旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

埼玉県

鴻巣・鴻(こう)神社…(2)

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鴻神社は鴻巣の総鎮守社として明治6年(1873)に近くの氷川社、熊野社、雷電社の三社をまとめて「鴻三社」としたのが始まりで、後に日枝社、東照宮、大花稲荷、八幡社を合祀して『鴻神社』とています。実際は更に多くの合祀神社があり、三狐稲荷神社、幸の宮弁天社、夫婦銀杏、なんじゃもんじゃ稲荷、疱瘡神、冨士講や裏手の合祀社には県内から稲荷社などなど、主祀神繋がりに意味不明感が漂う神社です。
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前回訪れた時は神社前のバス亭の名称が「雷電神社前」でしたが、今回は「鴻神社」に変わっていました。元々に雷電社があった場所が鴻神社となったので、バス停が「雷電神社前」だったのでしょう(笑)。神社入口には「鴻巣総鎮守」の看板が堂々としています。珍しいのは境内の「三狐(さんこ)稲荷神社」で、天狐・地狐・人狐の三狐を祀り縁結びや縁切にご利益があるそうです。五穀豊穣や商売繁盛とも伏見や曹洞宗系とも関連がないようです。
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よく勘違いされるのは「赤ん坊をコウノトリ運んで来る」のはヨーロッパでの伝承で日本にはありません。鴻巣の地名の由来となった「コウノトリ伝承」は子宝授かりとは全く違うものです。子宝祈願なら同じ鴻巣市の「三ッ木神社」が、あらゆる婦人病に霊験ありということで江戸時代は遠路遥々の参拝者で賑わいました。赤く塗られた猿の人形で知られる神社です。
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鴻巣・雛人形ピラミッド

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埼玉県には「人形の街」として全国的に有名な街がいくつかあり、昭和60年代には埼玉県の岩槻・鴻巣・越ケ谷・所沢で全国40%の人形生産数を占めていました。鴻巣市での人形制作も約380年の歴史を持ち伝統的な地場産業として伝わっています。ちょうどこの時期に行われているのが「鴻巣びっくりひな祭り」です。行事は以前から知ってはいましたが、これまでに16回も開催されてきたそうです。
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時節柄、例年とは違っていろいろと制約があったようで、イベントなどは縮小され人形の展示中心となったようです。公式ホームページには【ひな祭りは、古来、無病息災を願う厄払いのお祭りだったことで、お祭りの原点に立ち戻っての開催】とありました。人形展示は市内数か所の会場で行われ、JR鴻巣駅前の「エルミこうのすショッピングモール」がメイン会場で、高さ約7m、段数が31段の『日本一高いピラミッドひな壇』が造られていました。今回の展示された人形の数は1551体だそうです。
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会場は「エルミこうのすショッピングモール」のほか「コスモスアリーナふきあげ」、鴻巣農産物直売所「パンジーハウス」、産業観光会館「ひなの里」の4会場で行われているそうです。この「エルミこうのす」展示数が最大で、吹き抜けに築かれた大雛飾りは、下から見ても上から見ても流石の迫力です。
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大宮・埼玉縣護國神社

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護國神社(ごこくじんじゃ)は、 国家 のために殉難した人々を祀る神社で東京と 神奈川 を除く 各道府県にあり、地域出身や縁故者の 戦死者・自衛官・警察官・消防士 等の殉職者 を英霊を祀っています。元々は薩摩・長州らの鳥羽伏見の戦い以降の戦没者を祀った東京招魂社(現靖國神社)と同様な歴史をたどっているようです。1939年に招魂社は護国神社と改称され戦前は 内務省が管轄、戦後は独立 宗教法人となっています。
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東京と神奈川に護国神社がないのは、東京には統括的な「靖國神社」があり神奈川は完成寸前の昭和20年の横浜空襲で焼失、再建はなされす「伊勢山皇第神宮」がその役を担っているそうです。一道府県に一社ないし二社が城址公園や著名な神社に鎮座している例が多いのですが、大和系、出雲系、古事記、日本書紀の神々とは異なる位置にある神社です。
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「埼玉縣護國神社」は大宮氷川神社本殿裏手の大宮公園にあります。一の鳥居は大宮公園内にあるものの大宮公園とは道路を1本隔てています。昭和9年に大宮氷川神社の境内地に「埼玉県招魂社」として完成、昭和14年に「埼玉縣護國神社」となり、昭和20年にはGHQ令により「埼霊神社」となり昭和27年に「埼玉縣護國神社」と社号は変遷しています。境内に造られた「出征兵士の像」、「特攻勇士の像」、「埼玉県傷痍軍人の搭」なでは神社の性格の一端を現しています。
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お隣の「大宮公園」は明治18年に氷川神社の境内地一部に造られた県営公園です。開園当時は東京の奥座敷として賑わい高級料亭などもあり多くの明治の文豪たちも訪れたとは信じられないものがあります。高級料亭「万松楼」が移転した跡地に昭和8年に開園したのが児童公園で、改修されているもののPtの飛行搭は昭和25年に「スポーツランド」が造られた時のものです(70年前)。隣の「小動物公園」は昭和28年に開設された、何故か鳥類の展示が多く、獣関係は大物は強いて言うなら「ツキノワグマ」といった素朴な動物園です。驚いた事には園の敷地が広くなっていました。
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元府趾(本太)氷川神社

