旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

埼玉県

秩父今宮神社は…。

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秩父地方には”ややこしい由緒”を持つ神社が多く「秩父今宮神社」もかなりややこしい社歴です。伊邪那岐・伊邪那美の二神と須佐之男命、八大龍王神、役尊神+稲荷神、弁財天、天満天神とあるのですが、元々は武甲山から湧く伏流水の「龍神池」に伊邪那岐・伊邪那美の二神を祀ったのが始まりのようです。大宝年間には役行者により宮中八神と観音菩薩の守護神である八大龍王を合祀し「八大宮」となります。
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役行者に続いて弘法大師らにより寺院、神社、観音堂等が造られ一大修験道場となります。天文年間には京都今宮神社より須佐之男命を勧請して「今宮神社」として、寺・神社を総称して「長岳山今宮坊」として繁栄します。。明治元年には神仏分離令により修験道が廃止され今宮坊も解体。その後昭和20年代から50年間は「児童公園」として開放され、平成4年に神社として復活しています。かなり波乱万丈です。
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「龍神木」と呼ばれる周囲8.7m・推定樹齢千年以上の欅の大木は県指定の天然記念物「駒つなぎのけやき」として知られ、この地の龍神の住まいとされています。仕方ないことですが樹木としての勢いは失われています。案内によると毎年5月から10月にはアオバズク(フクロウ)が飛来して営巣するとありますが、今はどうなんでしょうか?
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季節柄「枯れた雰囲気」は仕方ありません。Pt↑)は環境省による「平成の名水百選」選定された秩父最古の泉「武甲山の伏流水」により構成された「龍神池」です。原始信仰では「湧水」が崇められるのはごく自然なことです。
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「八大龍王」とは仏教の開祖・釈迦の使いで、名前だけ列挙すると…1)難陀(なんだ)2)跋難陀(ばつなんだ)3)娑伽羅(さがら)4)和修吉(うわすきつ)5)徳叉迦(とくさつ)6)阿那婆達多(あなばたった)7)摩那斯(まなし)8)優鉢羅(うはら)の龍王です。

武蔵国四之宮・秩父神社…(2)

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中町の『秩父今宮神社』への道すがら「秩父神社」を通り抜けていきました。秩父夜祭も今年は規模縮小との事。やはり寂しいもんです。8月に来たときは社殿の彫刻にうち、左甚五郎の作とされる「つなぎのい龍」は修復中でした。今回はPt↑)の様に鮮やかに蘇っています。
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秩父神社のご祀神は八意思兼命・知知夫彦命 ・天之御中主神・秩父宮雍仁親王の4柱とされています。明治以前は北極星を敬う外来の妙見菩薩信仰の「秩父大宮妙見宮」として知られていました。明治以降に祀神の「入れ替り」が在ったのでしょう、八意思兼命など役割も実績も存在すら判然としない神に変ってしまいます。須佐之男神、豊受大御神、天照大御神などの神々が境内社扱いもしくは長屋(マンション)に押し込められている体は面白いのですが…。
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元々、秩父地方には妙見菩薩や大口真神(山犬・狼)を信仰する人々が暮らしていたのでしょう。後に大和系の民に駆逐され元の信仰が姿を変えていったような感があります。日本武尊(という名の侵略者軍)が狼に導かれたとか、伊弉諾、伊弉冉を祀ったとか、山頂上で粥を作ったとかの神社伝承は侵略の正当化の為かもしれません。
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話がそれて行くようです(苦笑)。Pt↑)は秩父神社社殿に施された彫刻のうち「子宝・子育ての虎」です。この虎が彫られた時代では虎の雌が豹だと考えられていたようです。恐らく見た事もない動物を少ない情報で造ったのでしょう。他の彫刻は「つなぎの龍」、「北辰の梟」と修復中だった「お元気三猿」等々。
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長瀞駅から地球の窓(?)へ

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荒川の上流、全長約6㎞続く長瀞渓谷は急流と穏やかな流れの景勝地で大正13年(1924)に国の名称&天然記念物に指定されています。明治11年(1878)のドイツ人地質学者による調査団により地質学的価値が認められ「日本地質学発祥の地」と云われてきたようです。長瀞駅から商店街を抜けて河原への階段辺りにPt↑)の碑がありました。後々に建てられた土産屋や食事処に埋もれて「情けない状況」になっていますが…。
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いわゆる長瀞渓谷の岩畳です。この岩畳は「三波川変成帯」という変成岩帯が露出している状態で、対岸は川の浸食により形成された黒色片岩の鉄分が酸化した状態で「秩父赤壁」だそうです。地質学は時間の経過が壮大すぎて手におえません。この辺りが「瀞」で川下りの終点です。最上川船下り(山形)、猊鼻渓舟下り(岩手)、天竜下り(長野)、日本ライン(愛知)、柳川川下り(福岡)、潮来川下り(茨城)等々経験しましたが長瀞・天竜・日本が三大ですかねぇ。
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今でも記憶にあるのが中学校の遠足で初めて見た岩畳の”ポケットホール”と呼ばれる「穴」です。この岩が川底にあった時に窪みに落ちた石が川の流れでクルクル廻りながら岩肌を削り取ってできています。岩が川底だった事、穴を形成するための時間…。この説明については今でも鮮明に覚えています。岩畳にはそれらしき穴が沢山ありました。
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撮影を終えて駅方面に戻っていく、タレント、マネージャー、カメラ&カメアシご一行です。失礼ながら、どこの誰だか全く判りません。まぁ少なくともグラビア系ではないでしょう(笑)。駅からのこの歩道には飲食関係や物産店が並んでいます。射的場なんてのもあり、いかにも「観光地」です(笑)。
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長瀞駅は「宝登山神社」の下車駅でもあります。鳥居から坂道を登って行くことになります。宝登山に架けられた「宝登山ロープウェイ」乗場までは、土日祭日には長瀞駅から無料の送迎バスがあるようです。
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TVで見かける秩父のコマーシャルは「西武鉄道」の製作です。秩父出身の林家泰平師匠がチラチラ登場し、土屋太鳳&が踊っているヤツですが、「秩父鉄道」の相乗りはラッキーなのでしょう。

