旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

中央区

築地・新島原遊郭

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江戸末期から明治初年にかけて築地が「外国人居留地」であったのは知られていますが、1868年(明治元年)から約3年間、現新富町に130軒の遊郭と1700人の遊女がいる大規模な遊郭があったのは知られていません。居留地造成時に家田中蔵、木下宗四郎の両名が5万円の冥加金を上納して、本多隠岐守・井伊掃部頭の屋敷跡に『新島原』と称する外国人向け遊郭を開いています。この遊郭は不人気で1871年(明治4年)には廃止になり、翌1872年、跡地には「新富座」が開場されるも関東大震災で倒壊。そのまま廃止となっています。現在は『新島原遊郭』を思わせるモノは何一つありません。現京橋税務署敷地(中央区新富2-6)に「新富座跡」の案内板があり、税務署近くの「新富稲荷社」は新島原遊郭の中万字楼(家田中蔵)前にあり「中万字稲荷」と呼ばれていたようです。この辺りが遊郭の中心だったのでしょう。
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野菜&果物・築地青果市場

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築地市場はどうしても『魚』のイメージが強いのですが、どうして『青果/野菜・果物』も扱われています。Wikiによると…2005年の取扱数量は、全品目合計で約916,866㌧(1日当たり水産物2,167㌧、青果1,170㌧)、金額にして約5657億円(1日当たり水産物1,768百万円、青果320百万円)…これはかなりの数字です。
市場正門から隅田川に向かって右側が青果市場です。見学に行った時間にはすでにセリは終了しセリ場もきれいに片づけられ、仲買いさんの店舗も多くは閉店していました。セリ場の掲示によると、野菜:促成は6:30、その他は7:00。果実は7:00(アールスメロンは8:00)とありました。Ptのように段ボールに入った商品が並べられているのですが、見慣れた魚の仲買いエリアとは印象がかなり異なります。
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京橋・警察博物館

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中央区京橋3丁目の『警察博物館』です。この項を掲載しようか否か迷ったのですが…。なんとこの警察博物館はリニューアル工事のため平成28年4月1日から約1年間休館となります。所在地は変わらず館内のリニューアルとの事ですが、あと数日で休業とは笑うしかありません。
1階のフロァ(撮影OK)には珍しいバイクが展示してあります。ホンダのゴールド・ウィングの側車仕上(サイドカー)の白バイ、逆輸入車です。皇宮警察も側車仕上(市販車と姿が異なるゴールド・ウィング改)を保有していますが皇宮の車両は”真っ黒の黒バイ”です。Pt↓)の黒バイは”ハーレー・ダビッソン”の儀仗用の側車仕上です。警察車両マニア(いるのかしら…?)にはたまらない車両です。
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賑わいの築地市場

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11月の築地市場の移転、カウントダウン開始という事でメディアの露出が多くなりました。行列など見たことのないパン屋も大行列は「タレントがTVで紹介」だそうです(笑)。再々ですが一般の店が並ぶ場外市場は移転しません。形態は変わっても「築地ブランド」は残ります。移転対象はPtの東京都の施設だけが2.3㌔先の「豊洲」に移転します。隅田川に架かる橋は完成していて市場施設を退かさないと道路が開通できません。道路が完成するまでは「豊洲市場」は大変不便な所となってしまいます。バス、地下鉄、自転車、徒歩で市場通いの小売り業者さん達には難行となるでしょうねっ。聞くところによると仲買いさんの家賃が面積が狭くなって現行の倍になるようです。経費は上がる、新天地での商売は不安…。難問が多いようです。
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北町奉行所跡(の碑)移転

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2013・7/1の項に東京都旧跡(1918年指定)の割には東京駅構内の「北町奉行所跡の碑」が【まるで"奉行所跡をさがせゲーム”のように不当とも思える扱いを受けている】とありますが、丸の内トラステシティ界隈の整備が完了したという事でしょうか、外堀通り・グラントウキョウノースタワー前と判り易い場所に移転しました。東京駅・八重洲構内ではなくなったのですが…。”この桜吹雪が~”で有名な『遠山左衛門尉景元』こと”遠山の金さん”が3年間(実際は3年で罷免、後に南町奉行として返り咲き)奉行として在任した北町奉行所=”金さんファンの聖地”が訪れやすくなったのは喜ばしい限りです。
以前は通用口の膝まずかなければ読めない場所にありました。ここのあった碑がそのまま移転しています。
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築地市場・全景(Ⅱ)