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JR浦和駅から駒場サッカー場へ向かう途中のさいたま市浦和区本太4丁目に『元府趾氷川神社』があります。地名は「本太」で神社のWebでは「本太氷川神社」となっていますが、鳥居の扁額には「元府趾」の表記が見られます。創建年代は不明のようですが、氷川神社の一社でありご祀神は素盞嗚尊が祀られています。
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神社由緒によると、扁額の文字から中世には国の出先機関がこの地にあり、そこから「元府趾」であった説、耕作・居住に適した地を意味する「ふと」に由来する説があるようです。鎮座場所は馬の背状の丘のような場所ですが、今は住宅地のなっているので想像すらできません。
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Pr↑)は境内摂社の「上向福徳神」で恵比寿’大黒天の像が天を見上げる様子となっています。全国的にも珍しいようで「上を向いている神様は当社だけです」と書かれています。それにしてはこの石像は新しいようですが…(苦笑)。
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中世の浦和・大宮は高塙郷と呼ばれ、鎌倉時代の高塙氏の本領であり、神社も高塙氏の寄進によるようです。この「高塙=高鼻」の名は大宮氷川神社の「高鼻町」として残っています。社殿裏手には(見られませんでしたが)埼玉県指定有形文化財の【本太氷川神社旧本殿】があります。Pt↓)三基の鳥居をくぐる「弥栄 三鳥居くぐり」、昭和鳥居(赤鳥居)⇒室町鳥居(木造赤鳥居)⇒明治鳥居(石造鳥居)を順にめぐるとあります。
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草加市・草加神社

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令和3年の1回目は草加市氷川町の『草加神社』です。昨年の”草加・松原団地”ではパスした神社ですが、特別の思い入れのある訳ではありません。南浦和乗換でJR武蔵野線で南越ケ谷へ。さらに伊勢崎線「新越谷」に乗換です。構内は繋がっておらず改札を出入りとなります。駅間は数100mも離れておらず、開業当時に両社に確執があったのでしょうが、JRと東武鉄道が駅名を統一しなかった理由が判りません。
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伊勢崎で草加駅へ。『草加神社』は駅から徒歩5分程度の氷川町にあります。氷川町に『草加神社』の理由はなるほどなのですが、元々は天正年間を始とし享保2年に武蔵一之宮大宮氷川神社を勧請したのが創建なのですが、明治42年(1909)に谷古宇稲荷、高砂八幡社、宿篠葉神明社等の11社を合祀して社号を『草加神社』に改称となります。ご祭神は氷川神社と同じ素盞鳴命・櫛稲田姫命の2柱となっています。
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神社本殿は草加市の指定文化財だそうで道営は天保年間のようです。江戸時代の草加はどれだけ賑わった在なのか判りませんが、江戸郊外の神社と考えれば見事な彫刻が施された本殿の造りはかなりのものです。本殿の彫刻は鞘堂的な構想物で覆われ近くで見られないのが残念でもあります。
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前述のように明治42年に近郊の11社を合祀したとありますが、恐らく廃仏毀釈という施策の結果なのでしょう。この施策は良く理解できない事が多々あります。この神社にしても何故に格式が上の「氷川神社」としなかったのでしょうか?改称して草加神社となっても祀神は大宮氷川の祀神と同じなら氷川神社でよかったでしょうに…。
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社殿隣にある境内社には右から雷電社(別雷命)、三峯神社(イザナギ・イザナミ命)、八幡社(誉田別命)と稲荷社が祀られています。明治年間に合祀された神々とは数的にも合致しません。
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さほど広い敷地ではありませんが、街神社としては、SL汽車が置かれた小児向けの小公園などもあり雰囲気のよい神社です。ならではの野良猫の集会所や捨猫広場ともなっているのでしょうか「猫にご飯をあげるな」の表示が目につきます。

本庄・金鑚(かなさな)神社

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児玉郡神川町には「武蔵二宮金鑚神社」があり本庄市千代田にも同じ社名の「金鑚神社」が鎮座しています。神川町の金鑚神社を訪れた帰路に本庄・金鑚神社前を通りかかり、いずれ来てみようと思っていました。神社は本庄駅から徒歩20分程度の歩ける場所にあります。Pt↑)鳥居の神社扁額には東松山の箭弓稲荷と同様な屋根状の囲い(?)が付く珍しい形式になっています。
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社伝によると欽明天皇2年(541?)に武蔵七党・児玉党の氏神として創建、以後本庄城主の信仰が厚かったとあります。社殿は本殿が享保9年(1724)、拝殿が安永7年(1778)、幣殿は寛永3年(1850)再建のいわゆる”権現造り形式となっています。ご祀神は天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊とあり神川町の武蔵二宮は「御室山」を神体として天照大御神・素戔嗚尊が祀神なので、こちらでは武蔵二宮を創建した日本武尊が祀神に加わっています。
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今年は中止となりましたが11月の例大祭の「本庄祭り」では各町内からの北関随一と称される山車の曳き回しが行われます。神社にはカヤ、モミ、大門、金鑚神楽等々の本庄市指定文化財があり、特に樹齢約350年以上と推定される幹回り5.1m、高さ約20mの御神木の楠木の巨木は埼玉県指定の天然記念物となっています。【左の巨木が楠木、右はカヤです】
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古社だけあって摂社の数は多いようです。驚きかつ感激したのが神社裏の松の木にあった「蝉の抜け殻」です。抜け殻自体はそう珍しいものではありませんが、この枝だけで8個残っています。蝉の変身は7月ごろなので12月になっても残っているのはかなり珍しいでしょう(笑)
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埼玉・本庄・蔵の街

