旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

中央区

築地・時の流れに

190411_04
(31.4.11)撤去作業の進行する築地市場です。PT↑)は朝10時頃の築地場外(ただの商店街)の模様です。さすがに賑わった時代に比べると客足は落ちているようですが、混雑する時間帯が変化が見られ9時頃の観光客は確かに減っていますが、外国人観光客はそうは減っていないので、雰囲気的には「外国人だらけ」のようです。所詮は築地や浅草に溢れる外国人旅行者は貧乏人ばかりで売上げの伸びは多くは期待できません。11時に近づくと日本人観光客が増えてきます。『築地で旨い鮨を安く』を期待しているのでしょうが『馬鹿をいうな!旨いモノは高い!』これが世間の常識です。
190411_01
東京オリンピック後は市場の跡地に食のテーマパークを造る、国際会議場を造る、等々すったもんだの築地場内市場跡は撤去作業が進行中です。豊洲の建設費の6000億(推定)のうち2000億を築地土地売却益で補填するとういう構想は話題にもならなくなりました(笑)。この場所に「カジノ」を造れば胴元の東京都は大繁盛。負債など数年で解決なのですが。
190411_05190411_02190411_03

日本橋蛎殻町・水天宮

190212_03
多くの日本人にとっての神社との関り合は、産れる前は安産や子授かりを祈願して「水天宮」へ、長じて色気づく頃になると良縁を求めて「出雲大社」や立身出世や商売繁盛を祈願して「稲荷さま」というところでしょうか。ここ日本橋牡蠣殻町の「水天宮」には安産や子授かりを祈願する多くの人達が訪れています。東京(江戸)の「水天宮」は九州・有馬家が久留米から当時の久留米藩上屋敷(港区・三田)に勧請したのが始まりで、明治年間に有馬藩中屋敷跡の日本橋蠣殻町に移転となっています。三田の藩邸内み鎮座では庶民の参拝ができず、藩は幕府から特別に許可を得て一般開放していました。これが「押すな押すなの」大盛況で久留米藩の大きな現金収入となったそうです。
190212_02
祀神は実はよく正体が判らない『天御中主神/あめのみなかぬしのかみ』と『安徳天皇・建礼門院徳子・二位の尼』で本店(!)の福岡県久留米市の『水天宮』と同じです。久留米市の「本店」は全国に数多ある水天宮の総本宮で、創建は寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使ノ局が久留米へ逃れ安徳天皇と平家一門の霊を祀ったことによります。どこにも安産祈願とか子授け祈願は見あたらないのですが、いつも間にやらそちら関連で賑わうようになりました。それにしても久留米の本店の方が同東京支店と比べると地味な印象を受けます。
190212_01190212_05190212_04

日本橋・大原稲荷神社

180529_01
中央区日本橋兜町、位置的には中央警察署の前あたりの「大原稲荷神社」です。大原会館と称するビルの敷地にあり両者の関連性が伺えます。創建年代は不明とありますが、社殿の裏手の高速道路は以前は楓川(もみじがわ)運河ということで運河を利用した近隣会社の信仰を集めたと想像されます。社殿裏には一部が焼け焦げた銀杏の巨木や、富士塚とも思われる石積には風化したきつね像が置かれていて、こちらが元宮だったのでしょう。面白いことには神社の社格は「天一位大原稲荷神社」とあり一般的な稲荷社の正一位より上位なのでしょうか?
180529_02180529_03180529_04

兜町・兜神社

180528_01
日本橋兜町の東京証券取引所の裏手に商業の守護神としての倉稲魂命と恵比寿・大黒を合祀する「兜神社」があります。創建は後三年役や前九年役での神社創建が大好きの「八幡太郎義家」の欧州征伐に関係するとか、承平の乱での藤原秀郷と平将門に関連するとかあるようですが怪しい伝承のようです。明治4年には三井物産の前身の東京商社が兜町の鎮守として兜神社を創建、明治7年には源義家を廃して、向島から三井の鎮守三囲稲荷を分霊、さらに恵比寿・大黒を合祀しています。明治11年には東京証券取引所の前身の東京株式取引所が氏子総代になり企業絡みの神社となっています。そんなこともあり神社の神域、紋章、社殿のどれをとっても一般の稲荷社とは違っています。Ptの感じとは違いさほど広いわけではなく大名屋敷稲荷程度の広さしかありません(苦笑)。
180528_02180528_03180528_04

