旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

台東区

祝・国立西洋美術館

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2016年7月17日に上野の「国立西洋美術館の本館」が、ユネスコの世界遺産にタナボタ登録されました。元々西洋美術館の作品群は、現川崎重工業の松方幸次郎氏が20.世紀初めにフランスで収集したコレクション(松方コレクション)を基としています。第2次世界大戦終了後、フランス政府は松方コレクションを敵国資産として没収してしまいます。1951年、サンフランシスコ講和会議の際に吉田茂首相らの交渉によりコレクションのうちフランスが返還に応じなかったゴーギャンやゴッホなど数点を除き、絵画、素描、版画、彫刻、書籍など370作品が『美術館を建設して展示する』という条件付きで返還(フランス側は「寄贈」と主張)されました。1954年建物の設計を20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに依頼することとなり、1955年(昭和30)11月には巨匠本人が最初で最後の来日として、建設予定地や京都、奈良を8日間視察して帰国。後に届けられた基本設計案、実施設計案をもとに弟子にあたる日本人の実施設計により建てられたいます。なんか釈然としませんが、ここは「世界遺産登録おめでとう」と言っておきます。
ロダン作『地獄の門』は世界で7ヶ所で展示されています。作品の一部が『考える人』となっています。
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蔵前神社・元犬

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落語の演目に「元犬/もといぬ」というのがあります。…『白犬は人間に近く、信心すれば来世には人間に生まれ変われる』…この話を聞いた”白い犬”がお百度を踏んで人間に生まれ変りドタバタをおこすという話です。この犬がお参りしたのが「目黒不動」と「蔵前の八幡様」の二通りあるようです。台東区蔵前の「蔵前神社」は元禄6年(1694年)、5代将軍綱吉が江戸城鬼門除として京都の石清水八幡宮を勧請したとされ、江戸時代は両国回向院、深川富岡八幡宮と並んで勧進大相撲の拠点でした。Pt↑)は境内の元犬=シロの像です。凛々しい姿です(笑)。モデルの犬は天然記念物の”北海道犬”だそうです。
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榊神社・須賀神社・銀杏岡八幡

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JR浅草橋駅下車、江戸通りを鳥越神社方面(浅草方面)に向かうと、かなりの密度で古社が鎮座しています。Ptは台東区蔵前1丁目の『第六天榊神社』です。ご祀神は「天神第六代坐榊皇大御神、面足尊/オモダル、惶根尊/アヤカシコネ」の神々ですが、正直どなたなのか良く判りません(苦笑)。景行天皇の40年に日本武尊により東国の平安を祈願、国家鎮護の神宮として創建されたされます。江戸時代には、徳川幕府浅草御蔵の総鎮守とされ、明治6年には廃仏毀釈の嵐を乗り切るために神社名を「榊神社」と改めています。
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台東区浅草橋2丁目の『須賀神社』は榊神社から僅かな距離です。須賀神社の創建年代は不詳ですが、推古天皇9年(601年)武蔵国豊島郡に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王の祠をたてて創始したといいます。ここ蔵前の地は、江戸時代には旗本や御家人の代理として禄米を受けることを職業とし、次第に江戸経済を動かすほどの勢力を持つようになっていく「札差」が多く住んだ街でもあります。
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台東区浅草橋1丁目の『銀杏岡八幡神社』です。東京にある八幡社は【源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中に戦勝を祈願して創建】てのが多いのですが、そんなに祈願ばかりしていたら戦争にならないと思うのですが(苦笑)。この銀杏岡八幡神社も奥州へ向かう途中、銀杏の枝を差して戦勝祈願、その帰途に康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられます。そうですか(笑)

浅草橋の甚内神社…(Ⅱ)

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江戸時代の身分制度としては「士・農・工・商」が知られていますが、実際はこの後に「穢多(えた)・非人(ひにん)」と続きます。穢多身分は「穢れ」に関する仕事に従事し皮革の生産や罪人の管理、歌舞伎役者のように非生産者の管理を町奉行を通じてコントロールしていました。いわば非公認公務員のような感じです。対して非人は社会化からの落ちこぼれたいわゆる”乞食”です。江戸寛永年間では大名家の取りつぶしや飢饉により貧民が増加し、幕府は非人頭を任じて独自の「乞食を持って乞食を管理する」という制度を作りました。この非人頭が『車善七』で鳥越の地に500坪の土地を与えられています。鳥越での主な仕事が処刑の手伝いだったようで『高坂甚内』の処刑も立ち会ったことでしょう。
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鳥越処刑場の場所は不明ですが、浅草橋3丁目交差点の「天文台跡」の碑があるあたりだったと思われます。Ptの『鳥越神社』は日本武尊を祀る創建651年(白雉2年)という古社で後に幕府の米蔵造成で社地が削られていますが、広大な神社だったようです。

