旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

墨田区

墨田区・江島杉山神社

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JR両国駅から徒歩10分弱、回向院の後方の首都高速小松川線を越えてすぐに『江島杉山神社』があります。江戸時代は「本所一ツ目弁天社」と呼ばれた神社で弁財天である市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)と杉山和一総検校の2柱が祀られています。ご利益には、福徳円満・芸能上達・学業成就・鍼灸按学術上達とあります。鍼灸按学術上達とはあまり例のないご利益ですが、神社創建の歴史を知ると納得がいきます。
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江戸元禄年間、鍼治療の創始者とされる「杉山和一」が5代将軍綱吉公の病気治療にあたり無事に治癒した功により本所一ツ目に土地を賜り、杉山和一はこの地に世界で初となる視覚障害者教育施設の「杉山流鍼治導引稽古所」を開設して鍼灸按学術上を広めていきます。これは18世紀とされるヨーロッパでの盲人教育の始りより「杉山流鍼治導引稽古所」はそれより100年ほど前に鍼治講習所が開設されていたのです。
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将軍綱吉公は江島弁財天を信仰し参詣を続ける杉山に配慮して弁財天の勧請を認め「本所一ツ目弁天社」とも呼ばれる「江島神社」が創建されたのは元禄6年のことです。慶応2年には杉山が修行した江の島の岩窟を模した岩屋が造られ弁財天と神使の白蛇が祀られています。明治政府は江戸幕府からの拝領値の多くは接収しますが、この地は接収を免れ「江島神社」と改称し境内には杉山和一を祀神とする「杉山神社」が創建されます。この2社が昭和27年(1952)に合祀され、現在の「江島杉山神社」に改称されています。
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境内にある「杉山和一記念館」は杉山生誕400年に杉山検校遺徳顕彰会によるもので、江戸期以降の鍼治療の文献や資料等が展示され鍼灸マッサージの「杉山鍼按治療所」も併設されているそうです。ヨーロッパでの盲人教育の始まりより100年も前に鍼治講習所を造られていたことはさすがに知りませんでした。
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大正13年には杉山和一の業績が認められ、正五位が追贈されています。これを記念して作製されたのがPt↑)社殿の鳥居脇の「贈正五位杉山検校頌徳碑」の碑で、碑文は「点字」で造られた世界に1つの点字石碑だそうです。徳川綱吉公から「欲しい物は何か?」と問われ「一ツでよいから目が欲しい」と答えたことから、『本所一つ目』に約12,000㎡の土地が与えられたとの逸話もあるようです。
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牛嶋神社の三輪鳥居

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先日TV番組で「牛嶋神社」が放映されていました。何気に見てると倒壊した牛嶋神社の鳥居が修復されているではないですか…(!) 2018年の9月、関東地方を襲った台風24号の強風で貴重な「三輪鳥居」が倒壊してしまいました。そんな事件もつゆ知らず後日訪れた時に、倒壊の事実を聴いて愕然とした記憶があります。とは云うもののTV放映を見るまで修復を知らなかったのですはイヤイヤです(苦笑)。
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牛嶋神社は創建が貞観2年(860)とあり関東でも屈指の古社です。元は隅田川の中州で牛を飼育していたとの伝承もあり、本所地区の総鎮守として親しまれてきました。関東大震災以前はやや上流の地にあり昭和7年(1932)に現在地に移っています體の不調部分を転嫁できるという「撫牛」が有名で、穏やかな顔つきの牛像は撫でられ続けてテカテカです。
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埼玉県の某神社と違って再建が速かったのが何よりです。見て触って感心したのが銅製でもコンクリート造りでもなく、樹齢170年の吉野ヒノキを使用したありました。以前の記事項でも触れたのですが、知る限りではこのこの形式の鳥居は「牛嶋神社」と神使のオオカミが護る「秩父・三峰神社」と奈良「大神神社」のご神体の三輪山の結界くらいしか知りません。
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言問橋から見る神社の杜とスカイツリーです。近代建築を象徴するスカイツリーの氏神は「牛嶋神社」なのです。いかにもの日本的なお話です(笑)。

