旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

港区

汽笛一声新橋を…壱

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Pt↑)が♪汽笛一声新橋を~♪の「鉄道唱歌」に登場する旧新橋駅です。「鉄道唱歌」は全6集・374番(一説には全7集・399番)というとんでもなく長い歌です。1872年(明治5年)に新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業した時の始発駅が旧新橋駅(新橋停車場)で、後に東京駅開設に伴い造られた「烏森駅」が「新橋駅」と改称され、旧新橋駅は貨物駅の「汐留駅」となりました。その後、長い間貨物駅構内として立ち入れなかったのですが、1965年(昭和40年)に「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の史跡に指定され、2003年(平成15年)には開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」Pt↑)が建てられています。
当初は鉄道は新橋駅がターミナル(終着駅)として造られ、路線を上野まで延長するのに銀座経由にすると用地買収やらで費用がかかりすぎるので現路線となったのでしょう。因みに「鉄道唱歌」の歌碑(隣は横須賀線開通記念碑)は現新橋駅前にあります。
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NHK放送博物館

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港区愛宕の『NHK放送博物館』が2016.01.30にリニューアルオープンしました。…【月曜&末年始休業、09:30~16:30、入館料・無料】…。リニューアルと云われても”以前”の記憶が薄れてしまって、どこがどう変わったのか定かではありません(苦笑)。ただし、間違いなく放送機器の変遷展示は充実しています(!)。個人的には…朝の連ドラも大河ドラマも紅白歌合戦も殆ど見ていないので、この辺りは困ってしまうのですが…。
Pt↑)は終戦時の陛下の玉音放送音源のコピー盤で、現在放送に使用される玉音放送はこのレコードを音源としているおり、窒素ガスを充填したケースに入り保管・展示されています。宮内省のでの録音の模様や録音機器も併せての展示となり、ここだけでも一見の価値があります。玉音放送の全文も展示されていますが、この放送内容でどれだけの方々が正確に理解できたのでしょうか…???
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港区・泉岳寺…(付)

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Pt↑)は地下鉄泉岳寺地上出口前、ビルの3階に鎮座している稲荷社です。見落としたのか由緒書きはおろか神社名を記したモノがありません。「高輪稲荷神社」という名称らしいのですが、鳥居や社殿の造りは稲荷社の形式になっています。神社の位置関係からして、昔は泉岳寺の境内社だったような気がしますが…。その先は不明です。Pt↓)は境内にある狐のオブジェ(?)です。素人の作品なのでしょうかねぇ? 
泉岳寺に向かって坂道を登る途中に牡蠣がらのような石碑が建っています。かろうじて「四十七義士」の文字が読めます。ここも境内だったのでしょう。 
泉岳寺中門は、天保7年(1836)年に再建された門で、「萬松山」の額は清の禅僧による書とあります。中門に「建設反対」やら「だんだら幟」は…【望みはひとつ泉岳寺の景観を守ることでござる!/国指定史跡・泉岳寺の歴史的文化財を守る会】…とあり、要はマンション建設反対のアピールです。そういえば昨年の義士祭の折に義士役の多くがこの幟を掲げており違和感を感じたものでした。
忠臣蔵(赤穂事件)は時代背景と事実関係だけを追うと『47人の不良浪人による筋違いな逆恨み虐殺暴力事件』という事になります。つまりは浅野の家臣が「私怨」は晴らすために起した無法事件にすぎません。「義士」と呼ぶのは少し違うような気がしてきます(苦笑)
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港区・泉岳寺…(Ⅲ)

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史跡・名刹巡りをしていて留意しなければならないのは敷地の広さの往時との比較です。この泉岳寺も現代の感覚で見ると狭く感じますが、昔は広い敷地を有する寺社だったようです。元の泉岳寺には総門・中門・山門と三つの門があり、総門は地下鉄泉岳寺駅出口、ビル2階の稲荷社あたりとされ、現存しているのは中門と山門だけなのです。やはり広大な敷地です。「泉岳寺」の額が付けられた山門の脇には、「大石内蔵助吉雄」の銅像が建っています。この銅像もご本人同様に流転を繰り返しています。元々は浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門により鋳造され、その後所有者が転々として泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものとあります。内蔵助が元禄羽織を着て、連番状を手に東の空(赤穂から江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表しています。モロに「仮名手本忠臣蔵」からのイメージなのでしょう(笑)。
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港区・泉岳寺…(Ⅱ)

