旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

港区

品川・高山稲荷神社

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JR&京急の品川駅は品川区ではなく港区なのは有名な話ですが、駅前の第一京浜に張り付くように「高山稲荷神社」があります。青森県つがる市にも「高山稲荷社」という広大な神社があり分社かと思ったのですが違うようです。ご祀神は「宇迦之御魂神」で京都伏見稲荷大社からの分霊、元々は品川の海を見渡す丘の上にあり「高山稲荷」はここからのようです。明治初年に毛利家屋敷の拡充により代替地として現在の場所に移っています。その後は第一京浜国道の拡充やらなどで次第に社地が縮小されていますが、品川の海を見渡す絶好の地であったのは想像できます。
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狛犬の台座には「慶応年間」の文字と寄進者名前が刻まれ歴史を感じさせられます。Pt↑)の手水舎奥には港区による文化財 高山稲荷神社 石灯籠(おしゃもじさま)と書かれた搭がありました。「おしゃもじさま」とは縁結びの神なんだそうですが、ありがちですが由来については判らないようです。この石灯籠の説明文にはは元は切支丹灯籠であり、高輪海岸で処刑された外国人宣教師の供養のため造られたとか海中より出土したとの説とありますが、切支丹屋敷は茗荷谷(文京区)にあったので、この伝承は”違うのではないか”との印象を受けます。
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麻布山善福寺

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浅草の浅草寺は東京で一番の古刹として知られています。それに次ぐ古刹がこの港区元麻布の「麻布山善福寺」なんだそうです。山号の麻布山が「麻布の地名」の由来とも云われ現在でも「麻布」の付く町名はやたらとあります。ここまで麻布の地名が多いのは不動産屋の陰謀ではないかとすら思えてきます(意外な事に北麻布はありません)。驚くくことに杉並区の善福寺は当院の奥の院が元は善福寺池周辺にあったことに由来すというる説や港区の虎ノ門は善福寺の山門に由来する説などがあるそうで、ホントならとんでもなく広大なお寺です。
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善福寺の開山は弘法大師・空海(真言宗)によるとされ山門手前には弘法大師による湧水(柳の井戸)があります。このお方は全国を行脚して井戸やら温泉やら池やらを発掘や開拓しているようで、本当にご苦労様なことです(苦笑)。時代を経て鎌倉時代に親鸞が寺を浄土真宗に改宗したとされます。親鸞のついた杖から生えたという伝承を持つ国の天然記念物”逆さいちょう”と称する大銀杏の傍には親鸞聖人の像が建立されています。空海(真言宗)縁の井戸と親鸞(浄土真宗)縁の銀杏巨木が拮抗している面白いお寺です。幕末時代の1859年には日米修好通商条約により初代のアメリカ合衆国公使館が設置され、ハリスらがこの寺に在留しています。
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芝東照宮

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東照宮』で思い浮かぶのは、1)日光東照宮 2)久能山東照宮 3)上野東照宮あたりかと思います。元和2年4月(1616)徳川家康は駿府城で死去。遺言により久能山に葬られ、翌元和3年には日光に改葬されることとなります。さらには徳川・松平一門や譜代や外様大名家も競って東照宮を建立し全国で500>社を超える東照宮が造られています。明治維新以後は廃社や合祀が相次ぎ、それでも約130社の今でも全国的に東照宮が現存しています。芝東照宮は家康の還暦記念に造られた「寿像」を増上寺内に祀るために造られた「安国殿」が起源となっています。
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寛永10年(1633)には家光の命により新社殿が造られ、寛永18年(1641)には岡藩主黒田忠之により豪奢な社殿となっています。昭和20年の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し社殿は焼失するも、昭和44年(1969年)現在の社殿が再建されています。敷地内には徳川家光が植樹したと伝えられる神木の大イチョウは昭和5年(1930年)より昭和27年(1952年)までは文部省(国)指定の文化財であったが文化財保護法の改正により指定解除がされ、昭和31年(1956年)に改めて東京都の指定天然記念物に指定されています。
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大久保利通惨殺現場