中央区・日本橋郵便局

180527_01
昭和通りの江戸橋際にある「日本橋郵便局」です。ごく普通の大型郵便局に見えますが、ここが明治4年(1871)に前島密による日本初の「東京郵便役所」の設けられた場所です。この場所は江戸幕府の魚河岸の魚貯蔵庫の跡地だったらしくさぞかし夏は堪らなかったことでしょう(笑)。前島密=誰?。一円切手のオッサン=???。程度の人物ですがなかなかの経歴で江戸遷都論の提唱や電話の普及「切手」や「葉書」等の言葉を創っています。郵便制度初期に東京・大阪・京都に設置された郵便ポストでは、「便」の字が便所の「便」と同じであることから間違えて投げ込む輩がいたとは笑える話です。
江戸橋側の入口には「郵便発祥の地」の碑文が、昭和通り沿いの入口には「前島密」の胸像があり、通常の赤ポストの他に「1971年郵便操業100年記念ポスト」が設置されています。東京大学前の郵便局にもありましたが同じものでしょうか?
180527_02180527_03180527_04

末広神社の神主さん

180419_01
社務所から参拝客に目を凝らしているのはの神主さんなのでしょうか(?)なかなか凛々しいお姿です(笑)。日本橋人形町の末広神社神社付近は江戸時代の初期(元和3年~明暦4年)にかけて吉原(葦原)遊郭あった場所です。明暦の大火により葦原遊郭は消失し、現在の日本堤へと移転していき、この地が「元吉原」移転先が「吉原」と呼ばれることとなりますが、移転後の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の氏神様がこの「末広神社」です。神社前が葦原遊郭の大門にあたるのですが、往時を思わせるものは何に一つありません。ただ東京空襲の被害を受けていない町なのでそちらの雰囲気の方が残っているようです。
180419_02180419_03180419_04

築地・海軍・記念碑

CIMG4166
工事中だった国立がん研究センターの建物工事が終了、立入禁止だったPt↑)『海軍兵学寮・海軍医学校跡』の記念碑が見られるようになっていました。チョット判りにくい場所ですが、がんセンターの北側の首都高速側です。明治7年(1874)3月に『競斗遊戯会』と称して海軍兵学寮でこの年1回きりでおこなわれたのが日本で初の”運動会”なんだそうです。「雀雛出巣」やら「燕子学飛」なんて競技はどんな感じだったのでしょう(苦笑)。
180120_01
明治2年に海軍士官の養成所として「海軍操練所」が開設され、明治4年に「海軍兵学寮」が創られています。明治9年(1876)には海軍兵学校と改称、明治20年(1887)に江田島に移転するまでこの地にありました。隣に並んでいるの「海軍軍医学校跡」の碑は、明治6年(1873)に「海軍病院付属学舎」として創立、明治22年(1889)に「海軍医学校」と改称し、明治41年に築地へ移転してきた施設で、その跡地が国立がん研究センターなっています。

失猫祈祷‥三光稲荷神社

171220_01
中央区日本橋堀留町2丁目、大通りから少し奥まった場所に「三光稲荷神社」があります。元禄年間に中村座に出演中の大阪の歌舞伎役者が伏見稲荷より勧請したとされています。今は路地裏のひっそりとした稲荷神社という感じになっていますが、路地入口には「三光稲荷神社参道」との立派な碑がたっています。ご祀神は三光稲荷大神と田所稲荷大明神の稲荷神、田所大明神が合祀されています。江戸落語には「三光新道」や「三光神社」が登場している稲荷社です。面白いのは、本殿脇に猫の置物が数十体置かれています。これは・・【古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多くことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う】・・とあります。神社参道の石碑や猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に奉納されたようです。飼い猫行方不明→捜索するも万策尽きる→三光稲荷神社で祈祷→猫無事帰還と云う事になります。今でも祈願を依頼する方もいるようでご祈祷には『愛猫名、年齢、不明となった日時経緯』が必要となります。境内に神使のきつね氏がいないのは迷い猫の捜索活動中で留守なのでしょうか?。”探偵は三光稲荷にいる”です(笑)。
171220_03171220_02171220_05