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お寺からは少し離れますが…。大石良雄の銅像の手前から泉岳寺と高輪学園の間の細道を7分程登って行きます。高輪1丁目アパートと高松宮邸の間の左側に、荒れ果てた感じで「大石良雄外十六人忠烈の跡」との標柱があります。朽ち果てた手入れの悪い公園にしか見えませんが、ここは熊本・細川越中守下屋敷の一部だったと場所です。赤穂浪士は吉良邸討ち入り後、その処分が決るまでは分散して大名家に預けられています。この細川家には大石良雄ら17名が預けられ、この地で切腹しています。後年、大石良雄らは浅野家の菩提寺である泉岳寺に葬られこととなりますが、線香の煙が絶えない泉岳寺に比べればなんと寂しい事か(!)。考えてみれば殿様と正妻と家臣が一緒の墓所に居るほうがよほど不自然なんですけどねぇ。
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港区・泉岳寺…(Ⅰ)

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Pt↑)は泉岳寺境内赤穂義士の墓所から本堂の方向です。12月と云えば「忠臣蔵」ということで、泉岳寺では今年も『義士祭』がおこなわれます。義士祭当日は山門から墓所にかけて人、人、人で大混雑となり、四十七士に扮したパレードが到着する時刻にはピークとなります。日本人なら知らぬ人がいないほど有名な話ですが、史実(赤穂事件)と映画や歌舞伎(仮名手本忠臣蔵)のストーリーは大きく異なります。作品の世界が史実に化けてしまうのは良くある話なのですが‥。これだけ日本人の感性ったお話も珍しいでしょう。いまでも赤穂浪士達の眠るお墓は火事かと思うほどお線香の煙で満ちています。
奥のやや大きめの屋根付きが「大石良雄」です。ご丁寧に墓所の配置案内図まであります。赤穂浪士は四十七士で47人なのですが墓塔は何故か48基あります。”馬鹿殿”の浅野内匠頭長矩、妻の阿久里(瑤泉院)の墓所までが並んでいるなど、『忠臣蔵資料館完結編』という感じです。
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南青山・三河稲荷神社

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青山通りを青山霊園に向い赤坂消防署の手前あたりの奥まった地に鎮座しているのが【三河稲荷神社】です。コンパクトな敷地に鳥居、社殿、手水舎、勧請由来の碑がなどが並んでおり、神社入口から見ると社殿は90°の位置関係になっています。そんな訳でPtの撮影には厳しいモノがありました(苦笑)。由緒書きによると…三河稲荷神社は、天正19年に神田三河町へに移住してきた三河からの武士団が三河より奉遷して創建、後に神田三河町の屋敷が御用地になったため貞享年間(1680年頃)当地へ遷座したとあります。何とはなしに…。赤い柱の社殿が大きいようなきがします。正面の鳥居には「勧請四百年」の額があります。手水舎の屋根などはなかなか工夫に溢れています。
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青山霊園・廣瀬武夫中佐

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Ptは青山霊園の【軍神・廣瀬武夫少佐(特進して中佐)】の墓所です。墓石には「海軍中佐贈正四位廣瀬武夫墓」とあります。明治37年の日露戦争時、大日本帝国海軍は旅順港のロシア旅順艦隊を湾内に封じ込める為、三次にわたって湾口に廃船を沈めて旅順港海上封鎖作戦(閉塞作戦)を企てました。3月27日の第二次閉塞作戦は廣瀬少佐の指揮の元に実行され、廣瀬少佐、杉野兵曹長他計4名が戦死。失敗に終っています。廣瀬少佐は作戦撤退時に行方不明の杉野兵曹長を捜索している時にロシアの砲弾をまともに、受け消し飛んでしまいました。明治37年4月5日に”肉片”が日本に帰ってきます。大雨の東京・新橋駅は在京の海軍軍人や市民の出迎えで大変な騒ぎになりました。
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廣瀬少佐は戦死後”中佐”に特別昇進し「軍神」として崇められるようになります。中佐に関する歌も作られ、文部省唱歌『廣瀬中佐』の♪~轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。荒波洗ふ デッキの上に、闇を貫く 中佐の叫び。「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」~♪がよく知られています。Pt↑)は靖國神社参道大灯篭に埋め込まれた”旅順港閉塞作戦時”のレリーフで富國徴兵保険(現フコク生命)が昭和10年に奉納したものです。この他にも神門に向かって右が海軍、左が陸軍の”名場面のレリーフが造られています。