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内務卿大久保利通。明治11年(1878)5月14日午前8時頃、自宅(千代田区永田町・現内閣府辺り)を出た大久保は赤坂の仮御所(現迎賓館)に参内するため馬車で出発、現清水谷公園の現場で石川県士族の島田一郎らに襲撃され頭を中心に16ヶ所も切られ即死しています。止めの短刀は喉を貫いて地面に刺さったというのですからまさに「惨殺」です。島田一味は『ひそかに皇国の時状を熟察するに、およそ政令法度上 天皇陛下の聖旨に出に非ず 下衆庶人民の公議由るに非ず 独り要路官史数人の臆断専決する所に在り』と大久保への斬姦状に記載しています。Pt↑)は実際の現場近くの清水谷公園に造られた「紀尾井坂の変の石碑」です。正直管理が最低です(!)。草ぼうぼうの荒れ放題とは、ここでも大久保利通の不人気ぶりを象徴している様です。
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島田一味の暗殺計画には木戸孝允・岩倉具視・大隈重信・伊藤博文・黒田清隆らがあがっているのですが、毎時11年、西郷と木戸はすでに亡く、大久保が殺害されたことで一新の大物はいなくなります。伊藤博文は37歳、大隈重信40歳、山縣有朋40歳。ということは誰が一番得をしたかというと・・。『木戸さんも西郷も長州の先輩達も皆逝ってしまった、大久保がいなくなれば俺たちの天下だ・・』と武士でもない下層階級出身の高杉の使いパシリが後ろで糸を引いたのかも知れません。因みに犯人は2ヵ月後に処刑となっています。
事件のあらましが記載された案内板も劣化が激しく、表面のコーティがボロボロです。鹿児島中央駅近くには「大久保利通像」がありますが、なんと造られたのは没後100年(!)の昭和54年(1979)の事です。西郷に比べてつくづく不人気のようです(苦笑)。

赤坂・美喜井稲荷神社…3

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豊川稲荷東京別院まで来たので青山通り(246号)の反対側、現在改築中の「虎屋」のお隣の「美喜井稲荷神社」にも立寄ってみました。3回目の訪問ながらも委細不明、調査の進展はありません(苦笑)。Pt↑)のように虎屋が改築中なもで稲荷社の全貌が良く見えます。ご覧のようなこじんまりとした稲荷社です。元々稲荷社は人々の生活に寄り添うような身近な神様として祀られ、「五穀豊穣」の神様が商売繁盛や火災予防、甚だしくは「迷子猫の捜索」までお願いされるようになりました。この美喜井稲荷神社にしても「火事を知らせて飼い主を救い、自分は焼け死んだ猫の霊を祀ったもの」との伝承もあるようですが定かではありません。
Pt↓)劣化が進んだのでしょうか、猫の像にカバーが掛けられています。相変わらず摩訶不思議な彫刻です。案内板には『美喜井稲荷のご守護神は京都の比叡山から御降りになりました霊の高い神様です。この神様にお願いする方は蛸を召し上がらぬこと。この神様を信仰される方はなにも心配いりません』と書かれています。
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港区・豊川稲荷東京別院

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久しぶりの港区元赤坂の『豊川稲荷東京別院』です。名称のとおり愛知県の豊川稲荷の東京別院、曹洞宗のお寺です。創建者はあの「大岡越前守忠相」で元々は赤坂一ツ木の藩邸内にあり、1887年に稲荷社をこの地に移転したとされています。いまさらですが『稲荷社』には、五穀豊穣の神「倉稲魂神」を祀る伏見稲荷社の神道系と仏教系の吒枳尼天(だきにてん)を祀る豊川稲荷の仏教系の二系統があり、どちらもお使い(秘書官)は『狐』とされています。豊川稲荷から246号を挟んで反対側には説明に困ってしまう「美喜井稲荷」もありますが・・。
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ここ豊川稲荷は名称の通り神社でなく曹洞宗の『お寺』です。そんなわけで境内は見慣れた稲荷社とは鳥居の数が少ない等の雰囲気がやや異なります。赤坂見附側には神道系の鳥居は殆どありません。敷地の途中からが神道系の稲荷社のようです。お使い(眷属)は一緒なので境内には狐の像がワンサカとあります。Pt↑)の狐像の大きい事(!)。耳が強調されて一種異様な姿をしていますがデザイン的にはどうなんでしょう。神使(狐)が同じで神様が違う神社とお寺が同じ敷地にあるという考えて見れば不可思議な場所です。
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高橋是清翁記念公園

