旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

文京区

小石川植物園 変りなし!

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植物園なるものには興味も関心もありません。文京区白山の「東京大学大学院理科系研究科付属植物園」・通称「小石川植物園」もその例に洩れません。この植物園は東京大学の名前を冠していますが、徳川幕府による「小石川御薬園」を引き継いだ施設です。
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約16万㎡の敷地に4000種を超える植物があるそうです。”自然のままに…”と云われればそれまでですがあまりにも環境整備が悪く、これでも国指定の名勝・史跡に指定された入園料¥500/大人の施設とは驚きです。少しでも植物に興味のある方以外は10人中8人は甚だ残念な事になるでしょう。
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「小石川植物園」には地下鉄茗荷谷駅や白山駅から徒歩15分程度です。小石川は土地の起伏が激しく園内も入園口が一番の低地で柴田記念館や温室へはかなりな坂道を登ります。シンボル的建物の旧東京医学校本館や研究室の本館は非公開です。園内数ヶ所のトイレは殆どが工事現場以下のシロモノです。
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茗荷谷駅から歩きました。大学時代は授業の合間に小石川植物園で昼寝をしたものです。入園料は¥20(?)で正門前のお店での購入でした。木々は成長し環境はより自然に戻ったのでしょうが、あの頃のままに時間が止まったように感じます。Ptの温室は公開されていますが雨天時には屋根の有る施設はこれだけのようです。
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山本周五郎の小説を元に昭和40年に公開の三船敏郎と加山雄三での「赤ひげ」という映画がありました。作品の舞台となったのは、徳川幕府により医療・福祉施設で貧しい者や老人達に施薬治療を行う機関であった「小石川養生所」は現在の小石川植物園です。
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この建物は柴田圭太植物学教室教授の研究室として大正8年に建てられた施設です。教授関連の資料展示や絵葉書や書籍などが販売されています。小ぶりな施設なので雨天時の避難場所は無理です。
押しなべて国立大学施設の老巧化は顕著で、本郷の東大校舎は呆れるくらいのボロなので関連施設が充実している訳などありません。

後楽園のメトロ庵

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この日は日中の気温が上がり流石に温そばは勘弁です(苦笑)。Pt↑)は「冷やし狸そば¥500」と冷のボタンを押します。東京メトル後楽園駅のそば処 メトロ庵は改札の外、丸ノ内線の高架下にあります。
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小石川後楽園を1時間ほど歩いてのこの気温、やや固茹でのソバが2割増しで旨く感じます。メトロ庵は大手町店に続いてですが、チェーン展開で何店あるのでしょうか?この店舗も「立喰店」と表現していますが、実際はイス席数が多く、何より清潔感のある店舗です。
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メニューは簡潔に判り易く表現され、面白い事に英語(?)表記もされています。この表の下に券売機が有り、表を見ながらの操作ができるので、JR系の店舗よりは格段に操作性が良いです。それにしてもこれだけのメニュー数が必要なのでしょうか?売れ筋上位の統計を見たら1日で1ツだけなんてメニューがあると思うのですが…(笑)。
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ご覧のように店舗は丸ノ内線の高架下にあります。以前は東京ドームあたりはよく来た場所なので、あまりの変り様は驚きしかありません。遊園地や東京ドームで小腹を満たしたら馬鹿高いので、この店はさぞ繁盛している事でしょう(笑)。
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後楽園駅舎まえに「金色の郵便ポスト」がありました。東京オリンピックの金メダル獲得選手ゆかりの地に設置されたポストで2022年5月で全国に79ヶ所もあるそうです。こちらは夜の三冠王こと巨人軍の坂本選手です。坂本選手は大阪出身なはずですが、今季限りで馘になったらどうなるのでしょう?