江戸博・徳川家康像

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両国の江戸東京博物館に隣接して「徳川家康像」が置かれています。この像は平成6年に江戸消防記念会が建立、東京都に寄贈したものとあります。あれだけ多方面でお世話になったのに東京都内に徳川家康公の銅像ってありましたっけ?台座+亀ではない動物+柱+銅像の高さは5mは確実に超える大作です。台座を支える動物はどう見たって「亀」なのですが、実は中国の伝承にある、龍が生んだ9頭の神獣のひとつで贔屓(ひいき)と云います。この9頭の神獣たちは、贔屓(ひいき)⇒亀に似る。螭吻(ちふん)⇒姿不明。蒲牢(ほうろう)⇒竜に似る。狴犴(へいかん)⇒虎に似る。饕餮(とうてつ)、蚣蝮(はか)、睚眦(がいし)、狻猊(さんげい)、.椒図(しょうず)と文字変換だけでも大変な子供たちで各々が得意分野を有しています。特にこの贔屓は「重いものを負うことを好む」とされます。なるほど家康公の生涯を思うと何となく理解できます。言い回しに「贔屓の引き倒し」という表現がありますが、像の状態から贔屓を引き抜くと全てが崩壊する様からきているそうです。なるほどです(笑)。
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両国の街散策…(2)

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『勝海舟』ってお方はどうにもこうにも困ったお方で、自身の著「氷川清話」には”嘘”とまでいかないにしても都合の良い自己表現に終始しています。それがこのお方の魅力でもありますが(苦笑)。吉良邸跡のほど近く両国公園(本所亀沢町)の一角に「勝海舟生誕の地」の碑があります。最近、勝さんの功績のボードが造られて、ようやく名所・旧跡らしくなりました。生誕の地から離れた墨田区役所の敷地内には「勝安房」の銅像がありますが158㎝のご本人とあまりにもかけ離れてた姿です。
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Ptは両国小学校のある「芥川龍之介」の文学碑です。芥川龍之介の生誕地は中央区の聖路加病院の敷地で奇しくも元禄時代には浅野内匠頭の屋敷があった場所です。母親の産後の肥立ちが悪く生後7か月で両国の芥川家に養子にだされています。とういことで龍之介が通った両国小学校に文学碑があるのは微妙に納得できます。現代だったらワイド・ショーで大騒ぎになるでしょうが、芥川の短編小説には某宗教の説話をパクった”蜘蛛の糸”や短編「鼠小僧治郎吉」と講談の「鼠小僧・雪の小仏峠」がほぼ同じとのパクリ疑惑があります。
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名所・旧跡とは異なりますが、両国と云えばの超有名店「キングサイズ洋品店・ライオン堂」です。【当店はKING SAZEの専門店です.。胸囲・胴囲=100㎝以上。首囲=46㎝以上。足のSAZE=27㎝以上】の表記があります。飾られたパンツの大きい事、流石に相撲の街を象徴するようで関取衆ご用足しの店だけあります。
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両国の街散策…(1)

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回向院から徒歩5分ほど、表通りに面してはいないのですが「本所松坂町公園」があります。ここが忠臣蔵で有名な吉良上野介上屋敷の跡です。現在はその一部が史跡公園として残されていますが、解説板によると吉良上野介義央の屋敷は敷地面積が2550坪(8400㎡)もあり、この「本所松坂町公園」はその86分の1だそうです。いくら隠居したとはいえ高家筆頭のお屋敷が狭いわけがありません。首洗いの井戸は眉唾モノですが、吉良公の像は穏やかな顔つきをしています。
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興味深いのは元禄15年12月15日の事件当日、犠牲となられた吉良家家臣の俗名の碑が造られています。「忠臣蔵」のTVや映画等は、事件の約50年後に書かれた「仮名手本忠臣蔵」をベースとしており日本人の感性に受けるように創作されています。‥【 ”忠臣蔵”は、傷害事件を起こし,法により死刑を執行された加害者の身内が、判決を不服として徒党を組んで被害者の老人を殺害したという事件 】ということです。事件については昔から様々な解釈がされてきましたが、これほど被害者が悪く言われる例も珍しいと云えます。
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両国・回向院…(1)