浅草橋の甚内神社…(Ⅰ)

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浅草橋3丁目の『甚内神社』です。ごく普通の街の神社のようですが、祀られているのは『高坂(向坂) 甚内』。甲斐武田家の高坂弾正の子供であるとか宮本武蔵から剣を学んだとかの伝承もありますが、実際は慶長年間に江戸の街を荒らしまわった”大泥棒の頭目”です。力も強く剣にも長けていたのですが、オコリ(マラリア?)という病気に罹り高熱で苦しんでいるところを”御用”となってしまいました。大泥棒がご祀神とは珍しい限りです。
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高坂甚内が市中引き回しの上、浅草鳥越の処刑場で磔となる際に「瘧(オコリ)に苦しむ者は我を念ぜよ」といったことから、『甚内神社』が瘧(オコリ)の神様として祀られています。神社自体は場所が変わっているようですが、『甚内橋遺跡』と彫られた石柱には、この地に『甚内神社』があったとの記載があります。現在は暗渠となった鳥越川に架かる橋で、川を超えると『鳥越神社』の手前あたりが浅草鳥越の処刑場となるようです。
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徳川家が江戸へ入った頃には処刑場は現日本橋本町にあったようです。江戸の拡大発展と共に処刑場も日本橋→鳥越→浅草山谷堀→小塚原と移っていく事となります。Pt↑)は加賀美稲荷です。稲荷→甚内橋遺跡→甚内神社を結ぶ道が鳥越川跡のようです。この『加賀美久米森稲荷神社』は江戸初期に当地に住んでいた『猿飼』の加賀美太夫の創建とされています。この『猿飼』と現代の"猿廻し演芸"とは異なり、ほとんど知られていない武家社会の伝承があります。

東京地下鉄上野検車区

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かなり以前の漫才ネタに「地下鉄車輛は何処から入れるの~夜も眠れないっ」というのがありましたが、答えは”ここ”です(笑)。地下鉄銀座線の上野検車区は台東区役所の裏手、東上野4丁目にあります。メトロ上野駅から分岐線を進んだ電車は地上に出て”なんと”公道を横切り車両基地へ進んでいきます。
実は”東京の貧民街・下谷万年町”を探していたのですが、Pt↑)の車両が並んでいるあたりが「旧万年町1丁目」で、この先奥方向へ2丁目と続きます。日清戦争直後には3800人(男2000人)が住んだとスラム街の跡地のようです。「万年町にては2丁目醜穢(しゅうわい)甚だしく、家業は・人足・日傭取・人力車夫に次いで屑拾いすこぶる多し。むしろ万年町の特色なりと言うを得べき」と紹介されています。
Pt↓)ここから車両は地上へ出てきます。→公道の踏切を渡って、この先が検車区です。→上野検車区の外壁、かなり広い敷地のようです。
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あヽ上野駅…続々

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上野駅中央改札口の頭上の壁に大作の壁画です。この作品は高松出身、東京美術学校(現東京芸術大学)洋画科を卒業の『猪熊弦一郎画伯』の『自由』という作品です。昭和26年(1951)から上野駅の中央改札口を見下ろす位置にある(あった)そうですが、実はじっくりと見上げた記憶がありません(苦笑)。それだけここの景色としてあたりまえの存在になっているのでしょう。猪熊画伯は、調べていたら三越デパートの包装紙を手がけた方とありました。
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こちらも大作です。中央改札口の券売機上に設置されたステンドグラス。『ふる里日本の華』というタイトルです。作者は文化勲章受章者の『平山 郁夫』。東北・上越新幹線の開業にちなんで、
扇形に描かれた種々の花がいろどり美しく咲き乱れる作品です。
Pt↓)中央改札口付近です。平山郁夫のステンドグラス、猪熊画伯の壁画、朝倉文夫の翼の像の位置関係はこんなです。他に石川啄木の歌碑やらも、駅前の跨線橋には”ジュエリーブリッジ”…なんすかねえっ?
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あヽ上野駅…続