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カレッタ汐留の46階からの築地市場の全景です。地上約200mの展望スペースからの眺めなので遠望がききます。ここからは築地市場を始め、隅田川、勝鬨橋、対岸の月島方面、聖路加タワーが遠望でき、眼下には朝日新聞社、築地癌センター等が見えます。築地市場には、かって東京駅からの国鉄引込み線があり、効率よく線路を並べる為に弧を描いているようです。それにしても上方から見る築地市場。実はこんなに狭かったとは驚きです。
諸般の事情によりPt↓の撮影場所は書けませんが、Pt↑にはその場所が映り込んでいます(笑)。
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築地市場・全景

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事情があって撮影場所は明かせませんが、眼下に見えるのが築地場内・場外市場の全景(ほぼ)です。隅田川手前が東京都の施設である”築地市場”です。こちらの施設が本年11月に豊洲へ移転予定となっています。見る限りは勝鬨橋下流の新橋は完成しているようですが、1)市場の移転 2)建物の取り壊し 3)豊洲地区への道路の建設の順番となるので、厳密な意味での移転完了はかなり先になるのでしょう。現時点では市場跡地がどうなるのかは発表されていませんが、東京都の事ですから民間に売却→高層マンション群が妥当な所でしょう。
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築地・東京いちばステーション

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築地市場内の「水神社」のとなりに…【築地市場を訪れた「都民」及び「市場関係者」に向けて、築地市場の豊洲移転についてや、都内にある中央卸売市場の紹介等を行う情報発信基地】…という事で、「東京いちばステーション」がオープンしています。ステーションでは移転先の豊洲市場の模型が展示してあります。TV報道等ではイマイチ全体規模が掴み難いのですが…。かなり大がかりなプロジェクトなんですねぇ。興味のある方は…。
◆東京いちばステーションは築地市場開市日(日・祝日・時として水を除く)の09:00~14:00(土曜日は15:00迄)となっています。
館内は写真撮影OKです。青いゆるキャラは”イッチーノ”という市場のゆるキャラです(苦笑)。
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築地市場・魚河岸水神社

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築地市場近辺には「波除稲荷神社」と「魚河岸水神社」の2社が鎮座しています。「波除稲荷社」は築地の氏神様で「水神社」は魚河岸の人達の神様です。水神社の歴史は古く、徳川時代初期に現日本橋三越付近にあった魚市場に創建されたものです。明治34年に神田明神境内に「水神社」本殿が建立され、関東大震災以後に魚河岸の築地移転のさいに現在地に『遥拝所』がとして創られました。この地は江戸寛永年間は松平定信庭園跡で、明治維新後は日本海軍用地となっています。遥拝所境内にある「旗山」の碑は、日本海軍発祥のゆかりを記されており。この地が日本海軍縁の地である旨が記載されています。「水神社」は魚河岸の神とされるので移転対象となるのでしょうが?東京都のやることですから甚だ疑問です。
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2016・初春大歌舞伎

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2016年、年明け早々に『歌舞伎座・初春大歌舞伎』へ行ってまいりました。この初春大歌舞伎は歌舞伎座の他平成中村座など数軒で興業されており、多くの歌舞伎役者が出演しています。という事は…一座あたりのBig Nameが出演者数が少ないという事になります(苦笑)。若手中心の地味めの演目で、夜の部なんかは『廓もの』が2本とは…。なんだかなぁです。この新歌舞伎座の建物は新国立競技場の設計に決定した「隈健吾」の作品です。神楽坂の赤城神社やラカクとか云う文房具屋、浅草の観光会館が隈作品ですが”見てくれは良いがよく見ると安っぽい”のが特徴と云えます。設計者を責めるのは酷ですが、新歌舞伎座の3階のイス席間隔は昭和26年の旧歌舞伎座とたいして変わりません。この60年での日本人の体格の変化を考慮したとはとても思えません。平均身長の日本人男が狭いと激怒するのですから、外国人には拷問でしょう(笑)。
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築地市場”負の記憶”

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今回も、最近多くの媒体で露出され賑わっている築地市場です。買物や食事で訪れる方々には興味ないとは思いますが、築地市場正門・都営大江戸線・築地市場駅を地上に出た所の壁に2つの”史跡碑”があります。1つは東京都指定旧跡『浴恩園跡/よくおんえんあと』とあり、この場所が江戸寛政年間の松平定信の屋敷であったとあります。もう一つが”原爆まぐろの碑”として知られる『第五福竜丸の碑』です。1954 年(昭和29年)にアメリカの水爆実験により被爆した第五福竜丸が持ち帰ったマグロやサメが築地市場へ入荷、市場は大混乱となり、当時の行政は被曝水産物を場内の地中に埋めるよう指示したという事件があました。後年には、築地市場駅を建設の際にこの原爆まぐろが発掘されるのでないかと騒ぎにもなった事もあります。移転先の豊洲でも土壌問題が注目されていましたが、築地にもこんな”負の記憶”があったのです。
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昨日の築地場外市場