都立庭園・小石川後楽園…(2)

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文京区の「小石川後楽園」は、岡山にも後楽園があるので”小石川”の冠がつきます。東京ドームの隣なのですが入園口はかなり離れていてJR飯田橋駅、水道橋駅、メトロ後楽園駅より徒歩10分程かかります。徳川御三家の水戸家の屋敷内庭園として1629年より水戸頼房の時代に着手し水戸光圀の代に完成しています。
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典型的な大名庭園で「築山泉水回遊式の庭園」の名庭で国の特別史跡&特別名勝に指定されています。水戸家の屋敷自体は現在の後楽園遊園地や東京ドームまでが含まれ7万坪におよび、庭園は屋敷内の庭という事になります。水戸家の中屋敷(後に上屋敷)はいかに広大だったかという事です。
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水戸家は徳川御三家ながら格が下り将軍は誕生していません(15代慶喜は水戸家生まれで一ツ橋家へ養子と微妙です)例の黄門様にしても”漫遊の旅”など出ていません。助さん&格さんも風呂好きの女性もおりません。黄門様の若いころの趣味が刀の試し切りと称して夜な夜な人切りに励んでいたなんて話が残っているようです。
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大正12年(1923)に国の特別史跡&特別名勝に指定されてた7万㎡を超える園内には大泉水、中国の景勝地を模した小廬山、稲田などの景観が残っています。明治37年には東京ドーム地に「東京砲兵工廠」が造られ、昭和10年に小倉に移転するまで稼働していました。碑は砲兵工廠跡の記念碑です。
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園内の目立たない場所に「藤田東湖護母致命の処」碑があります。安政の大地震の際に逃げ遅れた母を助けて自らは逃げ遅れて圧死した「水戸学」の思想家で吉田寅次郎に影響を与えたとされるお方です。この碑は東京ドームの藩邸跡にあったのですがが、仕方なくここに場所に移設されたようです。
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文京区 駒込富士神社

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六義園から本郷通りを徒歩5分程進むと『駒込富士神社』があります。文京区には駒込富士神社と護国寺と白山神社の3ヶ所富士塚がありますが駒込が姿形とも最良のようです。元々この神社は、現東京大学の地に天正元年(1573)に創建され、後に加賀・前田藩のお屋敷となった事で現在の地に移ってきています。
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ご祀神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)です。社殿はかなりの急こう配の階段の頂上にあります。他の富士塚を持つ神社とは異なり溶岩などを積み上げた様子は見られず、元が古墳だった云われています。社殿は昭和36年にコンクリート造りで再建されています。
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神社は江戸時代には「富士信仰」で賑わったそうです。特に町火消達に深く信仰され、火消の組長から奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が残っています。初夢での言い回しの「一富士、二鷹、三茄子」の一富士はここ富士神社で二鷹は付近の鷹匠屋敷、三茄子は駒込近辺が名産地だったことによるそうですが、まぁ諸説ありますの類かも知れません(苦笑)。
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駒込・六義園

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都内に現存する大名庭園としては規模や造りなど屈指の名園で四季折々の景観が楽しめます。写真の門は「六義園」の正門です。JR駒込駅からは10分近く歩くのですが、庭園行事によっては期間限定で駅近の染井門が開門することがあります。
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江戸時代の六義園に比べたら敷地が狭いのですが、これ程の大名庭園が多くの災害被害を免れ現在に至っているのは稀有なことです。『古今和歌集』の和歌を再現している六義園は徳川5代将軍・綱吉公の側御用人・柳沢吉保の下屋敷として2万坪以上の敷地に7年以上の歳月を要して元禄15年 (1702) に完成しています。将軍綱吉公も頻繁に訪れています。
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柳沢時代の屋敷の場所からの池の景観です。実際はこの後方に屋敷の家屋がありました。大名の庭園は『池泉回遊式庭園』と称し、池を中心に配し、周囲に園路を巡らし築山、池中の小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現しています。寺社仏閣の庭園とは作庭の考えが異なります。
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昭和の初期には三菱財閥の手に渡り、昭和13年東京市に寄贈され、昭和28年に特別名勝に指定されています。なにせ2万坪ですから、現在とは比べ物にはなりません。JR山手線は古地図上では六義園の敷地内を走っていることになります。三菱財閥時代の建物位置からの池を見るとこうなります。
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よくTV放送されるのが、この「しだれ桜」ですが、時期的に青々としていました。回遊路の所々には休憩所や庭を眺望する展望所の茶亭、東屋なども設けられています。ゆっくり周遊したら1時間以上は必要です。
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文京区・金刀比羅宮東京分社