青山霊園の例外

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青山霊園の道すがらに神宮外苑銀杏並木に寄ってみました。2015.11.15ではこんな感じの色づきです。この銀杏並木は、約300の9mに間隔で雄木44本、雌木102本の計146本が青山通り方面から見ると、絵画館が遠方に見えるように遠近法をもちいて植えてあります。 Pt↑)ですが、行列は人達は銀杏見物ではなく約50m左から右前方の黒い車辺りを最後尾として”日本初上陸の某ハンバーガーショップ”に並ぶ人達です。100円何たらなんて企画の挙句、学生(子供)と貧乏人の溜まり場と化した某チェーンには更なる強敵出現です。
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さて青山霊園ですが…、日本初の公営墓地で現在は東京都の所管で、約26万㎡の敷地に12万人以上が埋葬されています。明治維新の功労者、文学者、科学者、芸術家、政治家、川原乞食の墓所があるのですが、観光地ではないので懇切丁寧な地図も案内もありません。Pt)の『大久保利通』の墓はかなり立派です。…大久保は全身に16箇所の傷を受け半数は頭部に集中し、首に突き刺された刀は地面にまで貫通していた。「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と事件直後に前島密は表現しています(満47歳没)…。かなり憎まれていたのでしょう。
青山霊園は”人”以外の埋葬は禁じられています。例外的には、大久保利通墓所には事件の折に巻き添えになった「馭者・中村太郎」と「馬」・Pt↓上)が敷地内に葬られています。もう一例は「忠犬ハチ公」…ハチ自身は剥製となり上野科学博物館に展示されていますが…飼い主の上野英三郎博士の墓所・Pt↓中)に"忠犬ハチ公の碑”が建てられています。
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虎の門金毘羅宮

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神社の名称で「神宮」やら「宮」が付く神社は殆どが皇室の祖先神を祀っています。もっとも「天満宮/菅原道真」や「東照宮/徳川家康」の例外もあり話はややこしくなりますが…。ここ虎の門金毘羅宮も「宮」の字が付いています。ご祀神は水神、雷神といわれ、稲作豊穣、疫病除け、酒造りの神として信仰を集める「大物主神」です。金毘羅宮以外にも「大物主神」若しくは「大国主/大黒天」を祀る神社は数多いのですが、これは明治年間の廃仏毀釈の際に旧来の”本尊”の変わって「大物主神」を祀神とした神社が多いからのようです。虎の門金毘羅宮には大物主神の他に日本国屈指の大魔王、怨霊神の「崇徳上皇」が祀られています。「崇徳上皇/天皇」→「宮」という事ですね。 神社本殿はオフィスビル”虎の門琴平タワー”に取り込まるような形式で建っています。青銅製の鳥居は青龍・白虎・朱雀・玄武の四方に守護神(四神)の彫刻が施された珍しい形式となっています。
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旧芝離宮恩賜庭園