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陽だまりで毛づくろいをする猫の姿は穏やかそのものです。なかなかカメラ目線になってくれないのですが、この猫は”らっちゃん”という名前のようです。近くの注意書きによると「中性脂肪の数値が上限104のところ385あり”高脂血症”の診断を受けているようです。確かに持ち上げてみるとスッシリと手ごたえがあります。回向院はペットの慰霊も受けてもらえます。さしずめこの”らっちゃん”は猫のお坊様といったところでしょう。
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墨田区両国2丁目の”回向院”は同じ名称のお寺が南千住にもあるため”本所回向院”とも呼ばれています。1657年の江戸の街を焼き尽くした明暦の大火での10万人を超える焼死者を葬るために徳川家綱により造られた「万人塚」が始まりとされています。1781年以降には境内で勧進相撲が興行されるようになり今日の大相撲興行の起源ともされています。1909年には旧の両国国技館(後の日大講堂)が28万円(現75億円)をかけドーム屋根の13000人収容の施設が建設されました。
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回向院隣のマンションの駐輪場(写真のストライプがずれている場所)が旧国技館の土俵跡です。国技館は火災や東京空襲とご難続きで、第二次大戦後は米軍が接収、返還後は日本大学に講堂として使われ1983年に解体されています。その後は蔵前橋際に移転して「蔵前国技館」さらに今の場所に移転しています。回向院境内には相撲に縁のあるお寺との事で1936年に大日本相撲協会により「力塚」が建立されています。
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境内には”鼠小僧次郎吉”の墓があり、Ptのように墓の石材を削って持ち帰るとギャンブル方面に縁起が良いとされることから「欲にかられた人達」で賑わっています。映画や芝居だと千両箱を脇に挟みさらに肩に担いで屋根の上を走る姿が登場しますが冗談ではなく重すぎて腰が砕けます。鼠小僧次郎吉の墓は南千住の回向院にもあり、愛媛県松山市、岐阜県各務原市には恩義を受けたとされる人達により建てられた墓もあるそうです。

三囲神社の動物達

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墨田区向島の宇迦御魂之命を祀る『三囲神社』です。元和年間に社の改築の際”白狐にまたがる老翁の像”が見つかり、その時に白狐が現れて神像を三回廻ったことから『三囲神社』としたとされています。稲荷伸が白髪の老人の姿をしているのは伝承としたは珍しい話ではないのですが、言い伝えですから”そうですか”としか云いようがありません。久しぶりの訪れたのですが数年前に比べて良い感じになりつつあります。三囲神社の神域では神使(秘書官)のきつねや狛犬(ガードマン)など多彩な動物たちがその姿を見せていますが、Pt↑)は本殿の止瓦付近にあるきつね像です。屋根の四方に置かれているのですが木々に囲まれ写真には苦労させられます。
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本殿の前には「コンコンさん」と呼ばれるきつねの像です。実に穏やかな顔をしていて、目元など笑っているような感さえします。頭の上には烏帽子でも被っているのでしょうか突起があります。口元は『あ』と『ん』ですが『鍵』も『巻物』も咥えておらず足元は何も踏みつけていません。なにより直立した尻尾が実に立派です。実際のところ稲荷社のきつね像にはとんでもない種類があるのですが他の稲荷社では見かけないきつね像です。