花魁・高尾稲荷神社

171210_01
中央区日本橋箱崎町10-7の『高尾稲荷神社』です。番地を入れておかないと見逃すほどこじんまりとした稲荷社です。この稲荷社には江戸万治年間に吉原三浦屋の遊女として有名な「二代目高尾太夫」が祀られ、ご神体は高尾太夫の頭蓋骨という神社です。遊女の最高位『傾城』であった齢19歳の高尾太夫は仙台藩伊達綱宗公により身請けされるのですが、意中の男に操をたてて伊達綱宗公を振ってしまいます。怒った綱宗公は太夫を「吊斬り」にして隅田川に遺棄、事件に同情した人達により高尾稲荷社として祀ったという謂れがあります。
「花魁」や「太夫」と仲良くするには初回の顔合せ・裏を返して・馴染みと段階が必要で、通い詰める根性と財力が必要となります。伊達の殿様はどれだけの日々とお金(恐らくは現在の億単位)をつぎ込んだことでしょう。挙句に振られたのでは激怒するのは当たり前です。三浦屋(所属事務所)はタレント(高尾太夫)を説得できなかったのでしょうか?もしかすると両者はグルで伊達の殿様を騙したとも考えられます。
171210_02171210_03171210_04

京橋・警察博物館・・Ⅱ

170921_01
見落としていましたが平成28年4月から休館していた中央区京橋3丁目の『警察博物館』が平成29年4月末にリニューアル・オープンしていました。どうやら外装と耐震構造の工事だったようですが確かに館内は小奇麗になっています。正直に云わせていただくと【警視庁の歴史と活動に関する資料を展示】としてあるいう割には・・・。警察の仕事内容は悪用を恐れて秘匿する部分が多いのは理解できますが、『警察博物館』を名乗る割のには浅い感じがで、大人にはお勧めできません(苦笑)。2016年の記事項と比べると・玄関の”ピーポ君”撤去。・玄関の白バイがパトカーに昇格。1Fの儀仗用の側車(サイドカー)は2台とも撤去となっています。側車なんざぁそうは見られる車両ではないので残念ですね。
170921_03170921_04170921_05

澁澤榮一像やら・・

170403_01
こちらは千代田区大手町2丁目の常盤橋公園に立つのは『澁澤榮一』の像です。天保11年(1840)に現埼玉県深谷市に生まれ昭和6年(1931)91歳で没するまで、徳川幕臣・明治政府官僚・実業家など東京証券取引所を始め多種多様な企業の設立にあたった御仁で、銅像は氏の功績を顯彰目的で昭和8年に澁澤青淵翁記念會が建設したものです。ご本人は150㎝位なので台座の部分を含めると大きすぎの感があります。
170403_02
澁澤翁像の後方、千代田区と中央区に架かる橋が「常盤橋」です。常盤橋は2橋あり明治年間に架けられたアーチ橋が「常橋」。東北震災の影響での修復工事がされている江戸城遺構の橋を「常橋」と呼ぶようです。「磐」と「盤」・・文章で説明するのは少々面倒です。江戸時代初期には日本橋近辺よりこの付近のほうが賑わっていたようで、隣の「一石橋」には”満よひ子の志るべ”が造られるほどです。
170403_03
そういえば「日本銀行本店」を上空から見ると建物が日銀だけに「円」に見えるという都市伝説がありますが、貨幣に「円」が使われたのは昭和の20年代のことで建物完成時は「圓」の字が使われているので、この話は完全にガセです!

