旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

文京区

文京区・春日局像

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文京区は春日通り富阪脇の公園敷地にある『春日局像』です。文京区「春日」の地名は徳川3代家光公の乳母にあたる『春日局』に由来するのは良いのですが…。昭和64年のNHK大河ドラマ「春日局」の放送を契機として「文京区春日局推進協議会」を設立して地域振興を事業を推進、平成元年12月に事業の記念として建立とあります。NHK大河ドラマの舞台⇒地域振興事業の推進⇒記念館やら銅像やら…。絵にかいたような展開は地方都市だけの話ではなかったようです(苦笑)。対照的に講道館の玄関に凛とした姿で立つ「嘉納治五郎先生」。記念銅像のあるべき姿です。
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小石川大神宮

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文京区小石川にある「天照大神」を祀る『小石川大神宮』です。都内の神社にありがちと云うのしょうが、参道がビルの1階部分にある通路を通り抜けていく形になっていて、神社社務所はビル内にあります。拝殿は西面なのですが、参拝者が拝む方向に本殿(南面)が位置していません。東京の土地事情を考えるとこれも”あり”です。この社殿は、平成8年(1996)の社殿修復に「第六十一回神宮式年遷宮」の際の月讀宮の古材を使用しているそうです。小石川大神宮は「大神宮」と名乗るように伊勢神宮の分社ですが、由緒に”やや微妙感”があるので、境内掲示を引用します。
…【創立御鎮座は昭和四十一年三月七日。これはさきに伊勢の神宮総代であった創立者佐佐木勝造翁の赤誠による申請に対して、伊勢の神宮より特別御神璽(別大麻)を特に拝戴し、創立御鎮座したことに依ります。間も無く小石川大神宮崇敬会が結成されました。爾来、年を追って崇敬会員が全国的に増加し、神宮の「遥宮(とうのみや)」とも呼びなされ今日に至っています。崇敬会の目的は、伊勢の神宮の御神徳を遍く国内にひろげ、敬神の念を育成して道義の向上を社会福祉に貢献し、ひいては皇室国家の隆昌と世界の平和に寄与せんとする当社創建の趣旨を扶翼せんとするものであります。】…
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本郷・かねやす

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本郷3丁目の交差点に『本郷もかねやすまでは江戸の内』と江戸川柳で有名なお店があります。江戸・享保年間(1716頃)、兼康祐悦という歯科医が”乳香散”という歯磨き粉を販売した店だそうです。享保15年(1730)の大火で付近一帯が焼失し復興を担当した奉行・大岡越前守は、「かねやす」を境に南側の家屋には土蔵造りや瓦屋根を奨励し、北側は従来の板や茅ぶきの造りのとする命をだしています。このため捕物帳的時代劇にでてくる「江戸所は払いを命ずる」の江戸の境界とは異なりますが、土蔵造りの「かねやす」までが江戸の北限として一般的な認識となり前述の川柳が生まれています。「かねやす」は移転することもなく、現在まで400年も同じ店舗が同じ場所にあるという稀有な事例となっています。
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本郷通りを「かねやす」から40mほど「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂」の碑があります。太田道灌時代の領地の境目で、江戸を追放された者はこの橋で放たれ、親類縁者は南側で見送り=「見送り坂」。追放された者は 振り返りながら去る=「見返り坂」といわれたそうです。
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漱石・猫の家

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塀の上からこちらを覗う猫!”怪しい者ではありませんよ。漱石先生の住居跡を見に来ただけです”。文京区向丘2-20-7 日本医科大学同窓会館にある文豪夏目漱石(1867~1916)の旧居跡です。とても立派な石碑で、碑文が鎌倉漱石会、題字が川端康成書となっています。文京区教育委員会の案内板もあり”区指定史跡”としては某女子とは格差を感じてしまいます。漱石先生はイギリスから帰国後の明治36年から3年間住み、東京大学英文科・第一高等学校の講師の職に就く一方、この旧居を舞台とする『我輩は猫である』を執筆し『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等をこの家で次々に発表しています。この時代漱石先生は”オカルト的なモノ”にハマり『我輩は~』にもテレパシーや催眠術を話題にしているそうですが…気が付きませんでした。年代こそ違え森鴎外も一時この家に住んでいたそうで、この家自体は犬山市の「明治村」に移築されています。
ようやく”文豪の史跡”の体をなしてきましたが、文京区施設としては『森鴎外記念館』がこの上をいきます(笑)
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本郷・樋口一葉の疑

