旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

埼玉県

川越氷川神社の謎

200921_01
『川越・氷川神社』は欽明天皇2年(541)に『大宮氷川神社』より分祀され川越の総鎮守として親しまれています。2020年は中止ですが、国の重要無形民俗文化財の【川越まつり/川越氷川祭】は川越氷川神社の例大祭です。ご祀神は須佐之男命と櫛稲田姫命の夫婦と櫛稲田姫命の両親の脚摩乳命(あひなずち)と手摩乳命(てなずち)夫婦と大巳貴命(大国主=須佐之男命の古事記では6世の孫、日本書紀では息子で娘の須勢理毘売命の旦那)ですが、チョット待てよです(苦笑)。疑問の1)数ある氷川神社でも、この5柱がご祀神の例は他では見当たりません。
・・・・・・・・
200921_04
総本社の『大宮氷川』でさえ櫛稲田姫命の両親は別宮となっています。この3人は一般人で「神」ではありません。【娘を八岐大蛇から助けてやったら嫁によこせ!】との須佐之男命のパワハラ要求を首尾よく修了して、いざ結婚という事で娘と両親を「神」に持ち上げたと解釈できます。その後の櫛稲田姫命は神話にはほぼ登場しません。ついでながら大巳貴命(大国主)が須佐之男と櫛稲田姫の息子なら須勢理毘売命との結婚は兄妹という事です。それをいったら須佐之男命と天照大御神の関係も怪しいもので、まぁ日本の神話では良くある事です。
・・・・・・・・・・・・
200921_03
2組の夫婦+αがご祀神ということで家族円満・縁結び・恋愛成就のご利益と人気だそうですが、誰がそんなことを言いだしたのでしょう。若いねぇチャンを騙すにはそれで充分のような気がしますが(笑)。9月の連休という事で多くの人が参拝に訪れていました。まぁ池袋から東武でもJRでも小一時間です。氷川さんがこれだけ混んでいるとなると「古い町並地区」は想像するだけで恐ろしいです。嘘ばかりの新名物が次々登場しいる「某地区」では歩いているのはガキばかりなので騙すのは簡単でしょう(笑)。
・・・・・・・・・・・・・・・
200921_05
神社の謎に戻ります。本殿は入母屋造りで玉垣の外からは見えませんが社殿には見事な彫刻が施されています。隣の八坂神社は徳川家光による江戸城内の東照宮を川越城に移したもので、明治5年に再度この地に移したものです。喜多院内の春日局化粧の間と同じ経緯でしょう。境内社に万葉歌人を祀る『柿本人麻呂神社』があります。柿本人麻呂子孫の綾部氏が戦国時代に川越に移住した際の創建とあります。柿本人麻呂子は須佐之男命らの故郷出雲で「刑死」したとの説があるのですが、鎮魂(たたり除け)のための創建なのでしょうか?
・・・・・・・・・・
200921_06
本殿裏には三峯神社・子の権現社・菅原神社・稲荷社。雷電神社等々多くの末社があります。残念ながらかなりの社の程度がよくありません。思うのですが末社の管理どのようになされているのでしょうか?氏子の数が減るに連れて社も朽ちていくようです。残念な事に三峯神社は眷属が「オオカミ」ではなく「キツネ」が守っています。「なんだそれっ」ですがオオカミ不在時はキツネが代行するとの決まりがあるのでしょうか?。
・・・・・・・・・・・・・・
200921_07
旧川越城址、川越高校から直進するのが正参道です。なんかごく普通に感じてしまいます。
・・・・・・・・・・
200921_09

木製の大鳥居は約15mあり木製の鳥居としては全国屈指だそうです。鳥居が立派でもこちらは正参道ではありません。

秩父・聖(ひじり)神社

200916_01
秩父を紹介する映像にはよく登場するので見た事があるとは思います。秩父市の聖(ヒジリ)神社は大きな「和同開珎」のモニュメントが置かれていますが「和同開珎神社」ではありません。慶雲5年(708)にこの地区で自然銅が発見されこの銅を鋳造して日本最初とされる流通貨幣「和同開珎」が鋳造、元号も「和銅」と改元されることとなります。
・・・・・・・・・・・
200916_02
聖神社の祀神はあろうことか「自然に産出する銅」を主祀神として大和系の金山彦命・国常立尊・天照大神(大日孁貴尊)・神武天皇(神日本磐余彦命)と元明天皇(元明金命)が合祀されています。
「和同開珎」ゆかりの神社ということで金運アップの「銭神様」として人気があるようですが、どう考えても論理的ではありません(苦笑)。
・・・・・・・・
200916_03
国道から僅かばかり入った所に神社はあるのですが、意外と小規模な神社です。実際の「銅」の採掘現場は更に奥になりますが道路状況の関係で断念しました。昔々は「和同開珎」が日本最初の政府貨幣と習ってきましたが、現在では「宮本銭」が最初となっているようです。それにしても都から遥々と秩父の山中まで「銅」を探し歩いたものです。採掘にしても露天堀りでは産出量など知れています。
・・・・・・・・・・
200916_04
秩父は第12代景行天皇(在位期間が60年、135歳で崩御)が日本武尊命に命じたの東征時を起源とする神社の数が多い地域です。東征の時代は西暦70-80年頃で秩父で銅鉱脈が発見されるのは700年後となるわけで、今でも山深い秩父地方にそれだけの人達が住み文化を形成していたのは驚きに値します。
・・・・・・・・・・・
200916_07
和同開珎モニュメントの映像の印象で大きな神社を想像しますが実際はコンパクトな神社です。
・・・・・・・・・・・・
200916_05
流石に日本歴史での重要事項の始まりの地ですから「解説板」の充実しています。
・・・・・・・・・・
200916_08
Pt↑)は「和銅露天掘り跡と聖神社」と「聖神社と周辺の文化財」でこれで概要は理解できます。
・・・・・・・・・・・
200916_06
神様に「金頼み」という不謹慎な輩には、歴史的概要なんかどうでも良いでしょう…。