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メトロ青山一丁目駅から246号線を5分ほど、カナダ大使館の隣が「高橋是清翁記念公園」です。この公園は明治時代は日本金融界の親玉として大正、昭和初期と首相や蔵相を歴任した、高橋是清翁(1854~1936)の邸宅跡です。13歳で留学生として渡米、何故か奴隷として売られそうになったり、帰国後は明治政府で役人として働き、33歳で退官してペルー銅山開発事業に失敗。その後日銀副総裁や大蔵大臣(6回)や内閣総理大臣を歴任、、226事件で青年将校に殺害され一生を終えます。まぁ波乱万丈の人生を過ごされたお方です。翁の屋敷は移築され「江戸東京たてもの園」で保存公開されているのは別項で触れています。往時は現カナダ大使館も高橋邸の一部とあり、もっと広い敷地だったようです。
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赤坂・乃木邸跡

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実は「乃木坂」という住居表示はないのだそうです。明治天皇に殉じた乃木希典将軍の自宅跡に将軍の殉死を悼んで「乃木神社」が創建され、その際に「幽霊坂」が「乃木坂」と変更され、1972年に「メトロ乃木坂駅」開業により乃木坂の名称は定着したのですが、住居表示は港区赤坂8丁目あたりです。Pt↑)は乃木将軍住まいとしてフランス陸軍の施設を参考に建てられたもので、大正元年(1912)の明治天皇大喪の日に乃木夫妻はここで殉死されています。当日の朝に撮られた写真も数点残っており、なまじの精神力の御人ではありません。
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建物外に回廊が付けられており、将軍自害の部屋も覗けます。退役したとはいえ世界的名声の将軍の住まいとはとても思えないほど質素です。某作家の「●の上の雲」では徹底して”無能な将軍”として描かれていますが、小説家が面白さを追求するのは良いとしても、旅順攻略戦の記述は史実と違う点が多く「悪意を持って書かれた」とすら思えます。乃木=無能説の元凶ろも言えます。ロシア軍が”3年は大丈夫”と豪語した旅順要塞を半年で攻略した乃木第3軍は奉天会戦参戦します。「あの旅順を攻略した乃木が来る」のですからロシア軍も恐れまくり、これが奉天会戦のかろうじての勝利に繋がるのですが・・。
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赤坂・乃木神社

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港区赤坂の『乃木神社』です。ご祀神は乃木希典将軍と静子夫人のお二人で、「乃木坂46」とは何の関係もありません。ただ、時代なんですねぇ。奉納された絵馬をには”○○ちゃんがセンターになれますように”なんてのが多く、武骨な乃木将軍にすれば何のことやら困ってしまうでしょう(苦笑)。乃木将軍は日露戦争の旅順203高地攻略戦で知られますが、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」や吉村昭の「海の史劇」では無能な将軍として描かれています。10日間の攻略戦で64000人の兵を投入、戦死5500名、負傷11800名の犠牲者は事実には違いありませんが、小説のお話ではなく実戦としては、乃木のとった作戦はあながち間違いではありません。
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乃木将軍夫妻は明治天皇大喪の日に殉死され、邸宅の隣接の地に将軍を敬愛する人達により大正12年に創建されたのが『乃木神社』です。神社創建前はこの辺りは「幽霊坂」と呼ばれ創建後に「乃木坂」と改められています。境内摂社には乃木将軍縁の「王子稲荷社」と吉田松陰を祀る「正松神社」が鎮座しています。社務所脇には将軍の資料館には書や木像、殉死時に使用した刀などが展示されています。
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【東京十社】‥赤坂氷川神社・(Ⅱ)