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お住まいが近く(台東区谷中)なのが理由なのでしょうか(?)上野駅構内には明治から昭和を代表する彫刻家「朝倉文夫」の作品が2点あります。”美術館クラス”の作品なのですが無造作にデンとあるのも上野駅らしいようです。Pt↑)中央コンコース(改札の外)”待ち合わせの場所”として有名な『翼の像』です。上野駅開設70周年&『特急はつかり』運転開始記念として1953年(昭和28年)に作られたとあります。いつも待ち合わせの人達が取り囲んでいます。
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もう一点は中央改札から入って中距離電車の下のホームの『三相』…智・情・意という題の作品です。…【昭和33年10月10日上野駅開設75周年式場に出席した浅倉文夫が、たまたま明治16年自分の誕生日と同じなことに感激し台東区を通じて像を寄贈した。 昭和34年5月5日 日本国有鉄道】…とあります。こちらの方が無造作感に溢れ「なんでこんな所に裸のねぇちゃん像が?」という感じです。 あの”朝倉文夫”の作品なのですが…。

あヽ上野駅…壱

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上野駅の開業は1883年(明治16)、私鉄の『日本鉄道』の上野~熊谷間の起点駅として完成。翌1884年(明治17年)に開業式が行われています。「民」の開業式でありながら明治天皇が臨席するなど、当時としては”特別感”に満ちていたようです。駅の構内には首都を代表する駅である様子が各所に残っています。Pt↑)は広小路口にある昭和50年に廃止になった集団就職列車の様子、昭和39年の大ヒット曲「あヽ上野駅」の歌碑です。廃止となった18番ホームへ集団就職列車で着いた子供達には”東京の街”がどう感じたでしょうか?上野駅=集団就職=映画「Always三丁目の夕日」で描かれました。
Pt1を1つとばして、正面玄関にある皇族や外国からの賓客が利用した「貴賓室」の入口です。東京駅駅舎のような駅舎復原工事は無理でしょうが、貴賓室だけでも復元して欲しいものです。
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”うらめしや~”東京芸大

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2015年9月13日までの日程で、上野の東京芸術大学で『うらめしや~、冥途のみやげ』展がおこなわれています。=全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に= というのがウリなのですが…。 Pt上)は会場の本館展示室の近く(守衛室の裏あたり)にひっそりと展示してある『皇居二重橋飾燈』です。解説によると明治19年(1886)に当時の宮内省がドイツのハーコート社に発注し明治21年(1888)の竣工したものとあります。後年、東京芸大・吉村教授の設計により新宮殿造営に時に二重橋も架け替えられ、その際に旧飾燈の四基のうち一基を宮内省から移管され設置されたものとあります。犬山・明治村、武蔵小金井・江戸東京たてもの園、皇居東御苑にも置かれているのですが…。どう見ても東御苑のものとはデザイン(特に足の部分)が違うんですよねぇ。
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さて、『うらめしや~、冥途のみやげ』展ですが…。サブタイトルに「全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に」とあります。やられましたねぇ(苦笑)。そもそも圓朝コレクションは谷中・全生庵で毎年8月限定で展示されますが、会場の関係でコレクションは入れ替え展示となっていました。今回は二会場での展示ということで、圓朝コレクションのすべて(?)が見られ、結果として谷中・全生庵の展示が充実という現象が生じました。それはそれ嬉しいことなのですが。今回の東京芸大の展示内容は、圓朝コレクションについては「二軍」しかありません(笑)。圓朝とは関係のない「錦絵」なんかで水増追加して展覧会の体になっていますが。一般1100円も払って二軍をみせられたのではたまったものではありませんねっ。主催は東京芸術大学、東京新聞、TBSだそうですが…笑っちゃいます。 
…因みに、谷中・全生庵の幽霊画展示は8/31までだそうです…
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千束稲荷と樋口一葉