秩父・椋(むく)神社

200914_01
秩父市下吉田にある『椋(むく)神社』は「延喜式神名帳」に記載された旧武蔵野国秩父郡の式内社です。秩父郡には椋神社が5社あり明治政府はいずれにも「式内社」を認めています。意外に珍しい例と云えます。旧社格は県社で、元は井椋五所大明神を号し「いくら神社」だったようで社伝によると三峯神社同様「日本武尊命」の東征の折に創建とあります。
・・・・・・・・・・・・
200914_02
秩父地方は古くからの興味深い伝承を持つ寺社だらけです(苦笑)。椋神社のご祀神は「猿田彦命」伝承では日本武尊の東征の道案内をしたとされます。日本武尊にとっても秩父のオオカミやら猿田彦の協力があったという事です。面白いのは5社の椋神社のうち上蒔田地区の椋神社だけは道案内役は「猿田彦」ではなく「大己貴命」となっています。
・・・・・・・・・・・・
200914_03
ご祀神は猿田彦命」でありながら「猿田彦神社」ではありません。PTt↑)は奉納された額の似顔絵が猿田彦命として一般的な姿とされます。この絵面から「天狗」の原型とされ、天孫降臨や日本武尊命の東征の道案内の伝承から「道の神」や「旅人の神」として道祖神と同一視され、さらには「猿」と「申」繋がりで庚申信仰ともなっています。神社創建の「日本武尊命」との絡みから眷属が「オオカミ」となっています。このオオカミ像 Pt↓) は実にいい感じです。
・・・・・・・・・・
200914_05
神社はお世辞にも良い状態とはいえません。社殿・玉垣・摂社もかなり傷みが進んでいます。これだけの社歴を有する神社となので何故か心配になります。椋神社本殿、旧本殿の八幡神社は秩父市の有形文化財登録ですが、大丈夫かと思うくらい傷んでいます。駐車場側の鳥居だけ立派に再建されるようでこれから修繕は始るのしょうか?
・・・・・・・・・・
200914_04
神社は、明治17年(1884)秩父郡の農民が政府に対して武装蜂起を起こした「秩父事件」決起場所として日本の歴史に登場してきます。この事件は自由民権運動の先駆け事件として有名で、神社にはその記念碑等が造られています。10月31日に決起集会が行われ取決めが決議されていますが軍律については新選組隊則以上の厳しさです(笑)。
・・・・・・・・・・
200914_06
また、秩父市吉田地区は国指定重要無形民俗文化財の「龍勢」で知られています。静岡の静岡市、藤枝市、滋賀の米原市、甲賀市にもある「筒に黒色火薬を詰めた手持ちロケット花火のデカイ奴」なのですが、ニュース映像などで見る限りは文化財指定を受けるような行事なのでしょうかねぇ?実はポスターを見て気が付いた程度です(笑)。
・・・・・・・・・・・・・・・
200914_08
痩せた狛犬ではありません。日本武尊命ゆかりの「オオカミ像」です。足の細いのが妙に気になります。
200914_09
三峯神社のオオカミ像とちがい”たれ耳”です。キツネ(稲荷)ほどではなくともバリエーションはあるようです。
200914_10
こちらが正参道です。オオカミ像は相対してではなく集落の方向を見下ろしているようです。
200914_07

久し振りに三峯神社…(3)

200913_18
『三峯神社』は日本武尊東征の際、伝承ではオオカミの道案内により秩父を訪れ「伊弉諾、伊弉冉」の2柱を祀ったのが創建とされます。また、社記には【享保年間、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったと】とあります。どうやらこれが三峯神社のオオカミ信仰の始まりのようです。
・・・・・・・・・・・・・
200912_03
Pt↑)は三輪鳥居の「オオカミ像」です。山間に住む人々には農作物の猪や鹿による作物被害は深刻で追い払ってくれる「オオカミ」は心強かったのでしょう。山岳信仰の修験者により「オオカミ」信仰が広まり、江戸中期にはオオカミを信仰対象とする「三峯講」により火災除や盗難除にもご利益のある御眷属(山犬)信仰が盛んになります。
・・・・・・・・・・・・・
200913_21
「隋神門」前の「オオカミ像」です。三輪鳥居オオカミに比べると栄養状態の良い日本犬に見えない事もありませんが、目つき顔つきはやはり「オオカミ」です。派手めな色彩の随身門に赤がポイントのオオカミ像がいい感じです(笑)
・・・・・・・・・・
200913_22
隋神門を抜け100mほど進むとあるオオカミ像です。最近のモノなのか容姿が現代的(?)で、前掛けに奉納者の名前が記載されています。明治年間に絶滅したとされる日本狼は剥製で見る限りはやや大きな柴犬といった感じです。面白いことに「三峰講」での山犬は日本オオカミなのが野生化した犬なのか判然としていないようです。
・・・・・・・・・・・・
200913_23
駐車場から約500mようやく拝殿に続く石段が見えてきました。ちょうど参道の掃除時間で、このオオカミ像も係の方が抱き着くようにして磨きをかけていました。基本となる部分は同じでもオオカミの姿は年代ごとに異なるようですが、稲荷神社でのキツネ像ほどのバリエーションはないようです。
・・・・・・・・・・・・・
200913_24
拝殿の石段下、杉の大木で見えにくいのですが味わいのあるオオカミ像です。この像は文化7年(1810)の建立です。建立年の確認できるオオカミ像のようです。石工さんがオオカミを知らなかったのか稲荷社の眷属に手を加えた感があります。唐突に絶滅したとされる日本狼を追い求めた斐太伊之助(?)という方の著作をかなり昔(50年前)に読んだことを思い出しました。いまでも日本の何処かの山奥で日本狼が生存していてくれたら嬉しいのですが…。
・・・・・・・・・・・・・
200913_25
摂末社がずらりと並ぶ奥にある「大山祇神社」のオオカミ像です。かなり風化が激しくなっていますが、時の流れと云うものです。数ある摂末社のうち大山祇神社・大山積神は元々は山の神で眷属は「オオカミ」です。三峯神社のおおかみ達の始まりはこれなのかも知れません。都内の三峯神社で見られるオオカミ像は大体がこんな感じの像ばかりです。
・・・・・・・・・・・・・・
200913_26
時間の制約もあり参道から拝殿本殿、接末社で見かけたオオカミ像を撮ってきました。恐らくは三峯神社神域にはこの他にも多くのオオカミ狼があるのでしょう。妙法ケ岳山頂の奥宮を望む「遥拝殿」近くに置かれたオオカミ像は筋骨隆々です。遥拝殿からは秩父市内や日光連山が眺望できるのですが生憎の曇り空でダメでした。
・・・・・・・・・・
200913_19

