旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

文京区

文京区・護国寺…(2)

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文京区大塚の真言宗豊山派の護国寺(神齢山悉地院大聖護国寺)は東京メトロ有楽町線護国寺駅の上にあります。創建は1681年、超マザコン将軍の徳川5代将軍綱吉が母親の桂昌院の願いにより桂昌院に祈願時として建立を命じたとされます。元禄10年(1697)建立の本堂、昭和3年に旧園城寺より移築された月光殿はをはじめ多くの重要文化財を有していますが、切妻造りの「仁王門」は元禄10年の本堂よりやや時代が下るも正面側の阿吽の金剛力士像、背面には増長天と広目天の仏像が置かれています。仁王門から本堂へ向かう石段途中には「不老門」は昭和13年(1938)の建立で鞍馬寺の門を模したとされます。Pt↑)の本堂・観音堂は元禄10年(1697)の正月に建設の幕命があり僅か半年の工期で8月には完成、落慶供養が行われています。これだけの建造物が将軍綱吉と桂昌院のの命によるとしても、半年で完成とは大変な技術ですが、300年超の年月を経て目の前に存在していることに驚きを感じえません。
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明治期以降徳川家との関係が絶えると、皇族や一般人の墓所となり、三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信など著名人の墓所があります。個人の墓所には関心がないのですが、興味深いのが大正11年(1922)に85歳で亡くなった「大隈重信」の墓所と長州の成上がり者・山縣有朋の墓所が極近い場所にあります。大隈重信は30万人が参列する「国民葬」で、3週間後の山縣は”人影もまばら”と両者の人気のほどが判ります。明治維新の功労者でありながらパッとしない公家出身の「三条実美」の墓所もあり、この方々に比べれば「ジョサイア・コンドル」は小物にすぎません。
Pt↓)こんな所に「からすの赤ちゃん」の歌碑です。大隈重信の墓所は故郷の佐賀と護国寺にあります。
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関東総司・妻戀神社

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施政者の都合や道路拡張などの理由で神社の鎮座地が移転する事はそう珍しい事ではありません。「関東総司」を掲げる文京区湯島の『妻戀神社』の場合は更に福雑な歴史があるようです。江戸総鎮守・神田明神の裏手でラブホテル街に(失礼ながら)慎ましく鎮座する『妻戀神社』に以前の『王子稲荷』と稲荷関東総社を競ったことは想像できません。神社案内板によると、ご祀神は倉稲魂命(稲荷神)・日本武尊・弟橘媛命の三柱とあり、日本武尊の東征途中で別離した妻を偲んでこの地に祀ったのを起源とするとの記載があります。この話は後年に創作されたものらしく、それ以前は妻戀稲荷大明神と称して元々は平将門の縁者を祀ったのが祖のようです。
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江戸時代になると妻戀神社は「正一位妻戀稲荷大明神」とよばれ、同名の偽神社までが造られるほど繁栄したそうです。徳川将軍家の庇護も厚くうけ、後付け的な日本尊命の伝承もこの頃からのようです。稲荷社の「関東総社」は弘法大師の時代に朝廷より関東総社の地位を与えられ各地の分社を認可できる総纏めの威光を有し、今でも妻戀稲荷から分霊した稲荷社が数多く存在するようです。王子稲荷との「関東総社」の称号をめぐり寺社奉行の裁定をあおり妻戀側が敗訴したなんて伝承もあるようです。
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残念な事には『妻戀神社』は関東大震災・東京空襲と二度の災害で崩壊してしまい、「正一位稲荷大明神」や「日本尊命」伝承などを裏付ける記録は一切が失われてしまったようです。失礼ながら、現在の神社の姿から参拝客で賑わった時代があったとは思えません。それでも消え果ることなく今もそこに神社があるのは素敵なこ事だと思います。妻戀神社は正月初夢の「宝船の絵」を配布する神社としても有名だったようです。この辺りも良く判らない話なのですが(苦笑)。
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牛天神北野神社と貧乏神…【令和】