これがあの秩父鉄道

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8月の上信電鉄に次いで「秩父鉄道」に乗って来ました。秩父鉄道は明治32年(1899)に上武鉄道として創立され大正5.年(1916)に秩父鉄道と改称した埼玉県の羽生駅~三峰口駅間の71.7㎞(他に7.6㎞の貨物線あり)の路線です。熊谷駅でJRと交差しています。熊谷~行田市駅は以前に乗車しましたが、熊谷~秩父方面は初めてです。ローカル鉄道を舐めてはいけません。秩父方面ダイヤはAM9時代1本、10時代2本、11時、12時代が各1本です。で、約50分待ちました。
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JR(含新幹線)と秩父鉄道駅舎は繋がっています。電車はどこぞの中古車両なのでしょうが、ど派手なペインティングは秩父方面の名所・旧跡・伝承で、外装だけではなく社内にも書かれています。スイカ&パスモは不可で現金払いです。ローカル私鉄の事ですからIC改札の多大な設備投資が出来ないのでしょう。面白いモンで領収書は即座に発行してくれます。
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長瀞駅までは駅数にして16駅、1時間ほど運賃は¥780です。この時点で気が付かなかったのですが、次の長瀞駅~秩父駅間が7駅で¥480(!)。帰路のお花畑駅から熊谷駅間が23駅で¥880です。領収書があるので金額は間違っていません。冷静に見ると他社に比べて高額な運賃の感があります。利用者が減って高額運賃なのはローカル私鉄の宿命なのでしょう。
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電車での長瀞は初めてです。そういえば秩父鉄道熊谷駅改札に「長瀞川下りは渇水状況です」の案内がありました。川下りは更に上流で乗船して長瀞岩畳が下船場所です。船下り会社は数社が営業し紅葉シーズンの週末は駐車場の客引きなどで賑やかなところなのですが、紅葉もピークを過ぎた平日は穏やかなモンです。
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長瀞駅から¥480支払って「秩父鉄道」の秩父駅です。一見大層な駅に見えますが土産屋と食堂が入居しているので駅舎としては大したことはありません。秩父神社へは徒歩5分程度の距離ですが、西武秩父駅とは場所が異なります。いつのまにやら超有名になった感のある「秩父夜祭」は今年は縮小して執り行うそうです。12月の秩父の夜は底冷えが厳しくひどい目にあった記憶しかありません。
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秩父鉄道・お花畑駅が西武秩父駅の最寄りとなります。西武鉄道が秩父まで延長開業されたのは昭和44年(1969)の事でそう古い話ではありません。秩父鉄道線との連絡線の開業がなんと平成1年(1989)の事です。その間は両駅間数百mを歩いて乗り換えでした。お花畑駅舎は国登録有形文化財だそうで、そんな感はありますが駅周辺は「花畑」のイメージは皆無。という事で付近の観光地から「芝桜駅」を副名称としています。名物の「わらじカツ丼」が食べたかったのですが、かろうじて「立食いソバ」が一軒とは(苦笑)
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暑くない熊谷駅前

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いつの頃からか高温・猛暑の街として知られる埼玉県熊谷市ですが、そりゃあ11月末ともなれば暑いわけはありません。熊谷から秩父鉄道に乗ってみようと出かけたのですが、この鉄道1時間に1本で時間を余したので駅近をぶらぶらしてみました。駅前にデンと在るのは「熊谷次郎直実」の銅像で、源平合戦の一の谷合戦で平家の若武者・平敦盛を殺したことを悔いて坊主になったという武将にあるまじき人物の騎馬像です。
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駅から少し歩くと「星川シンボルロード」なる用水路を埋め立て造成した遊歩道があります。この遊歩道には銅像が6作品あるそうです。Pt↑)は尾道出身の円鍔勝三(えんつばかつぞう)なる巨匠の作品『花園の歌』です。ギターとタンバリンと観客。これでは演者は即刻逮捕です。
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熊谷の有名人が思い浮かびません(苦笑)。熊谷直実は古すぎ。日本最初の女医さん・荻野吟子。”麦”の増産研究の権田愛三は微妙です。Mr壱万円と赤いお笑い芸人は隣町ですが…。いつだったか、この街でラグビー・ワールドカップが行われました。いまでも名残を引きずっているようです。このスタジアムは駅からやたら遠く先細りは見えています。
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忘れるところだったのは、熊谷銘菓の「五家宝/ごかぼ」です。たしか粉に近いもち米を筒状に丸めてきな粉をまぶしたお菓子だってのですが、いつ食べたのかは全く記憶にはありません。殆どの埼玉県民が同じだと思います。五家宝、おたべ、ちんすこう、はっきり言って旨くはありません(笑)。
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これ平日のAM10:00頃です。日曜か祭日かと思うほど人がいません。さすが熊谷は”ほぼ群馬”です。