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赤坂氷川神社を別の入口の石段脇には『勝海舟』ゆかりの四合(しあわせ)稲荷神社と西行稲荷社があります。四合稲荷は文字通り稲荷4社が一緒になったもので社額は勝海舟直筆のものです。海舟さんは生活に困窮した旧幕臣の経済援助のために直筆の「書」や「社額」で収入源としていたようで、やたら作品が残っています。赤坂の地が好きで幕臣時代と明治政府時代の屋敷跡が神社を挟んであります。神社神域は元禄時代は忠臣蔵・浅野内匠頭夫人の『瑤泉院』の実家浅野土佐守屋敷で、仮名手本忠臣蔵・「南部坂雪の別れ」の南部坂がすぐ近くです。二ノ鳥居の向かって左の根元には、明治政府が高度の測量を行った際の、印となった「不」の文字のような記号が刻まれています。
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【東京十社】‥赤坂氷川神社

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東京十社に数えられる港区赤坂6丁目の氷川神社 (ひかわじんじゃ)です。港区には他に「白金氷川神社」があるので「赤坂氷川神社」と称されます。赤坂サカスや六本木ミッドタウンにも近く、近隣には「勝海舟」の屋敷跡(幕臣時代)や忠臣蔵に縁の「南部坂」などがすぐ近くですが、赤坂=繁華街というより高級住宅街といった場所です。徳川8代将軍吉宗の時代に現在地に鎮座し、現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されています。ご祀神は須佐之男命/すさのおのみこと。・稲田姫命/いなだひめのみこと・大己貴命/(おおなむちのみことの三神となっています。関東在住者には「氷川神社」は聴き慣れた神社名ですが、「氷川神社」は埼玉・東京・神奈川にしかない珍しい神社でもあります。
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旧氷川小学校跡

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NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放送されたのは2010年の事でした。港区赤坂の「旧氷川小学校跡」、現在は特別養護老人ホーム「サン・サン赤坂」となっていますが、小学校敷地は明治時代には勝海舟の屋敷跡で、敷地の一角には「勝安芳邸跡」の石碑&説明板が建っています。海舟さんは明治5年に静岡から東京に戻り、明治32年に亡くなるでここの屋敷に住んでいます。赤坂の地がお気に入りだったようで、幕臣時代は氷川神社裏手に、明治年間はこちらと多くの年月は”赤坂”に住んでいました。そんなことから、平成16年9月に『勝海舟・坂本龍馬師弟像』が建立されたのでしょう。子弟が会ったのは氷川神社裏手の屋敷なのですが、まぁ良しとしましょう(笑)。
Pt↓のように銅像がフェンスとアクリル板でガードされており写真が撮りにくいです。以前からあった石碑と案内板です。施設内には屋敷跡から出土品が展示品してあります。なんの碑かと思ったら銅像建立寄付者一覧でした。
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白金・清正公堂

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港区白金1丁目、桜田通りと目黒通りの分岐の信号は「清正公前」と表記されています。この場所にある日蓮宗の覚林寺(かくりんじ)は通称「清正公/せいしょうこう」もしくは「清正公さま」と呼ばれています。信号名称にも出てくる目印的なお寺なのですが・・。加藤清正は秀吉の子飼いから肥後の大名となり朝鮮出兵時の「虎たいじ」や築城の名人として知られています。没したのは熊本で、死後に神様になるのはよくある話なのですが、覚林寺の開山が清正が朝鮮出兵時に捕えた僧侶で清正の位牌や像が祀られていることから『清正公』と呼ばれ”勝負祈願の寺”として信仰を集めているようです。
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高輪・東禅寺

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ドイツの考古学者『ハンリッヒ・シュリーマン』は幼い頃に聞いたギリシャ神話に登場する幻の都市トロイアを本当に発掘したことで有名です。このお方、ペリー来航(1853)の12年後、トロイア発掘の6年前の1865年に約一ヶ月ほど日本を訪れています。『シュリーマン旅行記清国・日本/講談社学術文庫』として出版されていますが、このなかに当時イギリス公使館がおかれた東禅寺を訪れたという項があり、文久元年(1861)の攘夷浪士(元水戸藩)が文久2年(1862)には松本藩武家のテロ事件が続いておきた事件についての記述もあります。
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JR品川駅から徒歩10分弱、第一京浜から少し入った場所にある「東禅寺」は臨済宗妙心寺派の別格本山です。当然の事ながら、シュリーマン旅行記に描かれた東禅寺と今の東禅寺は様変わりしているでしょう。三重塔や庫裏は時代を経て建てなおされているようですが、実に雰囲気の良い寺院です。当時は品川の海を望み、広大な敷地に建物が点在したいた事でしょう。東京都教育委員会による解説には「東禅寺は公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました」とあります。
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迎賓館赤坂離宮…参