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JR浜松町駅徒歩3分の『旧芝離宮恩賜庭園』は、江戸時代の池を中心として庭石の配した回遊式泉水庭園の大名庭園の姿を良く残しています。歴史的には明暦年間(1655年頃)に海を埋め立て、延宝6年(1678年)に老中の大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領。忠朝は小田原から庭師を呼び「楽壽園」という庭園を造園しました。江戸末期には紀州徳川家の芝御屋敷となり、明治4年には有栖川宮家が所有。同8年に宮内省が買上げ、翌9年に『芝離宮』へと管理が変遷しています。関東大震災では建物や樹木に大変な被害を受けていますが、大正13年に昭和天皇のご成婚記念として東京市に下賜され一般公開となっています。さらに昭和54年には旧芝離宮恩賜庭園は、文化財保護法(第2条)により名勝に指定されています。
入園料は一般…¥150です。浜離宮や後楽園に比べて低額ですが、岩崎邸は別として入園料のせっていは、庭園の面積に比例しているようです。管理費や運営の人件費が影響しているのでしょう。羽田空港に向かうモノレールの車窓からは良く見える庭園ですが、コンパクながらも見事にまとまった日本庭園です。
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港区・愛宕神社…(Ⅱ)

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本殿には神社にまつわる「絵」が奉納されています。【エピソード1】はPtの左の絵は、講談で有名な「寛永三馬術」の『曲垣平九郎/まがき・へいくろう』の故事にちなんでいます。…【寛永11年、3代将軍家光公が芝の増上寺の参詣の帰路に、梅が満開の愛宕神社の下を通りかかりました。この際に家光公は 「誰か馬にてあの梅を取って参れ」と無茶な命令を発しました。誰もがしり込みするなか唐突に馬で急階段を登りだしたのが四国丸亀藩の”曲垣平九郎/まがき・へいくろう”というお調子者(!)です。このお調子者は首尾よく馬で石段をのぼり降りして山上の梅を家光公に献上。家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、名声は全国に知られたというお話です】…まぁ講談のお話なのですが…。明治以降で真に受けて、馬でチャレンジした”馬虐待の大馬鹿野郎”が3人ほどいるそうです(笑)。
【エピソード2】はPt右の絵。桜田門外で井伊直弼が水戸浪士に襲われた事件では、実行犯のテロリスト達は愛宕神社に集結し、降りしきる雪のなかを約2km先の桜田門へ向っています。境内には「桜田烈士愛宕山遺跡碑」がありますが、『烈士/れっし』とは、革命や維新などにおいて戦い功績を残し、犠牲となった人物またはその人物の称号を云うとのことで、この連中がそれほど”上等な人達”とは思えません。これも長州・薩摩・土佐の都合での史観なのでしょう。
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港区・愛宕神社…(Ⅰ)

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港区愛宕1丁目の『愛宕神社』は東京23区内では珍しい自然形成の愛宕山(標高26m)の山頂にあります。慶長8年(1603)徳川家康の命により創建、主祀神は火の神である「火産霊命/ほむすびのみこと」です。江戸時代は幕府の保護もあり、防火・防災に霊験のある神社として信仰されていました。「安政の大獄・桜田外の変」では井伊大老を襲撃した水戸浪士は品川に潜伏し、直前に愛宕神社に集結して犯行現場(桜田門)に向かいました。当時、愛宕山は江戸府内では最も見晴らしの良い場所で東京湾や房総半島まで望むことができたようです。「鬼平犯火帳」などの時代小説にも登場し、「鉄道唱歌/汽笛一声新橋~」の歌詞にも登場してきます。また愛宕山はNHKの放送事業発祥地で、放送の第一声はこの地から始っています。…NHKの放送博物館は現在は改装中となっています…。
久々に訪れたのですが、摂社・末社の数も多く、歴史的な遺跡もあるのですが…。どうにも有名な割にはパッとしない印象の神社です。
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芝・増上寺…(参)

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何でも”墓参ラー”なる人種が存在し、歴史上の人物や有名人の墓所をお参りして廻るということですが…理解不能です(!) 増上寺・徳川家霊廟など安定人気なのでしょうか(?)増上寺には徳川将軍のうち2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の6名の将軍が葬られ、秀忠公夫人の崇源院殿(お江)や家茂夫人の静寛院(和宮)や5代綱吉公の生母・桂昌院他が葬られています。
徳川家霊廟がこんなコンパクトな訳などはなく、現東京プリンスホテルの広大な敷地を有していました。空襲による霊廟の焼失、戦後の荒廃をへて現在の場所の集められています。”西武・プリンス”の没落も将軍の呪いなのかも知れません。数年前までは、4月の数日間の限定公開(無料)だったのですが、TVドラマの放映で半年間(有料)となり現在も期日限定の公開(有料)となっています。
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Pt↑)の門は旧国宝の「鋳抜門」で6代家宣公(文昭院殿)霊廟の宝塔前『中門』であったものです。左右”葵紋”と昇り龍・下り龍が鋳抜されています。この門の左側に料金所と拝観入口が増設されました。
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芝・増上寺…(弐)