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JR水道橋駅から白山通りを5分程の文京区本郷1-5-11に『讃岐金刀比羅宮東京分社』があります。白山通りに面してないので見落す恐れが多少ともあります。香川県の琴平町を総本社とする『金比羅宮』の東京(江戸)分社です。実は金比羅宮の【正式な分社】出雲・神戸・松山・尾張一宮・鳥羽とこの本郷の6社だけなんだそうです。とは云うものの金比羅様を祀る神社には金毘羅神社、琴平神社、金比良神社などの社名で全国には約700社があるようです。
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金比羅神は元々はインド発祥の神でガンジス川の鰐が神格化されたクンビーラ神のことで、仏教では釈迦を守る十二神将の一人とされています。日本に伝来後は日本古来の海神や竜神と習合した海難守護の神ですが本地垂迹思想により現在は「大物主命」の和魂(にぎみたま)を祀られています。さらに流刑地が四国だった縁から日本屈指の大魔神・崇徳天皇が祀られています。
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近隣では「水道橋のこんぴらさん」として親しまれていますが、歴史的には、下板橋宿の板橋市左衛門が文政2年(1819)に金毘羅大権現を観請し創建。明治13年(1880)に金刀比羅神社として公認され、明治21年神田区和泉町に遷座、明治26年深川区古市場に遷座しています。社殿は太平洋戦争により焼失しまい、昭和30年代に松平頼朝氏より寄進された現社地に金比羅宮直轄境外末社・東京分社として再興されています。…なかなか紆余曲折に富んだ歴史を持っているようです。

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なにが良いかと云って、琴平の総本本社と違いあの奥社迄の1300段越の階段を登る必要がありません。あの階段を駆け上った経験もあるのですが遥か昔の事です(笑)。金毘羅さんと云えば「黄色のお守り」が有名ですがこれ東京分社でも入手できます。ただし東京で申し込み後に四国から送られるっという手順のようです。琴平までの交通費を考えれば効率的です。
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・末社の「水道橋稲荷」が鎮座しています。・神社の隣の讃岐うどんお店。・白山通りからは奥まって神社があります。
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文京区‥吹上稲荷神社

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文京区大塚5丁目の「吹上稲荷神社」は東京メトロ丸の内線・新大塚駅or有楽町線・護国寺駅徒歩5分とあります。暑さが続く8月の東京では近い方と思い新大塚から向かったのですがこれがハズレで春日通りと神社の高低差を階段を上下する羽目になります。Web地図では高低差は表現されないので時としてエライ目にあってしまいます。
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「吹上稲荷神社」は社歴によると1622年に徳川2代秀忠が日光山より稲荷大明神を江戸城内紅葉山吹上御殿に「東稲荷宮」として祀ったのが始まりとあります。その後は江戸城の拡大に伴い、江戸城内→松平大学領地→元小石川4丁目→護国寺月光院→大塚上町→大塚仲町と移転を繰り返し大塚坂下町(現在地)落ち着いています。賽銭箱には「葵御紋」があり徳川家の庇護は強かったようですが、これだけの回数の遷座は珍しいと思えます。
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坂下通りに面した明治45年の銘がある鳥居から民家の並ぶ参道(?)を進むと二の鳥居です。紫色の稲荷神社旗が並び、一対の神使のキツネ像が於かれています。数年前に訪れた時はキツネ像の前掛けは「紫色」でした。「赤」というのも良い感じです。
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台座に「宝暦12年2月」と刻まれたきつね像は東京最古のきつね石像で穏やかな顔をしています。台東区の三囲神社の烏帽子を乗せたコンコンさんと同様な穏やかさです。狛犬など神使像の歴史もややこしく仏教系の「阿・吽」が神道に取り込まれた過程など手を広げるとヤバそうです(苦笑)
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文京区・護国寺…(2)

