旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

千代田区

皇居東御苑・富士見多聞

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2016年11月15(火)より通年で皇居東御苑の「富士見多聞」の内部が公開されています。=Pt↑)は昨年の乾通り通り抜け時でこの景色は見られません。中央の白壁の長屋が「富士見多聞」です=。「多聞」とは石垣上に建てられた長屋状の構造物で防御施設とされています。旧江戸城本丸には多くの「多聞」がありましたが、現存するのはこの『富士見多聞』だけです。横幅31.5m、高さ6.3mの長屋状で、正確な建築年代は不明ですが、明暦3年(1657)の振袖火事での江戸城焼失後で万治元年(1659)との説が有力です。皇居内での江戸幕府の遺跡内の公開は初めての事なので一見の価値は充分にあります。富士見多聞内部からは蓮池堀、乾通り、局門、門長屋、紅葉山等の宮殿側の景色が見えます。
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平河天満宮

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千代田区平河町の『平河天満宮』です。国立劇場の裏手、Pt↑)の様にビルの谷間といった感じです。ご祀神は天満宮ですから「菅原道真」と「徳川家康」を相殿の神として祀っています。文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと言われ、徳川家康以降は本丸内より平河門外に移り、2代将軍徳川秀忠より慶長11年(1606)現在の地に遷座しています。
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徳川幕府に特別な格式待遇を受け紀州徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあったことで、江戸の神社としては格式が良いようです。さほど広くない境内には銅製の鳥居や、力石、狛犬があり、千代田区の文化財に指定されています。ご祀神の菅原道真公は承和12年”乙丑”生まれということで、拝殿にかけて「撫牛」や「石牛」がステーキハウス「スエヒロ」の寄贈を含め5体もあります。
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・この狛犬は享和元年(1801)に麹町人々によって奉納され、嘉永五年(1852)に再建されています。・半蔵門線駅のマンション1Fにあるのが皇居ランナー御用達の”バンドゥーシュ”なる銭湯です。・同ビルには太田道灌縁の「太田姫稲荷」がいつのまにやら鎮座しています。

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千代田区隼町・最高裁判所

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Pt↑)は国会議事堂参観者バス駐車場から『最高裁判所』を遠望しています。いつもなら観光バスで賑わっているのですが、8月のそれも休日なので観光バスは1台もおりません。以前はこの立ち位置と最高裁の間には社民党(社会党)の党本部がありこの景色は見えませんでした。党本部は老朽化(?)で取り壊され跡地には現時点では何も建てられている様子はありません。”栄枯盛衰世の習い”とはいえ時代は変わっていくものです。
1974年に竣工の『最高裁判所』は日本建築学会賞を受賞している美しい建物です。外観は至極あっさりしているように見えますが、館内に入ると、吹き抜け大ホールはスパイ映画に出てくる秘密基地さながらです。この最高裁法廷では、原告、被告が論戦を交えることはありません。裁判は既に結審しており、最高裁で判断されるのは裁判の過程に不備があったか否かです。つまり被告は既に拘置所にいることになります。『最高裁判所』は事前の申込みにより庁舎内を見学を受け付けてもらえます。詳しくは最高裁HPに記載されています。
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・建物全体が白いので画像が”白トビ”してしまいます。 ・最高裁近くの自販機です。球団関係者のビルとは思えないのですが徳注品でしょうか?
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太田道灌像

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東京国際フォーラム内の『太田道灌像』です。太田道灌像は新宿中央公園、日暮里駅前、川越市役所などあちこちに造られてていますが、「朝倉文夫」作によるこの銅像が一番美形(?)なのではないでしょうか(?)。比べても新宿中央公園の作品は見劣りするような気がします。『太田道灌』…室町時代後期の武将です。1432年~1486年没となると当然のごとく徳川家となんの関連もありません。100年を時を経て元領地にやってきた徳川家が幕府を開き260年にわたって続いた為、道灌の名前が後世に残ったのですが、㈱上杉の東京営業所所長的な単なるローカル武将にすぎません。「江戸城」を築城と云っても、道灌・江戸城は砦程度の規模で、何処にあったのか明確に判っていません(東御苑・北跳橋門~北の丸辺りとされています) 道灌堀や桔梗門など”らしき”名称は現在もありますが、関連性に乏しいようです。
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三宅坂・謎の群像