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平成23年11月に始めたブログも令和へと時が流れました。様々な名所旧跡や寺社仏閣を訪れてきましたが、今となると勉強不足の記事も多々みられます。そこで【令和シリーズ】として、以前の記事項のうちその後見聞きした説があれば追加修正して行きたいと思います。「令和」の第1回目は文京区春日の「牛天神・北野神社」です。1184年頃に東国追討に赴いた源頼朝の夢に「菅原道真」の姿が現れたという伝承から神社は創建されたとあります。社殿前の牛に似た岩石が「撫で牛」の始まりとも言われそれはそれで興味深いのですが、お隣の「太田神社/高木神社」とくに太田神社には貧乏神(疫病神)が祀られていたという珍しい神社なのです。
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江戸時代、貧しい旗本家に取りついた貧乏神を主が祀ることにより貧を逃れられ、その祠を牛天神に移したところ人々に貧乏脱却信仰が広まったあります。この貧乏神は「黒暗天石祠=黒暗天」という神で、吉祥天の妹ですが美人の誉れ高い姉と違って残念な容姿の閻魔大王の3人の奥方の1人なのです。明と暗、陰と陽など物事の裏表をなす神様姉妹でエンジェルとルシファーと同様のようです。明治以前は太田神社の主祀神として祀られていたのですが流石に貧乏神を祀るのはまずかろうで祀神が伝説のストリッパー「天宇受賣命/アメノウズメノミコト」と旦那の「猿田彦命」と変り芸能関連の神として信仰を集めます。日本の神社ではご祀神が事情により入れ替わるのは珍しいことではないのですが、この入れ替わりは良く判らないものがあります。はたしてご祀神(元)の貧乏神信仰は令和の時代に引き継がれてるのでしょうか。令和シリーズではこんな話も探していきたいと考えています。
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本郷3丁目交差点

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国道17号・本郷通りと国道254号・春日通りの交差するのが「本郷3丁目交差点」、メトロ丸の内線と都営大江戸線が通っています。(もっとも両本郷三丁目駅は離れており若干不便ですが)ず~と以前には春日通りを池袋からの都電が走っており上野広小路で乗り換えて浅草に行ったものでした。あまり意識したことはなかったのですが、この交差点から100m範囲には結構面白い場所があります。
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【本郷もかねやすまでは江戸の内】。江戸川柳にもある「かねやす」は享保年間(1716頃)から””乳香散”という歯磨き粉を売る店がありました。享保15年(1730)の江戸大火では付近一帯が焼失、奉行・大岡越前守の命により「かねやす」を境に南側の家屋には土蔵造りや瓦屋根を奨励し北側は従来の板や茅ぶきの造りとしています。つまり「土蔵造りのかねやす」までが江戸の北限という認識となり前述の川柳が生まれています。
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本郷3丁目交差点を後楽園方面に進むと【本郷・櫻木神社】があります。通称は櫻木明神とも呼ばれ、室町時代にあの神社創建好きの”太田道灌”が道灌江戸城に京都北野天満宮から勧請、江戸時代の遷座の後こちらへ来たようです。東京大学が近いこともあり(ついでながら某漫画のモデルなんだそうです)東大受験生には人気があるようです。元来の天神信仰は雷神(天神)の信仰のことであり、天神=菅原道真ではなかったのですがいつのまにやら(苦笑)。
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今でこそ地方からの修学旅行の宿泊はホテル(洋室)が一般的ですが、以前はこのあたりの本郷地区が宿(和室)として知られていました。東京には和室旅館が年々少なくなってきましが、”そういえば修学旅行の宿は本郷だった”と思いあたる人もいるでしょう。春日通りから一本奥まった場所の「ホテル機山館」も有名旅館で、その玄関前が【本郷薬師】です。この薬師さんは元々この地にあった真光寺の敷地内にあったようです。
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薬師堂を櫻木神社に向かって30m、右折して30mにいきなりのように【十一面観世音菩薩像】があります。あたりの雰囲気には即してないのですが、思いの外感じのよい観音像です。こちらも天台宗真光寺の敷地内だったようです。真光寺は東京空襲で焼失、世田谷に移転しているのですが、なぜ観音像をここに残していったのか不思議な気がします。
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交差点から本郷通を100m程【別れの橋跡・見返り坂と見送り坂】の碑が立っています。この辺りが太田道灌時代の領地の際だったようで、江戸追放の刑を受けたされた罪人が、当時存在した橋を境に親類縁者が見送ったから見送り坂。追放された者が振り返るから見返り坂とありますが、なんだか疑わしい話でガセ伝承の気がします。