久し振りに三峯神社…(2)

200910_01
Pt↑)が三峯神社の三輪鳥居(三ッ鳥居)です。基本形の明神鳥居の両脇に小ぶりな鳥居を組み合わせています。関東では珍しい形式で三峯神社と墨田区の牛嶋神社くらいです(牛嶋神社鳥居は近年の台風で倒壊、再建はなったのでしょうか?)。日本最古の神社ともいわれる奈良の大神(おおみわ)神社の三輪鳥居が有名でご神体の三輪山との結界となっています。神職にお願いし見せていただきましたが、”何故この形?”には”判りません”でした(笑)。
200910_08
三輪鳥居には夏場の「茅の輪くぐり」のような”くぐり方作法”があるのですが覚える必要はないでしょう。却って8の字状に廻ったら妙な人扱いされると思います。Pt↑)は三輪鳥居に社額です。
200910_09
隋神門に掲げられた額です(逆光の日の廻りでオーブではありません)。神仏混合時代の仁王門ですが明治時代に仁王像は鴻巣市の勝願寺に贈られたとあります。勝願寺のWebによると「大正9年の仁王門再建の際に三峯人神社から贈られる」と記載がありますが、現存しているのかは定かではありません。
200910_10
拝殿下の銅鳥居に掲げられた社額です。神社名を囲むように登り龍と下り龍の一対になっているようです。さすがに1100mの高地なので天候がコロコロ変わります。この時点では薄い霧の状況です。
200910_11
権現造りの拝殿の梁や柱には龍や鳳凰などの極彩色の彫刻が施されています。正面にある社号額は有栖川宮熾仁親王殿下の書による「三峯神社」の文字と菊の紋章が描かれています。
200910_12
拝殿左側の足元の敷石には2013年の辰年に突如現れたという龍の姿が敷石から浮き上がって見とありますが、2,3.分にらみつければ誰もが赤い目が印象的な龍そのものが見えてくるのかも知れません。
200910_13
拝殿の屋根には千木も鰹木も付けられてはいません。因みに一間春日造りの本殿には縦切れの千木と鰹木が付けられています。拝殿・権現造り。本殿・春日造りというのもなにか不思議な感じがします。

久し振りに三峯神社

200910_03
昨今の埼玉県巡りが続きで久し振りに7年振り『三峯神社』に行ってみました。昔々は埼玉県南の中学校の林間学校は『三峯神社』でした。広い座敷に男女別で雑魚寝とは今じゃ考えられないでしょう(笑)。当時は三峯口からケーブルカーがありました。老巧化と修繕費用が捻出できない理由で廃止になったのが2007年ですが、それが埼玉県屈指の観光スポットに返り咲くとは思いもよらなかったでしょう。
200910_02
ケーブルカーの廃止後、神社への道は秩父ダムからの道が唯一残っています。すれ違い不可のトンネルや道路区間があったりでスリル満点のです。静岡の寸又峡といい勝負ですが実感では断然三峯の勝ちです。あまりの人気で廃止となりましたが、月一での三峯神社のお守りの配布が超々人気となりダム~神社間が5時間以上(通常30分程度)要した日もあったようです。確かに9月平日の10:00AMで約300台収容の駐車場(520円)が半分埋まっていました。噂には聞いていても驚いてしまいます。PT↑)三峯神社参道の鳥居は「三輪鳥居」と称する全国的にも珍しい形式をしています。眷属は「おおかみ」です。
200910_04
誰が言ったのか「関東地方最強のパワースポット」の三峯神社の創建は第12代景行天皇の時代に「日本武尊」東征の際、伊弉諾、伊弉冉の2柱を祀ったのが始まりとされます。文武天皇の時代には山岳信仰の修行の場となり、鎌倉時代以降は「三峯講」と呼ばれる集団参拝が盛んになります。「日本武尊」の道案内をしたとされる「オオカミ」が信仰の対象となり、「お犬様」・「大口真神」・「ご神犬」などと呼ばれる眷属となっています。参道を進むとが元禄4年(1691)に仁王門として建てられ、寛政4年(1792)に再建され昭和40年(1965)に改修された仁王像不在の『隋神門』が見えてきます。ここでも眷属の「オオカミ」が守っています。
200910_05
三峯神社は標高1100mの埼玉県でも山梨県との県境近くにあります。熊野信仰のながれの山岳信仰の地です。駐車場⇒坂道を登って一の鳥居⇒更に登り左にやや下り隋神門⇒さらに進んで拝殿下となります。
200910_06
拝殿下の杉巨木です。杉の根元付近の色が変わっている部分は幾年月多くの人達が「木のパワーを頂く」などとほざいて抱き着いた跡です。いつの間にやら柵が造られむやみに近づけないようになっています。笑えます!
200910_07
寛文元年(1661)造営のの本殿です。一間春日造りで屋根は銅板ぶきで玉垣は透塀です。この辺が良く判らないのですがご祀神は伊弉諾、伊弉冉の2柱ですが夫婦神なので一間造りということなでしょうか?拝殿の方は寛政12年(1800)の建立で昭和37年(1962)に改修されています。拝殿は幣殿のない権現造り、彫刻類が実に見事です。