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文京区大塚の真言宗豊山派の護国寺(神齢山悉地院大聖護国寺)は東京メトロ有楽町線護国寺駅の上にあります。創建は1681年、超マザコン将軍の徳川5代将軍綱吉が母親の桂昌院の願いにより桂昌院に祈願時として建立を命じたとされます。元禄10年(1697)建立の本堂、昭和3年に旧園城寺より移築された月光殿はをはじめ多くの重要文化財を有していますが、切妻造りの「仁王門」は元禄10年の本堂よりやや時代が下るも正面側の阿吽の金剛力士像、背面には増長天と広目天の仏像が置かれています。仁王門から本堂へ向かう石段途中には「不老門」は昭和13年(1938)の建立で鞍馬寺の門を模したとされます。Pt↑)の本堂・観音堂は元禄10年(1697)の正月に建設の幕命があり僅か半年の工期で8月には完成、落慶供養が行われています。これだけの建造物が将軍綱吉と桂昌院のの命によるとしても、半年で完成とは大変な技術ですが、300年超の年月を経て目の前に存在していることに驚きを感じえません。
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明治期以降徳川家との関係が絶えると、皇族や一般人の墓所となり、三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信など著名人の墓所があります。個人の墓所には関心がないのですが、興味深いのが大正11年(1922)に85歳で亡くなった「大隈重信」の墓所と長州の成上がり者・山縣有朋の墓所が極近い場所にあります。大隈重信は30万人が参列する「国民葬」で、3週間後の山縣は”人影もまばら”と両者の人気のほどが判ります。明治維新の功労者でありながらパッとしない公家出身の「三条実美」の墓所もあり、この方々に比べれば「ジョサイア・コンドル」は小物にすぎません。
Pt↓)こんな所に「からすの赤ちゃん」の歌碑です。大隈重信の墓所は故郷の佐賀と護国寺にあります。
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関東総司・妻戀神社

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施政者の都合や道路拡張などの理由で神社の鎮座地が移転する事はそう珍しい事ではありません。「関東総司」を掲げる文京区湯島の『妻戀神社』の場合は更に福雑な歴史があるようです。江戸総鎮守・神田明神の裏手でラブホテル街に(失礼ながら)慎ましく鎮座する『妻戀神社』に以前の『王子稲荷』と稲荷関東総社を競ったことは想像できません。神社案内板によると、ご祀神は倉稲魂命(稲荷神)・日本武尊・弟橘媛命の三柱とあり、日本武尊の東征途中で別離した妻を偲んでこの地に祀ったのを起源とするとの記載があります。この話は後年に創作されたものらしく、それ以前は妻戀稲荷大明神と称して元々は平将門の縁者を祀ったのが祖のようです。
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江戸時代になると妻戀神社は「正一位妻戀稲荷大明神」とよばれ、同名の偽神社までが造られるほど繁栄したそうです。徳川将軍家の庇護も厚くうけ、後付け的な日本尊命の伝承もこの頃からのようです。稲荷社の「関東総社」は弘法大師の時代に朝廷より関東総社の地位を与えられ各地の分社を認可できる総纏めの威光を有し、今でも妻戀稲荷から分霊した稲荷社が数多く存在するようです。王子稲荷との「関東総社」の称号をめぐり寺社奉行の裁定をあおり妻戀側が敗訴したなんて伝承もあるようです。
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残念な事には『妻戀神社』は関東大震災・東京空襲と二度の災害で崩壊してしまい、「正一位稲荷大明神」や「日本尊命」伝承などを裏付ける記録は一切が失われてしまったようです。失礼ながら、現在の神社の姿から参拝客で賑わった時代があったとは思えません。それでも消え果ることなく今もそこに神社があるのは素敵なこ事だと思います。妻戀神社は正月初夢の「宝船の絵」を配布する神社としても有名だったようです。この辺りも良く判らない話なのですが(苦笑)。
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牛天神北野神社と貧乏神…【令和】