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台東区竜泉2-19-3の『樋口一葉の名作「たけくらべ」ゆかりの千束稲荷神社』です。東京メトロ・三ノ輪駅下車、国際通りを浅草方面に5分ほど、台東区立樋口一葉記念館はここではありません。一葉の『たけくらべ』や『塵中日記』に祭礼の模様が描かれている(らしい)をもって”ゆかり”という事です(苦笑)。ご本人は千束には1年も住んでいませんから、微妙といえば微妙です…。千束稲荷神社は、江戸寛永年間の4代将軍徳川家綱の時代の創建とされています。当時は三ノ輪から浅草一円を「千束郷」と称し、北千束郷あたりの氏神となっていました。明治年間になってからは竜泉寺町一円の氏神として今に至っています。神社の境内は「たけくらべ」にあるお祭の場面で子供達が遊んでいる神社としも知られています。そんな訳で平成20年に一葉の胸像を建立されているのですが、病気がちな本人のイメージとかけ離れているような気がします。”せめて胸像位は…”という配慮でしょうか?
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麻疹祈祷・太郎稲荷神社

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こちちらが台東区下谷2丁目の『太郎稲荷』」です。ごく普通の街稲荷ですが、江戸時代には築後柳川藩立花家の江戸下屋敷があり、柳川より勧請した「太郎稲荷」が祀られていました。享和3年(1803年)頃、江戸の街に麻疹が大流行し柳川藩の若殿も罹患しています。下屋敷内の「太郎稲荷」に病気治癒を祈願したところ、たちまち病状が回復したそうです。この話が広まってご利益にあやかりたい人々が大挙して柳川藩下屋敷に押し寄せることとなりました。噂が噂を呼び、翌1804年になっても参拝者が殺到し続けたようです。江戸時代の町民は許可なく大名屋敷に立ち入れないため、立花家では月に4日間だけ神社を限定的に開放し、結果として益々の人気を煽ったようです。「陽がのぼる前から立花家下屋敷の門前には参詣者が詰めかけ、道脇に下水に落ち、泥だらけになる者数知れず」。…大変な混雑ぶりです。流行の拡大とともに、縁起類、はやり唄、小唄なども数多く創られたそうで、近くの浅草寺を上回る人気となり「太郎稲荷」近辺には新しい盛り場が形成されるというスゴイ事になりました。通常、流行は一過性ですが、「太郎稲荷」については、享和3年から文化元年にかけてが第一ピーク。天保年化に人気が再燃し、慶応3年(1867年)にも流行が再燃しています。
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現在の神社には繁栄の名残はありません。それでも人々に大切にされてきた様子が感じられます。 1)間口はこれだけです。住宅地に鎮座しているので注意しないと見落とします。 2)こじんまりとした本殿ですがさや堂が創られています。地元では大事にされてきたのでしょう。 3.)本殿の様子です。額の写真は講中での慰安旅行の記念写真のようです。
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西町太郎稲荷神社

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台東区東上野1丁目の『西町太郎稲荷神社』です。武家屋敷稲荷なのでこじんまりとした感じになっています。金ピカの境内掲示には =当町は江戸時代の万冶年間、九州筑後柳川藩11万9600石の太守立花左近将監が”江戸中屋敷”として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内の現在地に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌に御利益あらたかな処から江戸明治大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されてきております~<略>~=とあります。落語の「ぞろぞろ」に出てくる『太郎稲荷』は柳川藩下屋敷の稲荷社で、1803年頃と1867年頃に大ブームとなり、太郎稲荷の参詣者で道が渋滞起こるまでになったそうです。この熱狂状態が続いた後は、一時の熱狂はさめてしまい衰退してしまったといういかにも日本的な話になっています。
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国立博物館・鳥獣戯画展…(Ⅰ)

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前回の開催が何年前だったのか忘れましたが…。東京国立博物館では『鳥獣戯画展』が現在開催されています。今回はサブタイトルに「京都高山寺の至宝」と銘打って展示内容がスケールアップされています。このスケールアップが”曲者”でした(苦笑)。6/17(日)までの開催ですが、5/17(日)以降で展示内容の変更があるようです。そんな訳で”4時間もあれば観られるだろう”とタカをくくって出かけたのですが…。
AM10:00頃に平成館の列の最後尾に並びました。案内係りの待ち時間表記が2段書きとなっていて、上段が平成館に入るまでの待ち時間(1)で下段が鳥獣戯画展示室に入るまでの待ち時間(2)を表します。兎やら蛙やらの戯画にたどり着くまでに(1)+(2)の待ち時間(約130分)という事です。展示室に入っても人越しにチラッと見えるだけで、更には(国宝なので致し方ないのですが)照明がやや暗く細部が判りにくくなっています。残念ながらここで時間切れとなり解説本(¥2700)↓を購入して帰りとなりました。悔しいことには、この本は博物館外の売店でも販売していました。
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現存する戯画のすべてが展示されるのが今回の”ウリ”っです。国立博物館や個人収集家の所有の『断筒』…コマギレ…までが展示してあり、これはこれで貴重です。¥2700で購入した鳥獣戯画や高山寺の収蔵品の解説本は充実した内容となっています。
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桜・国立博物館庭園