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埼玉県本庄市の話を聞いて出かけてみました。本庄市は県庁所在地のさいたま市(浦和)までJR高崎線で70分、群馬県の高崎までJRで20分の【小手をかざせば群馬県】です。誘致した早稲田大学は在来線駅から3㌔以上も離れ上越新幹線の「本庄早稲田駅」なので新幹線通学ですかねぇ。この街一の高層建築は市役所で旧本庄城跡のようです。歴史的には有力な武士団は皆無で江戸時代には本庄藩が廃止廃城となり、却って宿場町の繁栄となった要因のようです。城は「城山稲荷神社」周辺のようですが、なんとまぁ残念至極な姿となっています。 【Pt ↓】
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江戸時代は京都までの69宿場の「中仙道」の大規模な宿場町として栄えました。明治16年に上野~高崎間の鉄道が早々に繋がり河川利用での舟便は本庄までは可能で、そんな事から上州よりの絹製品の集積場としても繁栄していきます。更に大東亜戦争末期では熊谷や伊勢崎桐生ほどの軍需工場がなく空襲被害にあわず古い街(というより家屋)が残りました。
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市が作成するパンフレットやマップは充実していて一日での観光は無理かも知れません。Pt↑は「旧本庄警察署」の建物です。令和2年2月迄は歴史民俗資料館でしたが閉館となり現在は見学不可でした。明治16年(1883)の建築で明治洋風建築に特徴が見られます。この形式の建物は現存率が高く珍しくはないのですが外観から見て状態は良いようです。
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Ptは明治29年完成の「旧本庄商業銀行の寄棟瓦葺二階建て煉瓦造の倉庫」で「本庄レンガ倉庫」として開放されています。本庄商業銀行は明治27年に絹製品の集積地とした繫栄し始めた時代に開業。倉庫は貸付金の担保物件の絹製品を保管しておくために建てられたもので、1997年6月に国の登録有形文化財建造物に指定されています。
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室内は展示施設になっています。以前は地元のローヤル洋菓子店の店舗兼工場だったそうです。元々繭や糸を収納する倉庫なので大きな窓は通風を考慮したものでしょう。壁には漆喰が塗られたようで、壁の白い部分は剥がした跡です。壁はかなりの厚さで造られ富岡製糸場の木造に煉瓦貼りと異なり現代の耐震構造的にも問題はないそうです。一大煉瓦生産地であった深谷が隣町ですか建材の入手も容易かったのでしょう。展示は金讃神社の山車の模型です。
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倉庫2階には展示物等はなくピアノが2台置かれ多目的ホールとして運用されているようです。屋根裏の構造が丸見えで、三角形を組み合わせた強度の強いキングポストトラスト構造になっています。明治29年ならば建設作業員は洋建築など殆んど知らないはずですからと感心してしまいます。
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毎度の如く駆け足となってしまいました(苦笑)。Ptの自販機の絵は本庄市のゆるキャラ「はにぽん」です。市内で発掘された「笑う盾持人物埴輪」を題材としてた埴輪と本庄で「はにぽん」です。2016年のゆるきゃらグランプリで2位だったそうで侮れません。

鷲宮(わしのみや)神社…(4)