長瀞の県立博物館

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釜伏神社からの帰路に長瀞の「埼玉県立自然の博物館」へ寄って来ました。景勝地の石畳とは少しばかり離れていますが、紅葉の盛りでもあり観光客は多いようです。時間の関係で石畳までは行けませんが何年振りかの自然博物館です。この博物館は1921年の開館で100年の歴史があります。記憶は定かではにのですが最初は中学校の遠足だったと思います。高速道路もない時代にバスでの日帰りはかなりハードだったことでしょう。
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元々は秩父鉄道(株)の「秩父植物鉱物標本陳列所」として設立。昭和56年(1981)秩父鉄道から埼玉県へ移管されたようです。この地方「秩父古生層」はとんでもない昔は海底で数億年前の日本列島誕生の名残が見られる場所として有名です。それらに関する展示がの多くを占めていますが、地質学に興味のある方にはたまらんでしょう。
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さほど大きな博物館ではありませんが、展示内容は多岐に渡っています。玄関入ると昭和59年に深谷市の約1000万年前の地層から発見された鮫の歯の化石から復元した顎の復元模型があります。他には長瀞の自然に関する展示や猪、熊、鹿、狐、狸等々の動物や植物の展示があり1時間ほどで充分楽しめます。
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天井から釣りさがっているのは鮫の歯から復元した「カルカロドン メガロドン」という2500万年~400万年前に生存していた約12mの鮫の復元模型です。これらを見ても古生代には秩父地方は海でこの手の海獣がいたとは信じられません。館内にはもう一点「パレオパラドキシア」という巨大な亀のような海獣の骨格標本がありました。
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別室にも興味ある展示があります。一つは県南・旧浦和市の田島ヶ原の特別天然記念物のサクラソウの自生地。今でも無事なのでしょうか?同じく旧浦和市にあった「野田のさぎ山」。見沼田んぼに一角で数百羽の「さぎ」が飛来し営巣した国の特別天然記念物の地でした。年々住宅化が進み「さぎ」が飛来しなくなった為昭和59年(1984)に特天の指定は解除されましたが、子供の頃に見たさぎの姿は今でも記憶にあります。

秩父・狼が護る神社…(3)

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11月中旬となると秩父地方には冬の気配が漂ってきます。天候は晴れで日差しもあるのですが、大木の陰では明暗の扱いが難しく没になるPtばかりです。『釜山神社』はこんな感じの神社でした。近年は三峯神社が人気があるようですが、神社が醸し出す雰囲気は是非とも緑の季節に再訪したい神社です。
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『釜山神社』の由来です。【紀元504年頃、第9代開花天皇の皇子日之雅皇子命が武蔵野国巡幸の折、釜伏山奥院において、旅の安全と国内の平定安康を祈ったのが始まりと云われます。紀元770頃に日本武尊が巡幸した折、この神社に立寄り山頂において神様に供える粥を釜で炊かれ、この釜を神体岩上に伏せ願望成就の祈りをしたと伝えられ、「釜伏山・釜山神社」の名が付けられたと云われています】とあります。
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釜山神社のご祀神は、この世の五大要素『木火土金水の霊神』とあり、火防盗難の守護を始め諸々に無限の幸を賜るとありますが、よく判りません。鎌倉期は住吉神社と称し、釜伏山に合わせて釜伏神社、昭和初期に釜伏山と山王様を合わせて『釜山神社』に改称されたそうです。Ptは釜山神社参集殿です。神職の住まいと兼ねているようです。
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左側に手水舎、右に社務所があります。手前のオオカミ像は栄養満点と云った感じでうややもするとシェパード犬のフォルムです。冬に向かう落葉の季節で参拝者も少ないのでしょうか社務所には人の気配はありません。それでも社殿には灯明が見えます。到着時に駐車場を教えてもらった以降は約2時間どなたとも会いませんでした。
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社殿の左に「稲荷社」があります。眷属のキツネ像は離れて見てもオオカミの姿とは違います。それにしてもオオカミ系の神社にキツネ眷属の稲荷社が在っていいものなのでしょうか?
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謎含みの『海四輝威神』の額で社額とは異なります。神威輝四海=神の威光は四方の海に輝くとでも読むのでしょうか、神社の由来では、土着の神をどうにか大和系の神々を関連付ける話を創作しているように思えます。ここでは三峯神社での伊弉冉・伊弉諾神や宝登山神社の大山祇神の様に大和系の神名が見つかりません。
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こちらが釜山神社の社額です。かなり薄暗くボ~としたPtがいっぱいいっぱいです。昔は秩父・長瀞方面から熊谷へは釜伏峠を通る道であり、村落を見渡す山頂に人々を見守る神社が造られたのでしょう。自然に人々暮らしと近しかった、日本狼と神格化された「大口真神/おおぐちまかみ」が祀神と思えてきます。
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後方から見た社殿は権現造りのようです。千木は縦そぎで鰹木は6本です。よく千木の縦そぎは男神々社、鰹木が偶数本は女神々社と云れていますが、殆どが俗説に近く必ずしもの決まりはないようです。
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日本武尊の東征の折、戦勝を祈願して釜伏山中で剣を突き刺すと水が湧き出し、
日本武尊がその水を口すると、あまりの冷たさに一口しか飲めず「一杯水」という名でも呼ばれる釜伏山を水源とする「日本水」についての案内です。風布ICからしばらくの所に水汲み場がありました。相変わらずの日本武尊、余計な事ばかりしています。
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釜伏山全体が「蛇紋岩」で構成された山であることの案内板です。蛇紋岩は建築材として使用される美しい文様の石材で、東京では目黒区駒場の旧前田侯爵邸で見ることができます。1985.年に「名水百選」となった湧水もマグネシウムの含有量の多い蛇紋岩層との関連があるようです。