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千代田区隼町、三宅坂に面した一画に「平和の群像」というタイトルの3体の裸婦の群像があります。最高裁判所の敷地の一角と云う感じで公園の造作はしっかりしており、最高裁関連の施設と思えるのですが…。なんとこの裸婦像は広告屋電通の前身である”日本電報通信社”が1950年に自社の創業50周年記念として建設したものです。近くで見ると台座と裸婦像のバランスがえらく悪いのですが、それもそのはずこの台座は元々寺内正毅陸軍大将の騎馬像が乗っており、寺内大将像の台座のみの流用使用したものです。それにしても一企業の記念碑が何故この地に…。委細は不明です。
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続・日比谷公園の諸々

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Pt↑)は「第一花壇」と呼ばれる日比谷公園のシンボル的な景観です。明治36年開園当時には、幾何学文様デザインの公園は、江戸時代の広小路や寺の敷地とはさぞ異質なものであったと思われます。林学博士・本多静六の設計による日比谷公園は「日本人による日本初の洋式公園」として造られました。同博士は、福島県の鶴ヶ城公園や埼玉県の羊山公園、福岡県の大濠公園などの公園造成に携わり「公園の父」とも呼ばれています。日比谷公園のある場所は、江戸時代は大名の屋敷地であり、現在の日比谷交差点付近には見張り役人が警備する”日比谷御門”がありました。Pt↓)の日比谷見附の石垣は江戸時代初期の築造物です。その一部が「心字池」として残されています。
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日比谷公園の諸々

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明治36年6月1日に開園した「日比谷公園」は161,636.6㎡の広さがあり”ビジネス街に勤める人達の憩いの場”というお約束の映像によく登場しています。 幕末までは松平肥前守らの屋敷跡地で、明治時代に陸軍練兵場、後に日本初の「洋風近代式公園」として誕生しています。公園設計には様々な仕掛けが施されており”なんじゃこりゃ”というモノも多々あります。Pt1)はルーパ・ロマーナ(ローマの雌狼)の像です。この像自体はローマ帝國の建国伝承として有名ですが、昭和13年にイタリアから東京市に寄贈されたものとあります。ということは日独伊三国同盟と関連があるのでしょう(?)
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Pt↑)は「雲形池」です。案内には“開園当初からの面影を残すドイツ風庭園洋式の池”ということですが、「日本庭園」そのものに見えます。PT2↓)池の中央にある「鶴の噴水」が置かれ…。冬場の凍りついてツララ下がる景色は日比谷公園の冬の風物詩です。この「鶴の噴水」は1905年(明治38年)に東京美術学校(現東京芸術大学)の津田信夫、岡崎雪声の作品だそうです。公園等に置かれた装飾用噴水としては長崎諏訪神社、大阪箕面公園に次いで日本で3番目に古いそうですが。どうでも良い話です。Pt3↓)腐食が激しい鋳物製の馬の水飲み場です。アルタ前広場のものとは印象が異なります。Pt4↓)は日比谷公園第一花壇の「自由の女神」の像です。
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神田明神の境内社

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流石に”江戸総鎮守”の『神田明神』だけあって由緒ある境内社が多数あります。この境内社に”社日参り(春秋の彼岸の中日に一番近い戌の日にお参り)に七つの石鳥居をくぐって参拝すると中風・ボケ封じになるそうです。Pt↑)は弥都波能売命(ミヅハノメ)を祀る水神社です。江戸時代、魚河岸の人達によって現・千代田区大手町に創建されたと云われ、元和年間(1615~1624年)にこの地に遷り、明治24年(1891年)に「魚河岸水神社」と社名を変更、日本橋魚市場の守護神として崇敬されます。築地場内市場の水神社は遥拝所で、こちらが神社です。
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ともか境内社の数が多いのですが…Pt↑)こちらは「江戸神社」です。三天王の一の宮であり、祭神は建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)です。大宝2年(702年)に現・皇居に創建された大江戸最古の地主神とされています。鎌倉時代は土着豪族の江戸氏の氏神として崇敬され、上杉氏・北条氏と続きます。慶長8年(1603年)に神田神社と共に神田台に遷り、さらに元和2年(1616年)にこの地に遷座しています。この他にも小舟町八雲神社・大伝馬町八雲神社・浦安稲荷神社・宿稲荷神社・金刀比羅神社・末廣稲荷神社・祖霊社・合祀殿と並び、野村胡堂の小説”銭形平次”の碑なんてのもあります。
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和田倉噴水公園

