旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

研修あれこれ

下関・住吉神社

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下関の『住吉神社』です。大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1社に数えられたいます。この日本三大なんたらの多くが残念な結果に終わりがちですが、長門の国一之宮でもこともあり福岡への道すがら予備知識もなく立寄ってみました。駐車場から本殿へ向かうと、神域の雰囲気が”ちょっと待ってよ”の感じになっていきます。記憶をたどってもこんな形式の社殿など見たことがありません。
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PT↑)のように本殿は五つの社殿が連なっています。この社殿は応安3年(1370)なんと室町じ時代の造営で、昭和28年に国宝にされています。第一殿には表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神、第二殿には応神天皇、第三殿には竹内宿祢命、第四殿が神功皇后、第五殿には建御名方命(タケミナカタ命)の神々が祀られています。この社殿の形式を「九間社流造」というのだそうで、本殿の第三殿の手前にある拝殿は、室町時代・天文8年(1539)毛利元就の寄進により造営され、昭和29年に国指定の重要文化財です。他にも楼門が国登録の有形文化財などと驚きの連続です。
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創建は日本書記・神功皇后の時代まで遡る古社で、住吉三神にしても大阪住吉大社は「和魂」を祀るのに対し下関は「荒ぶ魂」を祀ると性格が異なっています。第五殿の出雲国譲りで建御雷神との力比べに敗れた諏訪大社の「タケミナカタ命」が祀られているのは、なにか唐突の様な気がしてなりません。
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角島(つのしま)大橋… (2)

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チョット寄り道してみた「角島大橋」です。もっと時間をかけて写真を撮りたいのですが、限られて日程や時間でこなせねばならず、滞在時間は天候に恵まれて欲しいものです。昨今はお手軽なCasioのコンデジばかりなのですが、そこそこは撮れてもなかなかの絵は撮れないものです。スマホ搭載カメラの性能がよくなり天下のCasioがデジカメから撤退する時代になったのですが、まだまだスマホ搭載カメラは信用しておりません(笑)。
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先日、高校卒業まで萩に住んでいたという方と話す機会がありました。やはり学校では「吉田松陰先生」の洗脳教育的な話もあるようです。角島は海水浴場がある程度で何もない島という認識だそうで、最近話題にのぼることに驚いているようです。この角島大橋の完成は平成12年(2000)ですから無理もありません。
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Pt)は岬を隔てた「道の駅北浦街道・ほうほく」からです。この道の駅は内容充実・景色抜群と言うこと無しなのですが、今回は角島編なのでいずれということに(笑)。角島の島内での観光施設はこの灯台と付近の海水浴場なのですが、まさに♪今はもう秋、誰もいない海♪状態です。その割には舗装もしていない民間駐車場が¥500もするとは(苦笑)。
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長門市・楊貴妃の里

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長門市油谷向津具下久津にある『楊貴妃の里』です。中国唐代の玄宗皇帝の皇妃の「楊貴妃」は、世界三大美女&古代中国四代美人とも絶世の美女(傾国の美女)とも称されます。史書によると安禄山による玄宗皇帝への反乱の際、避難途中の長安郊外で楊貴妃は殺害されていますが、義経伝説のパターンともいうのでしょうか、楊貴妃は殺害されず秘かに日本へ渡り、たどり着いたのがこの油谷の里だとの伝承があります。
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楊貴妃の墓となれば見逃すわけにはいかず無理くりに行ってみました。伝承では日本へ到着後まもなくこの地で亡くなられたそうですが、楊貴妃が葬られたとされる「二尊院」には中国風の公園や楊貴妃像などがきちんと整備されています。境内の一角には「楊貴妃の墓」とされる五輪塔があり”安産・子宝・縁結びなど”いかにも”のご利益があるそうです。こういった話を”馬鹿いうねぇ”と否定するのは簡単ですが「もしかしたら」と楽しむ気持ちも楽しいもんです。
ある意味では「吉田寅次郎伝説」より面白いといえます(笑)。
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吉田寅次郎”神”への路