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平成23年11月に始めたブログも令和へと時が流れました。様々な名所旧跡や寺社仏閣を訪れてきましたが、今となると勉強不足の記事も多々みられます。そこで【令和シリーズ】として、以前の記事項のうちその後見聞きした説があれば追加修正して行きたいと思います。「令和」の第1回目は文京区春日の「牛天神・北野神社」です。1184年頃に東国追討に赴いた源頼朝の夢に「菅原道真」の姿が現れたという伝承から神社は創建されたとあります。社殿前の牛に似た岩石が「撫で牛」の始まりとも言われそれはそれで興味深いのですが、お隣の「太田神社/高木神社」とくに太田神社には貧乏神(疫病神)が祀られていたという珍しい神社なのです。
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江戸時代、貧しい旗本家に取りついた貧乏神を主が祀ることにより貧を逃れられ、その祠を牛天神に移したところ人々に貧乏脱却信仰が広まったあります。この貧乏神は「黒暗天石祠=黒暗天」という神で、吉祥天の妹ですが美人の誉れ高い姉と違って残念な容姿の閻魔大王の3人の奥方の1人なのです。明と暗、陰と陽など物事の裏表をなす神様姉妹でエンジェルとルシファーと同様のようです。明治以前は太田神社の主祀神として祀られていたのですが流石に貧乏神を祀るのはまずかろうで祀神が伝説のストリッパー「天宇受賣命/アメノウズメノミコト」と旦那の「猿田彦命」と変り芸能関連の神として信仰を集めます。日本の神社ではご祀神が事情により入れ替わるのは珍しいことではないのですが、この入れ替わりは良く判らないものがあります。はたしてご祀神(元)の貧乏神信仰は令和の時代に引き継がれてるのでしょうか。令和シリーズではこんな話も探していきたいと考えています。
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本郷3丁目交差点

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国道17号・本郷通りと国道254号・春日通りの交差するのが「本郷3丁目交差点」、メトロ丸の内線と都営大江戸線が通っています。(もっとも両本郷三丁目駅は離れており若干不便ですが)ず~と以前には春日通りを池袋からの都電が走っており上野広小路で乗り換えて浅草に行ったものでした。あまり意識したことはなかったのですが、この交差点から100m範囲には結構面白い場所があります。
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【本郷もかねやすまでは江戸の内】。江戸川柳にもある「かねやす」は享保年間(1716頃)から””乳香散”という歯磨き粉を売る店がありました。享保15年(1730)の江戸大火では付近一帯が焼失、奉行・大岡越前守の命により「かねやす」を境に南側の家屋には土蔵造りや瓦屋根を奨励し北側は従来の板や茅ぶきの造りとしています。つまり「土蔵造りのかねやす」までが江戸の北限という認識となり前述の川柳が生まれています。
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本郷3丁目交差点を後楽園方面に進むと【本郷・櫻木神社】があります。通称は櫻木明神とも呼ばれ、室町時代にあの神社創建好きの”太田道灌”が道灌江戸城に京都北野天満宮から勧請、江戸時代の遷座の後こちらへ来たようです。東京大学が近いこともあり(ついでながら某漫画のモデルなんだそうです)東大受験生には人気があるようです。元来の天神信仰は雷神(天神)の信仰のことであり、天神=菅原道真ではなかったのですがいつのまにやら(苦笑)。
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今でこそ地方からの修学旅行の宿泊はホテル(洋室)が一般的ですが、以前はこのあたりの本郷地区が宿(和室)として知られていました。東京には和室旅館が年々少なくなってきましが、”そういえば修学旅行の宿は本郷だった”と思いあたる人もいるでしょう。春日通りから一本奥まった場所の「ホテル機山館」も有名旅館で、その玄関前が【本郷薬師】です。この薬師さんは元々この地にあった真光寺の敷地内にあったようです。
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薬師堂を櫻木神社に向かって30m、右折して30mにいきなりのように【十一面観世音菩薩像】があります。あたりの雰囲気には即してないのですが、思いの外感じのよい観音像です。こちらも天台宗真光寺の敷地内だったようです。真光寺は東京空襲で焼失、世田谷に移転しているのですが、なぜ観音像をここに残していったのか不思議な気がします。
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交差点から本郷通を100m程【別れの橋跡・見返り坂と見送り坂】の碑が立っています。この辺りが太田道灌時代の領地の際だったようで、江戸追放の刑を受けたされた罪人が、当時存在した橋を境に親類縁者が見送ったから見送り坂。追放された者が振り返るから見返り坂とありますが、なんだか疑わしい話でガセ伝承の気がします。