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現在の和田倉噴水公園の場所は江戸時代以前は大手門あたりまで「平川」河口で水深は浅い入江が入りこんでいました。江戸初期に入り江は埋め立てられ、江戸湾への”道三堀”掘削され、和田倉付近は江戸城へ日常物資の搬入口として荷揚場や倉庫(一ノ蔵地)が置かれていました。堀には和田倉橋が架けられ枡形(左曲り)の「和田倉門」が架けられ、時代の変遷と共に幕府御用地の厩であったり会津藩屋敷であったりしていたようです。『和田倉噴水公園』は、昭和36年に今上天皇の御結婚を記念して創建され、工事を担当した会社の笑ってしまう”入札価格”は伝説となっています…。大噴水は平成5年6月の皇太子殿下の御結婚を機に、新たに整備し、平成7年6月に完成したものです。公園を構成する施設には”デザインテーマ”が付けられていますが今回はパスします(笑)。奥のガラス張の建物はレストハウス&情報コーナー、トイレなどです。
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皇居参観当日受付の愚

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【事前申請が必要な皇居の一般参観について、4/18〜22日は当日の受付も実施し、6月下旬から当日受け付けを本格実施】との発表があり、今日(4/20)出かけてみました。結論から言うと、これは”皇居参観”ではなく”皇居ぐだぐだ歩き会”です。通常の事前予約による1回あたりの定員はMax250名(?)、これに当日受付枠300名(AMの場合)が加わりMax550名(!)です。(今日のAMは450名。宮内庁の目標は500名/1回との事です)。これでは粛々たる皇居参観は無理というものです。日本人年配者や訳も判らず参加した外国人で450名ですよ(笑)。職員さんの案内説明は聞こえず参観者の列は100mを超え、写真を撮りながらぐだぐだ歩くとなりました。桔梗門前の受付け待機場所には”日陰”などありません、6月以降となれば熱中症の方が続出するでしょう。さらには”民度の低い国の方々”が大挙押し寄せたら事件・事故確実です。正直「皇居参観当日受付」は再考された方がよろしいかと思います。粛々たる参観のイメージが失われ単なる観光地に成り下がることになるのでしょうか…?「皇居参観当日受付」での参観者水増しは愚行です。
Pt)は参加者待合室の「窓明館」です。この部屋にこれだけの人がいるのを見たことがありません。宮殿では先頭と最後尾が100m以上離れています。折り返しの正門鉄橋の橋上。いやいや大変な人数です(笑)
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気象庁・気象科学館

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千代田区大手町1丁目の気象庁内に「気象科学館」があります。思いっきり目立たない施設ですが、展示内容は、気象や地震の観測機器・天気予報・緊急地震速報・津波・火山等が意外なほど多岐に渡る展示内容です。開館は10時~16時、恐らく土・日・祭の休み無し、無料、見学所要時間1時間程度です。
庁舎入口でガードマンに「気象科学館」見学の旨を伝え入館証を交付してもらいます。この辺りはいかにも官庁と云った感じですが書類への記入などは不要でした。わざわざ目的として行く施設ではありませんが…。何かのついでという感じなら宜しいかと…(笑)。
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太田道灌「追慕の碑」