文京区・簸川(ひかわ)神社

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文京区千石、昔だったらさぞ眺めの良かったであろう場所に鎮座する『簸川神社』です。(氷川)と(簸川)字こそ違いますが、この神社も素盞嗚命・大己貴命・稲田姫命を祀る武蔵一之宮・大宮氷川神社の末社です。「氷川神社」の名称は出雲国・簸川(島根県簸川郡)に由来するとの説があり大正年間に「簸川」の名前に改めたそうで、結果として関東では珍しい「簸川」の名称となりました。福井県にも素盞嗚命を祀る『簸川神社』があり、どうやら氷川神社は埼玉・東京・神奈川限定の神社ではないようです。
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元々は隣の小石川植物園内にあり、承応年間(1652年頃)に徳川綱吉公の白山御殿の造営に伴い現在地へ遷座しています。江戸時代は氷川大明神と称し、明治時代には氷川神社、さらに簸川神社と変遷しています。Ptの鳥居からの石段はきっちり50段あります。この階段を『合格階段』というのだそうですが謂れがよく判りません。階段を登りきると巣鴨と彫られた狛犬がある稲荷社のような境内社があります。社殿は東京空襲で消失し、昭和33年(1958)に再建されています。
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菊華・湯島天満宮

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湯島天満宮で「湯島天神菊まつり」が開催されていました(11.23まで)。第40回だそうで今年の目玉は「西郷どん」をテーマとした三体です。マネキン人形に菊で装飾してある作品で西郷やら大久保の名札が無ければ誰なのか判りません。湯島天満宮は「富くじ」で賑わった江戸の昔から、梅まつり、菊祭りとイベントに恵まれた神社ですね(苦笑)。湯島天満宮は「天手力雄命/戸隠神社」が祀られていたところに「菅原道真」が後から祀られ、いつの間にやら主たる神様が入替ってたようですが、実はさほど珍しいことではありません。似た神社名に出雲系の国津神を祀る『天神社』があります。『天満宮』と紛らわしいのですがまったく別系統縁起の神様です。
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昨今は【ご朱印の収集】なるものが流行りなんだそうですが、ややもすると『記念スタンプ収集』となっているお歴々が多くいらっしゃると聞きます。神様でも敵対する仲の悪い神々もいるし、仏教では自宗派以外は全て邪宗とする教義もあります。前記の湯島天満宮のような歴史例もあります。知れば知るほどややこしいものです。呆れてしまうのは「ご朱印収集ツアー」なるバチあたりな旅行企画もあるようですが、神社仏閣の参拝はあくまでも個人的感性によるもので「当社推薦の社寺参拝」とか「10枚貯めらご利益確実」とは訳が違います。あまりの馬鹿々々しさに言葉もありません。
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東京都水道歴史館

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文京区本郷の『東京都水道歴史館』です。最寄駅はJRお茶の水駅から順天堂病院側へ徒歩10分程度なのですが大通りに面しておらずやや判りにくい場所です。外観は地味な感がありますが展示の内容はかなり濃いです。徳川家康が江戸幕府を開いてから江戸の街は人口が爆発的に増大し飲料水の確保は大きな問題となりました。飲料水の確保として造成されたのが神田上水や玉川上水です。玉川上水は現東京都羽村市から四谷付近までの約43㌔(標高差は僅か100m)が露天、四谷大木戸からは地下水道管で水を供給していました。これらの上水がなければ江戸の発展はなかったでしょう。歴史館には「玉川上水」の工事概要や当時の木製の水道管や明治以降の水道事業の歴史等が展示され、新宿アルタ前の「馬水槽」のレプリカなどという珍品や江戸の長屋の雰囲気を再現したセットはコンパクトながら良い出来で内容充実の資料館です。
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妻恋神社と妻恋稲荷