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今年の夏「さよなら築地」と共に東京観光の目玉となった『迎賓館赤坂離宮』ですが、昨今は相次いで外国からの賓客の接遇のため一般公開が中止となる日が増えてきました。8月の最終週、9/25~10/1&11/1~30の公開は中止となり10月はほんの数日間だけが公開となりました。国家行事優先ですから致し方ありませんが、見学ツアーを目論んだ旅行会社は当て外れですね。なにせ明治42年から10年歳月をかけ、当初の予算の250万円が500万円(現在換算では900億円?)に膨らみ、昭和49年完成の”迎賓館改装”でさらに108億円が追加の「化け物建物」なのですから悪趣味とも感じる豪華絢爛鎖さは一度は見ておいても損はありません。聞くところによると、昨今は近隣住民から苦情が殺到しているようです。”交通整理の笛の音がうるさい”とは殆ど言いがかりですが・・・。迎賓館裏手は東宮御所、左はホテルニューオオタニ&上智大学。右は学習院です。となると苦情を訴えているのは東京最大の元大貧民街の”鮫河橋”辺りの住民ですかね?中韓が少ないだけ静かなのでしょうが(苦笑)。
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迎賓館赤坂離宮…弐

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迎賓館赤坂離宮は2009年(平成21年)12月8日に旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として明治以降の文化財としては初の国宝に指定されました。今迄は見学へのハードルが大変高かったので、今回の一般公開には喜ばしいモノがあります。公開された建物内部、部屋の造作には多くの見学者から賞賛の声が聴かれます。それにしても迎賓館の設計者・片山東熊の構想とはなんだったのでしょう? Pt↑)は主庭噴水の動物達です。羽があるのは”麒麟”ですかね?リアルな亀は実物ではありません。ライオンは水を吐いています。 
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東熊は立案から1年余時間をかけてヨーロッパの宮殿建築の調査。10年の歳月をかけ予算も250万円から膨らみ続け最終的には500万円を超える(換算すると900億円以上)。あまりの贅沢さに明治天皇は呆れ、大正天皇、昭和天皇にも気に入られず、戦後は省庁として変遷、ようやく迎賓館として生き残りました。そんな紆余曲折はともかくとしてこれだけのモノが残ったのは素晴らしい事です。900億超える総工費は当時の日本国力では大変な出費だったのでしょうが、片山東熊・長州出身=元勲・山県有朋・長州出身の子分となれば予算は使い放題だったのかも知れません。
建物の屋根に乗る鳳凰のレリーフ、桐の紋章。中央部分には鎧武者の像(兜のデザインが左右異る)などなど”和”のテイストが工夫されています。壮大な構想と費用をかけたのに御所として使われず、最終的には迎賓館とは…。何か”戦艦大和”みたいですねっ。
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迎賓館赤坂離宮へ…

