旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

千代田区

日比谷の街にゴジラ咆哮…(2)

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日比谷の映画館街には2018年の「東京ミッドタウン」がオープン以来近づく事もありませんでした。いつも間にやら「合歓の広場」だったのが「日比谷ゴジラスクェア」に名称が変わり日比谷シャンテ開業30周年記念として新しい「ゴジラ像」が設置されていました。このゴジラ像は台座を含めて約3mあり、その姿は2016年の日本版ゴジラ映画の「シン・ゴジラ」の姿をモチーフにしているそうです。ゴジラシリーズの映画は60年以上前から続いていてゴジラの姿もコミカルなものや迫力満点の姿まで多種あります。ハリウッドのトカゲは論外ですが、この「シン・ゴジラ」はいい感じです。
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ゴジラ映画の第1作は1954年のことで、第1期ゴジラシリーズが15作品。第2期シリーズが7作品。第3シリーズが5作品と「シン・ゴジラ」。さらにUSA版が3作、2020年には「ゴジラ対キング・コング」が公開予定されています。Pt↑)は写真を撮っていると警備員氏から東宝日比谷ビル内にもう1体あるとの情報を得ました。マニアには判るのでしょうが、このゴジラは1991年の「ゴジラ対キング・ギドラ」に登場した姿のようです。
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以前にも現行と異なる1995年作成のゴジラ像がありました(Pt↓)。このゴジラ像は現在は隣のTOHOシネマズ4階のロビーに移されて展示されています。ゴジラ像のプレートには山根博士の「このゴジラが最後の一匹だとは思えない」が刻まていますが、最後どころか東京ミッドタウン界隈だけでも3体のゴジラ像があります(笑)。1)1995年作成のゴジラ像です。姿は子供たちの味方時代を感じさせます。2)1991.年ゴジラはさすがの迫力です。ゴジラはこれでなくてはいけません。3)ゴジラ映画となると東宝映画の作品「日比谷ゴジラスクェア」は納得の名称です。
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明治33年・三宅坂

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【絵で見る 明治の東京/草思文庫】なる本に面白い項目がありました。日本に最初に「自動車」が輸入されたのは横浜在住のアメリカ人により明治33年(1900)のアメリカ製の「ロコモビル蒸気自自動車」とされていますが、一説にはアメリカ在住の日本人が時の皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚を祝ってアメリカ・ウッズ社製の電気自動車を献上したのが最初との説もあります。この献上された自動車が試運転中にやらかした事故が日本最初の自動車による事故なんだそうです。
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場所は国会議事堂近く最高裁判所前で元々は「寺内元帥騎馬像」があった(現在は寺内像の台座のみを流用した裸のねえさん像が建っています)交差点が現場です。自動車は三宅坂を下って来て交番の前あたりで(現在も麹町警察署三宅坂派出所があります)見物人の婆さんをよけ損なってお堀にドブン!。とはいっても「日本最初の自動車事故現場」なんての記念碑はありません。他の文献を読んで”恐らく”はここだろうとの判断をしました(笑)
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大嘗宮一般参観…(2)

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大嘗宮一般参観とは直接の関係はありませんが、旧江戸城の遺構櫓で残っているのは伏見櫓・巽櫓(桜田二重櫓)とPTの富士見櫓です。江戸城の天守閣は徳川初期の50年間しか存在せず明暦の大火(振袖火事)以降は天守閣の再建はされず、月見の宴や花見の宴などはこの富士見櫓で行われていました。加藤清正家により万治2年(1659)の再建された櫓は石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mあり江戸城本丸の遺構として貴重な建造物です。
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11/21は快晴でした。このPt撮影の立ち位置は皇居敷地内からなので簡単に入れる場所ではありません。通常平日の午前午後で行われている参観ツアーではここを歩きますが、この参観ツアーは定員500名の大行列なので撮影チャンスは極々少ないのです。今般の11/21~12/08が「大嘗宮一般参観」と11/30~12/08の「皇居乾通り一般公開」行事のうち富士見櫓下を通れるのは大嘗宮参観ルートのだけになるので撮影チャンスは限られています(笑)
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今でも再放送が繰り返されていますが、松平健さん主演の「暴れん坊将軍」ってのがあります。実際は徳川8代将軍吉宗の時代には江戸城に天守閣は存在せず。もし天守があったら真黒なので「姫路城」写真を写して「江戸城」と嘘をついてはいけません。大体なんの御用があって三保の松原(静岡)を白馬で疾走しているのでしょう?。まして江戸時代には白馬のサラブレッドなどいません(笑)。