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都内屈指の急坂地帯にある妻恋神社に久々にやって来ました。神田明神を地上5階とすると1階まで下りて3階まで登るという位置関係になります。元宮はもう少し湯島天神よりだったらしいのですが、神田明神と湯島天神の中間でがら「妻恋」の名に相応しい伝承を持つ神社です。日本武尊東征の途中で弟橘媛命海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという事件の後年、この湯島の地に滞在し妻を慕う日本武尊に心にうたれた人々により創建されたのがのが神社の始まりとあります。日本武尊が湯島に滞在したという伝承もはなはだ疑問ですが、根津には日本武尊創建の根津神社があるのですから関連した何かがあるのでしょう。
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その後に”倉稲魂命を祀る稲荷社が創建されているのですが、この稲荷社は江戸時代には「関東惣社・妻恋稲荷」と呼ばれ「王子稲荷」と並んで格式の高い稲荷社だったようです。今では想像できませんが「関東総社」とあるくらいですから多くの参詣人で賑わっていたのでしょう。神社では正月の縁起物として木版刷りの七福神&宝船の「夢枕」が人気だったようですが、東京空襲で焼失したと思われてた元版木が見つかり”幻の夢枕”がめでたく再発売となったそうです。
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八百屋お七の疑

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1683年1月25日、現文京区の大円寺からの火災は本郷、お茶の水、神田と広がり隅田川を超え両国、深川まで燃え広がり、焼失した大名屋敷は75、旗本屋敷が166、寺社95、数多くの町家が焼失。死者の数は約3500名以上が「天和の火災」と呼ばれる大火事です。この火事の最中に出会った男と再会したい一心で放火事件を起こしてし死罪とされるのが「八百屋お七」のお話なのですが、実際はこのストーリーは戯曲作品としての創作のようです。
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文京区白山の円乗寺には、八百屋お七の墓が寺の住職、役者、近隣の人々による3基(も)あります。奉行による未成年なら遠島、成人なら火炙りの話も鶴屋南北の「好色五人女」での創作です。近くの大円寺にはお七の罪業を救うための「ほうろく地蔵」の寄進がありますが、いつの時代もお話と事実の区別がつかない輩はいるものです。実際の火炙りの刑は躰に可燃物を巻きつけ頭から油をかけ一挙に燃やし尽くす方法のようです。”見せしめの為”の処刑なので残酷極まりありません。

湯島天満宮の疑問

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湯島天満宮(旧湯島神社)は、雄略天皇2年(458年)に勅命により天之手力雄命(あめのたぢかおのみこと)を祀る神社として創建された古社です。この神様は天照大神が天岩戸に引きこもった際に岩戸をこじ開けた方で「戸隠神社」のご祀神です。春日通りからの階段を登ると本殿裏に「戸隠神社」がひっそりと鎮座しています。天神さま(菅原道真公)は後に合祀された神様なので、つまりは創建者を追い出して居座ったとも云えます。まぁ怨霊神日本代表でもあり、江戸時代は富籤の興行で賑わうようになり天神人気で主客が転倒したのかも知れません。ご祀神の入れ替わりは良くあることなのですが、本殿屋根の鰹木数が奇数で千木先端が縦切れの男神、若しくは伊勢神宮外宮造りなのはこの辺りの事情なのでしょうか?
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奇妙と云えば奇妙なのが、銅鳥居側にある稲荷社です。境内社としては「戸隠神社」と隣の由来が良くわからない「笹塚稲荷」は湯島天神の境内案内図にあるのですが、この「天三火伏三社稲荷」に付いては湯島天神境内図に記載がありません。狐像が最近のデザインの姿だったり、賽銭箱が設えてあったりで”ほったらかし稲荷”では無いようです。”火伏”を名乗っていることから 商人家や大名屋敷内の屋敷神なのでしょうが・・。
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【東京十社】‥白山神社