文京区・簸川(ひかわ)神社

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文京区千石、昔だったらさぞ眺めの良かったであろう場所に鎮座する『簸川神社』です。(氷川)と(簸川)字こそ違いますが、この神社も素盞嗚命・大己貴命・稲田姫命を祀る武蔵一之宮・大宮氷川神社の末社です。「氷川神社」の名称は出雲国・簸川(島根県簸川郡)に由来するとの説があり大正年間に「簸川」の名前に改めたそうで、結果として関東では珍しい「簸川」の名称となりました。福井県にも素盞嗚命を祀る『簸川神社』があり、どうやら氷川神社は埼玉・東京・神奈川限定の神社ではないようです。
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元々は隣の小石川植物園内にあり、承応年間(1652年頃)に徳川綱吉公の白山御殿の造営に伴い現在地へ遷座しています。江戸時代は氷川大明神と称し、明治時代には氷川神社、さらに簸川神社と変遷しています。Ptの鳥居からの石段はきっちり50段あります。この階段を『合格階段』というのだそうですが謂れがよく判りません。階段を登りきると巣鴨と彫られた狛犬がある稲荷社のような境内社があります。社殿は東京空襲で消失し、昭和33年(1958)に再建されています。
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東京都水道歴史館

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文京区本郷の『東京都水道歴史館』です。最寄駅はJRお茶の水駅から順天堂病院側へ徒歩10分程度なのですが大通りに面しておらずやや判りにくい場所です。外観は地味な感がありますが展示の内容はかなり濃いです。徳川家康が江戸幕府を開いてから江戸の街は人口が爆発的に増大し飲料水の確保は大きな問題となりました。飲料水の確保として造成されたのが神田上水や玉川上水です。玉川上水は現東京都羽村市から四谷付近までの約43㌔(標高差は僅か100m)が露天、四谷大木戸からは地下水道管で水を供給していました。これらの上水がなければ江戸の発展はなかったでしょう。歴史館には「玉川上水」の工事概要や当時の木製の水道管や明治以降の水道事業の歴史等が展示され、新宿アルタ前の「馬水槽」のレプリカなどという珍品や江戸の長屋の雰囲気を再現したセットはコンパクトながら良い出来で内容充実の資料館です。
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八百屋お七の疑

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1683年1月25日、現文京区の大円寺からの火災は本郷、お茶の水、神田と広がり隅田川を超え両国、深川まで燃え広がり、焼失した大名屋敷は75、旗本屋敷が166、寺社95、数多くの町家が焼失。死者の数は約3500名以上が「天和の火災」と呼ばれる大火事です。この火事の最中に出会った男と再会したい一心で放火事件を起こしてし死罪とされるのが「八百屋お七」のお話なのですが、実際はこのストーリーは戯曲作品としての創作のようです。
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文京区白山の円乗寺には、八百屋お七の墓が寺の住職、役者、近隣の人々による3基(も)あります。奉行による未成年なら遠島、成人なら火炙りの話も鶴屋南北の「好色五人女」での創作です。近くの大円寺にはお七の罪業を救うための「ほうろく地蔵」の寄進がありますが、いつの時代もお話と事実の区別がつかない輩はいるものです。実際の火炙りの刑は躰に可燃物を巻きつけ頭から油をかけ一挙に燃やし尽くす方法のようです。”見せしめの為”の処刑なので残酷極まりありません。