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昨日(12/19)AM10:30の「築地場外市場」の模様です。このPtを見て混雑していると思いますか?この状態で混雑度70%程度です(笑)。この道路は一般道で車両規制や歩行天になる事はありません。Max混雑時には溢れた人でこの道路が見えなくなります。キャリーバッグや乳母車を引いた馬鹿たれ達が歩いていす。つまり混雑度70%という事です。来年は豊洲移転という事で最近は昔からの乾物店などが次々と廃業して姿を消し、「お手軽寿司屋」や「屋台並みの丼屋」が増殖しています。意外に思われるかもしれませんが築地場外市場に「さかな屋」は数件しかありません。さかな屋なら”アメ横”ですよ。年末の風物詩という事でこのところTV露出が増え放映された店が行列となるのは毎度ながら微笑ましい感がします。私感ですが…皆さんはTV情報に踊らされているようですね。それでも甘いだけが特徴の身内に有名人がいる卵焼屋や回転寿司レベルの寿司チェーンは相も変わらずの情景です。

エッ波除稲荷神社…。

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築地近辺は江戸時代(萬治年間)に埋めたてられ造成された土地で埋立工事は困難の連続だったようです。ある時、波間に漂う「稲荷大伸の御神体」を見つけ社殿を造りお祀りしたところ、以後工事が順調に推移したという伝承から『築地・波除稲荷神社』があります。”波間に漂うご神体”→浅草寺と酷似しています。
…とまぁこのような神社の来歴で、”厄除けの神様”として崇められています。ご祀神は稲荷社ですから「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)で五穀豊穣の神様です。それ以前の伊勢神宮では「御倉神(ミクラノカミ)」として祀られています。いずれにしろ『女性の神様』なのですが、それを踏まえて本殿の写真を見ると建物の構造は伊勢系の「神明造」、屋根に「千木」と「鰹木」が見えます。千木は縦切れ、鰹木の数が奇数で、一般的には”男性の神様”の造りになっています。実は伊勢神宮では内宮の社殿の造りは”千木横切=女性神”で外宮の社殿の造りは”千木縦切=男性神”となっています。内宮より外宮のほが格下という事らしいのでですが・・。
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兜町・銀行発祥の地

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東京証券取引所のお隣にあるみずほ銀行兜町支店の壁面にはPTのパネルが掲示されています。この場所は明治 6(1873)年 7月20日に「第一国立銀行<旧第一勧業銀行、現みずほ銀行>」が日本で最初に開業している地だそうです。「第一国立銀行」と称していますが、実際は”国営銀行”ではなく”民間銀行”なのですが、銀行券を発行していたという今では良くわからない立ち位置にあったようです。純然たる最初の私立銀行は、明治 9(1876)年 3月に中央区日本橋室町の旧三井銀行(現・三井住友銀行日本橋支店)が開業したのが最初です。
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東京証券取引所の前に

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”日経平均株価”がどうたらと話題になっておりますが、話題の中心となるのは中央区兜町2丁目の「東京証券取引所」ですが…その建物前に道路を挟んでPt↑)のなんとも色っぽい銅像が建っています。タイトルこそ「三人の乙女の和像」と称するのですが、調べて見てもどなたの作品で何を記念して造られたのか良くわかりません(笑)。兎にも角にも”若々しい裸婦像”であるだけでも一見の価値があるような…。
さて、東京証券取引所(東証)はどなたでも見学可能です。見学者入口は写真↓の真裏の位置にあります。広いフロァの割には殆どの作業がコンピューター化されているので職員が少い感がします。東証といえばの巨大なガラスシリンダーに映る株価には取引の生々しさが映ります。
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重文・日本橋タカシマ屋

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日本橋のタカシマ屋隣では新館を立て直す工事が行われています。高橋貞太郎の設計によるタカシマ屋日本橋店本館は、平成18年には「東京都選定歴史的建造物」に指定、平成21年には百貨店として初めて「国の重要文化財」に指定された建造物です。Pt↑)で見られるように増築に増築を重ねた建物にもかかわらず、何れもが名うての建築家が担当しトータルとしてバランスが取れているというのが指定事由なのですが、重文指定により現建物の建て替えが困難になってしまいました。その代替えとして新館の立直しとなったようです。 手前に工事フェンスがあるものの、今ならではの景色が見られます。この外壁の”継ぎはぎ感”を見て『トータル・バランスが取れている』と大上段に構えられても…ねぇ。中央屋上に”象さん型”の構造物が見えます。昭和30年代には屋上で象(花子)が飼われていたそうで、その名残りなのでしょうか?
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やはり正面側(左)やさくら通り側(中)からの方がしっくりきます。Pt↑)の姿も工事の進捗で見られなくなります。
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日本橋・兜神社