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樋口一葉が5000円札の肖像に選ばれたのは偽造しにくい著名人(できれば女性)というのが主たる理由で、それ以上の理由はありません。いつもの事ですが…芸術家はその作品でのみ評価されるべきで、何処で生まれ、暮らし、死んだ等はどうでも良い事とでしょう…。文京区には文豪と称する人達の住居跡がやたらあります。その殆どが「看板のみ」ですが…。なかでも樋口一葉ゆかりの地は文京区と台東区で競っている感があります。…赤貧の生活。若くして(24歳)肺結核で死亡。死の直前の1年半で代表作を執筆…事実としとも日本人好みの要素が漂い、なんかしっくりきません。『にごりえ』など娼婦に入れあげて身代を潰した男の話を23.4の小娘の感性で書けますかねぇ?それ以前に赤貧の暮らしと結核で衰えた躰では執筆活動など無理だと思うのですが。そうなるとゴースト・ライターが存在して樋口一葉は名前だけの可能性も疑えますね。
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150612_02150612_03樋口一葉は12回も住まいを移転しています。家賃滞納で追い出された考えるのが自然です。東大赤門前の法真寺隣にも明治9年頃の住居跡碑があり、ゆかりの地としてはそこだけがしっくりきます。Ptの奥の左右が明治23年~25年ごろの住まいの跡だそうです。実に判りにくい場所です。「一葉ゆかりの井戸」がっていますが”なにそれっ”と言う感じです。民家の玄関先に井戸があるので住民の方はさぞ迷惑な事でしょう。2)は散々かよった「伊勢屋質店」です。台東区の竜泉に移ってからも通っているそうで、竜泉からだと1時間以上かかります。さぞ融通が利いたのでしょう。それにしても極貧生活の樋口家では何を質草にしたのでしょうか?実は質屋の主人がパトロンだったのかも知れません。
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150612_04150612_06Ptは白山通りに面した「樋口一葉終焉の地」の碑です。本郷で住居を転々とした後、一葉は当時の下谷区竜泉に10ケ月ほど移り住み、明治27年にここに移転しています。うなぎ屋の離れで6畳2部屋と4畳半の3部屋、庭には湧水で造られた池があっそうです。お隣りの居酒屋の女性をモデルに『にごりえ』が書かれています。更には『大つごもり』・『たけくらべ』・『ゆく雲』・『十三夜』など代表作が短い期間でこの地で書かれていますが、やはり納得がいきません(笑)。納得がいかないと云えば、東大前住居跡には真筆による『ゆく雲』の草稿碑がありますが、この文字がとても20そこそこ女の文字とは思えないほど上手なのですが…。

梅盛り・湯島天満宮

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【菅原道真】…政争に敗れ九州に左遷されたのを恨んで、都に雷を落としまくるは、挙句には疫病を流行らせる大暴れ。平将門、崇徳上皇と共に”日本三大怨霊神”の菅原道真が学問の神様に祭り上げられたのは妙な話なのですが…。これ今風にいうなら「褒め殺し」ってやつですねぇ。煽てに煽てて神様に持ち上げておけば「祟りなし」です。菅原道真⇒学問の神様の正体見たりという事です(笑)。これ以上は祟りが怖いです。
さてPt↑は)湯島天神境内の奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)です。一石橋で触れた「迷子しらせ石柱」です。柱の右側は「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されていますが、かなり崩した文字が彫られています。果たして江戸の人達はこの文字が読めたのでしょうかねぇ?
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1)満開の白梅の中の”泉鏡花筆塚”です。恩師から妹を嫁にと乞われて同棲中の彼女を棄てるという話はいつの世も”良くある話”です。「別れるくらいなら死ね言ってくれ…」とはいかにも時代です。現代なら殺されかねないでしょう。 2)本殿の屋根には無数の魔よけの猪目があります。間違ってもハートのマークではありません。 3)銅鳥居左の「火伏三社稲荷」です。何故か湯島天神公式サイトにも記載がありません。
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弥生式土器ゆかりの地