日本橋・貨幣博物館

170402_02
日本橋本石町の日本銀行本店建物から三越本店の方へ向かう道が「江戸桜通り」です。この日は桜満開には少し早く”それなら”と言ってはナンですが『貨幣博物館』に立ち寄ってみました。この施設は日本銀行創立100周年を記念して昭和60年(1985)に造られています。さいたま市へ移転した「造幣局」は独立行政法人、王子の「お札と切手の博物館」は独立行政法人国立印刷局と別々の組織が運営しています。貨幣博物には古代からの日本の貨幣の歴史、日本や外国の流通紙幣などが展示されており展示内容は充実しているのですが、硬貨や郵券まで含めての総合的な博物館は無理なのは判りますが、なにか消化不良気味な感があります。向かい側の東京駅舎と同じ「辰野金吾」の設計による国の重要文化財の『日本銀行本店』は現在建物の免震化工事をおこなっており、残念ながら工事フェンスで囲まれています。
170402_04170402_03170402_05

築地KYビルが(笑)…続

161002_01
1970年代に一世を風靡した建築家に「黒川紀章」がいます。氏の代表作の一つ「中銀カプセルタワービル」(東京・銀座・1972年)は今でも斬新な建物と評価される反面、「なんじゃぁこれ!」の代表ともされ、天才的な建築家の作品であっても40年以上の歳月の経過はとかく残念なものとなりがちのようです。恐らくこの建物も同じ道をたどることでしょう(笑)。工事シートが外され登場したのは”和のテイストに溢れる”浅草観光センターを低予算化したシロモノでした。最初に連想したのは昔の学校の●所もしくは風呂場のスノコです。角度によっては予算をたっぷり作品の”歌舞伎座”が視界に入るのも益々残念さを強調します。ホームセンターで購入した板切れを貼りつければ”和のテイスト溢れる”なんでしょうかね(爆笑)。ここでも「オシャレ風だが安っぽい伝説」は生きていました。東京オリンピック大丈夫なんですかね(笑)。
161002_03161002_04161002_02

築地KYビルが(笑)

160725_01
気にもしなかったのですが、晴海通りと新大橋通りの交差点の『築地KYビル』が外装のリニューアル工事中です。2016年10月の新装オープンと告知されていますが、2Fがカフェ・レストラン『築地ボン・マルシェ』、この2Fのレストラン部分はマクドナルド閉店、ファミレス・サイゼリアも閉店と閑古鳥続きだった場所なので苦戦必至でしょう。場内市場豊洲移転を見据えの作戦でしょうが…「MARCHE=市場」や「散歩する」や「働く」といった意味のフランス語は”築地市場”のイメージとかけ離れています。なんたら不動産あたりのアイディアなのでしょうが、バカです。リニューアルは”隈研吾建築都市設計事務所”&照明デザイン”I.C.O.N 石井リーサ明理”が担当。イマイチの新歌舞伎座チームですねっ。こうなると浅草観光センターのように”ジェンガ”のような外見で、オシャレだがよくみれば安っぽい建物なのは容易に想像ができます(笑)。
160725_02160725_03160725_04

本願寺さんの自販機

160616_01
築地本願寺さんの北門を出て明石町方面へ、仏具店の先に某飲料メーカーの”ドギツイ赤”の奴と異なる5台+の自販機が並んでいます。Pt↓)の北門の色と同じなのですが、もしかしたらこれが本願寺カラーなのですかねぇ…?川越の街などは落ち着いた色合いの自販機があるにはありますが、壁面に書かれた絵柄、特に空缶入れの辺りの特徴的なタワーを中心として、5台+の自販機を使って築地本願寺さんの絵が描かれています。日常的に通る道ではないので気が付かなかったのですが”なかなかやるわい”の気分になります。
160616_02160616_03160616_04