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皇居東御苑・平川門近く(毎日新聞社前)に太田道灌「追慕の碑」なる碑があります。解説板によると…この碑は太田道灌没後(主君による粛清)450年を記念して建立されたとあり更には平成19年が太田道灌江戸城が長禄元年(1457)に築城550年ということで都市東京と千代田区の繁栄を築いた…云々とあります。解説板の内容は間違いではないのですが、”粛清”で死んでから450年記念とは…。太田道灌透資長(1432~1486)は室町時代の武将で、「江戸」という地名は道灌が滅ぼした豪族「江戸氏」によります。武蔵国の田舎娘に馬鹿にされるくらいですからたいした教養ではありません(笑)。一方、豊臣秀吉の国替え命令で徳川家康が江戸の地に入ったのは1590年。両者は100年以上の隔たりがあり関連性などありません(!)。江戸城といっても、諸説はありますが実際のところ”太田道灌江戸城”の場所は正確には判っていません。なんでこの場所にこんなモノを作ったのでしょうか…?釈然としません(笑)。
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皇居乾通り公開…2016春

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★3/31の早朝に発表があり「乾通り公開」は4/3(日)までの期間延長となりました。
桜の開花は実に難しいものです(苦笑)。皇居乾通り公開2014年春は4/4~4/8だったのですが(2015春は開催なし)この時の桜花は盛りが過ぎていました。今年は今年で東京の開花宣言以降に低温の日が続き、結果として今日まで”満開に至らず”と云う事になったようです。こればかりはどうにもならないのですが…。そんな理由もあるのでしょうが、今年は坂下門前大混雑という現象もなく順調に観られたようです。Pt1)並び始めから坂下門を抜けるまで約15分。昔を思い返せば驚きです。Pt2)道灌堀と桜…乾通り屈指の見事な桜なのですが、満開はまだです。Pt3)西桔橋分岐から乾門までが桜の本数が多いのですが、狐坂経由天守台へ向かう人が多いような…。Pt4)兎にも角にも乾門から退出です。また2年後の春にという事で…。
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江戸城外堀跡

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Ptの石垣は”文部科学省構内”に残る江戸城外堀の一部です。地下鉄銀座線虎ノ門駅から新庁舎へ向かう連絡通路にある展示コーナーは、文部科学省(中央合同庁舎7号館)建設の際の発掘成果をもとに寛永13年(1636年頃)の江戸幕府が全国の大名を動員して築いた石垣が再現保存されています。
地下鉄連絡から地上に上がる途中のホール(エスカレーターを使用すると通りすぎます)には石垣の構造、産地、江戸城総構えの解説案内が設けられています。さほどの広さはないもののコンパクトかつ適切な案内展示となっており、知識としてはこれで宜しいと思われます。
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有楽町は有樂齋?

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織田長益=織田有樂齋如庵は織田信長の13歳年下の弟です。有楽町の地名はこの【織田有樂齋の屋敷があった】のが由来との説がありまが、信長の弟とはいえ関ヶ原以前は豊臣家臣(つまりは外様)ですからこの説には無理がありますね(苦笑)。閑話休題。有楽町駅の開業は1910年(明治43年)で、烏森駅(現新橋駅)から延びる高架に鉄道院東海道本線の駅として開業しています。という事は…普段何気に見ている煉瓦造りの高架はこの時代からの構造物なのですねっ。無粋ともいえる橋桁構造や煉瓦壁に残る丸い装飾の跡などに歴史を感じさせる雰囲気に満ちています。駅前には大岡越前守で有名な”南町奉行所”が中央口駅前に近辺に遺構がありますが、奉行所正門は数寄屋橋側なので、この場所は奉行所の裏手となります。
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東京駅・事件現場

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1921年(大正10年)11月4日原敬首相が丸の内南口の改札付近で暗殺され、1930年(昭和5年)には構内の中央通路付近で濱口雄幸首相が銃撃されています。原首相はその場で即死。濱口首相は、1930年(昭和5年)11月14日、午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するために東京駅構内を第4ホームを移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃されています。駅長室で輸血が施され、東京帝国大学病院にて、腸の30%を摘出する大手術を受け一命を取り留めてたのですが、この傷がもとで昭和6年8月26日に亡くなっています。二ヶ所の現場には「事件経緯の解説」が設置されていますが、濱口首相銃撃現場の方が人通りも多く判りにくいようです。手前の床面が”現場”で奥の円柱に解説板があります。
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東京駅・第二乗車場…続