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上野国立博物館では3月17日(火)~4月19日(日) 10:00~16:00の日程で「博物館でお花見を」と題して、博物館の本館北側に広がる庭園の”春の庭園解放”されています。入館料は通常展と同じ金額(大人¥630)が必要ですが、このお庭は元々寛永寺の根本中堂の庭だったと思われ、池を廻ってお茶室が配され数種類の桜花(説明によるとソメイヨシノ・オオシマザクラ・ショウフクジザクラ・枝垂れのエドヒガンザクラ・、緑がかったギョイコウザクラなど10数種)が咲いています。上野公園となると広小路側の桜通路=花見のメッカが有名ですが、今年は忌々しい中国人・韓国人が大挙して押し寄せています。連中はだいたいが入場料の必要な場所には近寄りませんから、この博物館北庭は穴場と云えると思います。 (Pt↑。これでは”何処”と特定できませんが、間違いなく北庭で撮影しています)
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上野・黒田記念館

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Pt↑)は黒田清輝筆の『湖畔』です。実物です。フラッシュ無しなら撮影可でした。隠し撮りではありません(笑)。2015年1月2日に上野・黒田記念館がリニューアル・オープンオープンしました。今までは、週のうちの特定日の限定公開だったのですが、今回のリニューアルで、以降は東京国立博物館と同様週6日(原則)の公開となりました。また嬉しい事に、現在は彼の代表作が「特別展」として新年・春・で各2週間、無料公開されます。因みに今春の公開は4/5(日)までとなっています。↑の『湖畔』は明治30年(1897)の作品で重要文化財です。
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続いては、『智・感・情』の三部作。明治32年(1899)の作品です。他の特別展としては『舞子』・明治26年(1893)・重要文化財や明治24年(1891)の作品『読書』が展示してあります。驚いてしまうのは、これだけのビック・ネーム作品が柵もアクリル板も無しで目の前にデンと展示したあります。思わず「いいんかぃ?」と呟いてしまいました。
日本近代洋画の父・黒田清輝は、亡くなる際、自身の遺産を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。その遺言により昭和3年(1928)年に竣工したのが「黒田記念館」です。記念館の設計者は、当時の東京美術学校教授の岡田信一郎氏(1883-1932)、前歌舞伎座・ 明治生命館・関東大震災後のニコライ堂再建など数々の作品群で知られています。この建物は、中世ヨーロッパの 貴族の館をイメージしたと云われています。
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鶯谷・元三島神社

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関東圏以外の方にはなじみが無いとでしょうが、上野から山手線で一駅隣の鶯谷駅東側には東京でも屈指のラブ・ホテル街があります。その街のど真ん中、ホームから見える場所に『元三島神社』が鎮座しています。正直、真昼間のラブ・ホテル街に用はありませんがふらりと立ち寄ってみました。ホームから見える割には線路側に入口はなくホテル街を抜けなければ神社にたどり着けません。ご祀神は大山祇命、伊佐那岐命。相殿に和足彦命、身島姫命、上津姫命、下津姫命とあります。由緒書きには詳しく記載があるのですが、やや判りにくいので割愛しますが、愛媛大三島の大山祇神社を御本社頂く云々とあります。
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若いころからお世話になった街なのですが、なぜ鶯谷に都内屈指のラブ・ホテル街が構築されたか良くわかりません。上野寛永寺とも関係なさそうですし、子規庵に代表されるようにこの近辺には文学者も多く住み、朝顔市で賑わう「恐れ入谷の鬼子母神」も近く、豆腐懐石料理で有名な「笹乃雪」もご近所です。う~ん、謎です(笑)。
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寛永寺根本中堂