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久喜市周辺には数社の鷲宮神社があり、他社との区別の為「武蔵国鷲宮神社」と称し社標もその記載になっています。「関東最古の大社」や「お酉様の本社」と云われ、御祀神には天照大御神と須佐之男命の直系で稲穂、養蚕、木綿等の農業神として信仰される天穂日命(あめのほひ)とその子供の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)と合祀神が9柱。さらに大己貴命(大国主命)が「神崎神社」に祀られています。
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この地に来た出雲族が大国主を祀り後に日本武尊が
天穂日命と建比良鳥命を祀ったとありますが「延喜式神名帳」などにも記載がない為、創建の異説もあるなど”ややこしい”所もあるようです。この神社には”なんで?”という所が結構あるのですが…。上のPtでテント右の建物が拝殿です。玉垣で見えませんが奥が二つの本殿です。鰹木の数が少ないのが大国主を祀る「神崎神社」で、多いのが「鷲宮神社」です。高天原系と出雲系は一緒ではないという事です。
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拝殿・本殿と向かい合う「神楽殿」です。ここでの神楽は「鷲宮催馬楽神楽(わしのみやさいばらかぐら)もしくは「土師一流(はじいちりゅう)催馬楽神楽」とも呼ばれ、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。神楽では『古事記』や『日本書紀』などの神話を題材としており、鷲宮神社の神楽は関東神楽の源流であると言われるようです。
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拝殿からは「神崎神社」と「鷲宮神社」の2社をお参りする事になります。拝殿には「社額」がありません。さらにはこの二社は南向きになっています。地形的には平坦地で河川がある訳でもなく敢えて南向きな理由が良く判りません。参道の神木は大丈夫なのかと思う位に剪定されています。
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一世風靡した「らき☆すた」の名残り(?)です。風化して脱色した絵馬は凋落を表現しているようです。漏れ聞いた話なので確証はありませんが、神社と氏子の関係が宜しくないようです。勘ぐってみれば、2018年に倒壊した鳥居の再建が未完なのはそんな理由があるのかも知れません。
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古社だけあって神域には姫宮神社・八幡神社・鹿島神社・稲荷社・神明神社・粟島神社・諏訪神社・八坂神社・久伊豆神社・御池社があります。御池社は龍神が住む伝承の光天之池にありこのあたりに縄文人の集落があったようです。鷲宮神社は神社名や祀神の変遷が多彩で知らない神名が次々と登場します。
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12月の寒い日だったので、恐らく埼玉一の高温の温泉「百観音温泉」に寄って来ました。神社からだとやや便が悪く伊勢崎線鷲宮⇒(1駅)⇒久喜(乗換え1駅)⇒JR東鷲宮⇒徒歩5分となるのでTAXI(¥1100)で移動です。平日の割には大層な混みようで密状態した。冬場の46.6℃の温泉は夏場に比べて苦にはならないのですが流石に…(笑)。

鷲宮(わしのみや)神社…(3)

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2018年07月以来の埼玉県久喜市の『鷲宮(わしのみや)神社』です。神社手前の交通量の多い割には信号のないT字路から見ると”なるほど”と思るのですが、この場所から以前は見えた鷲宮神社の大鳥居が見えましが、この鳥居は残念ながら平成30年(2018)8月に原因不明(台座部分内部の腐敗?)で倒壊しています。
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Pt↑)は2018.07の撮影です。この立位置が明治年間に一の鳥居があった場所のようで、奥に見える鳥居は明治30年に二の鳥居として造られたようです。この鳥居は珍しい範疇の形式で如何にもの古社の雰囲気でしたが現在は倒壊したままで神社由緒書と鳥居の台座のみが残っています。
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案内によると鳥居の再建計画は進行中で、令和3年の秋ごろ竣工予定とあり奉賛を願う旨の掲示がありました。知る人ぞ知るこの神社は2004年頃からの漫画&アニメの『らき☆すた』に登場神社のモデルとして知られ、一時は県内では大宮氷川さんに次ぐ参拝者で押すな押すなの大人気だったこともあり、まして埼玉屈指の古社なので氏子も多く再建は容易と思っていましたがどうにも実情はそう簡単にはいかないようです。
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【Pt↓ 以前はこんな鳥居がありました】

動物園でなく動物公園!

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専門的な事は良く判りませんが「ホワイト・タイガー」はベンガルトラの白変種で、先天的な遺伝子疾患のアルビノとは違います。太古の氷河期に環境に順応して白くなった体色が遺伝子の奥深くに組み込まれ、氷河期以降も極まれに「白遺伝子」が現れるのが理由で、虎を白く塗って黒縞を書いたのではありません。ベンガルトラとトラの亜種は絶滅危惧種に指定され、特にホワイト・タイガーは保護施設にいる個体が全世界で約250頭あまり、日本では30頭が動物園で飼育されています。
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この園では2013年に4頭の子供達が生まれています。「スカイ」と名付けられた1頭は先天的に「膝蓋骨内方(しつがいこつないほう)脱臼」という障害を持ち世界でも稀有な膝の手術が行われ、その旨が詳しく掲載されています。飼育されているトラ達の血の近い交配により障害を持つ個体が生まれているのかも知れません。人間の都合だけで交配して飼育して公開して人気を得て…。なんか考えてしまいます。
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東武動物公園はやたらと広く総面積は61㌶あり宮代町と白岡市に跨っています。開園は昭和56年(1981)、東武グループの「東武レジャー企画(株)」の経営となっています。伊勢崎線沿線の群馬茨城に近い埼玉ですから61㌶の土地が確保できたのでしょう。2003年より「ハイブリッド・レジャーランド」を掲げているようです。この会社はアーバン・パークライン、スカイツリーラインだのハイブリッド・レジャーランドだのと住民が恥ずかしくて口にしない名称を付けるのが好きです(笑)。 
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1200頭もいるらしい動物達は圧倒的に「ヒラ社員」で、ホワイト・タイガーが「部長クラス」、それ以上の大物は不在です。この辺りが「動物園」ではなく「動物公園」の理由なのでしょう。遊園地の方が施設としては充実していて、未就学児童のいるファミリー層や中・高校生の健全デート向きといった感じです。そういえばこの日は期末試験明けの群馬や茨城あたりの高校生が目立ちました。
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杉戸じゃねぇか…。