湯島天満宮の疑問

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湯島天満宮(旧湯島神社)は、雄略天皇2年(458年)に勅命により天之手力雄命(あめのたぢかおのみこと)を祀る神社として創建された古社です。この神様は天照大神が天岩戸に引きこもった際に岩戸をこじ開けた方で「戸隠神社」のご祀神です。春日通りからの階段を登ると本殿裏に「戸隠神社」がひっそりと鎮座しています。天神さま(菅原道真公)は後に合祀された神様なので、つまりは創建者を追い出して居座ったとも云えます。まぁ怨霊神日本代表でもあり、江戸時代は富籤の興行で賑わうようになり天神人気で主客が転倒したのかも知れません。ご祀神の入れ替わりは良くあることなのですが、本殿屋根の鰹木数が奇数で千木先端が縦切れの男神、若しくは伊勢神宮外宮造りなのはこの辺りの事情なのでしょうか?
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奇妙と云えば奇妙なのが、銅鳥居側にある稲荷社です。境内社としては「戸隠神社」と隣の由来が良くわからない「笹塚稲荷」は湯島天神の境内案内図にあるのですが、この「天三火伏三社稲荷」に付いては湯島天神境内図に記載がありません。狐像が最近のデザインの姿だったり、賽銭箱が設えてあったりで”ほったらかし稲荷”では無いようです。”火伏”を名乗っていることから 商人家や大名屋敷内の屋敷神なのでしょうが・・。
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【東京十社】‥白山神社

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文京区白山1丁目の「東京十社」の白山神社(はくさんじんじゃ)です。旧名称の白山権現社が「文京区・白山」の地名の由来となっています。ご祀神は菊理姫命(ククリヒメノミコト・伊弉諾命・伊弉冊命で、ご神徳に縁結びはまだしも商談成立は?です(苦笑)。948年加賀の白山比咩神社から勧請され、将軍秀忠の時代に小石川植物園近くに移転、その地が館林藩主徳川綱吉の屋敷が造られることになったため現在地に遷座しました。紫陽花の名所としても知られ、6月の中旬頃の「文京あじさいまつり」では境内や白山公園で約3,000株の紫陽花を見られます。境内の『孫文先生座石の碑』は明治43年頃、神社近くに住む中国かぶれ思想家の宮崎滔天宅に寄宿していた孫文が、神社で中国の将来と革命について語り合い、孫文が”後の辛亥革命での新中国建設を誓った場所ということで有志がこの記念碑を建立したとありますが説得力が極々希薄です。
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文京区・こんにゃく閻魔

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文京区小石川の浄土宗・源覚寺です。どちらかというと「こんにゃく閻魔」の方が有名でしょう。久しぶりの参拝ですが、境内が小奇麗になっていました(苦笑)。文京区の指定有形文化財となっている閻魔像は鎌倉時代の作品とされています。判りにくいにですが閻魔像は右眼が黄色く濁っています。これは昔、眼病を患った老婆が寺の閻魔大王像に祈願し続けたところ、夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。筋書き通りに老婆の眼は治り、感謝の印として好物の”こんにゃく”を断って閻魔大王に供え続けたという伝承によります。これによりこの閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めているそうです。現在でも絵馬などを見ると「眼病治癒祈願」が目立ち、閻魔堂には「こんにゃく」が供えられています。閻魔堂右には、これも『自身の治したい部分に相応するところに塩につけるとご利益があるという』塩地蔵尊があります。立木の補強材に樹脂が塗られグロテスクです。まぁ地蔵尊は見事に塩漬けになっています。
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小石川・伝通院(傳通院)

