありますが「高御座と御帳台」が目の前で見られるとは…。展示室への入場人数の制限はあるようですが、人の頭越しでも見ることはできました。例によっての「スマホ撮影隊渋滞」は著しく操作に不慣れで渋滞に拍車がかかるようです。ガラス越しの撮影は映り込みに苦労しますが充分な光量はあるのでフラッシュ機能は止めましょう。無料配布されるパンフレットが珍しいほどの出来で是非ともの入手をお勧めます。
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浅草寺・鎮護堂

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浅草寺の鎮護堂、2018.01.22以来の2回目です。台東区教育委員会の至極簡単な案内板がありますが、書かれていない面白いお話もあったようです。そもそも浅草寺の鎮守が「鎮護大使者」=「狸の神」というのも面白いのですが、彰義隊の上野戦争から逃れてきた83匹の狸軍団(西国から来たようですが出身地は不明)は浅草寺裏の雑木林に住み着いたのですが、寺の拡張でこの住みかも追われることとなります。頭にきた狸たちは反抗的になり様々ないたずらで仕掛けるようになり、浅草寺用人の家では天井から石を落としたり落ち葉をまき散らしたりの狼藉や家の娘に憑りついたり大暴れを繰り返したそうです。このいたずらの模様は明治時代の「東京日日新聞」で報じられたのですから”さぞや”のものだったのでしょう。
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1883年頃に浅草寺と上野寛永寺のお二人の僧正様の夢枕に狸公が現れ「我に住みかを与えれば火伏の神となろう」と告げていきます。この縁により僧正様達の発起でこの鎮護堂が造られることとなります。「鎮護大使者」の称号は浅草寺の僧正様によるもので浅草寺の火伏の鎮守とは狸公達も大出世です。見ることはできませんが、祠に祀られているご神体は白狐に跨った「茶吉尼天」なんだそうで仏教系稲荷社のご神体と同じです。「鎮護堂・狸神」のご神体が「稲荷神」とは、なんだかか複雑模様です。祠前にはあちこちに狸の像が見られます。光量不足で見えにくいですが並んでいるのは「縁起物/ご神体」の像で3種の姿(1体 ¥1500)があります。
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お狸様大暴れ…【令和】

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上野恩賜公園内に徳川家康・吉宗・慶喜公を祀る上野東照宮は、平成26年に4年に渡る改修工事も完了し重要文化財としての煌びやかな姿を見せています。この地は江戸初期藤堂高虎の屋敷で、東照宮は危篤の家康公の遺言により元和2年(1616)に藤堂高虎が創建したものです。社殿に向かう回廊に唐突として『栄誉大権現』が祀られています。この神様は「お狸様」「夢見狸」と呼ばれ、江戸時代にはるばる四国からやってきた四国八百八狸の総帥で江戸城で大暴れして追放され、その後も安置された大名、旗本諸家を次々と潰した大悪狸なのです。Pt↓)がご神体の大狸さまです。
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明治以降は鳥越神社に鎮座するものの災いは続きいたようで、大正年間にこの地に落ち着くと一転して「ありがたいお狸様」に。「他を抜く」という縁起から強運開祖や受験の神様として信仰されたようです。柳森神社の福寿狸大神として崇められ、こちらのお狸様は四国からいらっしゃった(蜂須賀家?)たのに何が気に障ったのか江戸の街で大暴れして追放の憂き目とは扱いがあまりにも違います。この場所に鎮座したのは大正年間とのことですが、賽銭箱や屋根の部分には葵の御紋が付けられるなど徳川家の守護神として認められたようです。そうなればお狸さまも悪い気はしないでしょう。
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小野照崎神社の神使たち