秩父・狼が護る神社…(2)

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長い年月、日本狼たちと秩父に住む人たちには、田畑を荒らす鹿・猪を駆逐してくれる味方だったり、人家を襲う害獣だったことでしょう。共存の関係から神格化されたのは不思議はありません。明治年間の日本狼の絶滅を期にその関係が忘れられてたにしろ、神社という形で残ったのではないのでしょうか。
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釜山峠が釜伏神社参道の始まりなのでしょう。今般は車で行きましたがWeb地図にも記載のない神社なので公共交通機関利用での参拝は大変でしょう。参道を歩くとますます狼が眷属(秘書官)ではなく祀神そのものと思えます。やはり緑の季節が良いですね。これから先の季節の訪問は止めた方が良いでしょう。
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参道入口の最初のオオカミ像です。一の鳥居(?)はなく「釜伏神社社標」のすぐ後方にあります。阿吽の形式であるようなないような、風化が進み判然としません。台座に「征露記念」あるので日露戦争勝利を祝って造られたのでしょう。
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左右を杉の大木に囲まれた参道を進みます。ここからは参道がどこまで続くのか見えません。オオカミ像(1)に比べるとやや小ぶりのようです。こちらの台座にも明治37年2月とか我帝国露国とかが断片的に読め、こちらも日露戦争戦勝記念奉納なのでしょう。口の裂け具合がキツネとは異なります。
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一の鳥居(?)にあるオオカミ像の台座には「昭和聖旨五十年記念」とあり、近年奉納された像なのでしょう。あきらかな阿吽形式になっておりあばら骨の表現も特徴的で。明治年間制作のオオカミ像と表現が異なっています。三峯神社の三輪鳥居脇のオオカミ像と似た感じがします。
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鳥居を過ぎると神社の記念石碑やらが増えてきます。どれもが劣化が激しいのと時間の関係で見ただけとなりました。次に現れるオオカミ像は「阿」形式は参道に正対して形を保っていますが、「吽」形式の方は伏せているのかと思ったのですが、前足2本が折れていて結果、この姿となっています。
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左の舞殿を過ぎて社務所手前に次のオオカミ像があります。パッと見の印象は「オオカミ」というより「犬」です。栄養満点の姿は野山を駆け巡る精悍な姿とは違うようです(苦笑)。因みにこのオオカミ像は平成14年に「愛子内親王殿下」の誕生を祝って奉納されたとあります。
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ようやく拝殿下の階段迄来ました。階段左右に正面に正対した6番目のオオカミ像があります。日本狼を知っている石工の製作でしょう。右側の社務所は常駐されている感はありません。社額とは違うのですが『海四輝威神』→神威輝四海と読み下しでしょうが、意味は感じられても何故この額なのかは判然としません。
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参道入口からここまで6対のオオカミ像がありましたが、4と5番目の間に台座だけが残っている箇所があり、ここにもオオカミ像が在ったのかも知れません。さらにもう1対が社殿前に置かれています。一瞬カピパラかと思ったのですが、石造りのオオカミ像に比べると木彫りの人形といった感です。
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社殿の後方の山道を登って下ってまた登って15分程で奥宮です。石造りの祠と対のオオカミ像だけのシンプルな祠です。後方から眼下に長瀞の町が、反対側には小川方面の平野が開けています。以前にも触れてきましたが、遥か昔から飯能方面から寄居秩父が最初に人々が住み着いた土地でもあります。Pt↓)では祠の壁面にオオカミ像が彫られています。
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秩父・狼が護る神社

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三峯神社、椋神社、寶登山神社と秩父地方の「オオカミ」と所縁のある神社を訪れてきました。今回はもう一社の気になる神社へ行ってきました。埼玉県大里郡寄居町風布(ふっぷ)1969の『釜山神社』です。花園ICから長瀞方面へ向い皆野寄居有料道路を風布ICで降りて県道を進みます。途中に「日本水/やまとみず」との名水がありますが、落葉で路肩が判らない道を注意深く30分も走り続け皆野町と寄居町の境「釜伏峠」に到着です。昔は長瀞~熊谷を結ぶ街道だったようですが道幅は狭く舗装はされていますが、あまり通りたくない(夜間は絶対に)県道です。
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杉の大木に囲まれた木漏れ日を浴びて続く300m程の参道を8組(16頭)のオオカミ達が護っています。釜山神社は標高582mの釜伏山に鎮座、案内板には第9代開花天皇の皇子とか日本武尊云々とありますが、この辺りは神社縁起を大和朝廷と結びつける為の強引技でしょう。ご祀神は『木火土金水の霊神』とありますが、正直どなたなのか判りません。神社が醸し出す雰囲気からは明治38年(1905)に絶滅したとされる日本狼が神格化された「大口真神/おおぐちまかみ」なのかも知れません。日本狼の絶滅から「わずか115年あまり」これ以前の年月は狼と人は巧くやってきたはずです。
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釜伏山は2つの頂上で構成され、全山が「蛇紋岩」でできている山だそうですが、森と落葉に埋もている状態では全く判りません。釜山神社側から山を登り、下り、更に登る事15分ほどに釜山神社奥宮があります。運動不足の身としては辛い道でしたが、奥宮からは長瀞の町や寄居方面が見渡せます。一対の狼像や祠の壁面の施された狼の意匠。この場所から「大口真神/おおぐちまかみ」が人々の暮らしを見守ったのだと思えてきます。残念ながら神社を含め劣化が進んでいます。神社までの公共交通の便はありませんがハイキングコースは整備されているようです(笑)。
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川越・民部稲荷神社…(3)