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毎朝、定刻になるとご飯を食べにくる猫たちがいます。多い日には黒猫が4匹、白猫が3匹。まぁよく食べる連中です(笑)。何気に白猫を見ていると「そういやぁ東武動物公園には”ホワイト・タイガー”ってのがいたなぁ」と思い当たり出かけてみました。  [アクリル板に人影が写りこんでいます]
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JR大宮駅で東武アーバンパークライン(野田線が生意気に)で超々下品な漫画の街春日部へ、東武スカイリーライン(伊勢崎線が偉そうに)で「東武動物公園駅」へ…。「あれっここ杉戸じゃねえか」というので調べたら、1981年に杉戸駅から「東武動物公園駅」に、それも日本工業大学前なんて副駅名まで付けて変更されていました。この会社は2017年には東武伊勢崎線・松原団地駅を獨協大学前(草加松原)駅に変えたお笑い好きです。
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閑散期の12月の平日に出かけるほうが間違っていますが、東武動物公園側の駅前には冗談ではなく何もありません。駅から動物公園までの路線バスは閑散期の平日はなんと運休。よくこれで路線認可がおりたものです(笑)。という事で駅から10分ほど歩くはめに、コンビニの一軒もありません。今どきこれは相当な田舎街です。
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東武動物公園には東、西の入口があり、駅側が東ゲートです。恐らく民間の駐車場が数件あってゲートまで徒歩2分が¥500円で徒歩3分を超えると¥400という微妙な価格設定となっていました。閑散期の平日は切符売場窓口も1ヶ所だけでも待ち時間はなしです。料金は入場料+乗り物等のオプションで構成されており「動物を見るだけなら入場料だけ」で済みますが。このあたりで肝心な事に気が付きます。この「東武動物公園」は動物もいる(田舎)遊園地』なのです。
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行田・前玉(さきたま)神社

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埼玉古墳群公園の隣に前玉(さきたま)神社があります。社殿は浅間塚と呼ばれる周囲92m、高さ8.7mの古墳の頂上にあり古墳群一部なのでしょう。創建年や由緒については不明な点が多いのですが、例の延喜式神名帳の記載の「前玉神社」とされるかなりの古社です。
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神社HPによりと「幸魂(さいわいのみたま)神社とも呼ばれ、社名の「前玉」が地名としての「前玉郡」も元で漢字変化して「埼玉郡」となり、現埼玉県へ繋がり【埼玉県名発祥の元神社】をとなります。現さいたま市の浦和は昔は足立郡ですから確かに行田あたりが「埼玉」であったのは納得です。
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祀神は前玉彦命・前玉姫命の二柱とあり、江戸年間に忍城内にあった浅間社(木花咲耶姫)が遷座しています。主祀神が男神と女神であることから恋愛成就・夫婦円満から縁結びの神として人気があるようです。更にはこの前玉神社は神社に所属する「猫のご朱印」で有名です。
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埼玉古墳群+前玉神社では2時間以上歩くことになります。JR駅に戻るバスの時刻まで近くの日帰り温泉「茂美の湯」で入浴・食事・休憩をしていました。別料金でお芝居興行が見られますが流石にそれは…(笑) 参考までに=JR行田駅(10:20/10:35)…埼玉古墳公園(10:40-12:40)…茂美の湯(12:50-15:00)…
埼玉古墳公園(15:12-15:30)。やはり現地でのバス便利用は効率的ではありません。

埼玉(さきたま)古墳群…(3)

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見上げみる
「稲荷山古墳」です。さいたま史跡博物館HPには上空からの写真がありますが、復元された古墳の全長120m、高さ12mのはやはりデカイです。HPの前方部分が壊された写真と比べると現在の姿とは別ものです。古墳の歴史的認識の低い時代を経て、これだけの財産を後世に残せたのは嬉しい事です。さらに昭和43年の調査で発掘された『金錯銘鉄剣』は日本の古代史にどれだけの衝撃を与えた事か…。
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「稲荷山古墳」隣は全長90mほどの「将軍山古墳」です。明治27年(1894)の地元の人達が発掘作業により横穴式石室が見つかり馬具や太刀などの副葬品が発掘されています。その後古墳の崩壊が進んだ事から修復作業が施され古墳内部の状態を再現した「将軍山古墳展示館」が完成しています。
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「将軍山古墳展示館」には本館の入館券で入れます。規模こそ大きくはないのですが、ご本人埋葬の姿や副葬品の数々などは意外や意外の出来です(笑)。以前、高松塚古墳では愕然とした事がありましたが、こちらの方がイメージとして判り易いでしょう。副葬品の実物は本館に展示があるそうです。
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国道沿いに古い時代の石柱がありました。【史蹟 将軍塚・稲荷山・ボチ山(?)】とあります。埼玉古墳群では丸墓山古墳と稲荷山古墳は登ることができますが、平地から見あげると古墳は普通の丘か小山にしか見えません。不可思議だったのはやたら大きな丸墓山古墳だけが円墳(前方を壊した様子はありません)他は前方後円墳なのですが…。

埼玉(さきたま)古墳群…(2)