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台東区下谷2丁目の「小野照崎神社」です。フーテンの寅こと渥美清氏が「仕事が順調になるなら、好きなものを断つ」で禁煙に挑戦(!)結果「寅さんシリーズ」の大ヒットとのエピソードで知られていました。ご祀神は『小野篁』と『菅原道真』が祀られ「学問・芸能」の神様として有名な神社です。元は上野寛永寺敷地内に創建され、江戸寛永年間に現社地に移ってきています。さほど広くはない神域には多くの境内末社や重要有形民俗文化財の下谷・富士塚(下谷坂本富士)があり、風雪に耐えた神使の動物たちが神域を守っています。
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鳥居を入ると左にには三峰・御嶽神社には神使の狼がいます。埼玉県秩父を本社とする三峰神社の三峰講は山犬信仰として知られ狼が神使となっています。角が取れたお姿は”以前は狼だった”感に満ちています。
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富士浅間神社は、1828年(文政11年)創建で都内でも有数な歴史のある富士塚だそうです。塚の扉に置かれた「猿」はチョット残念な状態ですが、手を合わせている姿はこれはこれでよい雰囲気です。
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織姫神社と稲荷神社が合祀された境内末社のキツネ像は不可思議な姿をしています。この様なクネクネした姿の狐像はあまり見かけません。この小野照崎神社は東京空襲の被害を免れていたようです。ご祀神の小野篁は昼間は朝廷の官使で夜は閻魔大王のもとで裁判官補佐というとんでもないお方ですから霊力はずば抜けていたのでしょう。
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アメ横・摩利支天

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2019年の干支は『亥/猪』なのですが、この『亥/猪』は元々が『豚』のことで、”十二支”の思想が日本に入って来た時代には『豚』が一般的ではなく『猪』を採用との説もあるのですが、「私は豚年生まれ!」となるとなんかぞっとしませんが、豚は多産で富の象徴でもあったようです。実は十二支の動物たちの採用基準も曖昧で「牛の背中にねずみが乗って~」とか「猫がねずみに騙されて」とかの話は当然あてにはなりません(苦笑)。お国によっては寅が豹だったり卯が猫だったりするようです。
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疾走する猪の背に立ち剣を持つお姿の「摩利支天」が祀られるているのが、JR京浜東北線から見えるアメ横・二木の菓子の屋上にある妙宜山徳大寺です。厄を除き運を開く勝利の守護神の「下谷摩利支天」として親しまれています。歳末の買い出しで賑わうアメ横には摩訶不思議な空間のようですが、けっこう賑わっていました。TV的には”人で賑わうアメ横”は歳末の風景として定着しているようですが‥。
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池之端・五条天神と花園稲荷社

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上野・池之端の『五条天神』です。修学旅行なのでしょうか?子供達の姿が見えます。天神社=菅原道真=学問の神様で参拝なのでしょうが、五条天神の場合は少しばかり異なります。天神社縁起によると【日本武尊の東征の際、この地で医・薬祖神の大己貴命と少彦名命を祀った】とあります。いずれも出雲の神々ですが、大己貴命とは大国主命の事で少彦貴名命(背が極端に低い神様で”一寸法師のモデルで温泉療法や百薬の長の酒をもたらした神)と協力して国造りに携わったといわれます。大己貴命(大国主命)が「因幡の白兎」で重篤の兎の治療をした謂れから両神が医・薬祖神となっています。菅原道真が合祀されたのは寛永18年と約350年前にすぎません。因みにご五条天神は東京の古社にはありがちな遷座を繰り返し、この地に遷座したのは昭和3年の事です。
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東京にも数か所、伏見稲荷の鳥居を思わせる稲荷社があります。赤坂日枝神社の稲荷社、根津神社の乙女稲荷神社。ここ花園稲荷も人気のようです。本殿脇に鉄格子で閉ざされた社があります。立入り禁止ではなく”ちゃんと閉めましょう”と書いてあるのですが、外国人には読めないでしょうね(笑)。この社が「お穴様」で、むかし上野の山に住んでた「弥佐衛門なる狐」が【寛永寺ができると住む所がなくなって困る】と天海僧正に直訴して立退きの条件(?)として祀ってもらったという伝承があります。彰義隊上野戦争時には”穴稲荷門の戦”として大激戦の地となったそうですが‥。上野戦争は一方的な殲滅戦なので”激戦地”と言われても?です。また呼称の変遷が多い稲荷神社で「忍岡稲荷」や「お穴様/穴稲荷」と呼ばれ、明治の再興時に「花園稲荷」と改名したとの流れのようです。
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隅田川・柳橋