大宮・庚申神社

200903_01
大宮駅西口のビックカメラ近くに「庚申神社」はあります。ご祀神は「猿田彦大神」。前項でも触れましたが猿田彦大神を祀りながら「猿田彦神社」ではない例です。「申」と「猿」が共通項とは理解できますが。「猿田彦は白い髭を生やしているから」で「白髭神社」は殆ど屁理屈のようですが、全国には約2000の猿田彦大神を祀る神社がある謎は解けます。案内板にはその歴史が記載されていて、大宮駅西口再開発でそごうやらソニック・シティができるまでは、神社はこの場所ではなかったとの記載があります。
200903_02
元々大宮は鉄道の街として知られ、その大宮駅構内に明治年間に「猿田彦」を祀る祠があったようです。その後大宮駅の拡張工事のたびに祠は移転を繰り返し、明治37年に神社は現在のソニック・シティの鍾塚公園あたりに国鉄職員と地元有志により落ち着きました。当時の大宮駅西口は現埼京線(川越線)のホームが地上にあり、狭っちい駅前で狭い道路、民家が密集していましいて神社があったかの記憶は曖昧です。
200903_03
これで安住の地と思いきや、駅前再開発により昭和60年に現在地へ遷座となります。このような遷座歴の場合は神域は狭くなりがちですがPtのように神社の姿は保たれています。神域には「パワー・スポット」なる埋め石がありました。説明板に説明書きがありますが一見は鹿島神宮の鯰を押さえ込む『要石』の事かと思ったのですが違いました。
200903_04
神木側に神社の歴史に関連する石碑が建っています。
200903_06
猫の額程度の広さかと思うと、神木の銀杏にしてもなかなか立派です。林立する幟には「みちひらき」と書かれています。
200903_05
「パワー・スポット」のついての説明書きです。
200903_07
「石碑について」の解説板。

鳩ケ谷総鎮守・氷川神社

200827_01
旧鳩ケ谷市と云っても知名度は低かったと思います。平成23年(2011)に川口市と合併し「鳩ケ谷市」は消滅しましたが。合併前は「蕨市」の次いで国内で2番目に小さい「市」として有名で高額運賃の埼玉高速鉄道が開通するまでは最寄りの鉄道駅まではバス利用しかなく 「陸の孤島」と云われたものです。有名人といっても大場久美子くらいですからねぇ(笑)。
・・・・・・・・・・・・・・・・
200827_05
さて「鳩ケ谷総鎮守・氷川神社」ですが、何度も触れてきたように大宮を総本社とする氷川神社は関東に数多くあります。実際は神社自体のレベル差はかなりあり残念な状態の神社も見かけます。鳩ケ谷氷川神社はコンパクトながらも総氷川神社でも上位に位置するようです。創建は応永元年(1394)とされ旧鳩ケ谷宿の高台に鎮座する古社です。
・・・・・・・・・・・・・
200827_03
ご祀神は須佐之男命(素盞嗚尊 )と稲田姫命(イナダヒメノミコト)の夫婦神で縁結びの神や夫婦円満の神として人気があるようです。まぁ稲田姫命はヤマタノオロチ事件の時は民間人で須佐之男命と結婚することで「命」となるのですが、以後は記紀も登場しない方です。多くの氷川神社は須佐之男命だけが祀られ夫婦が祀神は意外と少ないようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
200827_04
楼門から拝殿までが近くコンパクトな造りと思わせるのでしょう。境内社は多く氷川さんとは裏表の須賀神社(牛頭天王)・八幡宮や浅間神社、弁天宮、三峯神社、稲荷神社さらには日露戦争時の戦没者慰霊碑など18社の境内社が鎮座しています。
・・・・・・・・・・・・・
200827_06
本殿裏には日本武尊を祀る古峯神社と猿田彦が祀られています。この導きの神・猿田彦は境内社として祀られることが多い謎の神様なのです。Pt↑)はご神木の「夫婦楠」ですが実にデカイです。夫婦の樹木が並んでというのは良く見かけますが根元からというのは珍しいのではないでしょうか。実測は不明ですがビル5階くらいかと…?
・・・・・・・・・・・・・・・・・
200827_07
旧鳩ケ谷宿は徳川将軍家の日光東照宮参拝のため整備された「日光御成街道」の宿場町として栄えましたが、将軍家の専用道路的な脇街道なのでどんなモンだったのでしょう。徳川家康の東北出陣の際に立寄ったとありますが疑問です。旧鳩ケ谷市は「陸の孤島」というイメージしかありません。今回も帰路は蕨駅までバスを利用しましたが30分弱(¥250)とは、ひと昔まえの東京通勤者は大変だったことでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
200827_08
楼門から参道の坂道を見ます。この坂の下を見沼代用水が流れ神社は大宮台地上に位置しています。
・・・・・・・・・・・・・
200827_09
昔はこの坂道が主たる参道ようで一の鳥居(?)の朱が鮮やかです。なんとなくあの雰囲気が残ります。

川口市・七郷神社

200826_01
川口市鳩ケ谷の「鳩ケ谷総鎮守・氷川神社」へ行こうとJR武蔵野線・東川口駅で埼玉高速鉄道へ乗換、何気にWebを見ると駅より徒歩5分に「七郷神社」なる面白そうな神社があったので寄り道をしたのですが…。土地勘あるなら徒歩5分でしょうが、なんとも表現し難い地形と案内板の1つもなくえらい目に合いました。
・・・・・・・・・・・・・・・
200826_02
県道から見通しの効かない崖の上で戸塚小学校の隣なのですが、この高低差はカーナビでも判りにくいとおもいます。閑話休題。七郷(ななさと)神社のご祀神は「素盞嗚尊 (すさのおのみこと)」。つまりは「氷川神社」です。東川口あたりは昔の見沼田圃の一画であり氷川神社があるのは不思議でもなく埼玉県南では良くあることです。神社の由緒書きにも明治40年以前は氷川神社であった旨が書かれています。
・・・・・・・・・・・・
200826_03
神社は大宮台地の南端に位置し表現の難しい地形も納得ができます。明治以前の別当寺「西光院」の消失事情により創建などは不明のようですが、神仏分離により西光院はから離れて村社となり、数社の末社合祀により現在のかたちになっています。因みに現在の末社は、三峰社、獅子社(猿田彦の神)、厳島社、疱瘡社、菅原社、稲荷社の6社です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
200826_04
元別当寺「真言宗豊山・西光院」はすぐ近くにあるのですが、お庭には「なんでまた」と思う位の仏像があります。弘法大師像は当然としても興教大師像、閻魔大王像、一葉観音像、釈尊苦行像、涅槃像、弁天堂から七福神像などなど多種多彩です。面白いのは「狐狸妖怪不許入山門」の後ろに整列する狸、狐、河童達は笑えます。正直なんのこっちゃの七郷神社より西光院の方が俄然面白いようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
200826_05

2020・大宮氷川神社…(2)