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今でこそ”めざせ世界遺産”ですが、昔は大型古墳を囲むような臣下の小型古墳を含めると円墳35基、方墳1基があったようです。昭和初期の干拓事業と宅地化で姿を消し現在は前方後円墳8基&円墳1基が現存しています。古墳群を見て廻ると約2時間は必要です。12月とは思えない快晴の暖かい日で、駐車場には小学校の課外事業のバスが来ていました。
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「丸墓山古墳」への途中に「石田堤の案内」があります。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成が忍城を攻めるに全長28㎞に及ぶ堤を短期間で築き城を水攻め時の堤の一部で、備中高松城、紀伊太田城とともに「日本三大水攻め」となっています。小説や映画(2012)の「のぼう城」として知られています。実際は凝らしてみると何となく「堤」に見えるようなしろものです(苦笑)。
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忍城水攻めに際に石田三成が陣を構えたとされる「丸墓山古墳」に登ります。直径105m、高さ18.9mとかなり大きな円墳です。登ってみると18.9mは意外とこたえます。古墳群は5世紀から7世紀に造られたとされ、明治26年に将軍山古墳が発掘され、昭和10年と13年に大規模な調査が行われ昭和13年に国の史跡に指定されています。
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「丸墓山古墳」頂上から忍城方向を一望できます。写真に城は写っていますが小さ過ぎます(笑)。石田三成はここに陣を構え、眼下の田圃を一面の沼地にしてしまいました。恐らく映画での湖という感じではなかったでしょうが、忍城と外部との連絡の遮断しての兵糧攻めです。そういえば映画「のぼうの城」は東北震災の影響で公開が一年延びました。津波と水攻めの取り合わせが良くなかったのでしょう。
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「丸墓山古墳」からの「稲荷山古墳です」。以前に稲荷社があったので「稲荷山古墳」だそうです。全長120m、高さ12mの前方後円墳です。昭和12年の前方部分が壊され、平成9年からの復元で復活しています。ここから昭和43年の発掘調査でとんでもないものが発掘されました。それが表面に57・裏面に58の文字が刻まれた国宝の『金錯銘鉄剣』です。課外事業の子供達が登っていく列がみえるのですが…。

埼玉(さきたま)古墳群…(1)

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埼玉県行田市には、国の特別史跡 「埼玉古墳群は古代東アジア古墳文化の終着点」として世界遺産登録へ推進中の『埼玉(さきたま)古墳群』があります。行田市はテレビドラマの「陸王」や10年ほど前の映画「のぼうの城」で花火的に登場していますが、平成29年には【地域の歴史的魅力や特色を通じ 日本の文化および伝統を語る「ストーリー」を認定する】文化庁の「日本遺産」に登録されている街です。
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「埼玉古墳群」・「忍城」・「足袋蔵まち」・「古代蓮の里」など見どころは多いのですが、各々が離れており移動する路線バス便が超々悪く・自家用車(レンタカー)でなければ一日で廻るのは不可能です。市内には秩父鉄道の行田市駅とJR行田駅があり、ここ「さきたま古墳公園」へのJR行田駅からのバス便は5便(実質3便)しかありません。「観光拠点循環コース」の路線名にはかなりの無理があります。
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Pt↑の「埼玉県立さきたま史跡の博物館」は、昭和44年(1969)に開館した9基の大型古墳群の公園内にある博物館です。以前に行った時は台風で大荒れの日でロクに記憶さえありません。展示は建物の右半分だけですが、本館と将軍山古墳の展示室に別れます。そう広くはない展示品ですが内容はかなり濃いです。
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中央の中空にあるのが展示品の目玉、国宝の稲荷山古墳出土鉄剣の「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」です。1968年於発掘調査で出土したもので、73㎝ほどの剣にはX線調査により両面に115文字の漢字があるのが判明して、当時は一大事件となったようです。館内の写真は条件付き可ですが、剣は窒素ガスを充填したケースに入っており、ピントはケースにきてしまします。
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博物館への途中に「埼玉県名称発祥之碑」が建っています。古墳群の一角の「前玉神社」が発祥の地としての謂れがあるようですが、現実は、県庁所在地は浦和に持っていかれ「さいたま市」ができた事で行田が埼玉発祥と云われても今さら感があります。それより「目指せ世界遺産」ですが、どうにも日本独自のローカル色が強くかなりハードルが高いでしょう。
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行田の街はJR行田駅付近より秩父鉄道・行田市駅付近の方が過去には栄えていたようです。JR行田駅前にはラーメンと居酒屋がかく一件と冗談抜きで何もありません。JR行田駅→古墳公園の観光拠点循環バスは、右廻りが06:40,09:05 ,11:30,14:35,17:05.左廻りが07:55,10:20,13:25:15:55,18:15しかありません。