大嘗宮一般参観…(1)

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11/14・15で行われた「大嘗宮の儀」での大嘗宮の一般参観が今日(11/21)より始まりました。通例では大嘗宮は大嘗宮の儀が終了すると即刻取り壊されるのですが、今般は広く一般の参観ができる事となりました。11/21~12/08が「大嘗宮一般参観」で11/30~12/08が「皇居乾通り一般公開」と2つの行事が行われます。並行日程のように感じますが、11/30以降であれば乾通り&大嘗宮もみられることとなります。
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さて、今日は”空いていれば”という事でPM12:15に手荷物検査場に着いたのですが、なんと手荷物も身体検査も待ち時間なしで通過できました。大嘗宮見学コースは【坂下門前で手荷物&身体検査を受け=入口は坂下門です=宮内庁庁舎を左に見て=富士見櫓方向へ進みます=ここから東御苑敷地に入り=大手中之門の坂道を上り=中雀門跡から本丸御殿跡へ=ここから大嘗宮は見えます=思いの外大嘗宮近くまで接近できます=大嘗宮裏手へ廻り=帰路は北跳橋門から退出、梅林坂を下り平川門もしくは大手門から退出となります】ゆっくり歩いても検査完了後からなら1時間はかかりません。
例年なら同神事は「新嘗祭」と呼ばれ宮中で非公開で行われます。「大嘗祭」は新天皇即位時のみでその為の宮が造られる特別な神事です。恐らく私たちの多くは次の大嘗祭を見ることはないでしょう。そういう意味でもチャンスです!
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2019夏・皇居東御苑…(2)

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Pt↑)は建設中の大嘗祭(2019)が行われる「大嘗宮」の模様です。古式の宮殿そのものに柴垣で囲み悠起殿・主基殿・廻立殿の三殿は「大嘗祭」のためだけに新設され儀式後は取り壊しになります。平成の大嘗祭では大嘗宮の設営費用が14億5千万円が計上され話題になりました。ただし平成の大嘗宮の建設は非公開とされ東御苑も休園となっていました。令和の大嘗宮は近寄ることはできませんが、フェンス越しには見ることができます。
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通常の新嘗祭は宮中祭祀の収穫祭にあたり、通常は11月23日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らこれを食べその年の収穫に感謝する儀式で、新天皇が即位後初めて一世一度に行う新嘗祭が「大嘗祭」です。Pt↑)は東御苑休憩所に展示(光が映り込んでいますが)してある大嘗宮の模型です。通常展示なのでごく普通に見られますが、これと同じ宮殿がすぐ脇で建設中という事です。
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大嘗祭とは関係はないのですが、Pt↑)は皇宮警察に所属する「消防車」です。実はこれ、ヤマザキパンの配送車とにたからーリングですが、何分に広大な敷地の皇居では緊急時にすぐ対応できるように、消防車両も巡回しています。所属する消防車は見慣れた「赤」車両が多いのですが、この色の車両は貴重とも云えます。坂下門付近ではよく見かけますが、この日はたまたま三の丸尚蔵館近くで停車していました。
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2019夏・皇居東御苑