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文京区白山1丁目の「東京十社」の白山神社(はくさんじんじゃ)です。旧名称の白山権現社が「文京区・白山」の地名の由来となっています。ご祀神は菊理姫命(ククリヒメノミコト・伊弉諾命・伊弉冊命で、ご神徳に縁結びはまだしも商談成立は?です(苦笑)。948年加賀の白山比咩神社から勧請され、将軍秀忠の時代に小石川植物園近くに移転、その地が館林藩主徳川綱吉の屋敷が造られることになったため現在地に遷座しました。紫陽花の名所としても知られ、6月の中旬頃の「文京あじさいまつり」では境内や白山公園で約3,000株の紫陽花を見られます。境内の『孫文先生座石の碑』は明治43年頃、神社近くに住む中国かぶれ思想家の宮崎滔天宅に寄宿していた孫文が、神社で中国の将来と革命について語り合い、孫文が”後の辛亥革命での新中国建設を誓った場所ということで有志がこの記念碑を建立したとありますが説得力が極々希薄です。
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文京区・こんにゃく閻魔

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文京区小石川の浄土宗・源覚寺です。どちらかというと「こんにゃく閻魔」の方が有名でしょう。久しぶりの参拝ですが、境内が小奇麗になっていました(苦笑)。文京区の指定有形文化財となっている閻魔像は鎌倉時代の作品とされています。判りにくいにですが閻魔像は右眼が黄色く濁っています。これは昔、眼病を患った老婆が寺の閻魔大王像に祈願し続けたところ、夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。筋書き通りに老婆の眼は治り、感謝の印として好物の”こんにゃく”を断って閻魔大王に供え続けたという伝承によります。これによりこの閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めているそうです。現在でも絵馬などを見ると「眼病治癒祈願」が目立ち、閻魔堂には「こんにゃく」が供えられています。閻魔堂右には、これも『自身の治したい部分に相応するところに塩につけるとご利益があるという』塩地蔵尊があります。立木の補強材に樹脂が塗られグロテスクです。まぁ地蔵尊は見事に塩漬けになっています。
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小石川・伝通院(傳通院)

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文京区小石川の「伝通院」は浄土宗の寺で正式名称は「無量山・傳通院・寿経寺」です。徳川将軍家の菩提寺として知られ山門には葵の紋が付けられています。この日は仏事がおこなわれており写りこみを避けていますが、再建された山門は平成24年の完成です。
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山門脇には「不許葷酒入門内」=酒気帯びで入ってはなりません=の碑やら、新撰組の前身である清川八郎による「浪士隊」の結成の地やら上野戦争の「彰義隊」結成の地である旨の案内板があります。春日通りから山門に至る途中には浪越徳次郎氏の「日本指圧専門学校」があります。
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古刹という事もあり多くの有名人が傳通院に埋葬されています。徳川将軍家縁の方々や幕末勤王の志士・清川八郎。詩人の佐藤春夫。作家の柴田錬三郎。指圧の浪越徳次郎等・・。Pt↑)は「岡村三右衛門と呼ばれたイタリア人」宣教師・ジョセフ・キアラの供養碑です。鎖国時代の宣教師として日本に潜入、幕府に捕えられキリスト教を棄て、以後は日本人「岡村三右衛門」として生きた方です。
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慶長7年(1602)に京都伏見城で死去した徳川家康の生母「於大の方」の遺骨は遺言により江戸へ運ばれ、家康により菩提寺が各所に造られています。「傳通院」の名称も「於大の方」の法名『傳通院殿』によります。徳川秀忠の娘(家康の孫)の「千姫」や徳川家光の正妻「鷹司孝子」など徳川将軍家縁の方々が埋葬されています。