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この三囲神社は三越(三井家)の縁のある神社で日本橋や銀座店の屋上には分社が鎮座しています。本殿裏の「三柱鳥居」というパズルか知恵の輪のような形状をした奇妙な鳥居は、三越の三井家が江戸進出にあたり守護神として崇めたと云われています。そんなことで本殿手前には閉店した三越池袋店にあった「守護神補佐としては役に立たなかったライオン像」が何故か1体だけ置いてあります。つぶれた店の名残りはどんなもんなんでしょう(苦笑)。
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言問橋・いざこそ問はむ都鳥

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Pt↑)『言問橋』の台東区側からが一番「絵」になるようです。橋の長さは238.7m・幅22.0m、橋上の道路は国道6号・言問道りです。平成20年に両国橋と共に「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。この言問橋も他の隅田川の多くの橋と同様に関東大震災復興事業として大正14年に工事着工、昭和3年に完成しています。昭和20年の東京大空襲の際には、浅草方面からと向島方面の人達が橋の上で鉢合わせしてしまい、逃げ場がなくなった人達に多くの死者を出すという大きな惨事がおこっています。
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「言問」の地名は在原業平の 【名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思う人は ありやなしやと】 にちなんでいるのですが、実際はこの故事はここより上流の白鬚橋付近で詠まれたということです。ここから見る東京スカイツリーは墨田区側に高い建物が少なくスッキリと見えます。Pt↑)の”言問橋西交差点”からはスカイツリー建設当時から絶好の撮影ポイントとなっていました。気のせいかも知れませんが、隅田川を挟んで台東区側ににはホームレス達の住まいは見られず、墨田区側にはブルーシートが点々と並んでいます。
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カラフル浅草・吾妻橋

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隅田川を遡り浅草まで来ました。この赤く塗られた橋が『吾妻橋』です。最初の架橋は安永7年(1774)の事で、江戸時代の隅田川5橋の最後の架橋となります。はじめはこの付近の川名が「大川」と云われたことから『大川橋』と呼ばれており、武士以外の通行人からは通行料を収受していたようです。明治年間の明治18年(1887)に隅田川最初の鉄橋として架け替えられた橋は、関東大震災の火災で木製部分が焼け落ちたしまい、現在の橋は昭和6年(1931)に架橋されています。橋長:150m、幅:20m、橋上の道路は「雷門通り」です。
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台東区側は繁華街・浅草の入口にあたり、桟橋からは浜離宮経由で日の出桟橋やお台場方面の航路が発着しています。墨田区側には墨田区役所やアサヒビールの建物、悪名高き「炎のモニュメント」があり吾妻橋越に見る「東京スカイツリー」は展望のポイントとなっています。隅田川の橋梁は橋ごとの設計や塗られた色が異なっていますが、吾妻橋は”赤”で塗られており稲荷神社を思わせるような色合をしています。Pt↓)地下鉄の入口は日本最古のモノとされます。
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駒形橋と駒形堂

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『駒形橋』は橋の完成のより廃止となった江戸年間の「駒形の渡し」の場所に架橋されています。橋長:149.6m、幅:22m。台東区と墨田区を結ぶ浅草通り(都道463上野月島線)が通り、全体が青く塗られています。隅田川の他の橋と同様、関東大震災により崩壊してしまい復興事業として昭和2年に現在の橋が架けられています。『駒形橋』は橋の姿が珍しい構造となっていて、橋の中央部がアーチ部分が道路の上側になっていて、橋の両脇部分がアーチが下側になっています。因みに下流側の 『厩橋』 がアーチが上の構造、上流側の 『吾妻橋』 がアーチが下の構造になっています。
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橋の名称は台東区側の『駒形堂』に因んでいます。942年に浅草寺伽藍の建立の際に建立され、再三の消失・再建をへて現在のお堂は2003年に建立されたものです。ご本尊は「馬・別名「こまんどう」とも呼ばれ、元々は浅草寺に伽藍の一つで、推古天皇36年に漁師の兄弟の網に「聖観世音菩薩」 が掛かり、その場所に 建てられたのが「駒形堂」とされます。後に「聖観世音菩薩」 は浅草寺 に移され浅草寺の始まりとなっています。
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馬・うま・ウマの厩橋