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中央区日本橋兜町の『兜神社』です。創建については平将門や源義家を祀る伝承があったりでややこしいようですが、”1878年(明治11)隣に東京株式取引所がの設立され、以来証券業界からの信仰を集めるようになっている”でよろしいと思います(苦笑)。神社由来には御祀神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とあり、この近辺の地主であった三井家が墨田区向島の三囲稲荷(みめぐりいなり)から大国主命(おおくにぬしのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)と一緒に勧請しています。赤い鳥居やきつねが氏が不在の”隠れ稲荷神社”ですねっ。現在の社殿は高速道路の建設に伴い昭和46年に造られています。日本の経済の中心である「日本橋兜町」ですが、どこかで『神頼み』とはいかにも日本的です。
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中央区・一石橋

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外堀通りの日本橋川に架かる橋は一石橋(いっこくばし)と呼ばれています。江戸時代、北橋詰めには幕府金座御用の「後藤庄三郎」の屋敷が、南橋詰には呉服商の「後藤縫殿助」の屋敷がありました。橋が損壊した折には両後藤の援助により再建されたとのことから、「後藤/五斗」+「後藤/五斗」=一石で、「一石橋」と名付けられたと云われています。 この近辺は江戸から明治にかけてはかなりの繁華街だったそうで、近隣で迷子や尋ね人が生じると、Pt↑)の「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」と彫られた石柱の右側の「志(知)らする方」に保護した側が特徴を記載した紙を掲示し、逆の場合は左側の「たづぬる方」に探す側が掲示するという事になっていました。TVもラジオも新聞もない時代ですから、情報収集の場としては有効だったのでしょう。 万一保護した迷子の親が見つからない場合は、迷子を保護した町内で責任もって養育する決まりになっていたそうです。
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同様の”石柱”は浅草・浅草寺や湯島天神の境内、両国橋などの当時の繁華街にも置かれていました。この石柱は、昭和17年に東京都指定旧跡に指定、昭和58年には東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。 この石柱の脇にある「いちこくはし」橋柱は、旧橋が老巧化により撤去される際に、関東大震災にも耐えた都内最古の親柱としてその価値が認められ、平成14年に中央区が区民有形文化財建造物に指定されています。
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日本橋・福徳神社

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最近、テレビCMでも見かける改装なった『福徳神社』です。三菱系が”三菱地所を見に行こう~♪”と意味不明なCMをしているので、三井系としても”黙って見ていられない”という事なのでしょうかねぇ?創建年代は不明ながら、貞観年間(860年頃))には鎮座していたとされ、源義家・太田道灌など武将の尊崇され、徳川家康・秀忠も参詣に訪れたされるので、それなりの社歴はあるようです。それにしても福徳神社(芽吹神社)とは何か変です。さらにはPT↑)には『芽吹稲荷』の文字も見えます。なんでも2代将軍秀忠が参詣したおり「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛。この時、社の鳥居に春の若芽の萌えていたのを見て、社の別名を「芽吹神社」としたとありますが、そんなモンなんでしょうか??
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神楽坂の”くまの仕業”と比べると正統派です。社額は「福徳神社」となっています。2016年完成予定の神社と一体になった広場空間の中核を予定しているらしいのですが、再開発なった街並みに街稲荷がポンと残るのは面白いものです。鳥居は三井不動産の奉納です。三井には三囲神社という氏神さんがあるので、いっそ三囲さんを勧請した方がよかったのでは…。
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日枝神社日本橋摂社

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中央区日本橋茅場町の『日枝神社日本橋摂社』です。周囲をビルに囲まれていて、この神社を目的で出かけてら探すのに苦労すると思います。反面ビル街にひっそり鎮座する神社に出くわすのも楽しみと言えば楽しみです(笑)。さて、こちらの神社は天正18年(1590)の創建とあり、寛永年間(1630年前後)に「山王日枝神社」祭礼時のお神輿の休憩地”御旅所”と定められ境外摂社となっています。 明治10年にそれまで”御旅所山王宮”という名称から”無格社日枝神社”と改称、大正4年には「山王日枝神社」の官幣大社に昇格に際して『摂社日枝神社』と改称しています。社殿は関東大震災後の昭和3年の造営。境内には明徳稲荷神社があるのですが…。摂社内に摂社という微妙な関係となっています。
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左)ビル間の奥まった場所に神社が鎮座したいます。 中)お神輿の休憩所として神社が造られたとは…。山王祭りの規模はそれほど大きかったのでしょう。 右)明徳稲荷大明神です。場所柄、証券会社の石柱が目に付きます。
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