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旧第一乗車場(3・4盤ホーム)から見える緑の柱は開業時の遺構です。という事は…Pt↑)5番ホームの煉瓦積み部分は1914年東京駅開業時のホーム遺構なのでしょう。東京駅の開業時には、現丸の内南口が出発者専用改札口(現丸の内北口は到着者専用)で現八重洲側には改札設備はありませんでした。一日の列車数が40本程度と、現在からは想像すらできません。実はこのホームは”老巧化”という事でいつの間にか屋根の造作が変わっています。数年前までは開業時の架線支柱が残っていたのですが…。ホーム神田よりの錆錆&ボロボロの架線支柱は開業時のものではないと思います。
官設の旧新橋駅(1872年開業)と私鉄の上野駅(1883年開業)の上野~新橋間を結ぶ為に皇居正面の原野に造られたのが東京駅(中央停車場・1914年開業)で1919年に万世橋駅(1912年開業)~東京駅間が開通して、現在の原型となっています。
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東京駅・第二乗車場…壱

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いわゆる鉄道マニアではありませんのでサラットいきたいと思います。Pt↑)は東京駅5・6番ホーム(京浜東北線&山手線)の有楽町よりに残る東京駅開業時からのホームの柱です。ご親切に”案内板”を作っていただけたので見つけやすくなりました。戦前までは丸の内駅舎から第一乗車場(現3・4番ホーム)、第二乗車場(現5・6番ホーム)が中央・山手・京浜線の電車用として使われ(因みに第三&第四乗車場が東海道本線と横須賀線)ていました。後に中央線は高架となり東海道線はホームが嵩上げされていますが、第二乗車場(現5・6番ホーム)はホームが延長されるものの開業時の遺構(?)は残りました。
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Pt↑)の柱には『明治四十一年 株式會社東京・・・』…東京以下は削られて判読不能です。ホーム上に白く塗られた柱が何本、緑に塗られた柱が何本とは書きませんが、その他にも当時の構造物(?)のなごりが散見されます。特にPt↓)の階段真上にある構造物は『紋章』に見えるのですが…???。
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文部科学省・情報ひろば

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千代田区霞が関3丁目(銀座線虎の門駅が最寄)の文部科学省内に『文部科学省・情報ひろば』があります。文科省もご立派な庁舎に変わっているのですが、展示室はPtの昭和8年創建の旧文部省庁舎(登録有形文化財)の3階にあります。文部省は「教育」・「スポーツ」・「科学技術・学術」・「文化」と守備範囲が広く、展示内容多岐に渡っています。担当セクションが【文部科学省大臣官房総務課広報室~】とあるので中央官庁にありがちな展示だろうと期待はしていなかったのですが…。これがどうしてなかなかの充実内容の施設となっています。
まぁ、例によって入口が判りにくいのですが…なんとかなります。Pt↓)は1)昭和8年の旧大臣室。2)「しんかい6500」の展示は驚きの内容です。3)自然科学系のノーベル賞受賞のお歴々です。どこぞのお国には平和賞がたった1人だけ(!)。エライ違いです。
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皇居乾通り公開…2015秋

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今日(7日/月)『皇居乾通り一般公開』へ行ってまいりました。昨年の桜&紅葉を思い起こせば"ウソッ"と思うくらい空いています。TVニュースによると今日が41700人が来場。5日からの3日間で11万人なのですが、昨年の桜初日の75000人を思えば…笑ってしまう人数です。前々回のように3時間並んで10分で通過完了では、旅行商品として成立しにくく、多くの旅行会社は二の足を踏んだようです。あえて言うなら、旅行会社の添乗員では宮殿の施設や旧江戸城の説明や案内をこなせるスタッフがいますかねぇ?。だらだらと歩くだけなら代金が頂戴できる企画商品ではありませんね。(Pt↑ 蓮池堀~富士見多聞)
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Pt↓)09:45の坂下門手前100m。先頭から300名以内でしょう。この時点で約1600名(少ない)が並んでいます。 宮内庁々舎前から富士見櫓です。地面が見えます=つまり混んではいません。 歩くルートから紅葉の名所の山下通り(紅葉山の下で山下通り)方面です=鮮やかな色とは云い難いようです。
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