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『春の夜や 女見返る 柳橋』‥正岡子規の句です。正確には神田川の河口、すぐ先が隅田川です。地名としての「柳橋」は江戸中期から花街として知られ時代小説にも度々登場しています。当時は橋のほとりに多くの船宿が軒を連ね大変な賑わいだったようです。明治の時代になっても花柳界として東京を代表する歓楽街となっていました。正岡子規をはじめ多くの文人に取り上げられ、今でも町には当時の面影を残した江戸の雰囲気を感じられる町とされています。この橋が最初に架けられたのは元禄11年(1698年)のことで、現在の鉄橋は昭和4年に架け変えられていて、永代橋のデザインが取り入られ、短いながらも美しい姿をした橋です。欄干には花柳界の街にちなみ、柳橋芸者をイメージした”かんざし”のレリーフが施されています。隅田川屋形船の納涼船の船宿が立ち並び、橋のたもとには佃煮の名店「小松屋」や老舗日本料理店の「亀清楼」など情緒あるお店があります。
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浅草の街神社…(6)

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地図にも無いような小さな稲荷社を探すのは大変で例の赤幟を目印とするのですが、浅草寿町の『黒船稲荷神社』にはその頼みの「幟」すらありません。浅草神社の資料によると・・【平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940年?)に創建、藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請したといいます。江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、「黒船三社稲荷大明神」と称されたといいます】・・ともかくの古社です。ご祀神は倉稲魂命(宇迦之御魂神)つまりは稲荷社です。Pt↓)では写っていませんが賽銭箱には寄贈者の「厩橋旅館」の文字と稲荷伸の紋が付けられています。
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旧寛永寺五重の搭

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上野動物園の敷地内の重要文化財の『旧寛永寺五重の搭』です。残念ながら動物園内なので見るには動物園の入場料を支払わなければなりません。もともとは上野東照宮に付随して寛永8年(1631)に造られていますが火災により焼失、寛永16年(1639)に再建されています。高さは36.4mあり明治年間の神仏分離令により東照宮から寛永寺に管理が移り、1911年に重要文化財に指定され現在は東京都の管理となっています。法隆寺の五重塔とは異なり1階の屋根から最上階の屋根の面積が同じ(法隆寺は上層階に従って屋根の面積が縮小)となっています。見ようによってはバランス悪く感じられます。これ以上搭にはは近寄れないので残念ですが龍の彫刻や極彩色の十二支は良く見えません。
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台東区・箭弓稲荷神社

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東松山の箭弓稲荷神社の御由緒には【享保年間には隆盛を極めて遠方よりの参拝者がご訪れ、江戸地市中では日本橋小田原町を 中心に「箭弓稲荷江戸講中」が盛んであった】とあります。台東区の箭弓稲荷社も明治年間に東松山・箭弓稲荷神社から分霊こそされていますが、元は石川主殿頭の屋敷稲荷で3代徳川家光の時代に家光より”銀杏”が下賜され「銀杏稲荷」を名乗ったことに始るようです。Pt↑)鳥居がなければ神社とは分らない規模の神社です。鳥居を潜ると落語家など氏子の名前の奉納額が掲げられています。面白いことにはこちらの由緒案内にはご祀神が保食命ではな宇迦之御魂神になっています。まぁ同一とされる神様ですから良いのでしょう(苦笑)。
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谷中・天王寺

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今年の東京の桜は満開日から1週間過ぎても花散らしの雨が降らず、例年になく見頃が続いたようです。ここ谷中・天王寺境内には谷中七福神の「毘沙門天」が祀られており、毘沙門堂前の桜も見事咲き誇っていました。天王寺(天台宗)は文永11年(1274)の創建とされ、江戸時代は目黒不動尊、湯島天神とともに富くじの興行が許される「江戸三富」とし賑わいました。幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになった五重塔は天王寺の境内にあり、昭和32年7月に放火により焼失しています。この放火事件は50歳代男と20歳代女の不倫心中の道ずれに放火したのですが、東京都教育委員会の解説板にはこの肝心な部分が書かれていません。寝たばこの不始末という事ではありません。Pt↓)案内板には谷中霊園での猫達の過酷な生活環境が書かれています。霊園の猫達は餓えやカラスの攻撃をかわして生き延びたエリート達なのです。
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東上野・下谷神社