200710_09
【Pt↑)大宮氷川神社の二の鳥居で、昭和51年に明治神宮から下賜された鳥居で台湾檜材が使われています。日本の寺社では意外とリサイクル使用があります。 調べて行くと、古社の創建年の殆どは”だったらいいなぁ”のと云っても良いでしょう。多摩市の「小野神社」は安寧天皇18年(紀元前531年)創建(約2500年前)。「大宮氷川神社」は孝昭天皇3年(紀元前473年)創建。大國魂神社は第12代景行天皇41年(84年)創建で武蔵国府が置かれるのは大化元年(645年)のことです。当然ですが記録を残す習慣には乏しく証明する術はありません。
200710_10
府中国府に着任した国司が有力寺社の祭祀を廻るのが困難なので、大國魂神社に「六社宮」を祀るようになった時代では大宮氷川神社は「三之宮」で「武蔵一之宮」を称するのは第45代聖武天皇の724年頃のようです。「武蔵一之宮」を掲げる神社は数社ありますが、その時代の施政者の徳川幕府や明治政府らの都合で「武蔵一之宮」は変遷しているものなのです。【Pt↑)は多摩市の武蔵一之宮・小野神社です】
200710_11
江戸時代初め徳川家にとっては関東の有力社寺との関係は経営上の重要事項となります。大宮氷川神社も徳川家の庇護を受け、徳川家綱の寛文年間に大改築されます。この時代社殿は男大社、女大社、簸王子(ひおうじ)社、荒脛巾(あらはばき)社の神々に4棟の社殿があり、神仏習合お寺まで含めるとかなり建物数があったと事でしょう。
200710_04
明治政府は神仏分離政策により大宮氷川神社を「官幣大社」に定めます。明治元年の明治天皇(16歳)の東京遷都後、最初に大宮氷川神社に行幸しています。天津神の子孫が国津神の祟りを恐れてのことでしょうか? 行幸に際しては男大社、女大社、簸王子、荒脛巾社の神々のうち男大社のみを「本社」として他を摂社に格下げとします。【Pt↑)は明治天皇大祭での下賜された神饌を埋めた旨の碑です】
200710_05
明治13年の境内大改造では徳川家綱の「男大社」を壊して現在の社殿が造営、男大社以外の社殿は廃止もしくは移動となります。簸王子(ひおうじ)社は「天津神社」に移築流用され「少彦名命」が祀られています。大宮の「簸王子社」は廃止となりす。事情は解りませんが「簸王子社」を移動した「中山氷川神社」としたのではないようです。
200710_07
女大社は「御嶽神社」の社殿に流用され「大己貴命」と「少彦名命」と出雲の神々が祀られます。「大己貴命」と「少彦名命」は二ヶ所で祀られていることになります。「簸王子社」と同様「女大社」を移して「氷川女體神社」ではありません。
200710_06
「荒脛巾社」は「門客人社」の社殿となりこの場所へ移築されます。稲田姫命の両親の足摩乳命と手摩乳命が祀られていますが、稲田姫は須佐之男命と結婚したので、「稲田姫命」へ昇格としても両親まで昇格とは妙な話です。因みに
この3社の社殿は寛文年間の徳川家綱の造営によるものが今に残っているそうです。

2020・大宮氷川神社…(1)

200705_01
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の武蔵一之宮「大宮・氷川神社」は埼玉・東京・神奈川に200社以上ある氷川神社の総本社です。祀神は須佐之男命 (すさのお の みこと)・稲田姫命 (いなだひめ の みこと)・大己貴命(おおなむち の みこと)の神々です。創建は第5代考昭天皇(欠史8代天皇で実在は疑問)3年との伝承があり、第13代成務天皇の時代に出雲族が移り住んだとされます。「氷川」は出雲の「斐伊川」に由来するようです。
200705_04
「大宮・氷川神社」は古社ならではの謎の多き神社です。鎮座地のさいたま市には大宮氷川神社(須佐之男命)・氷川女体神社(稲田姫命)・中山氷川神社(大己貴命/大国主命)の三社が約3㌔間隔で直線状に「見沼」の台地の淵(舌状台地)沿って並んで鎮座する構造が見られます。これも珍しいのですが、多くの氷川社では須佐之男命だけが祀られる例が多く、稲田姫命だけ大己貴命(大国主命)だけを祀る例は少なく3神が一緒に祀られる氷川社は殆んどありません。旦那と奥方と娘婿(日本書紀では子供)が一緒に祀神の「大宮・氷川神社」は珍しい例なのです。
200705_03
古事記と日本書紀での伝承は異なりますが、須佐之男命 となれば「八岐大蛇」神話です。稲田姫命は須佐之男命に大蛇から助けられた娘で、後に「神」となり須佐之男命 の妻になりますが、これ以降に神話に登場することはほぼありません。大己貴命は古事記では稲田姫命と須佐之男命の6世代後の家系の娘婿(日本書紀では子供)で、須佐之男命の娘との結婚騒動ではオヤジからメチャクチャな苛めを受けます。人間関係(神様関係)グズグズの神々が一緒に祀られるのは考え難いのですが…。
200705_09
社殿の裏手には近年まで禁足地で非公開だった「蛇の池」があり、湧水が湧くこの場所が氷川神社発祥の地だったとあります。湧水の地に神社創建は至極ありがちな伝承です。社殿東側の「門客人神社」は元は荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれ先住の民の地主神が祀られています。この先住民を追い遣ったのが出雲族のようで、よくある征服者による主祀神の交代があったのでしょう。被征服者の為の神社とは如何にも日本的な話です。
200705_10
古代このあたりは台地の淵で浦和・川口方面へ広大な「見沼」という沼地が広がっていました。約3㎞間隔で大宮・氷川神社、中山氷川神社、氷川女體神社(Pt)が並んでいますが、行ってみると氷川女體神社の方が地形的に古代人が集落を造る場所としては条件的に適した場所なのです。丘の上、広大な沼地、豊かな水、竜神の伝承。むしろ氷川女體神社のほうが元々の氷川神社だったのかも知れません。拝殿の社額には「武蔵一之宮」とあります。
200705_02
話は変わりますが…。「大宮・氷川神社」は約2㎞続く欅参道を含め約3満坪の広さがあります。正月には大國魂神社を凌ぐ約220万人の初詣者が訪れるようです。困ったことには多数の参拝者が訪れる割にはトイレ設備が最悪も最悪です。本殿近くに1箇所と狭い駐車場に最低レベルのトイレの2箇所だけです。見落しがあるにしても、某テレビ局の協力で神池の掃除作業ができたので経費予算枠に余裕はあるでしょうに!武蔵国一之宮がこの程度とは残念至極です。
200705_08200705_06200705_07