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東武東上線&JR川越駅から北方向へ約1200mの浦和・大宮を超える規模の商店街・クレアモールが続きます。中間あたりにあるのが1957年開業の「丸広百貨店川越店」です。本館の向い側、立体駐車場の一角に鳥居すらない素朴なお社が見えます。何時も何気に通りかかっていたのですが近づいてみると「民部稲荷の由来」の説明板がありました。
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【Pt↑は川越八幡宮の民部稲荷】 民部狐軍団とお寺の坊様軍団が大相撲大会を繰り広げた民話については【丸広百貨店屋上】と【川越八幡宮】で掲載しましたが、相撲勝負に敗れた民部狐軍が引越したのが、新富町2丁目(旧梵心町)の梵心山だったとあります。民話では引越しの際に「打ち身の治療術」伝授したとありますが、ここでは更に大量の小判を差し出たとあります。まぁ伝承ですからいいのでしょうが。
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【Pt↑は丸広百貨店屋上の民部稲荷】 さらに民部稲荷を信仰すれば金持ちになり、打身等に霊験もあるともあります。話の大筋はあっているようでやや違っています。また新社屋造営の機会に百貨店屋上に遷座したとあるのですが、これも拡張事業で民部稲荷を川越八幡宮に移すと数年で業績が悪化し、再度屋上に勧請して持直した逸話が欠落しています。
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川越散策・蓮馨寺

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位置的には川越熊野神社の後方にあたりますが、蓮馨寺(れんけいじ)が先に在って後に熊野神社が勧請されているので「後方」の表現は微妙です。浄土宗・蓮馨寺は、天文(てんぶん)十八年(1549年)、川越城主大導寺駿河守政繁(するがのかみまさしげ)が母の蓮馨尼を追福するために、感誉上人を招いて開山した寺で、阿弥陀如来を本尊としています。
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蓮馨寺(れんけいじ)には『おびんづる様』と称する撫で仏が置かれています。おびんづる様は釈迦の弟子の1人で、[ビンドラパーラドバージャ]が本名だそうです。若いころは放蕩三昧で釈迦に弟子入して出家修行の後神通力を得ています。朱に塗られたおびんづる様の體に触り、その手で自分の體を撫でれば、病気は治り、頭も良くなるとの信仰が定着しているようです。
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境内には昔からの川越名物の”太麺やきそば”のお店があったのですが…。一番街あたりでは年々これでもか川越名物が登場していますが、以前は”お芋関連”と”太麺やきそば”がB級グルメの代表でした。
蓮馨寺から大正浪漫通り方向の右側(お食事処の幟あたり)に以前、映画館がありました。蓮馨寺境内の焼きそば店の流れを引く店があったと記憶していますが…。
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意外な話かもしれませんが、日本人の感性には「物を食べながら歩く」という所作感性はありませんでした。以前の築地や浅草では食べながら歩くや、ゴミをポイ捨てるは多くがアジア系の外国人でした。で、鳥獣戯画をパロったポスターの登場なんですかねぇ。

川越散策・熊野神社

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川越市連雀町の大正浪漫夢通り沿いの『川越 熊野神社』は明治の神仏分離以前は近くの浄土宗・蓮馨寺(れんけいじ)の一部として紀州熊野から天正18年(1590)に勧請されたのが始まりとされます。祀神は熊野信仰のうち伊弉諾尊・事解之男命・速玉之男命が祀られています。熊野信仰自体がややこしいのですが、開運・縁結びにご利益があるとされシンボル・マークの3本脚の「八咫烏/やたがらす」の意匠は有名です。
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神社は敷地こそ広くはないのですが、酉の市で知られる鷺ノ宮神社、火防火伏の秋葉神社、蓮馨寺以前からあったと思われる加祐稲荷神社、厳島神社と銭洗い弁天や撫で蛇、開運指南場、八咫烏の助言がいただける諸々といろいろ豊富です。更にあらゆる「おみくじ」が用意されていて、この手が好きな年代(のガキ)にはたまらないでしょう。面白いところでは5m程度の長さでの足踏み石の道まで用意されています。
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神社は西武新宿線「本川越駅」から徒歩6-7分、JR・東武東上線「川越駅」からだと徒歩20分程度かかります。以前は参拝者はさほど多くなかったように記憶していますが、賑わってこそ神社なので神々も喜んでいる事でしょう(笑)。
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川越散策・一番街