文京区・澤蔵司稲荷

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文京区小石川の澤蔵司(たくぞうす)稲荷にも面白い伝承があります。「稲荷社」でありながら実際は浄土宗の「慈眼院」というお寺で、徳川家康の生母・於大の方や千姫の墓所の徳川将軍家の菩提寺「傳通院」の末寺なのです。その傳通院に太田道灌が江戸城内に勧請した「稲荷大明神」が修行僧の「澤蔵司」に化けて修行に入り、浄土宗の奥義を僅か3年で極めたのですが、尻尾を出して寝ていたので正体がバレてしまい寺を去ったという話で、去り際「私を祀りなさい」と言い残したため「慈眼院」に祀られたそうです。
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そんな事から「無量山傳通院鎮守・澤蔵司稲荷」が正式名称です。山門を入ると、お寺なので鳥居はありませんが、眷属の「キツネ」はおります。本堂軒下には「白狐」が見られます、本堂脇の窪地には稲荷社ではよく見かける「お穴様」が・・。さらにはお寺近くの「むくの木」の巨木には澤蔵司が宿るとされ、修行中の澤蔵司はこの木の葉をお金に変えて、傳通院前の蕎麦屋「萬盛」で大好物の天婦羅蕎麦を良く食べたそうです。悪い奴(キツネ)です。「萬盛」は現存していますが残念ながら休業日でした。
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湯島聖堂あたり・・。

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JRお茶の水駅ホームから神田川を挟んで「日本の学校教育発祥の地」とされる『湯島聖堂』があります。特には独特な『大成殿』は日本らしからぬ建造物の感があります。興味を持つ人はそうは多くないと思いますが、屋根上には珍しい姿をした聖獣達が大成殿を守っています。猫のようで猫でない『鬼龍子/きりゅうし』と称する顔は猫科で腹部には鱗がある「猫+蛇」の聖獣が睨みをきかせています。その上方で頭から水を噴きあげているのが、鯱の原型と追われる『キギントウ』と称する水の神です。中国発祥系の聖獣には驚かされます。
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『湯島聖堂』は徳川5代将軍綱吉が儒学振興のため、上野忍ケ岡の林羅山の孔子廟と家塾を移転したのが始まりです。将軍綱吉となると「生類憐みの令」が有名ですが身体的コンプレックス(小人病?)により学問に走ったとも云われています。寛永年間には「昌平坂学問所」が開設されるなど、ここは幕府人材養成の場となっていました。現在の大成殿は関東大震災で焼失し昭和10年に伊東忠太の設計で再築されたものです。
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結局は「犬」が勝ち!

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東京大学正門を入って左の方向にPt↑)の風化が進んだ銅像があります。このお方はイギリス・ロンドン出身の建築家「ジャサイア・コンドル」です。明治10年(1877)に若干25歳でお雇い外国人として来日、政府関連の建築設計を手がけ、東京大学工学部の前身の工部大学で辰野金吾(東京駅)など多くの日本人建築家を育成しています。代表的な作品では、鹿鳴館、岩崎邸洋館、御茶ノ水ニコライ堂があります。故郷のイギリスには帰らず1920年に67歳で日本で没しています。ジャサイア・コンドルが明治以降の日本建築界の基礎を築いたと言っても過言ではないのですが・・。如何せん活動の場も作品も”東京”に集中しており建築マニアを除けば知名度は全国区ではありません(苦笑)。
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Pt)は東大農学部の正門近くに2015年に造られた「上野英三郎博士とハチ公」の銅像です。ハチ公と博士のはしゃぐ姿が表現されていますが、両者が会した姿は初めてかも知れません。因みにハチ公の死亡解剖時の内臓は近くの「農学部資料館」に、剥製となった姿は「上野科学博物館」に、その魂は青山墓地の博士の墓所に一緒に眠っています。Pt↓)の「赤門/重要文化財」は東京大学の正門ではなく、江戸時代の加賀前田家の屋敷で、前田家が徳川から嫁を迎える際に造られた門です。映像では東大の象徴として映ります。明治45年完成の東京大学正門は明治神宮、弥彦神社、築地本願寺などを手がけた伊東忠太の作品です。アーチ形状が特徴の法文1号。2号館は内田祥三の設計で、登録有形文化財です。この様に東京大学本郷には「見所」が数多くあるのですが、結局、「全国区で誰もが知っている」となると”犬(ハチ公)”の勝ちです(笑)。
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猫の三四郎(?)