さいたま市・足立神社

200707_01
古代の律令制時代の武蔵国では、現在の足立区、川口、さいたま、草加、上尾、桶川、鴻巣あたりまでは「足立郡」とよばれ、国府は府中にあり支所である足立郡郡衛は現さいたま市に置かれていました。いわゆる「延喜式神名帳」には武蔵国足立郡の式内社は氷川神社(大宮)、調神社(浦和)、多気比売神社(桶川)と足立神社の4社しかなく、足立神社はそれなりの由緒ある古社となります。地域の「鎮守の神」として土地の人々の様々な「願事」を引き受けていたことでしょう。
200707_02
さいたま市には「延喜式」を掲げる「足立神社」もう一社あります。横浜の杉山神社ほどではありませんが、神社の本家が何処なのか判らないのは地図も書面もなく情報は人々の記憶だけが頼りの時代では無理のない事です。浦和から産業道路を大宮方面への途中にある「足立神社」は「延喜式」を掲げる2社のうちの1社です。祀神は猿田彦命、天鈿女命、天照皇大神等の多くの神々ですが、僅か数㎞先に出雲の国津神を祀る氷川神社があり、天津系神々は妙な感じすらします。
200707_05
第9代開花天皇時代の創建とありますが、明治以前は「高塙明神社」であったのを明治年代に地元の顔役が「足立神社」を主張し押切ったようです(苦笑)。そんな事情があるにしても神社と鎮守の杜が今に続いていることの方が大切です。一の鳥居の社号標には「延喜式内足立神社」の記載が…。二の鳥居、三の鳥居迄と200m弱の参道が続きます。三の鳥居の造りが他で見かけた記憶がない形式になっています。
200707_03200707_07200707_06

武蔵国四之宮・秩父神社

200716_01
ユネスコ無形文化遺産に秩父夜祭が登録された「秩父神社」は関東私鉄の宣伝もあり東京からの日帰り観光地として知られています。大國魂神社による「六社宮」には秩父神社は武蔵国四之宮とあり。式内社、旧社格は国幣小社で秩父地方の総鎮守です。ご祀神は八意思兼命・知知夫彦命 ・天之御中主神・秩父宮雍仁親王の4柱。古社であるほど社歴は複雑で時代と共に推移する神道の緩さを良く表しているようですが難い話が多々あるので深入りは避けます(苦笑)。
200716_02
明治以前は妙見菩薩信仰として有名で「秩父大宮妙見宮」と呼ばれたようです=この北斗星妙見信仰もややこしいのですが=ご祀神にある「
天之御中主神」と「妙見菩薩」との習合神で、神仏分離以降に妙見信仰の記憶を残ったようです。「天之御中主神」は造化三神と呼ばれる天照以前の世界創生の最初の神なのですが、姿も見えず功績も判らずの神様なので渡来神の「妙見菩薩」くっつけ易かったのでしょう。江戸時代には徳川家康との繋がりも深く本殿は天正20年(1592)に家康が社領を寄進し建造させたとあります。
200716_03
徳川家康の命により造営された社殿は拝殿、幣殿、拝殿が並ぶ江戸期に見られる「権現造り」です。秩父地方総鎮守として社歴2100年を超える古社だけに多くの摂社・末社が鎮座しています。社殿に施された彫刻類は見事なもので、現在は改修工事中のため一部は見られませんが、曇空で日の廻りが良くなかったのが悔やまれます。
200716_04
拝殿正面の社額左右にある左甚五郎の作と云われる「子育ての虎」の彫刻です。右側には虎が2頭、Pt↑)には大人の虎2頭と子供3頭が彫られています。虎の家族に豹が1頭混じっているのではなく、江戸時代では虎の雌が豹と考えられていました。実際の虎など見る機会はないでしょうが、神楽坂毘沙門さんの狛虎に比べてら格段に違います。
200716_05
社殿の西面にある「お元気三猿」の彫刻です。日光東照宮の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」に対して=日光の彫刻は全体で猿の生涯を表現しその一部なのですが=秩父神社では「よく見・よく聞いて・よく話そう」のお元気三原則になっています。神社に猿は古来よりの庚申信仰によるもとと思われます。確か家康は「寅年」だったと思います。
200716_06
「北辰の梟」のフクロウの体は正面の本殿を向き、首だけが180°後方を向いています。妙見信仰の神社だけあって北斗七星の方角は特別視されたのでしょう。フクロウを知恵のシンボルとする話は世界中にあり、日本での梟(フクロウ)=不苦労とそる語呂合わせを笑ってはいけません。もう一面の東側の「つなぎの龍」は改修中で見られませんでした。
200716_07
「秩父」は長瀞の岩畳の見られる地質学的にも神話や伝承の宝庫なのです。主祀神の八意思兼命(オモイカネ)は八百万の神々会議での議長的役割である謂れからか、本殿裏手の長屋の様な建物の「天神地祇社(てんしんちぎしゃ)」には全国の「一之宮」のご祀神75座(!)の神々が祀られています。秩父神社は格式のある神々が集まる社なのです。この
天神地祇社の他にも稲荷社、須佐之男神、豊受大御神、天照大御神、東照宮の社は別棟にあります。
200716_08200716_09200716_10