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緑色に塗られた『厩橋/うまやばし』です。橋の名称は厩=馬屋で、江戸時代はこの付近に米蔵の米を運搬するため多くの馬が飼われていた事によります。架橋以前は「御厩の渡し」が利用されたのですが、「三途の渡し」の言われるほど転覆事故が多発していたことにより、民間の手で明治7年(1874)に最初の橋が架けられています。他の渡船場と川幅も流れも変わらないのに”事故多発”とは不可思議な事です。架け替えられた現在の橋は、橋長151.4m、橋幅21.8mの現在の橋は昭和4年(1929)の完成です。橋の下を走る地下鉄大江戸線は橋台に影響を与えないよう橋を迂回しているらしいです。
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『厩橋』だけに橋の各所に「馬」を連想させるレリーフなどが施されています。Pt↑)橋の橋柱に施された数頭の馬が群れているレリーフで一番判りやすいです。Pt↓)老巧化と汚れているの「馬」をあしらったステンド・グラススです。これはじっくりと見ないと理解できません(苦笑)。フェンスの枠組みには疾走する「馬」の姿があります。台東区側には馬とは関係のないチョット目を引く建物があるのですが、これ交番と人の横顔を模したトイレです。
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蔵前橋と楫取稲荷

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橋全体が「稲の籾殻を連想させる」ということで黄色く塗られた『蔵前橋』です。橋長173.4m、橋幅22.0m、東京復興計画の一環1927年に架橋されました。橋の名称は岸側の「蔵前」のあたりに徳川2代将軍 秀忠 がこの一帯を埋立て3万坪にも及ぶ広大な敷地に「浅草御米蔵」 という米蔵を建てたのに由来します。お米が経済の中核をなしていた時代ですからかなり重要な施設だったと思われます。Pt↑)台東区側には昭和29年~59年までは「蔵前国技館」があり大相撲が開催されていました。「国技館」は両国回向院の旧領国国技館→蔵前国技館→現領国国技館と場所が変遷しています。現在は東京都水道局の「蔵前水の館」となっています。
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Pt↑)橋上の小さなバルコニー状の場所には力士のモチーフが造られています。その他にも橋の欄干部分には横綱土俵入りと芸子が屋形船に乗っているモチーフがあります。橋から少し離れますが蔵前橋通りに『楫取稲荷神社』があります。江戸幕府が御蔵の資材を熊本から運搬する際に事故が多発しそれに関連して創建されたとあります。台東区側の橋詰には「浅草御蔵」の碑があり、さりげなく街の歴史の記憶を臭わせています。
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隅田川・両国橋東岸

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『両国橋』をテーマにした歌が2曲ありました。五木ひろしの「両国橋」は相撲力士がテーマになっています。もう1曲が由紀さおりや松平純子が歌った「両国橋」です。作詞:喜多条忠・作曲:吉田拓郎と70年代フォークの大御所の作詞作曲です。昭和の名曲「神田川」の続編のような内容なのですがヒットしたか否かはわかりません(苦笑)。♪ なんにも言いたくないけれど 新しい恋始めるならば 両国橋はいけないわ~♪ 何故「両国橋」が舞台でなにがいけないのかはわかりません。両国橋という音感と語呂だけで作詞したのでしょう。
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吉良邸や回向院、国技館などの名所旧跡は隅田川東岸となりますが、地名としての「両国」は隅田川西岸のことで東岸は「向領国」→江戸ではないとされていました。両国橋東岸の広場には「表忠碑」と書かれた地元本所区からの日露戦争戦没者を慰霊する大山巌元帥による巨大な石碑が、その隣には赤穂浪士・大高源吾による「日乃恩やたちまちくだく厚氷」の句碑があります。公園のすぐそばにある巨大なイノシシの看板は有名な「ももんじ屋」です。何が食べられるかは一目瞭然。昨今は「ジビエ料理」などと洒落た表現をしますが「気取るなバカタレ!」と言いたくなります。
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隅田川・両国橋西岸