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浄土宗に寺院である「増上寺」は、山号を「三縁山」と称し「三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)」が正式な名称です。徳川家康の江戸入府の際に「増上寺」の前を通りかかり、寺の上人と親しくなったとのが徳川家の菩提寺となったきっかけの伝承だそうですが…。”伝承”でしょう(苦笑)。増上寺の前身の寺は現紀尾井町あたりにあり、後に日比谷を経て慶長3年(1598)に現在地の移転、風水的に寛永寺を鬼門の上野に置き、増上寺を裏鬼門の芝に配した形になっています。
Pt↑)は、室町時代の阿弥陀如来、脇仏に法然上人像、善導大師像が祀られる「大殿」です。曇り空が残念ですが、三解脱門から見る東京タワーを配した大殿は、これぞ”東京”です。Pt↓)は「三解脱門」です。元和8年(1622)の建立とされ、空襲を免れた重要文化財の建物です。この門をくぐることにより3つの煩悩を解脱できるとされています。浜松町駅寄りの「大門」は、増上寺の総門で。現在の門は昭和12年に作られた、コンクリート造です。「大門」自体が、増上寺の管理ではなく、都の管理で在る事が判明し、その責任分担が問題となっているそうです。
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芝・増上寺…(壱)

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今年、平成27年は徳川家康没後400年ということで、「ドサクサ企画」も含め様々なイベントが予定されているようです。
徳川将軍家の菩提寺・増上寺では本堂地階に宝物展示室を造り、英国ロイヤルコレクションより里帰りした「台徳院殿霊廟模型」が4月2日より展示されています。『台徳院殿』とは2代秀忠のことで、その霊廟は、3代将軍家光により1632年(寛永9年)境内南側に造営された壮大な建築群だったようです。残念ながら昭和20年の東京空襲より焼失してしまいました。今回里帰り展示された霊廟模型は、1910年(明治43年)ロンドンでの博覧会に東京市の展示物として出品され、終了後に英国王室へ贈呈された10分の1のスケールの模型です。製作は、古宇田実教授(建築)、高村光雲教授(彫刻)の監修により、現東京芸術大学が最高の技術をもって忠実に再現したものです。
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館内は撮影不可なのでPtはありません(苦笑)。”忠実に再現した模型”として細部まで素晴らしい造作がなされて見事な作品です。ただですねぇ~。大仰な展示室の割には他の展示品が弱いと思われます。増上寺所蔵の「五百羅漢図」なのは素晴らしいのですが…。これで”増上寺宝物展示室”の入館料が¥700とお高く、裏手の”徳川家霊廟”とセット料金で¥1000(¥200割引)。まぁお布施と思えばこんなもんでしょうか?
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【東京十社】‥芝大神宮

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東京十社の「芝大神宮」は港区芝大門1丁目に鎮座する神社です。もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していましたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明」と呼ばれ、後に武蔵国飯倉庄に鎮座したことから「飯倉神明」、さらに芝の地が町の様相を呈してくると「芝神明」と呼称が変遷し、明治5年以降は「芝大神宮」を称するようになっています。伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、「関東のお伊勢様」とも称され、江戸時代には「伊勢神宮」への参拝に行く代替えとして芝大神宮への参詣者が多かったようです。江戸のから伊勢までの日数や費用を考えるともっともな話でしょう。芝大神宮の例大祭はユニークで、9/11~21までの期間、9/16の例祭を挟んで神事が続くのですが長期間「だらだら」と続くので『だらだら祭』と言われています。
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江戸時代は、旅人がこれからの道中無事や無事帰着の感謝の参拝や前述の伊勢神宮の代替参拝でう賑わっています。そうなると参拝者を当て込んだ、茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所等の風俗店や、芝居などの見世物小屋で一大歓楽街として大変な賑わいだったそうです。さすがにいまはその面影はありません。
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なるほど築地市場は…