武蔵国五之宮・金讃神社

200715_07
ブームと言えばそれまでですが、昨今はTVの情報もあってスタンプ(御朱印)集めやパワー・スポットなる意味不明な言葉に踊る方々がいます。TV情報でチョチョイと出かけてご祀神も知らずにお参り、スタンプをいただいて、美味しいもの食べてお土産買って…。それはそれでいいのでしょうが、TVでは放映せず観光業の対象にもならない神社は数知れずあります。埼玉県児玉郡神川(かみかわ)町二ノ宮にある武蔵国五宮・金讃神社(金佐奈大神)もその一社です。正直、埼玉県にこんな神社があったのかと驚きました。
200715_09
関東平野が東京23区から浦和辺りまでが海だった頃、秩父山系の淵には農耕狩猟や渡来人達の集落が点在していました。今に残る古社の多くはこの人々の鎮守だった歴史もあります。武蔵国六社に名を連ねる「金讃神社」はそれとは様相が違うようです。埼玉県児玉郡神川(かみかわ)町が何処なのかまったく知りませんでした。ほぼ群馬県ですが電車利用だとJR八高線児玉駅or高崎線本庄駅です。どちらの駅からも遠く不便なのが知られざるの理由なのでしょうか?
200715_08
延喜式記載の旧官幣社で古社で「金讃/かねさな」は砂鉄を意味する「金砂」を語源とする説もあります。和同開珎での銅の産地にも近く金属の産出を得手とする人々が住んだのでしょうか?社伝では創建は日本武尊が東征の際に火打金を御霊代として納め天照大神と素戔嗚尊を祀ったとあり、この辺りは”そうですか!”としか言いようがありません。神社は御嶽山々麓にあり拝殿後方の「御室山」をご神体としています。山自体をご神体とするのは諏訪大社、奈良の大神(おおみわ)神社、米子の大神山神社など極々少数なのです。
200715_04
国道462号線沿いに一の鳥居があり、200mほどで二の鳥居、さらに進んで駐車場&トイレ、少し歩いて社務所、神橋。コンビニ、売店、自販機すらありません(!)。そしてこの鳥居です。形式自体は「明神鳥居」なのですが、鳥居の左右は玉垣ではなく柵状になっています。結界の強さを表現しているのでしょうか?。見たことのない神社形式なので期待度が増してきます。煌びやかな神社とはかけ離れた自然信仰の神社がここにあります。
200715_11
駐車場の右側の小高い場所に「金讃神社多宝塔」があります。経年変化と天候加減で総朱塗りとは言い難いですが、三間四面、柿葺、高さ約14mあり天文3年(1534)地元の武士団の安保弾正全隆による建立とあります。明治45年に国の重要文化財指定されています。神社に多宝塔は妙な感じもしますが明治以前の「神仏習合」時代の建立なので珍しいことではありません。見落としがあるかも知れませんが金讃神社には「狛犬」がありません。明治神宮のように狛犬なしは珍しいことではないのですが、社歴に関連するものなのでしょうか?
200715_12
もう一つ「御岳の鏡岩」と云われる国の天然記念物があります。拝殿脇から整備された階段を300mほど登ると、長さ約4m、幅約9m、傾斜約30°の「赤色石英片岩」の岩盤が露出しています。約1憶年前の断層活動によるとあります。運動不足の身にはこの階段は結構きついものがあります。後で知りましたが金讃神社は初詣の人気スポットで参拝後この階段を御岳山頂まで登るのだそうです。いやはやです(苦笑)。
200715_06
神域を含めた一帯は金讃清流公園となっています。国道沿いの鳥居の先に古の自然山岳信仰が残した神社があるとは思ってもみませんでした。社史によると400mほどの場所に「元森神社」がありこちらが御室山を遥拝する金讃神社の旧鎮座地で、そちらから現在地へ遷座したようです。
・三の鳥居の裏側です。玉垣ではなく柵状になっている興味深い形式です。
・御嶽山の入口、ここから鏡岩まで300m、山頂+200mだそうです。足元は整備されています。
・駐車場のトイレです。神域全体でもここだけのようです。
200715_13200715_14200715_15

さいたま市・田島御嶽神社

200711_03
JR武蔵野線の道すがら、2013年3月以来でさいたま市田島の「田島御嶽(おんたけ)神社」に寄って見ました。武蔵線西浦和駅で降りて徒歩10分程度かかります。7年振りの訪問はアララのビックリばかりで記憶とはかなり変わっていました。社殿が派手になった事! ここまでカラフルではなかったような気がします(苦笑)。本殿の左右一対の胴体が「雷鳥」、頭・首・足は鶴という「神使・天神雷鳥大神」のお姿に変わりはありません。
200711_02
神社HPによると鎌倉時代の永仁3年(1295年)の創建とあり、神社案内看板には「木曽御嶽神社分社 田島 御岳神社 修行之地」とあります。勉強不足なのですが「関東や中部地方を中心に木曽御嶽山を信仰の対象とする講中組織」程度の認識しかありません。祀神は國常立尊(くにとこたちのみこと)、大己貴命、少彦名命、猿田彦大神、天鈿女命 としています。ごく初期の神様である國常立尊となると難しさも感じますが、国津神と天津神が一緒というのも妙と云えば妙です。
200711_04200711_07200711_05

新座・平林寺…(2)

200617_02
新座・平林寺は山号が「金鳳山」の臨済宗妙心寺派のお寺です。武蔵野の雰囲気が残る境内林は43㌶と広大で昭和43年(1968)に国の天然記念物に指定されています。今回はJR武蔵野線・新座駅下車で向かいましたが、新座駅からの路線バスは本数が少なくバス利用ならば東武東上線・志木駅の方が良いようです。
200617_03
平林寺は1375年(永和元年)に現さいたま市岩槻区に臨済宗建長寺派の寺院として創建され新座の地へは川越・松平家により1663年(寛文3年)に移転しています。他の社寺と違い広大な寺の敷地はぐるりとフェンスで囲まれ参拝者は自由に立入ることができません。地図で見ると新座駅から歩いても近く感じますが、寺のフェンスに沿って参拝者入口までがはかなりの距離があり新座駅から歩いて40分程度かかりました。
200617_04
平林寺には僧侶の修行道場のお堂があり、一般参拝者が立入れない場所が多々あります。却って静寂とした環境となっています。埼玉県有形文化財の総門や山門、仏殿や川越松平家の松平信綱夫妻の墓所など見どころもあるのですが、むしろ鬱蒼とした境内の木々に圧倒されます。難点はデジカメには写りくい事なのですが…(苦笑)。
200617_05200617_06200617_07

新座・平林寺…(1)