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久々に訪れた皇居東御苑の見慣れた景色が大きく変貌していました。本丸御殿(大奥跡)には新天皇即位後、令和元年11月14・15日に予定される「大嘗宮」の建設が進行中です。「即位の礼」は5月の「剣璽等承継の儀」から10月20日の「即位の礼正殿の儀」など行われるなど5つ儀式が続きますが、宮中行事の「新嘗祭」は天皇が五穀豊穣と国民の安寧を神々に祈る神事で、通常は皇居内「宮中三殿」で行われます。新天皇の即位後最初の「新嘗祭」を特に「大嘗祭」と云い特別な行事とされます。つまり今年の「大嘗祭」は恐らく二度と経験できない神事なのです。日本の秋には新嘗祭や勤労観感謝の日という五穀豊穣に感謝する伝統の日があるので、アメリカねずみに騙されて「ハロウィン」なんて浮かれている場合ではありません。大嘗祭終了後にはこの宮は取り壊されるのでこの景色は今年限りなのです。
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Pt↓)大手下乗門の休憩所辺りも工事中でした。「即位の礼」とは関連がないようすが皇室のお宝「御物」を展示する尚蔵館が増築されるようです。
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靖國神社・彗星艦上爆撃機

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靖國神社遊就館の零戦52型展示ホールより館内へ入るのは久しぶりです。遊就館にはペリー来航から太平洋戦争の終結までの日本国が関わった戦争の歴史が展示してあります。徳川~明治の年間は長州史観による展示で納得できない部分も多々あります。昭和の戦争の展示は胸に迫る内容も多く奉納された「花嫁人形」などは涙を禁じえません。写真や手紙など個人による展示の多くは撮影禁止ですが、大展示室だけが撮影が許されています。
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この旧軍機は、「海軍航空技術廠」と「愛知航空機」による艦上爆撃機「彗星一一型」です。零戦や隼に比して知名度の低い旧軍機ですが、陸軍の「飛燕」と同様に水冷エンジン(熱田発動機)を搭載した画期的な機体で同型の「二式艦上偵察機」を含め2253機が造られています。資料によるとこの機体はテレビ局の企画により昭和55年にヤップ島から回収されて復元された機体です。平成28年に再度の修復工事が行われオリジナルに近づけています。旧軍戦闘機以外の艦上爆撃機の展示は珍しく日本唯一ではないでしょうか(?)
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吊り下げられている機体は、ロケット式推進機の「桜花」です。質感が判りづらいのですが恐らくレプリカでしょう。爆撃機の一式陸攻に吊り下げられての出撃模様の展示もありますが、10数回の出撃で桜花搭乗員55名死亡に対し親機の搭乗i員は365名が戦死しているそうです。出撃したら必ず死ぬ為に造られた航空機なんてあり得ない機体があったのです。「狂気」という言葉で終わらせるにはあまりにも悲しすぎます。 Pt↓)これも地味ながら貴重な「九七式中戦車」が展示されています。サイパン島から帰還した車両との事ですが、現在の陸自の一〇式戦車に比べるとトラクター程度にしか見えません。「桜花」と同様”必死兵器”の「人間魚雷・回天」の実物です。
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靖國神社・零戦52型…(2)

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九段の靖國神社。この『靖國』が神社名の正しい表記で『靖国通り』の表記とは異なります。つまりは靖國神社の『靖』のつくりの青の下は「月」ではなく「円」で、國は旧字を使っています。それはともかく、久々に靖國神社遊就館の零式艦上戦闘機52型を見てきました。九州・広島・愛媛・岐阜と旧軍戦闘機を見てきましたが振り出しに戻ってきた感があります。
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[2011.06]の稿でも簡単に触れていますが、この機体は旧ラバウル基地に放置されていた機体を昭和49.年に回収、傷んでしまった部品を他のヤップ島などで回収された機体の部品で補填、20年の歳月をかけて完成させたもので、復元制作者の河口湖自動車博物館より平成14年に寄贈されたものです。零戦は三菱と中島飛行機で1万機以上が造られ、この機体には三菱製である機体番号表記と三菱零戦の塗装がなされています。
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零戦には試作機の十二試艦戦・21型・22型・32型・52型等があり映画撮影用のレプリカを含めると各地に残存している機体は52型が多いようです。大刀洗の32型や河口湖の21型は貴重な零戦といえます。Pt↓)は機体番号表記と主脚部分には製造会社の検査表と取扱い要綱が貼られています。この辺りはマニアの世界に踏み込むことになるのでやめておきます。
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狸の守護神・柳森神社…【令和】