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「冬枯れ」の季節を割り引いても『東京大学本郷キャンパス』は散らかり放題の状態でした。この地は江戸時代を通して加賀前田藩の藩邸があり、東京開成学校と東京医学校が合併して現東京大学が設立されたのは明治10年(1877)の事です。そんなこともあり構内には歴史的建築物や遺構が随所に残っています。有名なものでは国の重要文化財の『赤門』、明治45年(1912)完成の『東大正門』、大正14年(1925)完成の東京都登録有形文化財第1号の『安田講堂』、『三四郎池』として知られる『育徳園心字池』などなど。安田講堂地下の学生食堂(時間制限あり)は普通に利用でき、隣の生協では「東大土産」が充実しています。構内の散策は結構楽しめますが、季節を選ばないと愕然としてしまいます(苦笑)。Pt↑)は三四郎池付近を散策していた”猫の三四郎君(?)”です。Pt↓)唯の濁った心の字池です。生態系を考慮して掃除をしていないのでしょうか?。安田講堂占拠事件は1969年の事。時間が止まったかのようです。冬枯れのイチョウ並木は無残な姿となっています。
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都立庭園・小石川後楽園

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『小石川後楽園』は岡山の後楽園と区別するため”小石川”の冠がつき、東京ドームの前身「後楽園球場」や「後楽園遊園地」の名称は、この小石川後楽園の由来します。江戸時代初期の水戸徳川家の中屋敷(後に上屋敷)内に造られた大名庭園で大正12年(1923)に国の特別史跡&特別名勝に指定されています。1629年頃より水戸藩初代・徳川頼房の時代に着手し2代目藩主・光圀により完成しています。7万㎡を超える園内には大泉水、中国の景勝地を模した小廬山、稲田など大名庭園の景観が残っています。2代目藩主・光圀がいわゆる「水戸黄門」です。この方はTVなどで知られるような諸国漫遊の旅など一度も出かけていません。若いころは刀の試し切りと称して人切りに励んでいたとの話もあり、かなりやんちゃな御人だったようです。
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東大農学部ハチ公像

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さて犬の銅像シリーズ(?)の今回はスーパースター”忠犬ハチ公”です。この像は東京大学農学部の正門を入ってすぐ左側にハチ公没後80年にあたる2015年3月8日に除幕式が行れたもので、ハチ公がうれしそうに上野博士とはしゃぐ姿が表現されています。ハチ公単体での銅像は秋田や渋谷などにありますが、両者での作品は初めてではないでしょうか?上野英三郎博士没後90年、ハチ公没後80年で両者が再会となった事になります。ハチ公の”忠犬神話”は新聞社による捏造とか修身の教科書にも使われた軍国主義時代のシンボルだったとかの話がありますが、この「ハチ公と上野英三郎博士像」を見ると純粋に「ハチ公よかったねっ」と思えてくるのは何故なのでしょう…。正門を入った右側には“農学資料館”があり、こちらには上野博士の功績と銅像や、ハチ公死亡解剖時の内臓(死因はガンとフィラリア)が展示してあります。Pt↓)は上野科学博物館にあるハチ公の実物の剥製です。
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讃岐金刀比羅宮東京分社

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文京区本郷1-5-11の『讃岐金刀比羅宮東京分社』です。ご祀神は”大物主命”と日本屈指の大魔神”崇徳天皇”です。なんでも香川県琴平町を総本宮とする「正式な分社」は出雲・神戸・松山・尾張一宮・鳥羽とこの本郷の6社だけなんだそうです。という事は虎の門などは正式ではないという事なんでしょうか…?近隣では「水道橋のこんぴらさん」として親しまれていますが、歴史的には、下板橋宿の板橋市左衛門が文政2年(1819)に金毘羅大権現を観請し創建。明治13年(1880)に金刀比羅神社として公認され、明治21年神田区和泉町に遷座、明治26年深川区古市場に遷座しています。社殿は太平洋戦争により焼失しまい、昭和30年代に松平頼朝氏より寄進された現社地に金比羅宮直轄境外末社・東京分社として再興されています。…なかなか紆余曲折に富んだ歴史を持っているようです。
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