200616_01
北海道なら”キツネに注意!”や道路に大書された”鹿の飛び出し注意!”は珍しくはないのですが、埼玉の秩父の山奥でもなく東京に隣接する新座市では(苦笑)。まぁタヌ公は里に住む動物ですから不思議はないのですが、交通看板が必要なほど住んでいるのでしょうか?国の「武蔵野の面影を残す雑木林」はタヌ公には絶好の環境でしょうし民家もあるので食べものにもさほど苦労することもないでしょうが…。
200616_02
埼玉県新座市の平林寺の境内は実に13万坪・約43㌶・東京ドームの9個分あるそうです。良くある話ですがこの「東京ドーム何個分」は野球のフィールドなのか、客席含む球場建物なのか、遊園地含むドームシティの事なのか判然としません。イメージでの錯覚狙いにしても、フィールドたいして広くはありません(笑)。平林寺境内林の43㌶と聞いてもピンときませんが歩けば判ります。東京近郊でこれだけ広い雑木林はもうないでしょう。
200616_03
Pt↑と↓は、平林寺総門前の睡足軒(すいそくけん)と云う国指定の天然記念物「平林寺境内林」の一画です。平成14年に平林寺から新座市へ無償貸与され一般開放されています。この様な経緯の場合はだいたいは市の管理は杜撰ですが、ここは充分に手入れが行き届いていました。1)新座市は「史跡・野火止用水」でも有名ですが、如何せんこの季節は緑が深すぎて絵になりません。2) 新座市のイメージキャラクター「ゾウキリン」がデザインされたマンホール蓋です。追及するのはやめておきます。3) タヌ公注意は他にもありました。タヌキ王国なのでしょうか?
200616_06200616_05200616_04

川口・峯八幡宮

200615_01
埼玉県南部は縦方向にJR各路線・東武伊勢崎線&東上線・西武線の路線がありますが横方向は武蔵野線のみで不便です。『峯八幡宮』もJR川口駅と伊勢崎線・草加駅のどちらからも不便でJR川口駅から国際興業バスで30分(¥260)と微妙な場所にありました。それにしてもバス案内では「峯八幡宮」で神社HPでは「峰が岡八幡神社」なのが妙ですが…。
200615_02
八幡様という事でご祀神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇、大分の宇佐八幡宮を総本社とする神社で全国的には稲荷社についで全国2位の数があります。関東では源氏ゆかりの「鶴岡八幡宮」から勧請された例が多く「峯八幡宮」には天慶年間(938年頃)に清和源氏の源経基の創建とする説と鎌倉時代に鶴岡八幡宮の社領のこの地に勧請との説がありますがいずれにしろ「源氏ゆかり」には変わりません。
200615_03
流石に住宅地化が進んでいて「壱の鳥居」の場所が判りません。県道から神池らしき所まで進むと、この先に鬱蒼とした木々に囲まれた参道が現れます。石灯籠がズラリと並んだ参道を200mほど進み石段を登ると「朱」鮮やかな鳥居が迎えてくれます。木々の緑と朱のコントラストがいい感じです。
200615_04
神社は川口市の新郷地区、昔の足立区古田領三十二村の総鎮守であったようです。鉄道や国道の発達から外れた事で”八幡の杜”の静かな環境が今に残っていて、大正年間に造営されたという「神門」もいい感じです。越谷・久伊豆神社、春日部八幡神社、峯八幡宮と東京都内に鎮座する神社とは違った姿が見られます。
200615_05
大稲荷社、諏訪社、御嶽社、須賀社などの境内社の点在する約7700㎡の神域には煌びやかなものは何もありません。1)八幡宮につきものの樹齢700年超の大銀杏はさすがの迫力です。2)拝殿、幣殿、本殿の並ぶ様はとても美しいです。3)石灯籠が建ち並ぶ参道…。なかなかの関東平野の古社です。
200615_08200615_07200615_06

草加駅で煎餅を

200608_01
子供の頃には我が町にも手焼き煎餅の店が何軒かあって通りかかるとお醤油の焦げる臭いがたまらんものでした。草加と言えば「草加煎餅」、街に漂う煎餅を焼く臭い…。そんなものはありゃあしません。駅近にあったのは1992年に創られた「お煎餅を焼くおばちゃんの像」。伝承では日光街道の茶店で団子を売っていた「おせん」というすばしっこいおばちゃんが、売れ残った団子を干して「焼餅」として売ったのが名物の草加せんべいの始まりとか…。そうかい!。
200608_02
国道4号日光街道は以前とルートが異なり、旧の国道4号は県道49号へ更に昔の日光街道も現存しています。昔日光街道は整備されPtの様な観光案内板も作られています。現実は行って納得できるのは「草加松原」しかありません。草加煎餅の店が50数軒と言っても名店は点在していて、なんかイメージとは違います。行きかう旅人が参拝したであろう八幡様・三峰様は朽ち果て寸前。登録有形文化財の「藤城家住宅店舗」はあぁそうですかという感じです。残念なのは氷川神社で学校内の敷地から遷宮とはいえ数ある氷川神社でも最悪レベルです。
200608_03200608_04200608_05

化粧したって松原団地

200606_01
東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の「松原団地駅」は「独協大学前駅/草加松原」に変わっていたんですねぇ(2017年春)。日本の高度経済成長期に東洋一の大規模団地「草加松原団地」が造られ獨協大学が開校したの昭和30年代後半。そういえば面白いことがありました。松原団地在住の社員から「台風の大水で駅が水没して出社できません」との欠勤連絡があって(笑)。広大な田圃を無理無理に団地を造成したので大雨の後は洪水事件が頻発したのです。50年の歳月で団地は老朽化、誰が言い出したのかイメージ戦略として化粧を変えて《大学の街》に化けたかったのでしょうが、スッピンを知っている身としては笑うしかありません。
200606_02
もう一つ笑えるのは、駅の東側の旧日光街道には昔の街道の面影を残す『草加松原』があります。ここが平成26年(2014)に国指定の名勝『奥のほそ道の風景地』に指定されると「独協大学前」では立つ瀬がないと言い出す輩が登場(?)副駅名称として「草加松原」が追加されました。《化粧だけではもの足りず、寄せて持ち上げる》という作戦にでたようですが、そんなもんよく見ればバレます。確かに「奥の細道の風景地」では陸橋のデザインや松並木より街灯が低く造られるなど全体としてやりすぎと思えるほどの整備がされています。それでもスター性に乏しいとみえ「奥のほそ道・松尾芭蕉」とは!それって江東区や北千住に任せた方が良いのではないでしょうか。
200606_03200606_04200606_05
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