秩父今宮神社は…。

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秩父地方には”ややこしい由緒”を持つ神社が多く「秩父今宮神社」もかなりややこしい社歴です。伊邪那岐・伊邪那美の二神と須佐之男命、八大龍王神、役尊神+稲荷神、弁財天、天満天神とあるのですが、元々は武甲山から湧く伏流水の「龍神池」に伊邪那岐・伊邪那美の二神を祀ったのが始まりのようです。大宝年間には役行者により宮中八神と観音菩薩の守護神である八大龍王を合祀し「八大宮」となります。
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役行者に続いて弘法大師らにより寺院、神社、観音堂等が造られ一大修験道場となります。天文年間には京都今宮神社より須佐之男命を勧請して「今宮神社」として、寺・神社を総称して「長岳山今宮坊」として繁栄します。。明治元年には神仏分離令により修験道が廃止され今宮坊も解体。その後昭和20年代から50年間は「児童公園」として開放され、平成4年に神社として復活しています。かなり波乱万丈です。
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「龍神木」と呼ばれる周囲8.7m・推定樹齢千年以上の欅の大木は県指定の天然記念物「駒つなぎのけやき」として知られ、この地の龍神の住まいとされています。仕方ないことですが樹木としての勢いは失われています。案内によると毎年5月から10月にはアオバズク(フクロウ)が飛来して営巣するとありますが、今はどうなんでしょうか?
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季節柄「枯れた雰囲気」は仕方ありません。Pt↑)は環境省による「平成の名水百選」選定された秩父最古の泉「武甲山の伏流水」により構成された「龍神池」です。原始信仰では「湧水」が崇められるのはごく自然なことです。
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「八大龍王」とは仏教の開祖・釈迦の使いで、名前だけ列挙すると…1)難陀(なんだ)2)跋難陀(ばつなんだ)3)娑伽羅(さがら)4)和修吉(うわすきつ)5)徳叉迦(とくさつ)6)阿那婆達多(あなばたった)7)摩那斯(まなし)8)優鉢羅(うはら)の龍王です。

武蔵国四之宮・秩父神社…(2)

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中町の『秩父今宮神社』への道すがら「秩父神社」を通り抜けていきました。秩父夜祭も今年は規模縮小との事。やはり寂しいもんです。8月に来たときは社殿の彫刻にうち、左甚五郎の作とされる「つなぎのい龍」は修復中でした。今回はPt↑)の様に鮮やかに蘇っています。
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秩父神社のご祀神は八意思兼命・知知夫彦命 ・天之御中主神・秩父宮雍仁親王の4柱とされています。明治以前は北極星を敬う外来の妙見菩薩信仰の「秩父大宮妙見宮」として知られていました。明治以降に祀神の「入れ替り」が在ったのでしょう、八意思兼命など役割も実績も存在すら判然としない神に変ってしまいます。須佐之男神、豊受大御神、天照大御神などの神々が境内社扱いもしくは長屋(マンション)に押し込められている体は面白いのですが…。
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元々、秩父地方には妙見菩薩や大口真神(山犬・狼)を信仰する人々が暮らしていたのでしょう。後に大和系の民に駆逐され元の信仰が姿を変えていったような感があります。日本武尊(という名の侵略者軍)が狼に導かれたとか、伊弉諾、伊弉冉を祀ったとか、山頂上で粥を作ったとかの神社伝承は侵略の正当化の為かもしれません。
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話がそれて行くようです(苦笑)。Pt↑)は秩父神社社殿に施された彫刻のうち「子宝・子育ての虎」です。この虎が彫られた時代では虎の雌が豹だと考えられていたようです。恐らく見た事もない動物を少ない情報で造ったのでしょう。他の彫刻は「つなぎの龍」、「北辰の梟」と修復中だった「お元気三猿」等々。
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長瀞駅から地球の窓(?)へ

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荒川の上流、全長約6㎞続く長瀞渓谷は急流と穏やかな流れの景勝地で大正13年(1924)に国の名称&天然記念物に指定されています。明治11年(1878)のドイツ人地質学者による調査団により地質学的価値が認められ「日本地質学発祥の地」と云われてきたようです。長瀞駅から商店街を抜けて河原への階段辺りにPt↑)の碑がありました。後々に建てられた土産屋や食事処に埋もれて「情けない状況」になっていますが…。
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いわゆる長瀞渓谷の岩畳です。この岩畳は「三波川変成帯」という変成岩帯が露出している状態で、対岸は川の浸食により形成された黒色片岩の鉄分が酸化した状態で「秩父赤壁」だそうです。地質学は時間の経過が壮大すぎて手におえません。この辺りが「瀞」で川下りの終点です。最上川船下り(山形)、猊鼻渓舟下り(岩手)、天竜下り(長野)、日本ライン(愛知)、柳川川下り(福岡)、潮来川下り(茨城)等々経験しましたが長瀞・天竜・日本が三大ですかねぇ。
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今でも記憶にあるのが中学校の遠足で初めて見た岩畳の”ポケットホール”と呼ばれる「穴」です。この岩が川底にあった時に窪みに落ちた石が川の流れでクルクル廻りながら岩肌を削り取ってできています。岩が川底だった事、穴を形成するための時間…。この説明については今でも鮮明に覚えています。岩畳にはそれらしき穴が沢山ありました。
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撮影を終えて駅方面に戻っていく、タレント、マネージャー、カメラ&カメアシご一行です。失礼ながら、どこの誰だか全く判りません。まぁ少なくともグラビア系ではないでしょう(笑)。駅からのこの歩道には飲食関係や物産店が並んでいます。射的場なんてのもあり、いかにも「観光地」です(笑)。
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長瀞駅は「宝登山神社」の下車駅でもあります。鳥居から坂道を登って行くことになります。宝登山に架けられた「宝登山ロープウェイ」乗場までは、土日祭日には長瀞駅から無料の送迎バスがあるようです。
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TVで見かける秩父のコマーシャルは「西武鉄道」の製作です。秩父出身の林家泰平師匠がチラチラ登場し、土屋太鳳&が踊っているヤツですが、「秩父鉄道」の相乗りはラッキーなのでしょう。