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昔柳森神社の近くには不忍の池に匹敵する広さの「お玉が池」がありました。池の埋め立てがすすみ柳原土手への立退きを余儀なくされた狸親子が自分らを祀ってくれるなら親は「福」を,子は「寿」を授けるとの申出により、太田道灌が江戸の鬼門除けとして伏見稲荷から勧請した柳森神社に合祀されることになりました。Pt↑)が柳森神社(稲荷社)の境内社の福寿神の社殿です。賽銭箱と社殿下方には一対の狸の像があります。解説板には桂昌院に纏わるがかかれ、旧お玉が池の狸親子の話はありません。Pt↓)は2012年末頃に授けられた狸親子の縁起物です。柳森神社社務所ではなく近所のお扱い店で手に入れたのですが、現在はその家もなくなっていて親子狸像自体も滅びているのかも知れません。
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狸にまつわるもう一つの話として有名なのが徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の話で、京都の八百屋の娘から将軍の生母迄出世(他を抜く)した桂昌院にあやかろうと大奥内で厚く信仰されていました。大奥で祀られていた福寿狸大神は後に旗本瓦林邸に移り明治年間に柳森神社へ合祀されたようです。ということで神使きつねの稲荷社に狸神(福寿狸大神)が祀られている妙といえば妙な話の道筋が見えてきました。Pt↓)にある鳥居は福寿神の社殿に正対していて稲荷社の鳥居ではないようです。鳥居左右の狸像は右の像が「福寿狸大神」のようです。
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神田明神の境内社 Ⅳ

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神田明神の境内社も4回目です。「古社は裏手が面白い!」と云え、さすが江戸総鎮守社です(苦笑)。Pt↑)は「末廣稲荷神社」、社殿は昭和41年(1966)の再建です。創建は不詳とされるもののかなりの古社のようです。出雲社と同様に以前はは江戸のどちらかの街稲荷だったのでしょうか(?)鳥居は明神鳥居、狐います、社殿は伊勢形式となっています。
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隣には「三宿稲荷神社」と「金毘羅神社」が合祀されています。三宿稲荷神社は江戸時代から神田三河町に祀られていたようで、後に神田明神の神主邸内の内山稲荷と合祀され、さらに神田明神の末社となっています。金毘羅神社は天明3年(1783)に現東日本橋2丁目辺りに創建、墨田川の船人の崇拝を集め、後には飲食業や花街の人々へひろまってていたようです。昭和41年に三宿稲荷ともにこの地へ鎮座しています。鳥居は神明鳥居、社殿は伊勢形式、狐いません。
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さらにもう一社が「浦安稲荷神社」です。家康入府の天明年間に鎌倉町(大手町あたり?)に勧請され、寛政年間に崇拝者により社殿が造られ「浦安稲荷神社」となったようです。天保年間に神田明神境内に遷座し、明治維新などの戦火で失われた内神田の5社の稲荷神社を合祀っています。鳥居は明神鳥居、狐います、社殿は伏見形式です。