八重洲地下街の獄門首

160606_01
東京駅八重洲地下街にある見ようによっては何とも異様な像です。モデルはヤン・ヨーステンという名のオランダ人で、いつの間にやらこんな場所に移転していました。Pt↓)のように”記念碑”というより”お墓”のような感じです。ヤン・ヨーステンは江戸時代初期に九州豊後沖で船が難破して日本に定住、後に徳川家康により和田倉門付近に屋敷を与えられています。和田倉の屋敷付近がヨーステンの名から八代洲(ヤヨース)河岸⇒「八重洲」の語源となっています。 この像はヤン・ヨーステンを記念してオランダ人の作者による作品ですが、獄門首、さらし首にしか見えません。
160606_02
で、こちらが1600年4月豊後(現大分県)沖で難破した時に乗っていた「デ・リーフデ号」です。 この彫刻は1980年オランダ首相来日の際に日本政府に寄贈されたものです。場所は東京駅を挟んで反対側の丸ビルの南西側にあります。こちらの方が ヤン・ヨーステンの屋敷に近いことになります。なお「難破船デ・リーフデ号」には航海長として英国人ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)も乗っていました。
160606_04160606_03160606_05

銀座8丁目の踏切信号機

160603_02
”銀座の残された唯一の鉄道踏切信号機”として有名(?)なのが、銀座郵便局」の横に残された「浜離宮前踏切」です。旧国鉄時代に築地市場の「東京市場駅」への貨物引き込み線なごりで道路隅に信号機」だけが残されています。
案内板(1)には…【浜離宮前踏切 中央区銀座八丁目21番1号先・ この信号機は、昭和6年(1931)から昭和62年(1987)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京と中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。 最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去される事になりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。昭和62年(1987)12月】とあり、
案内板(2)には…【保存理由・ 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。都民の暮しの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。昭和62年(1987)12月 銀座御門通り会 銀座金春通り会】とあります。
160603_01160603_03160603_04

築地川銀座公園の犬

160520_01
晴海通り、歌舞伎座側の『築地川銀座公園』の“名犬チロリ記念碑”です。解説によると…日本初の認定セラピードッグの記念碑で、ゴミ捨て場に産んだばかりの仔犬5頭と一緒に捨てられていた犬親子が紆余曲折のすえ日本でのセラピードッグ(心や体に病を抱えた人たちの手助けをする犬)第一号となった話だそうです。何故ここの設置されたかの説明はありませんが親犬と5匹の仔犬、なかなか微笑ましい銅像です。
更に笑えるのが「健康のこみち」と称する”足つぼマッサージ設備”です。靴を脱いでコースを一周。こんなはずでは…の激痛が走ります(苦笑)。
160520_02160520_03160520_04

築地・日本海軍の街…(Ⅱ)

160421_01
Pt↑)は場内市場の「水神社遥拝所」にある『旗山』と刻まれた石碑です。「遥拝所」は昭和10年に魚河岸が移転してきた際に造られ、ここから神田明神境内の「水神社」本殿を拝むことができ、『旗山』と刻まれた石碑にはこの地に日本海軍があった旨が記載されています。日本海軍以前の江戸後期の寛政年間には松平定信の下屋敷があり『浴恩園』と名付けられた”汐入回遊式庭園”がありました。この「水神社」の場所が築山と思われます。朽ちて判読困難な碑の近くには通常は車両が駐車しており、女子トイレ奥の碑は金網越しで見られませんが、手前の碑には『浴恩園之図』の文字が判読できます。
160421_02160421_03160421_04

築地・日本海軍の街…(Ⅰ)

160419_03
Pt↑)は築地場内市場からの築地癌センターです。今迄にも触れてきましたが、幕末から明治時代は築地は日本海軍の街でもありました。1869年(明治2年)元芸州屋敷内に「海軍操練所」が創立され、翌1870年には「海軍兵学寮」と改称さらに1976年には改称されて「海軍兵学校」が開校となっています。築地癌センターの敷地には「海軍大学校」・「海軍病院」と変遷していきます。…癌センター裏には海軍兵学校と医学校跡の記念碑があるそうなのですが、ご覧のように工事中立入禁止となっていました。1855年(安政2年)長崎に「海軍伝習所」が完成、2年後の1857年(安政4年)に築地の地に「軍艦教授所」が創設され勝海舟が「軍艦操練所」と改称し教授方頭取を務めています。、晴海通りの”かちどき橋の資料館”の晴海通り寄りには「海軍経理学校の碑」があります。
160419_04160419_01160419_02
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