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以前に地方の商店街のお年寄りと話したことがあります。『なんでもいいから人が来て欲しい。でなければ街が死んでしまう』。これが過疎・シャッター化(?)進む商店街の実際でしょう。千葉県佐原市の商工会で聞きました。『川越には敵いません。予算のかけ方が違う』。
Ptは川越を代表する景観の”一番街=蔵造の街並み”と川越のシンボル”時の鐘”です。残念ながら今年は「川越祭り」は中止となりましたが、平日の昼前でも大層な賑わいです。交通量の多い街道、狭い歩道、かなりの危険領域です。
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確かに、一番街はそれなりの年月と地元の協力と莫大な費用が費やされそれができたからの賑わいです。蔵造り建物は火事の類焼を防ぐための耐火建築として江戸時代に発達した形式ですが、多くは明治26年の川越の大火で焼け残った家屋と大火以降の家屋です。平成11年に国の重要伝統的建造物群保存地区(例によって長い名称)に、平成19年には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されています。昔からこの街を知っている身としては、いつのまにやら【ジャンク・フードと作られた名物にガキが群がるば街】になってしまいました。
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まぁそれもいいでしょう(笑)。人が訪れてお金が動いてこその街の繁栄です(笑)。伝統工芸や祭りや文化、素朴な名産品など見向きもされない時代になっていくようです。川越の紹介には必ず登場する「時の鐘」は約400年前から時を知らせてきた川越のシンボルで、平成8年当時の環境庁主催の「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。
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Pt↑)は大正7年(1918)に完成の第八十五銀行として造られ、2003年からは埼玉りそな銀行川越支店蔵の街出張所として使用されていました。

さいたま市・岩槻人形博物館

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『さいたま市岩槻人形博物館』へようやっと行ってきました。博物館は2020年2月22日開館しているのですが、「コロナ禍」最中でもあり、どうしても先送りになっていました。さいたま市に合併する前の岩槻は全国的に人形の街として知られ、昭和60年代には埼玉県の岩槻・鴻巣・越ケ谷・所沢での人形生産額は全国40%を占め岩槻がその主となっていました。この博物館は合併前に構想され公立の施設としては「日本で唯一の人形博物館」なのだそうです。冗談かと思う「東武アーバンパークライン」岩槻駅から徒歩10分程度の旧日光御成街道沿いにあります。
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伝統的人形の街とか公立の人形博物館とか、そりゃぁ期待はしますわなぁ、ましてこの外観(Pt↑)ですから(苦笑)。コロナ儀式ののち観覧料(¥300/大人)で館内へ…。展示室は1、2、3の3室で、ざっと見たら10分(!)。貴重な作品もあるのでしょうが、ここまで期待と実際の差が大きな博物館は久しぶりです。定期的に展示替えをしますとありますが、そうでもしなけりゃ建物は別としたら、そこらの民間ミュージアムと大差ありません。
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川越・喜多院

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別名「川越大師」の名称で知られる【川越・喜多院】は天長7年(830)に天台宗を東国に広める「無量寿寺」として創建されています。江戸時代初期には徳川家の所縁の天海僧正が住職となり、徳川家の庇護により繁栄を迎えます。多くの建物が重要文化財に指定で、客殿や書院には「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」が現存しています。これは1638年の火災で喜多院が消失した際に3代将軍家光の命で江戸城内・紅葉山から移築されたものです。その後江戸城は焼失してしまうので、結果として江戸時代初期の江戸城内の建造物が川越に残った事になります。逆に現上野寛永寺の根本中堂は喜多院を移築したもので、江戸城内⇒喜多院が喜多院⇒寛永寺の歴史のいたずらと云えます。
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喜多院の南側の敷地内の「仙波東照宮」です。駿府城(静岡)で亡くなった徳川家康は久能山の葬られた後に、日光に移される事となります。日光への道すがらこの地「仙波東照宮」で法要が営まれます。これをもって日光・久能山とともに三大東照宮といわれるようです。徳川家との関係から最盛期には750石、48000坪の広さがあったのですが一部の池や堀を廻らせた景勝地でだった名残はありますが、如何せん堀の空堀は枯葉だらけの荒れ放題と残念な状態です。
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三大ついでに「日本三大羅漢」の1つ、境内の「五百羅漢」は1782年頃から建立されたもので、538体の石仏が鎮座していますが結構不気味です(苦笑)。
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喜多院には鐘楼門、慈眼堂、仙波東照宮、家光誕生の間のある客殿、春日局化粧の間の書院、庫裡など国の重要文化財が数多くあります。名物の団子屋が2軒あるのですが観光的には地味といえば地味です。
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国指定の重要文化財「山門」。右側の銅像は天海僧正に立像です。実に謎の多いお方で108歳まで長生きしています。天海僧正=明智光秀説なんてのも謎多きエピソードの1つでしょう(苦笑)。
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重要文化財指定の「山門」の向かいに【日枝神社】があります。ご祀神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と大己貴命(おおくにぬし)で喜多院の前身無量寿寺に創建に際に鎮守として滋賀から勧請しています。赤坂の日枝神社は太田道灌が江戸城建設の際川越日枝神社を分祀ったものです。