神田明神の境内社 Ⅲ

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続いて「神田明神の境内社 Ⅲ」です。どこまで続くのでしょうか、さすがに東京屈指の古社です。Pt↑)平成になって建立された合祀殿は神様達の”マンション”といった感じです。1)籠祖神社(かごそ・猿田彦と塩土老翁神。2)八幡神社・誉田別命(応神天皇) 3)富士神社・木花咲耶姫 4)天神社・菅原道真と柿本人麻呂 5)大鳥神社・日本武尊 6)天祖神社・天照大御神 7)諏訪神社・建御名方神・・お賑やかな事です(笑)。
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境内社とは異なりますが上記の合祀殿のお隣に氏子・崇敬者の先祖をお祀りする「祖霊社」があり、この社殿の裏手に興味深いモノがあります。1)万世橋と名の橋は明治6年(1992)に東京で最初に架橋された石橋だったそうです。現在の万世橋のやや上流にあり、現在地に移されたのち、明治6年製万世橋は明治39年に取り壊されています。その取り壊された明治6年製万世橋の欄干だけがこの場所に保存されています。 2)橋の欄干と同じ場所に乃木将軍の書による「彰忠碑」が立っています。日露戦争時の戦没者の慰霊の為に造られたのでしょうが、何故この場所なのか良く判りません。年代的に碑と欄干の場所に祖霊社が後から造られたのかも知れませんが。
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神田明神の境内社 Ⅱ

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稀有な例なのでしょうが、ご祀神を建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)とする天王社が三社並んでいます。Pt↑)が「小舟町八雲神社」、この神社は江戸城内よりこの地に遷座されたとされる社です。貞享年間頃までは小伝馬町に仮屋があったことから小舟町天王と称し、日本橋小舟町は数㎞離れているのですが、小舟町八雲神社天王祭はそちらで行われます。お隣が「大伝馬町八雲神社」。小舟町八雲神社と同様に祭礼の神輿が大伝馬町の仮屋へ渡御していてことから、この社名となったようです。
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さらなる1社が「江戸神社」です。前項でも触れたように創建は大宝2年(702)の東京屈指の古社です。この三天王社と日本橋魚河岸水神社(弥都波能売命)は地域(町)と離れて江戸総鎮守内に神社があることになります。部外者からする同じと建速須佐之男命を祀るなら合祀すれば良いのにと思いますが、各町の氏子達の思い入れが、結果として同じ神様が3社並ぶという現象なっているようです。水神さんにしても社殿がこの地で遥拝所が築地魚河岸内なのですから、そう考えると納得できます

帰ってきた井上勝

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長きに渡った東京駅丸の内駅前広場の工事がようやく完了となりました。と同時に新丸ビル近くに見慣れぬ銅像が造られています。この御仁は長州出身の「井上勝」。伊藤俊輔や井上聞多らと長州藩が英国に遊びに行かせた5人衆の1人で、後に明治政府の鉄道庁長官を務め「鉄道の父」と呼ばれた人物です。調べてみるとこの銅像は台座から頭の先まで約8m(3+5m)。東京開業の1914年に初代が造られ、戦時中の金属供出で撤去。1959年に彫刻家朝倉文夫により再建されています。Pt資料では丸の内中央口(皇室区画)前で皇居向きだったようですが東京駅舎復元工事で撤去され今般現在地に移されました。帰ってきた場所は旧国鉄本社前なので”なるほど感”がありますが、いまさら「鉄道の父」と云われてもねぇ。
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都旧跡・将門塚

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日本三大怨霊神(平将門、崇徳上皇、菅原道真)の平将門は平安時代中期に自ら『新皇』を称し京都朝廷に反乱を起こした関東の豪族です。反乱は鎮圧され将門は斬首、その首は平安京の都大路に晒され、伝承では数日後に夜空に舞い上がり関東方面に飛んで数か所に落下したとされています。著名なのが千代田区大手町1丁目2番にある「首塚」です。かつてこの地は『武蔵野国豊嶋郡芝崎村』と呼ばれていたそうで、首が落ちたのはこの付近という事になります。いつの頃からかこの付近で不埒なおこないをすると”祟り”があるとの伝承が生まれているのですが、疑問点があります。本来は江戸城の鬼門方向に祀られた将門ががいつの間にやら怨霊神となってしまいました。
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実際は”首”が飛んでくる訳がないので、何らかの将門と結びつける怨霊信仰があったのでしょうが、首が落ちたとされるのは現皇居・桔梗門(内桜田門)付近との説があり、このほうがしっくりきます。桔梗門は太田道灌の”桔梗の紋”に由来するといいますが、むしろ平将門の愛人「桔梗」に由来するの方が無理がないのかも知れません。都から舞い戻った将門の霊魂は様々な形に分散して江戸の街の各所に祀られています。ここまで丁重に祀られているにもかかわらず考えようによってはとんでもなく身勝手な霊魂です。そうなると一連の怨霊事件は将門によるものかどうか疑問です。現在は将門塚は整備中となっていました。それにしても解説板が三種類もあります。さらにはこの地が酒井雅楽頭に上屋敷跡であり山本周五郎の「樅の木は残った」の原田甲斐が殺害された現場でもあります。
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明大博物館・刑事部門・・Ⅱ