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東上野3丁目の下谷神社です。浅草通りに面した大きな鳥居を有していますが、その割には本殿はこじんまりとしています。ご祀神は大年神(誰?)と日本武尊。神社の創建は天平2年(730年頃)とされ、けっこうな古社です。東京メトロ銀座線・稲荷町駅が最寄駅とですが、この「稲荷町駅」の駅名は下谷神社が古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と称する都内最古の稲荷社だったことにより、おみくじが『キツネおみくじ』ってのも「おぉそうきたか」という感じです。神社の歴史で主祀神が入れ替わるのは珍しい事ではありませんが。下谷稲荷社→下谷神社に下谷稲荷町→東上野に変わっても駅名に記憶が残っているのは面白いと思います。社内には「寄席発祥の地」の石碑があります。1700年代に神社境内で初めて寄席が開かれたことによります。
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台東区・秋葉神社

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秋葉神社も全国展開の神社で約400社を遥かに超える神社が点在しています。多くは浜松市の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする神仏習合の火防・火伏の神、秋葉大権現を祀っています。江戸時代(264年)などは火事と再建の繰り返しですから火災予防神の秋葉大権現の多さも得心のいく話です。面白い事にこのお台東区松が谷の『秋葉神社』は明治2年(1869)の東京大火のおり、明治天皇の命により現在の秋葉原駅構内に「鎮火社」として建てられたのですが、いつの間にか鎮火社と秋葉大権現と混同されてしまったようです。同じ火防の神様ですから、まぁ良しでしょう。明治21年(1888)に上野・秋葉原間の鉄道の延長工事により現在地に移動しています。社殿は立派な造りで、Pt↓)の方角からが参道となっています。
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恐れ入谷の鬼子母神…真源寺

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”恐れ入谷の鬼子母神”は「恐れいりやした…」の言い回しで、江戸時代の太田南畝の狂歌によります。この後に、「恐れ入谷の鬼子母神、どうでも有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」や更には「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」+「なんだ神田の大明神」などと続くようですが、その手は桑名の焼き蛤」なんてのも同様に何とも『日本語的』な表現です。この「入谷の鬼子母神」は台東区下谷に法華宗の寺院『真源寺/しんげんじ』として存在しています。豊島区雑司が谷の「雑司が谷鬼子母神」に比べると、ややスッキリした今風のお寺の感があります。江戸時代はこの地で朝顔の栽培が盛んに行われ市も開かれていました。中断の後に復活し現在でも7月の「入谷朝顔まつり」の会場として知られ大変賑っています。
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祝・国立西洋美術館

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2016年7月17日に上野の「国立西洋美術館の本館」が、ユネスコの世界遺産にタナボタ登録されました。元々西洋美術館の作品群は、現川崎重工業の松方幸次郎氏が20.世紀初めにフランスで収集したコレクション(松方コレクション)を基としています。第2次世界大戦終了後、フランス政府は松方コレクションを敵国資産として没収してしまいます。1951年、サンフランシスコ講和会議の際に吉田茂首相らの交渉によりコレクションのうちフランスが返還に応じなかったゴーギャンやゴッホなど数点を除き、絵画、素描、版画、彫刻、書籍など370作品が『美術館を建設して展示する』という条件付きで返還(フランス側は「寄贈」と主張)されました。1954年建物の設計を20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに依頼することとなり、1955年(昭和30)11月には巨匠本人が最初で最後の来日として、建設予定地や京都、奈良を8日間視察して帰国。後に届けられた基本設計案、実施設計案をもとに弟子にあたる日本人の実施設計により建てられたいます。なんか釈然としませんが、ここは「世界遺産登録おめでとう」と言っておきます。
ロダン作『地獄の門』は世界で7ヶ所で展示されています。作品の一部が『考える人』となっています。
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蔵前神社・元犬

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落語の演目に「元犬/もといぬ」というのがあります。…『白犬は人間に近く、信心すれば来世には人間に生まれ変われる』…この話を聞いた”白い犬”がお百度を踏んで人間に生まれ変りドタバタをおこすという話です。この犬がお参りしたのが「目黒不動」と「蔵前の八幡様」の二通りあるようです。台東区蔵前の「蔵前神社」は元禄6年(1694年)、5代将軍綱吉が江戸城鬼門除として京都の石清水八幡宮を勧請したとされ、江戸時代は両国回向院、深川富岡八幡宮と並んで勧進大相撲の拠点でした。Pt↑)は境内の元犬=シロの像です。凛々しい姿です(笑)。モデルの犬は天然記念物の”北海道犬”だそうです。
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