秩父三社巡りってのが…。

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秩父の「秩父34ヶ所観音霊場」の札所巡りは有名ですが、それとは別に三峯神社・秩父神社・宝寶山神社を巡る『秩父三社巡り』なる企画もあるようです。まとめてみると…。【三峯神社】は a)山犬(オオカミ)に導かれた日本武尊命が三峯山中に伊弉諾、伊弉冉の神を祀ったのが始まりとし、時代を経て b)日光山系の修験者が修行中に狼に遭遇「これは神託だっ」と閃き、ここから c)江戸時代には修験者によりオオカミを眷属とする信仰が確立し、『火災除け・盗賊除け』人気の三峯講が各地で組織されて「お犬様信仰」として現代に続きます。つまり伝承は3部内容で成りたっています。
日本武尊、伊弉諾・伊弉冉の伝承よりも江戸時代以降の修験者らによる「三峯講」が主となっています。
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【秩父神社】
は秩父地方の総鎮守で武蔵国四之宮です。ご祀神の八意思兼命(おもいかね)は日本神話では知恵・思考・思慮の神で知知夫彦命(ちちぶひこ)は八意思兼命の末裔で秩父の国造です。天之御中主神(あめのみなみぬしのかみ)は、古事記に「天地開闢時の最初の神」とあり、秩父宮雍仁親王は昭和天皇の弟君です。つまりは『
日本武尊東征』との関係は薄いようです。明治以前の秩父神社は鎌倉時代からの「妙見菩薩信仰・秩父大宮妙見宮」として有名でした。北極星を崇める妙見信仰は古代バビロニア、インド、中国をへて飛鳥時代に日本と伝来した仏教色のある信仰です。三峯神社にも妙見信仰の時代があったようなので秩父では妙見信仰のほうが盛んだったのかも知れません。
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創建伝承からすると【宝寶山神社】が判り易いようです。祀神の大山祇神(おおやまつのかみ)は
伊弉諾、伊弉冉の子で担当は「山」です。眷属の山犬(オオカミ)が日本武尊と同行していると山火事に遭遇、火災は眷属の活躍で事なきを得ます。火を止めた山から火止山⇒宝登山となり、伊弉諾、伊弉冉の子で「火」担当の火産霊神/(かぐつちのかみ)が祀られます(ついでに神武天皇も)。この伝承の方が山犬(オオカミ)信仰の始まりとしてはスッキリします。三峯講の火災除けはこの伝承の流用のようで、オオカミが唸れば盗賊は逃げます。三峯講が江戸で盛んになるには(三峯の)優秀な営業マン(修験者)の判り易い宣伝広報活動によるものでしょう。また古代のヨーロッパには犬=神の使いとする信仰があったようで「妙見信仰」として秩父に辿り着いたのかも知れません。

さいたま市・西堀氷川神社…(2)

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この「西堀氷川神社」は偶然でしょうが面白い配置になっています。Pt↑)の鳥居から先の正面が社殿です。社殿に向かって右に何故か”社”がのない天照皇大神(天照大御神=須佐之男命の姉さん)の石碑があり、その隣が八千矛神(大国主命=須佐之男命の子孫)が並びます。その向かい側に三峯神社(伊弉諾尊&伊弉册尊=須佐之男命両親)、そして須佐之男命と櫛稲田姫命の夫婦神とファミリーが勢ぞろいで、須佐之男命の娘の須勢理毘売命と兄神の月読尊は欠席です。
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前述したように三峯神社は創建は須佐之男命が伊弉諾尊&伊弉册尊を祀ったのが始まりで、1700年代には日光山の修験者により山犬(狼?)への信仰が生じます。山里では猪や鹿よけの霊験ありとされ、信仰が関東地方から江戸の街に広がる過程で火防や盗賊除けの守り神となって行きます。江戸の街では三峯神社詣講が組織され多くの人々が三峯神社を参拝したようです。狼や犬族は事件の際は吠えて有事を知らせるから守り神とは人々の想像力は微笑ましい限りでが、火事や盗賊はそれだけ頻発したということでしょうか?
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恐らくは三峯神社はどちらかの三峯講により勧請でしょう。社史には明治41年に神明社・御嶽社・稲荷社を合祀したとあるので三峯神社もこの時代に合祀されたのでしょう。面白い事には境内社に御嶽社があります。この御嶽社も眷属が「狼」で「狼のお札」なので御嶽社と三峯社が同じ神社に祀られるのは珍しい例です。まぁイロイロ有ったのでしょう。
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小さいながらも創建者の須佐之男命の像が造られています。かなりしっかりとした「三峯講」なのでしょう。
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この三峯者には2対のオオカミ像があります。Pt↑)は鳥居側の1対です。近年の作と思われます。
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こちらはむしろ「キツネ」に見えます。よく見ると油揚げが間違えて供えられています。稲荷社は隣です(苦笑)。

さいたま市・大戸氷川神社

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さいたま市中央区大戸の大戸氷川神社は西堀氷川神社とは徒歩15分ほどの距離にあります。中央でないのに中央区ですが以前は与野の在所でした。こちらの氷川神社の祀神は『須佐之男命』の1神だけです。西堀氷川への途中だったのですが、久々にうらぶれ感に溢れた神社です。神道の世界では総社も分社で神徳に差はないとされますが、空しく感じられます。
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「新築落成記念碑大戸氷川神社」によると平成3年に火事により拝殿は全焼・本殿は半焼となり、地元有志と氏子により平成5年(1993)に再建なったとあります。30年近く年月が過ぎていますが、僅か30年でここまでうらぶれるものなのでしょうか?拝殿は賽銭箱はなく扉は閉ざされ参拝者を拒むようです。裏手に廻ると枯れた落葉は溜り放題。境内社に至っては祀神すら判りません。
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Pt↑)良くみると扉に木が打ち付けられています。末社としての役目は終わっているのでしょうか?大戸氷川神社の再建に尽力された方々もこの状態は信じられないでしょう。
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神域には数種類の石造りの記念碑が残されています。火災を免れた拝殿横の神木(?)だけが時の流れをみてきたなんて笑い話です。右側の白い建物 は大戸地区の公民館です。神社の管理義務はないにしても…です。
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拝殿の社額には「氷川神社」とあり、鳥居の社額には「氷川大明神」の表記です。