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久し振りに「明治大学博物館」へ立ち寄りました。確認すると2012年07月以来となります。この博物館は考古学部門等々の展示も高レベルですが、刑事部門での江戸時代の拷問や処刑の展示、ギロチンやニュルンベルクの鉄の処女などの展示は特に貴重です。笑えないのが博物館に一番来ないのは明治大学の学生だそうで、まぁそんなものなのでしょう。Pt↑)は前回撮影したものです。中央の白黒写真は「暗闇坂の磔写真」として有名なもので、明治2年に英国人により横浜の戸部監獄で処刑され暗闇坂刑場に晒された強盗団の写真です。上段は磔の写真で下段は獄門首が写っています。もともとは外国人向けの日本土産だったのですが日本の刑罰史では貴重な写真なのです。
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それがですねぇ・・
、今回訪れるとこの2点の白黒写真が外されていました。理由を聞いたところ『写真が気持ち悪い』との意見があったそうです。部外者ながら「その馬鹿野郎を呼んで来い。重々説教してやる」という気持ちになります。たった150年前に日本で現実に行われた刑罰で、軟弱なTV局なら放送禁止となる事例だからこそ展示する価値があるというモンで、だいだいが明治大学ってには法律学校だったはずで、それを『気持ち悪いと・・』から撤去とは情けない限りです。正直本当に腹が立ちました。だもんで撤去された写真を再度掲示してみます。

澁澤榮一像やら・・

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こちらは千代田区大手町2丁目の常盤橋公園に立つのは『澁澤榮一』の像です。天保11年(1840)に現埼玉県深谷市に生まれ昭和6年(1931)91歳で没するまで、徳川幕臣・明治政府官僚・実業家など東京証券取引所を始め多種多様な企業の設立にあたった御仁で、銅像は氏の功績を顯彰目的で昭和8年に澁澤青淵翁記念會が建設したものです。ご本人は150㎝位なので台座の部分を含めると大きすぎの感があります。
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澁澤翁像の後方、千代田区と中央区に架かる橋が「常盤橋」です。常盤橋は2橋あり明治年間に架けられたアーチ橋が「常橋」。東北震災の影響での修復工事がされている江戸城遺構の橋を「常橋」と呼ぶようです。「磐」と「盤」・・文章で説明するのは少々面倒です。江戸時代初期には日本橋近辺よりこの付近のほうが賑わっていたようで、隣の「一石橋」には”満よひ子の志るべ”が造られるほどです。
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そういえば「日本銀行本店」を上空から見ると建物が日銀だけに「円」に見えるという都市伝説がありますが、貨幣に「円」が使われたのは昭和の20年代のことで建物完成時は「圓」の字が使われているので、この話は完全にガセです!