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文京区小石川の「伝通院」は浄土宗の寺で正式名称は「無量山・傳通院・寿経寺」です。徳川将軍家の菩提寺として知られ山門には葵の紋が付けられています。この日は仏事がおこなわれており写りこみを避けていますが、再建された山門は平成24年の完成です。
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山門脇には「不許葷酒入門内」=酒気帯びで入ってはなりません=の碑やら、新撰組の前身である清川八郎による「浪士隊」の結成の地やら上野戦争の「彰義隊」結成の地である旨の案内板があります。春日通りから山門に至る途中には浪越徳次郎氏の「日本指圧専門学校」があります。
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古刹という事もあり多くの有名人が傳通院に埋葬されています。徳川将軍家縁の方々や幕末勤王の志士・清川八郎。詩人の佐藤春夫。作家の柴田錬三郎。指圧の浪越徳次郎等・・。Pt↑)は「岡村三右衛門と呼ばれたイタリア人」宣教師・ジョセフ・キアラの供養碑です。鎖国時代の宣教師として日本に潜入、幕府に捕えられキリスト教を棄て、以後は日本人「岡村三右衛門」として生きた方です。
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慶長7年(1602)に京都伏見城で死去した徳川家康の生母「於大の方」の遺骨は遺言により江戸へ運ばれ、家康により菩提寺が各所に造られています。「傳通院」の名称も「於大の方」の法名『傳通院殿』によります。徳川秀忠の娘(家康の孫)の「千姫」や徳川家光の正妻「鷹司孝子」など徳川将軍家縁の方々が埋葬されています。

文京区・澤蔵司稲荷

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文京区小石川の澤蔵司(たくぞうす)稲荷にも面白い伝承があります。「稲荷社」でありながら実際は浄土宗の「慈眼院」というお寺で、徳川家康の生母・於大の方や千姫の墓所の徳川将軍家の菩提寺「傳通院」の末寺なのです。その傳通院に太田道灌が江戸城内に勧請した「稲荷大明神」が修行僧の「澤蔵司」に化けて修行に入り、浄土宗の奥義を僅か3年で極めたのですが、尻尾を出して寝ていたので正体がバレてしまい寺を去ったという話で、去り際「私を祀りなさい」と言い残したため「慈眼院」に祀られたそうです。
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そんな事から「無量山傳通院鎮守・澤蔵司稲荷」が正式名称です。山門を入ると、お寺なので鳥居はありませんが、眷属の「キツネ」はおります。本堂軒下には「白狐」が見られます、本堂脇の窪地には稲荷社ではよく見かける「お穴様」が・・。さらにはお寺近くの「むくの木」の巨木には澤蔵司が宿るとされ、修行中の澤蔵司はこの木の葉をお金に変えて、傳通院前の蕎麦屋「萬盛」で大好物の天婦羅蕎麦を良く食べたそうです。悪い奴(キツネ)です。「萬盛」は現存していますが残念ながら休業日でした。
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湯島聖堂あたり・・。

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JRお茶の水駅ホームから神田川を挟んで「日本の学校教育発祥の地」とされる『湯島聖堂』があります。特には独特な『大成殿』は日本らしからぬ建造物の感があります。興味を持つ人はそうは多くないと思いますが、屋根上には珍しい姿をした聖獣達が大成殿を守っています。猫のようで猫でない『鬼龍子/きりゅうし』と称する顔は猫科で腹部には鱗がある「猫+蛇」の聖獣が睨みをきかせています。その上方で頭から水を噴きあげているのが、鯱の原型と追われる『キギントウ』と称する水の神です。中国発祥系の聖獣には驚かされます。
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『湯島聖堂』は徳川5代将軍綱吉が儒学振興のため、上野忍ケ岡の林羅山の孔子廟と家塾を移転したのが始まりです。将軍綱吉となると「生類憐みの令」が有名ですが身体的コンプレックス(小人病?)により学問に走ったとも云われています。寛永年間には「昌平坂学問所」が開設されるなど、ここは幕府人材養成の場となっていました。現在の大成殿は関東大震災で焼失し昭和10年に伊東忠太の設計で再築されたものです。
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