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元赤坂の迎賓館(迎賓館赤坂離宮)へ行ってきました。2016年4月から一般公開が通年で実施され、大変な人気のようです。見学申し込みは事前予約と当日整理券の方法があり、休館等のスケジュールは内閣府HPで確認できます。当日見学整理券は08:00頃より配布とされます(07:20到着20番目でした)。とは云うものの迎賓館の開門は09:30入館は10:00なので四ツ谷駅付近で時間つぶしが必要です。西門で整理券の記載時間をチェックされ、手荷物検査、入場券購入(¥1000)となります。滞在の時間制限はありませんが飲食施設はありません。
本館内は後回しにして主庭に向かいました。【写真撮影は外観は可、館内は不可。外部から館内が写りこむ写真も不可です】
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この迎賓館の建物は1909年(明治42)に建築家ジョサイア・コンドルの弟子である片山東熊(カタヤマ/トウクマ)の設計により、元紀州藩の屋敷跡に建てられています。建物の外観が華美過ぎ、住居としての使い勝手が良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(大正天皇)は使用せず赤坂離宮となっています。第2次大戦後は赤坂離宮は皇室から国に移管となり、国立国会図書館・法務省・弾劾裁判所・東京オリンピック組織委員会などが使用しています。その後外国の賓客を迎えることが多くなったことから、1962年(昭和3)池田総理により迎賓施設を整備する閣議決定がされ1974年(昭和49)3月に現在の迎賓館が完成しています。2006年(平成18)から2008年(平成20)にかけての改修工事を経て2009年(平成21年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として明治以降の文化財としては初の国宝に指定されています。
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浜松町駅・金杉橋口

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浜松町駅・金杉橋口を出ると港区浜松町2丁目です。この辺りが明治年間に当時の東京市の代表的な貧民街(スラム街)が存在した「芝新網町」なのです。明治30年(1897)の調査では下谷万年町(現上野駅近辺)が875戸、四谷鮫河橋谷町(赤坂離宮そば)が1370戸、芝新網町で532戸の貧民長屋があったそうですが、多くの貧民街は関東大震災で壊滅しいまはその面影すらありません。
浜松町2丁目9には「讃岐・小白稲荷神社」が鎮座しています。讃岐稲荷社は四国の高松藩松平家下屋敷にあった社で、小白稲荷神社は昭和13年頃に芝湊町から移って来た社とあり貧民街とは関係がなさそうです。神社の塀Pt↓)に「明治座」・「神明芸妓組合」やら「鶴田浩二」・「伴純三郎」の名前が見えます。他にも「㈱芸映」や「銀座おそめ」、「神明三業地組合」なども…。どんな関係なのでしょうか?
Pt↓)3枚目は上野駅歩道橋から仏壇街・浅草方面です。ここを左に進んだ辺りが「下谷万年町」なのですが…。
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小便小僧の浜松町駅

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東海道本線(?)浜松町駅といえば「小便小僧」です。Ptを撮影日は「春の火災予防運動」の幟をしょって「消防士」のコスプレでした(笑)。1952年(昭和27年)の鉄道開通80周年記念に当時の駅長と嘱託歯科医のアイディアで寄贈されたものです。よく見ると「小便小僧」のでるものが出ていません。
これでは「小便小僧」ではなく「露出狂の変態小僧」です。いいんでしょうかねぇ(笑)。ホームの「小便小僧」は有名ですが、階上改札口正面壁面にはタイル張りの「小便小僧」。 不思議な金杉橋方面階段付近にも「小便小僧」のプレートがあります。「小便小僧」以外に浜松町駅のウリは…無いようです。
浜松町駅は開業こそ1909年(明治42年)ですが、明治時代には駅近くにの芝新網町(現浜松町2丁目近辺)には東京を代表する貧民街がありました。ということは…。芝新網町方面出口(Pt↓)があまりにもショボイのはそんな事情もあるのでしょうか?
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汽笛一声新橋を…続

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鉄道創業時の始発駅は「新橋停車場」で、現在の新橋駅は1909年(明治42年)に日本初の高架駅の「烏森駅」として開業、1914年(大正3年)の東京駅開業時に「新橋駅」と駅名を変更しています。以前20年ほど通勤駅として利用していたのですが…。「ゆりかもめ」の開業や某TV局が移転などで場外馬券のオヤジ達しかいなかった休日の駅付近にファミリー層が溢れています。考えられない思いです(苦笑)
新橋構内には歴史のある駅ならではの記憶が残っています。前項で触れた「鉄道唱歌の碑」…横須賀線直行運転記念(1976年)のD51機関車の動輪。Pt↑)はレールを利用してホームの構造物(ともかく汚れまくりの梁)。Pt↓)は明治41年製造の「烏森駅」の鉄柱なんてのも残っています。新橋を象徴するお馴染みのC11-292号機は、鉄道100年を記念して1972年(昭和47年)に設置されたものです。
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