皇居東御苑・富士見櫓

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「富士見多聞」内部公開に合わせてなのでしょうか、「富士見櫓」が若干ですが近くに接近しました。フェンスの位置が移動し広場らしきモノと解説板が増設され説明が判り易くなりました。たったの数mの拡充ですが東御御苑を含む皇居全域は史跡に指定されているため遺跡等が発掘されてしまったらエライ事になります。聞いた話ですが「富士見櫓」は昭和42年以降は大きな修理がされておらず耐震構造や壁の漆喰に難があるため、当分の公開は無いと思われます。
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Pt↑)は東御苑側の「富士見櫓」、旧江戸城遺跡で唯一残った三重櫓です。江戸城の天守閣は徳川初期の50年間しか存在せず明暦の大火(振袖火事)以降は天守閣の再建はされていません。「暴れん坊将軍」=8代将軍吉宗に時代には天守閣は存在せず、この「富士見櫓」が天守閣の代わりとなり、月見、花見の宴などはこの櫓でおこなわれています。next・Pt)は皇居敷地側からの「富士見櫓」で別の建物に見えます。現存の三重櫓は万治2年(1659)の再建で石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mあり、造ったのは加藤清正とされます。江戸城本丸の遺構として貴重な建造物です。
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皇居東御苑・富士見多聞

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2016年11月15(火)より通年で皇居東御苑の「富士見多聞」の内部が公開されています。=Pt↑)は昨年の乾通り通り抜け時でこの景色は見られません。中央の白壁の長屋が「富士見多聞」です=。「多聞」とは石垣上に建てられた長屋状の構造物で防御施設とされています。旧江戸城本丸には多くの「多聞」がありましたが、現存するのはこの『富士見多聞』だけです。横幅31.5m、高さ6.3mの長屋状で、正確な建築年代は不明ですが、明暦3年(1657)の振袖火事での江戸城焼失後で万治元年(1659)との説が有力です。皇居内での江戸幕府の遺跡内の公開は初めての事なので一見の価値は充分にあります。富士見多聞内部からは蓮池堀、乾通り、局門、門長屋、紅葉山等の宮殿側の景色が見えます。
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平河天満宮

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千代田区平河町の『平河天満宮』です。国立劇場の裏手、Pt↑)の様にビルの谷間といった感じです。ご祀神は天満宮ですから「菅原道真」と「徳川家康」を相殿の神として祀っています。文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと言われ、徳川家康以降は本丸内より平河門外に移り、2代将軍徳川秀忠より慶長11年(1606)現在の地に遷座しています。
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徳川幕府に特別な格式待遇を受け紀州徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあったことで、江戸の神社としては格式が良いようです。さほど広くない境内には銅製の鳥居や、力石、狛犬があり、千代田区の文化財に指定されています。ご祀神の菅原道真公は承和12年”乙丑”生まれということで、拝殿にかけて「撫牛」や「石牛」がステーキハウス「スエヒロ」の寄贈を含め5体もあります。
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・この狛犬は享和元年(1801)に麹町人々によって奉納され、嘉永五年(1852)に再建されています。・半蔵門線駅のマンション1Fにあるのが皇居ランナー御用達の”バンドゥーシュ”なる銭湯です。・同ビルには太田道灌縁の「太田姫稲荷」がいつのまにやら鎮座しています。

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千代田区隼町・最高裁判所

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Pt↑)は国会議事堂参観者バス駐車場から『最高裁判所』を遠望しています。いつもなら観光バスで賑わっているのですが、8月のそれも休日なので観光バスは1台もおりません。以前はこの立ち位置と最高裁の間には社民党(社会党)の党本部がありこの景色は見えませんでした。党本部は老朽化(?)で取り壊され跡地には現時点では何も建てられている様子はありません。”栄枯盛衰世の習い”とはいえ時代は変わっていくものです。
1974年に竣工の『最高裁判所』は日本建築学会賞を受賞している美しい建物です。外観は至極あっさりしているように見えますが、館内に入ると、吹き抜け大ホールはスパイ映画に出てくる秘密基地さながらです。この最高裁法廷では、原告、被告が論戦を交えることはありません。裁判は既に結審しており、最高裁で判断されるのは裁判の過程に不備があったか否かです。つまり被告は既に拘置所にいることになります。『最高裁判所』は事前の申込みにより庁舎内を見学を受け付けてもらえます。詳しくは最高裁HPに記載されています。
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・建物全体が白いので画像が”白トビ”してしまいます。 ・最高裁近くの自販機です。球団関係者のビルとは思えないのですが徳注品でしょうか?
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