これがあの秩父鉄道

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8月の上信電鉄に次いで「秩父鉄道」に乗って来ました。秩父鉄道は明治32年(1899)に上武鉄道として創立され大正5.年(1916)に秩父鉄道と改称した埼玉県の羽生駅~三峰口駅間の71.7㎞(他に7.6㎞の貨物線あり)の路線です。熊谷駅でJRと交差しています。熊谷~行田市駅は以前に乗車しましたが、熊谷~秩父方面は初めてです。ローカル鉄道を舐めてはいけません。秩父方面ダイヤはAM9時代1本、10時代2本、11時、12時代が各1本です。で、約50分待ちました。
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JR(含新幹線)と秩父鉄道駅舎は繋がっています。電車はどこぞの中古車両なのでしょうが、ど派手なペインティングは秩父方面の名所・旧跡・伝承で、外装だけではなく社内にも書かれています。スイカ&パスモは不可で現金払いです。ローカル私鉄の事ですからIC改札の多大な設備投資が出来ないのでしょう。面白いモンで領収書は即座に発行してくれます。
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長瀞駅までは駅数にして16駅、1時間ほど運賃は¥780です。この時点で気が付かなかったのですが、次の長瀞駅~秩父駅間が7駅で¥480(!)。帰路のお花畑駅から熊谷駅間が23駅で¥880です。領収書があるので金額は間違っていません。冷静に見ると他社に比べて高額な運賃の感があります。利用者が減って高額運賃なのはローカル私鉄の宿命なのでしょう。
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電車での長瀞は初めてです。そういえば秩父鉄道熊谷駅改札に「長瀞川下りは渇水状況です」の案内がありました。川下りは更に上流で乗船して長瀞岩畳が下船場所です。船下り会社は数社が営業し紅葉シーズンの週末は駐車場の客引きなどで賑やかなところなのですが、紅葉もピークを過ぎた平日は穏やかなモンです。
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長瀞駅から¥480支払って「秩父鉄道」の秩父駅です。一見大層な駅に見えますが土産屋と食堂が入居しているので駅舎としては大したことはありません。秩父神社へは徒歩5分程度の距離ですが、西武秩父駅とは場所が異なります。いつのまにやら超有名になった感のある「秩父夜祭」は今年は縮小して執り行うそうです。12月の秩父の夜は底冷えが厳しくひどい目にあった記憶しかありません。
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秩父鉄道・お花畑駅が西武秩父駅の最寄りとなります。西武鉄道が秩父まで延長開業されたのは昭和44年(1969)の事でそう古い話ではありません。秩父鉄道線との連絡線の開業がなんと平成1年(1989)の事です。その間は両駅間数百mを歩いて乗り換えでした。お花畑駅舎は国登録有形文化財だそうで、そんな感はありますが駅周辺は「花畑」のイメージは皆無。という事で付近の観光地から「芝桜駅」を副名称としています。名物の「わらじカツ丼」が食べたかったのですが、かろうじて「立食いソバ」が一軒とは(苦笑)
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暑くない熊谷駅前

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いつの頃からか高温・猛暑の街として知られる埼玉県熊谷市ですが、そりゃあ11月末ともなれば暑いわけはありません。熊谷から秩父鉄道に乗ってみようと出かけたのですが、この鉄道1時間に1本で時間を余したので駅近をぶらぶらしてみました。駅前にデンと在るのは「熊谷次郎直実」の銅像で、源平合戦の一の谷合戦で平家の若武者・平敦盛を殺したことを悔いて坊主になったという武将にあるまじき人物の騎馬像です。
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駅から少し歩くと「星川シンボルロード」なる用水路を埋め立て造成した遊歩道があります。この遊歩道には銅像が6作品あるそうです。Pt↑)は尾道出身の円鍔勝三(えんつばかつぞう)なる巨匠の作品『花園の歌』です。ギターとタンバリンと観客。これでは演者は即刻逮捕です。
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熊谷の有名人が思い浮かびません(苦笑)。熊谷直実は古すぎ。日本最初の女医さん・荻野吟子。”麦”の増産研究の権田愛三は微妙です。Mr壱万円と赤いお笑い芸人は隣町ですが…。いつだったか、この街でラグビー・ワールドカップが行われました。いまでも名残を引きずっているようです。このスタジアムは駅からやたら遠く先細りは見えています。
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忘れるところだったのは、熊谷銘菓の「五家宝/ごかぼ」です。たしか粉に近いもち米を筒状に丸めてきな粉をまぶしたお菓子だってのですが、いつ食べたのかは全く記憶にはありません。殆どの埼玉県民が同じだと思います。五家宝、おたべ、ちんすこう、はっきり言って旨くはありません(笑)。
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これ平日のAM10:00頃です。日曜か祭日かと思うほど人がいません。さすが熊谷は”ほぼ群馬”です。
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