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文京区弥生の"言問い通り"沿いに「弥生式土器ゆかりの地」という碑があります。日本史に登場する縄文・弥生時代の”弥生”なのですが、この碑は”発見場所”ではなく”ゆかりの地”となっています。1884年(明治17年)に東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人がこの付近の貝塚から「壺」を発見しました。壺は縄文式土器と異なる様式で、発見場所の地名をとり「弥生式土器」と名付けられました。ここまでは良かったのですが…。都市化が進むとともに正確な発掘場所がわからなくなってしまったのです。1974年(昭和49年)には大学構内で弥生式土器等が見つかり、1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されるなどその重要性が認識されていますが、1884年当時はどうでも良かったのでしょうかねぇ。貝塚があるくらいですから、古代でも人口が多かった土地なので”エイヤッこの辺”でもいいのでしょうが、苦肉の策での「ゆかりの地の碑」なのでしょう…。
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↓左)碑の裏面ですが立ち入れないので読むことができません。 ↓中)弥生町の町名の由来が書いてありますが弥生式土器とは関係ないでしょう。
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麟祥院・からたち寺

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文京区湯島の麟祥院(りんしょういん)です。森鴎外の『雁』では岡田君の散歩道で「陰気な臭橘(からたち)寺の角を曲がって帰る」…とあります。寺の周囲にカラタチの生垣をめぐらせていたので「からたち寺」と呼ばれていtたそうですが、臨済宗妙心寺派のお寺で山号は天沢山がお寺の名称です。徳川3代将軍・家光の乳母である『春日局』の菩提寺として知られ、”春日通り”の名称も”春日局”に由来しています。春日局の話となると長くなるので別校としますが、面白い話では、埼玉県川越の喜多院内には「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」があります。これらの建造物は寛永15年の川越大火で喜多院が全焼したおり、家光の命により江戸城御殿の一部を移設した建物です。その後江戸城が燃えてしまい、結果として川越の街に江戸城の建物が残ったいう事です。この建築資材を運ぶ為に江戸~川越の運河が整備され、後日の川越の繁栄に繋がるのですから大したモンです。
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森鴎外記念館

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文京区千駄木1丁目(東京メトロ千代田線、千駄木駅徒歩5分)の『森鴎外記念館』です。この記念館は1892(明治25)年から60歳で亡くなる1922(大正11)年まで30年間暮らした「観潮楼」の跡地で、実質2年間住んだ某旅館とは違います。この地で小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医とはば広く活躍したという事です。それにしても「観潮楼」の名前にあるように、当時はここから”海が見えた”とは…。信じられない思いです。
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記念館のパンフには、筆名「鴎外」の由来があります。曰く…本名の森林太郎のほか、鴎外・鴎外漁史・千朶山房主人・観潮楼主人・陰流・帰休庵など30以上のペンネームと使い分けしました。鴎外の名は千住に存在した「かもめの渡し」に由来とする説があるそうです。「かもめの渡し」は吉原を指す名称でもあり、遊興の地に近寄らす、遠くはなれて千住のにいるとの意味が込められているようです。この情報だけでも¥300(入館料)の価値はあります。
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区立の記念館となると予算の関係もあり、刊行物や本人の遺品や写真でお茶を濁す施設が多いのですが、リニューアルされた森鴎外記念館は、建物からして気合いの入り方が違うようです。なにより学芸員の説明がしっかりしていました。
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梅なし・湯島天満宮

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Pt↑は(1/27)の湯島天満宮・男坂の模様です。当然ですが「梅の花の”う”の字”もありません。『湯島天満宮』…旧称は湯島神社で通称湯島天神。正式には平成12年3月31日に湯島神社から湯島天満宮に改称されています。学問の神様・菅原道真公を祀り、梅の花(20種類・300本・80%が白梅)の名所です。
。雄略天皇2年(458年)に天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建。南北朝時代に菅原道真公を合祀しています。江戸時代は徳川家の崇敬を受け”富籤の興行”が盛んにおこなわれていました。 Pt↓左)は本殿の屋根の部分です。大砲のような飾りは”鰹木”と称し、数が5本(奇数)なので男の神様いう事になります。飛び出ているのは”千木”で、先端が縦に切れるのが男神、横に切れるのが女神です。社歴にもあるように創建時は『手力雄命』がご祀神。後に菅原道真公を合祀なのですが、この鰹木&千木の下にはどなたがいらっしゃるのでしょうか?因みに創建時の『天之手力雄命』は春日通り側のPt↓中)『戸隠神社』に追いやられているようです。
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東大・鉄門と無縁坂