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旧武蔵の国と下総国を結ぶ『両国橋』です。現在の橋は昭和7年(1932)の完成で、橋長164.5m、橋幅24.0mあります。初代と橋は寛文元年(1661)に造られ、貞享3年(1686)に国の境が変更されるまでは下総国との国境とされ、武蔵国と下総の国を結ぶため『両国橋』と呼ばれました。江戸時代から数回の火災と再建を繰り返し、関東大震災では崩壊した両国橋の一部を「南高橋」として再利用していますが、アーチの形状が違っているため「南高橋」にはその面影はありません。平成20年(2008)には、上流の言問橋とともに東京都の「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。
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徳川幕府は防衛上から隅田川の橋は千住大橋と両国橋以外の架橋は認めていなかったことにより、1657年の明暦の大火では逃げ場を失った多くの死傷者をだしてしまいました。この犠牲者を弔ったのが「両国・回向院」で、その資金集め(勧進)のために両国で大相撲が開催されたと云われています。現代に残る「広小路」の地名は火災の延焼予防のため火ひよけ地として空地が設けられました。両国橋の中央区側には当時「両国広小路」が設けられ、即時の取壊しが可能な芝居小屋なども造られ明治時代初期まで歓楽街として賑わっていました。Pt↓)が広小路あたりでしょうか? 両国橋上のフェンスには両国の花火と相撲の軍配が施されています。
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墨田区・牛島神社

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浅草から隅田川の東岸、浅草墨田公園(水戸徳川家下屋敷跡)にある『牛島神社』です。神社縁起によると慈覚大師が貞観2年(860)に勧請した「須佐之男命」、後に「天之穂日命」が、次いでこの地所縁の清和天皇第七皇子「貞辰親王命」の3柱が祀られています。Pt↑)は牛島神社の大きな特徴でもある本殿前の鳥居です。これは三輪鳥居(みわとりい)と呼ばれる鳥居が3ッ組合わされた珍しい形状の鳥居で神域には他にも鳥居がありますが本殿前だけが三輪鳥居となっています。この形式の鳥居は埼玉県秩父の三峰神社と奈良県の大神(おおみわ)神社(神域の三輪山にあり撮影不可でした)で見た記憶があるだけです。
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葛飾北斎の絵では江戸期の牛島神社は三囲神社の隣にあったようです。大正12年(1923)の関東大震災では本所地区は壊滅的な被害を被り、その復興事業の一環として「墨田公園」へ遷座、昭和7年(1932)に総檜権現造りの社殿が完成しています。神社は東京大空襲の被害も免れ、現在は東京スカイツリーの氏神様となっています。
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浦和の調神社の神使は「うさぎ」でしたが、牛島神社の神使は「うし」です。この地は飛鳥時代は牛の牧場だったとの伝承やご祀神の「須佐之男命」が仏教集合では「牛頭天王」であったり、他にも牛関連の伝承があることから神使が「うし」なのでしょう。さらには「天満宮」で知られる病気快癒の「撫で牛」まで置かれています。他にも「牛の慰霊碑」などの「牛」もあり、牛だらけといった感じです。それにしてもこの神使は目つきがよろしくありません。
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亀沢・野見宿禰神社

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一般的には「相撲は国技」と云われていますが、これは(財)日本相撲協会の規定にあるだけで、正式には日本國には「国技」は昔も今も存在していません。伝承では日本最初の取組みとされるのが、約2千年前に第11代・垂仁天皇の時代に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのはや)との対戦で、これが相撲の始まりとされています。すみだ北斎美術館から1ブロックほどに祖である野見宿禰を祀る神社があります。元々高砂部屋があった場所に明治18年(1885)に創建したのが始まりとされます。神社は(財)日本相撲協会の管理で境内には歴代横綱の石碑が建立されています。新横綱が誕生すると神前土俵入りが披露されるのですが、これが10帖程度の広さしかなく”あの巨体が…”と妙に感心します。
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すみだ北斎美術館