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歴史は時としてに"イタズラ"を仕掛けます。埼玉県川越市の喜多院には「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」が今も残っています。寛永15年の川越大火で喜多院が全焼してしまい、将軍家光は江戸城紅葉山の御殿の一部を移築するように命じ、資材を運ぶ為の河川の整備までがなされます。後年江戸城が全焼となり、結果として川越の街に江戸城の遺構が残る事になりました。後年、歴史はさらに”イタズラ”を仕掛けます。Pt↑)は上野寛永寺の根本中堂ですが、旧寛永寺は彰義隊戦争でほとんどが焼失してしまいます。この建物は明治12年に川越喜多院の本地堂を移築したものです。この根本中堂は本来の寛永寺の建物ではなく場所も異りますが、入口の”額”は、旧寛永寺の額を使っているようです。
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根本中堂裏手です。右側の建物内の書院に徳川慶喜が蟄居していた”葵の間(蟄居の間)”が保存されています。鳥羽伏見戦に敗れ、軍を見捨てて江戸へ逃げ帰り、この地で2ヵ月ほど蟄居、慶応4年4月21日に江戸を離れて水戸へ向かいます。彰義隊戦争はこの後で勃発します。多くの作家達が”徳川慶喜”に付いて書いていますが、この方ほど理解しにくい方はおりません。根っからの”お殿様”には間違いないようです。
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Pt↓)記憶違いでなければ竹林の奥が”葵の間”です。Pt↓中)徳川霊廟勅額門です。この奥に5代綱吉公(常憲院殿)・8代吉宗公(有徳院殿)・13代家定公(温恭院殿)・天璋院殿(13代正室)の墓所があります。TVの影響なのでしょうか、天璋院の説明板はキッチリしています。今年も寛永寺では、日付限定で「徳川歴代将軍霊廟の特別参拝」がおこなわれています。
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博物館動物園駅

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Pt↑)は上野公園の『博物館動物園駅舎』です。昭和8年の京成本線の開通に合わせ、当時の帝國博物館、科学博物館、東京音楽学校、東京美術学校、上野動物園の最寄駅=とは云っても京成線沿線ですが=として開業しています。時代を経て乗降客の数が減少し、駅舎も老巧化したため平成16年に廃止となりました。薄っすらと記憶がありますが、駅全体が薄暗くホームの長さも寸足らと、とても長い編成の電車が停車できる駅ではありませんでした。反面、現在の機能性重視の駅舎とことなり、当時ならでは意匠がこらされた駅舎でした。今も駅のホームなどは壊されていないハズなのですが、地上部分の駅舎は少しは手を入れて欲しいものです。
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Pt中)は旧正門を表側からみています。昔の写真を見ると門左右のレンガ建ての部分(切符売場?)の上の傘状の建造物が乗っかっていました。  表門前の郵便ポストは動物園ならではの”パンダ”をイメージした塗り分けになっいます。郵便局員が集配にきており、ポストとしてチャント機能しております。
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上野動物園の大物達

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上野動物園は=正式には東京都恩賜上野動物園=都立の動物園で公益財団法人東京動物園協会が管理運営しています。1882年の開園で日本で最も古い動物園で、西園と東園を結ぶモノレール(90秒/¥150/大人片道)も日本で一番古い設備となるようです。 Pt↑)の門は旧正門として使われていた門で、パンダ舎を右に進んだ方向にあります。上野動物園の表門は何度か改装され、この門は明治45年~昭和08年まで使われた2代目の門のようです。
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こちらが現在の表門です。正門ではなく”表門”と呼称するところが面白いです。昔も今も子供連れで賑わっています。旧正門とは200mほど離れているので門自体を移築したより、この位置に門を造り直したと思う方が自然かもしれません。上野動物園は大人が出かけても意外と楽しめます。五重の塔がどうのとか、藤堂孝虎がどうのとか云ってるよりだらけきった動物を見ている方がほのぼのします(笑)。

有名な話ですが…。左のパンダ(だらけた寝方です)・中のオカピ・右のこびとカバの世界珍獣会の巨頭が同じ動物園に所属しているのは日本ではここ上野動物園だけです(!)。いずれ劣らぬ希少価値の絶滅危惧種です。
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