さいたま市・西堀氷川神社

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さいたま市桜区の『西堀氷川神社』はJR埼京線中浦和駅と南与野駅の中間で、今でこそ住宅地ですが神社は田圃を見渡す丘の上に鎮座していたようです。この付近は埼京線ができるまでは陸の孤島でした。50年前は田圃地帯で頑張れば土地付一戸建てが購入できたような地区です。Pt↑)は神社にあった「西堀小唄」なる歌碑です。浦和市別所沼観光協会推薦 郷土民謡とありますが小唄の存在すら全く知りません。♪西堀よいとこ来てごらん 東京近くて住みよい町よ♪ 笑うしかありません。
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旧浦和市の氷川神社でも少しばかり傾向が違うようで行ってみたのですが、近いが不便とはこの事です。西堀村の鎮守として大宮・氷川神社を勧請したのは応永年間(1400年頃)とされています。ご祀神は氷川さんならではの須佐之男命と櫛稲田姫命夫婦の珍しい例です。本殿は「さいたま市指定有形文化財・西氷川神社本殿」は二間社流造なのですが、残念ながら塀で囲まれていて表からは見ることができません。
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いずれ纏めてみたいと思うのですが、須佐之男命ほど支離滅裂な性格の神はいません。死んだ母が恋しくて泣き叫ぶ子供のようであったり、高天原では悪行三昧では呆れた姉は天の岩戸に引き籠り。高天原から追放されてた途端に櫛稲田姫を怪物から守る英雄となるのですが。交換条件が結婚しろですから厄介な性格です。出雲の国での暮らしで落着かと思えば、自分の娘の彼氏が気に入らす陰湿ないじめ三昧。こんな神様いますかねぇ(笑)
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この西堀氷川神社は境内社の数がかなり多いようです。Pt↑)本殿脇には宝船の七福神、天照皇大神、猿田彦大神、宮比大神、稲荷社、祖霊社、天神社(菅原系)と御嶽神社があり、鳥居からの参道には八千矛神(大国主命)、神明神社(天照皇大神)、丸山稲荷神社、三峯神社(伊弉諾尊と伊弉册尊)等々。近郊神社を合祀合祀した結果なのでしょう。
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川越氷川神社の謎

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『川越・氷川神社』は欽明天皇2年(541)に『大宮氷川神社』より分祀され、川越の総鎮守として親しまれています。2020年は中止のようですが、重要無形民俗文化財の【川越まつり/川越氷川祭】は川越氷川神社の例大祭です。ご祀神は須佐之男命と櫛稲田姫命の夫婦と櫛稲田姫命の両親の脚摩乳命(あひなずち)と手摩乳命(てなずち)夫婦と大巳貴命(大国主=須佐之男命の古事記では6世の孫、日本書紀では息子で娘の須勢理毘売命の旦那)ですが、数ある氷川神社でもこの5柱がご祀神の例は他では見当らなにような気がします。
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総本社の『大宮・氷川』でさえ櫛稲田姫命の両親は別宮となっています。この3人は一般人で「神」ではありません。【娘を八岐大蛇から助けてやるから嫁によこせ!】とは須佐之男命のパワハラ要求です。首尾よく修了して、いざ結婚という事で娘と両親を「神」に持ち上げたかと解釈できます。その後、櫛稲田姫命は神話にはほぼ登場しません。ついでながら大巳貴命(大国主)が須佐之男と櫛稲田姫の息子なら須勢理毘売命との結婚は兄妹という事です。それをいったら須佐之男命と天照大御神の関係も怪しいもので、まぁ日本の神話では良くある事です。
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2組の夫婦+αがご祀神ということで家族円満・縁結び・恋愛成就のご利益と人気だそうですが、由緒よしたはもっともに聞こえます。若いねぇチャンを騙すには充分のなのでしょう(笑)。9月の連休という事で多くの人が参拝に訪れていました。まぁ池袋から電車で小一時間の川越です。氷川さんがこれだけ混んでいるとなると「古い町並地区」は想像するだけで恐ろしいです。新名物が続々次々登場しくる「某地区」では歩いているガキどもを騙すのは容易いことです(笑)。
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神社の謎に戻ります。本殿は入母屋造りで玉垣の外からは見えませんが社殿には見事な彫刻が施されています。隣の八坂神社は徳川家光による江戸城内の東照宮を川越城に移したもので、明治5年に再度この地に移したものです。喜多院内の春日局化粧の間と同じ経緯でしょう。境内社に万葉歌人を祀る『柿本人麻呂神社』があります。人麻呂の子孫・綾部氏が戦国時代に川越に移住した際の創建とあります。柿本人麻呂子は出雲で「刑死」したとの説があるのですが、鎮魂(たたり除け)のための創建なのでしょうか?関東地方に『柿本人麻呂神社』は貴重です。
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本殿裏には三峯神社・子の権現社・菅原神社・稲荷社。雷電神社等々多くの末社があります。残念ながらかなりの社が程度がよくありません。思うのですが末社の管理はどのようになされるのでしょうか?氏子が減るに連れて社も朽ちていくようです。残念な事に三峯神社は眷属が「オオカミ」ではなく「キツネ」が守っています。オオカミ不在時はキツネが代行するとの決まりがあるのでしょうか?。
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旧川越城址、川越高校から直進するのが正参道です。なんかごく普通に感じてしまいます。
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木製の大鳥居は約15mあり木製の鳥居としては全国屈指だそうです。鳥居が立派でもこちらは正参道ではありません。
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