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墨田区の両国駅近辺には小さいながらもユニークは博物館が点在しています。2016年11月にオープンの『すみだ北斎美術館』は展示内容、建物とも飛びぬけています。江戸後期を代表する浮世絵師・葛飾北斎が生まれ生涯を送った縁ある街に建てられたという事ですが、誰もが知っている富嶽36景・赤富士や神奈川沖を含め、墨田区による約30年前からの構想し20億円を費やして収集した約1800点もの作品には、世界的に有名な浮世絵コレクターの所蔵品も含まれています。これだけの作品群が散逸せず集まったのはスゴイ事です。Pt↓)は・EVの扉すら”神奈川沖”です。・誰もが知る両作品です。・妹との作業風景ですが、巨匠ならではです。この人形たちは腕が動きますが、不気味です(苦笑)。
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江戸博特別展ねぇ・・。

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『すみだ北斎美術館』のついでに江戸東京博物館にて開催中の「没後150年 坂本龍馬」・(2017.4.29-6.18)・に立ち寄りました。観覧料は特別展だけが¥1350。+常設展で計¥1560となかなかの料金です(苦笑)。展示のみだまは、龍馬直筆の手紙や暗殺された際に携えていた愛刀「吉行」等なんですがぁ・・。ここまで実像と虚像がいり乱れたお方の企画展ってのは難しいんでしょうねぇ。「手紙」と「愛刀」などの他は殆どが「水増し状態」で、水割りやカルピスなら薄くて飲める状態ではありません。明治16年に高知の新聞に小説として掲載されるまでは、誰も関心なかった「坂本龍馬」が”Japan's Favorite Hero”に祭り上げられたのは司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」によるところ大なのですが、この様な企画展はどうしてもこのイメージに添っています。まぁ電車賃かけて行くほどのモンではありません(!)。
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ソラマチ・郵政博物館…(2)

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意外と「郵政事業」ってのは知らないものです。ましてスカイツリーに隣接してこの様な博物館があったとは・・です。あの胡散臭い豊島区の切手の博物館(総務省所管の一般財団法人)とは雲泥の差です。世界各国の切手の収蔵だけでも約33万種類(!)。これだけも丸一日かかりそうです。誰もが知っている「ラジオ体操」は郵政の前身の逓信省の発案で始まり簡易保険局、日本生命保険会社協会、日本放送協会が文部省の働きかけ郵便局員により全国に普及したそうです。ラジオ体操には第一、第二のほか幻の第三があるらしく、このあたり全く知りませんでした。さらにはゆうちょ銀行で松下奈緒と踊っている不気味なリス達は、郵政民営化で廃止される以前の郵便貯金のマスコットのシマリス「ユウちゃん」を継承していたとは・・(笑)。
正直、知らなくても困らない話ばかりなのですが、マニアでなくとも充分に楽しめる博物館です。
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ソラマチ・郵政博物館…(1)

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東京スカイツリータウン・ソラマチ9階の「郵政博物館」です。2013年に閉館した「逓信総合博物館」を引き継いで2014年3月の開館した施設です。東京スカイツリータウン・ソラマチというと中韓を筆頭とした貧乏外国人目当ての店ばかりと思っていましたが、この博物館はかなりレベルの高い施設です。惜しむらくはやや判りにくい場所にあることでEVで8階まで上がりEVを乗り換えて9階へあがります。下層階の商店街とは雰囲気がかなり異なります。前島密による郵政事業のあらましや、現場で使われた物品の数々。「簡易保険/ラジオ体操」やら「郵便貯金」の歴史。圧巻は33万種(!)に及ぶ世界各国の切手の展示には正直眩暈がします(笑)。館内アチコチに置かれた郵便ポストは「珍しい」を超越しています。
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