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森鴎外、1911年の作品『雁』登場する東大・鉄門と無縁坂です。主人公の東大生「岡田君」はこの近所に住んでいて、散歩コースの「無縁坂」に住む美人妾の「玉ちゃん」と微妙な関係というお話ですが…。やっぱり明治44年の作品なので今風でないのは致し方ありません。この鉄門の場所には江戸時代の種痘所があり、その門扉が板を鉄板で囲い、更に黒くに塗ってあったので、人々は種痘所を「鉄門」と呼んでいたそうです。 後に、種痘所の門扉が東大医学部の門扉となり、医学部正門は本郷キャンパスの全体の正門も兼ねていました。1884(明治17)年に本郷通りに新しく正門が設けられたのを機に、医学部正門が再び「鉄門」と呼ばれるようになっています。現在の鉄門は、東大医学部創立150周年を記念して2006年度に再建されたものです。
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Pt↓中)は無縁坂の由来となった講安寺から坂下方面です。レンガ塀は岩﨑邸です。このお屋敷は金持ちの悪趣味感が否めません。
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【東京十社】‥根津神社(根津権現)

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文京区根津にある根津神社(ねづじんじゃ)です。明治初期の神仏分離の際に「権現」の名称が禁止となりましたが、地元では今でも「権現様」や「根津権現」と呼ばれているようです。創建は古く1900年近く前に『日本武尊』がに創祀したと伝えられ、文明年間に『太田道灌』により社殿が創られ、江戸時代になり現在地に移転しています。社殿は1706年の創建で、1705年徳川5代将軍・徳川綱吉が養嗣子6代将軍家宣のために屋敷地を献納して天下普請しもので、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされ、社殿7棟が国の重要文化財に指定されています。現存する社殿も江戸時代の権現造りです。正面から見ると構造が判りにくいのですが、朱の鳥居が林立する境内社の「乙女稲荷社」の舞台からみると権現造りの配置がよくわかります。
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神社の隣が東京大学です。大学が移転してくる前は門前に「根津遊郭」があり、移転に伴い洲崎に強制移転となっています。 根津神社は”躑躅の名所”として知られていますが、この季節の銀杏も見事です。
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バブルの塔・文京区役所

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『●●と煙は高い所へ』の3回目は、バブル経済の真っ最中に建設され桁外れに豪華な庁舎の為、別名『バブルの塔』とも呼ばれる文京区役所の「文京シビックセンター」です。23区の区役所では最く、高さ142m、地上28階、地下4階あります。展望室は25階北側にあり無料で景観を眺めることができます。Pt↑)の傾斜した窓のように工夫された回廊となっているのですが…。建物の構造上、丸の内・皇居側にはレストランが入り、この方面は無料という訳にはいきません。 訪れたのがちょうど昼休み時間で展望室には人が殆どいません。それにしても、区役所は昼休みには節電で灯りを落とすのですが、停電状態といったな感じで、あまりにも貧乏臭い雰囲気です。経費節減=節電とはなにか短絡的でいかにも”努力しております感”が見え見えです。これで誰にアピールしているのでしょうか?
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お決まりの…。新宿方面に高層ビルの間には『富士山』が(見えるハズ)。これが【関東富士見百景】だそうです。 眼下には旧水戸藩のお屋敷跡『小石川後楽園』。茗荷谷方面からの丸ノ内線がトンネルから姿を現します。 浅草方面にはスカイツリーと来ます。
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無縁坂と講安寺