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『●●と煙は高い所へ』の6回目は港区東新橋の「カレッタ汐留」46階です。「カレッタ汐留」は1999年から3年をかけて2002年に完成した、電通本社や電通四季劇場やレストラン・ショッピングゾーンなどの複合施設です。46、47階には高級飲食店が軒を連ねていますが、46階の「46階展望スペース(SKY VIEW)」からは約200mの高さから築地・勝鬨橋・月島・浜離宮・レインボー・ブリッジ・お台場の景色を”ただ”で楽しめます。
Pt↑)は46階直行のEVから撮っていますが、このEVはかり速度が速く、連写モードでないと追いつきません。この1枚には皇居・武道館・飯田橋・帝国ホテル・東電本社・第一生命・東京駅舎などなどが写っています。
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展望スペース眼下には、築地場内市場・がんセンター・朝日新聞・隅田川勝鬨橋・建設中の新橋・浜離宮が見渡せます。ゲート・ブリッジやレインボーブリッジ・お台場も見えるのですが、この天候なのでボ~ッとしています。展望スペースの注意書きで”長時間の占有はしないで…”とあるのですが右の女性は読書三昧、左の男性は新聞片手にギャンブル予想に没頭していました。
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元麻布・賢崇寺(けんそうじ)

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港区元麻布、ピーコックのお隣に曹洞宗・賢崇寺(けんそうじ)があります。このお寺には226事件を指揮主導し死刑判決を受けた陸軍皇道派青年将校の墓所がひっそりとあります。表通りから坂道を登ると右に本堂、正面に鐘楼があります。鐘楼を過ぎて右に進み、突き当り手前の左側がその墓所です。1936年2月26日未明に天皇親政の元に国の窮状を救おうとした陸軍皇道派の決起はあっけなく鎮圧されてしまいました。ここには226事件裁判により処刑された19名と自決した2名の計21名とあと1名が『二十二士之墓』に眠っています。主義主張により処刑された方々とは異なり、事情も知らずに反乱軍とされ「白骨となって帰還せよ」の厳命のもと戦死するまで過酷な戦場に駆り出されたていって兵士たちの魂は何処をさまよっているのでしょうか。墓所の前に立つと彼らのそんな声が聴こえてきそうな気がします。
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処刑若しくは自決した将校の氏名が記されています。所詮はただのテロリストと云う事なのかも知れません。
お寺の入口です。左2軒隣がスーパーのピーコックです。
正面の鐘楼の先を右に進みます。賢崇寺は肥前佐賀藩主鍋島家の墓所でもあります。
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さて、麻布十番…。

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港区麻布十番は、六本木のような大規模なビルや商業施設が少なく、どことなく下町の風情を感じる街です。写真交差点付近には「豆源本店」、お向かいが「かりんとう」、奥側が「タイ焼き屋」、右に行くとお蕎麦の「長坂更級」と有名処が並んでいます。近くの小公園に野口雨情作の童謡『赤い靴』に歌われる女の子の像がたっています。現実と云うのはえてして残酷なもので…。女の子=きみちゃんは訳あって生母と別れ、幼くしてアメリカ人宣教師夫妻に預けられました。この夫妻と共にアメリカに渡るはずだったのですが…。不治の病結核に冒され、この近くにあった孤児院でわずか9歳で亡くなっています。これが実際の話との説もあるようです。『異人さんに連れられて~』でも『横浜の波止場から~』のストーリーはなかったようです。
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下左)赤い靴の女の子=きみちゃんの像です。さほど大きな像ではありません。
下中)末広神社と竹長稲荷神社が戦災により焼失、その後、現在地にて合併して社名を『十番稲荷神社』と改称しています。
下右)地元商店会の結束が強いようで、年中様々なイベントが年中行われています。
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