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不忍の池から岩崎のお屋敷の煉瓦壁に添って東大行院へと続く緩い坂道。この坂道が”さだまさし”の歌に描かれた「無縁坂」です。森鴎外の作品「雁」に主人公の散歩道として描かれたほうが古いのですが…、歌の印象の方が強いのはしょうがないでしょう。…「♪運がいいとか、悪いとか、人は時々口にするけど~♪」…ところで、母は僕の手を引いて何処へ行っていたのでしょうか?東大病院に通院ですかねぇ?
元々、坂上に『無縁山法界寺』という寺があり、後に『講安寺』移転してきて境内に無縁寺と名付けた庵を建てたのが「無縁寺」の坂道で「無縁坂」の謂れのようです。もしくは松平備後守・榊原・前田(加賀)の武家屋敷に囲まれた坂なので「武縁坂」とも言われるそうです(例によって異説です)。
さてその「講安寺」ですが、無縁坂の北側に位置する山号は専修山で浄土宗のお寺です。本堂の外壁が漆喰で塗りこめられた珍しい土蔵造りになっています。米蔵かと見間違えるくらいの造りになっているのですが、火事に悩ませられた江戸の人たちの防火建築の知恵なんでしょうが…。
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Pt↑)♪母がまだ若いころ僕の手を引いてこの坂を上るたびいつもため息をついた~♪ 煉瓦壁は岩崎のお屋敷です。
Pt↓ 講安寺の山門と漆喰造りの本堂です。屋根の上に”猫”がおりました。
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湯島天満宮・梅まつり

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体調を崩していたこともあり約1ヶ月更新を休載とさせていただきました。その間にも季節は確実に進み文京区・湯島天満宮では”梅まつり”の時期となっています。”梅まつり”…櫻の花より梅の花の開花の方が、週末ごとに大雪が降ろうと、日中10℃に届かない日が続こうと「春」はもうそこまで来ている事を教えてくれるようです。
湯島天神は「梅の名所」で、境内には約400本(?)の梅の木が植えられています。また、泉鏡花の小説「婦系図」を元ネタとした映画『婦系図・湯島の白梅』での、主人公・早瀬主税(ちから)とお蔦(つた)の別れ話の舞台になった場所だそうですが…。 泉鏡花の原作には”湯島天神での別れ”の場面は無いのだそうです。映画制作の際して演出的に付け足したのが、映画の印象が強く、有名になってしまったようです。
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ご祀神の菅原道真は、平将門・崇徳上皇と共に日本の三大怨霊神とされていますが、菅原道真だけは「一般人」です。九州に左遷された事を恨んで京都に雷を落としまくり”頼むからやめてぇ”という事で「神様」になったのですから、考えようによっては奇妙なお話です。
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駒込富士神社

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六義園から本郷通りを徒歩5分程度なのですが…。こちらの『駒込富士神社』を訪れる人はあまりいないようです。この神社は元々は本郷の6丁目、現東京大学の地に浅間神社として建立されていますが、加賀・前田藩が屋敷となった為にこの地の移ってきました。ご祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。建立の年は不明だそうですが、拝殿は古墳だったと思われる富士塚の上にあり、この富士塚は江戸時代の富士信仰で賑わったそうです。特には町火消達に深く信仰され、火消の組長から奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が残っています。
”初夢”で良くでてくる言い回しの「一富士、二鷹、三茄子」の一富士はここ富士神社、二鷹は付近の鷹匠屋敷、三茄子は駒込近辺が名産地だったことによるそうですが…本当ですかねぇ(?)。
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左)他の都内富士塚の様に溶岩を積み上げたようには見えません。元々は古墳だったと云われています。
中)急な階段を登ると富士神社拝殿があります。
右)由来書です。きらびやかさはあるませんが、味わいのある神社さんです。
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特別名勝・六義園

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文京区本駒込の特別名勝・六義園(りくぎえん)の紅葉です。六義園は江戸5代将軍綱吉の時代に側近の柳沢吉保が元禄15年(1702年)の造園した「回遊式築山泉水」と称する大名庭園です。明治期には不動産大好きの三菱・岩崎弥太郎の別邸となり昭和13年に東京市に寄贈されて、昭和28年に国の特別名勝に指定されてます。この日(12/04)に朝のTV番組で”紅葉が見ごろ”と放送されていたので出かけたのですが、平日ながら一眼カメラややスケッチ班や街散策やらの同好の人達でけっこう賑わっていました。肝心の紅葉”ですが、”都内の紅葉はこんな感じです…”という感じです。上の写真は「渡月橋」で…和歌の浦 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影ぞさびしき…の歌から名付けられたそうです。
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下左は田鶴橋と中の島、中は玉藻磯から吹上茶屋方向です。景色自体は冬枯れ寸前ですね。六義園では12/8(日)・最終入園20時30分の「紅葉と大名庭園のライトアップ」イベントが大人気だそうです。冬の季節でも…蛾や蝶ではあるまいし…”光”には人も集まるようです(苦笑)。
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根津神社

041801041802普段は閑静な神社なのですが「つつじ」の名所として知られ、4月中旬~5月上旬には約100種3000株の見頃を迎え「文京つつじまつり」が開催されています。神社内は多くの人達で賑わい、祭礼関連では欠かせない植木市や露店が乙女稲荷から本殿裏手に店を連ねて大そうな盛り上がりとなっています。これでつつじが満開なら言う事はないのですが、今年は天候の関係で満開時期が先送りとなっている様子です。つつじ園の入園料¥200は微妙ですが…。「園内の奥の方は見頃です」との掲示はどう見ても??です。それでも通常は何も無い場所に茶店が急造されるなど主催者側の気の入りようが感じられます。根津神社は「根津権現」とも呼ばれ、1900年余の昔に日本武尊が”千駄木の地”に創祀したと伝えられる古社です。社殿は江戸時代宝永3年の創建。江戸5代将軍徳川綱吉の養嗣子に家宣が入り、6代将軍と決まった折に天下普請されものです。権現造り(本殿、幣殿、拝殿が並んだ構造)の傑作とされ、社殿7棟が国の重要文化財に指定されています。『権現造り』は乙女稲荷側から見るとの構造が良くわかります。

湯島聖堂の聖獣たち・Ⅱ

021403021404JRお茶の水駅ホームから神田川を挟んで湯島聖堂が見えます。両岸を結ぶ橋の名称は「聖橋」。関東大震災復興事業の一環で昭和2年に完成した橋です。名称の由来は両岸に位置する湯島聖堂とニコライ堂を結ぶことから「聖橋」だそうで、公募とはいえ安易と云えば安易です。この湯島聖堂には「日本の学校教育発祥の地」との掲示がありますが、元々は元禄年間に林羅山が現在の上野公園の私邸に建てた孔子廟を、将軍綱吉に命よりこの地に移したのが始まりで、寛永年間には幕府の官立の”昌平坂学問所”となり多くの人材を育成しているので間違いではありません。写真の門は「明神門/みょうじんもん」で昭和10年の竣工です。まさかと思ったのですが、神田明神側の門なので”明神門”なんだそうです(苦笑)。右は中華民国台北市ライオンズクラブより寄贈された孔子像です。高さ4.5m、重さ1.5tは孔子像としては世界最大とのことですが…(?)

現在の「湯島聖堂」は、昭和31年より「財団法人斯文会」により管理運営されています。この斯文会の建物の屋根には、昭和10年に復興聖堂の設計を担当した”伊東忠太氏”による不思議な動物たちが配されています。氏のオリジナルで名前も意味するところも不詳なんだそうです…。
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湯島聖堂の聖獣たち

021402021401東京・文京区の『湯島聖堂・大成殿』の屋根上には、霊獣たちが聖堂を守っています。この湯島聖堂徳川5代将軍綱吉が儒学振興のため、上野忍ケ岡の林羅山の孔子廟と家塾を元禄3年(1690)湯島に聖堂を造り移転したのが始まりです。将軍綱吉はどうしても「生類憐みの令」が有名ですが、学問にも理解を示しこの地には後に幕府直轄学校として「昌平坂学問所」が開設されています。現在の大成殿は関東大震災で焼失し昭和10年に伊東忠太博士の設計で再築されたものです。屋根の上には、シャチホコの一種の『鬼■頭(きぎんとう)』…■は変換不可、獣ヘンに犬と書く…と呼ばれる”龍頭魚尾”で頭から水を噴き上げている像が”水の神として、火災を防ぐ為に”祀られています。写真は『鬼龍子/きりゅうし』という顔は猫科で牙を剥き、腹部には鱗がある「猫型蛇腹」の動物(?)です。当然、想像上の霊獣で孔子のような聖人の徳に感じて現れるとさています。猫型蛇腹とは、なんという想像力なのでしょうか…?
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