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吉田寅次郎こと吉田松陰が江戸小伝馬町で”国賊”として30歳で斬首されるのは安政6年(1859)10月(明治改元の9年前)のことです。刑死から世田谷の長州藩別邸に改葬されたのは4年後。その地へ松陰神社が造られたのは明治15年(1882)。萩に松陰神社は明治40年(1907)。世田谷までが23年。萩までは48年の年月が過ぎています。この間に『吉田松陰』は神様になってしまいました。国賊として松陰が江戸へ護送された後は、松下村塾の塾生は地元萩では村八分にされ、高杉晋作の妹達は縁談断られまくり、高杉は松陰との絶縁宣言までしています。松陰先生の評価にしても時代とともに革命家→憂国の士→理想の教育者とコロコロ変遷していきます。吉田寅次郎こと松陰の神格化への路とはなんだったのでしょう。
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幕末期の長州藩内は粛清や暗殺や内戦がごく日常的になっていました。京都での夜な夜なテロ活動。政変で追い落とされると御所に攻め入る暴挙(蛤御門の変)、攘夷を唱えて下関戦争、幕府が長州征伐を示唆すると藩内部の分裂は壮絶な殺合いに発展してしまいます。そこで松陰先生の神格化して結束を図ったのが筋書きのようです。さらには後年都合よく利用したのが伊藤俊輔や山縣恭介らの最下層の士分でもない連中ということでしょう。
ついでに高杉晋作(死亡時は谷清蔵)の騎兵隊にしても捏造が激しく、藩の兵力不足を補うための無頼の輩や農民たち”士分”してやると騙し、戊辰戦争では残忍な殺戮や強奪を繰り返します。戊辰戦争後に山口凱旋した騎兵隊は5000名。待っていたのは大リストラ大会でした。騎兵隊№2の山県有朋にも見捨てられ、不満行動を起こせば上司と崇めた木戸孝允率いる正規軍に鎮圧され、多くの兵士は斬首されてしまいます。その木戸孝允(桂小五郎)は反乱軍の鎮圧や山県有朋や井上馨らの汚職事件のもみ消しと大忙し(!)で結局は早死してしまいます(苦笑)。
親子・兄弟・身内同士の殺し合いがばかりの歴史を綴ってきた長州藩の結束のシンボルとして「カリスマ松陰先生伝説」必要だったのでしょう。松陰先生が所詮は地方区で全国区ではない理由が納得できます。それにしても某国の首領様伝説と類似していますね。
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萩といえばの松陰神社

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萩といえばの『松陰神社』です。ご祀神は「吉田寅次郎藤原矩方命」こと吉田松陰です。創建は明治40年(1907)松陰の江戸小伝馬町での斬首刑から48年後となります。境内には名前だけは有名な「松下村塾」やら「吉田松陰幽囚ノ旧宅」やら保存されています。この旧居は国指定遺跡であり「世界文化遺産」にも登録されていますが、ユネスコの連中には中身がバレることはないでしょう(笑)。この松陰先生には万人が納得する歴史的な実績はないんですねぇ。50年も前の少しの時間通った塾の先生を懐かしんで神様に祭り上げたということなのですが・・。
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松陰が叔父さんが開いた松下村塾に関わったのは、僅か2年弱です。塾名だけは有名な割には先生の教えは知られていませんが、所詮は久坂玄瑞や高杉晋作らのテロリスト養成所にすぎません。この塾で先生の”天皇を奉じて.国力を充実してアジアへと侵略する”とのありがたい教えを受けた塾生たちは、師の志を受け継いで日本の近代化、工業化の過程で重要な役割を担っていくことになります。何か変です(笑)。馬鹿なことは云わないで欲しいものです。
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津和野・永明寺

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津和野藩代々の菩提寺である永明寺(ようめいじ)は、応永27年(1420)に津和野城主・吉見頼弘により創建された曹洞宗のお寺です。古い町並みとは反対側の街を見下ろすような場所にあります。お世辞にも観光対策の練られた寺院ではないのですが、本堂の屋根は茅葺、庫裡や鐘楼など県指定有形文化財だそうです。見ようによっては普通のボロ寺なのですが、いかにも津和野らしい寺と思いました。津和野は文豪・森鴎外(森林太郎)の出身地でもあり永明寺には、ごくあっさりと「森林太郎墓」と記されたお墓があります。このお方は子供や孫達に今でいう”キラキラ・ネーム”を付けていたのですが、ご本人のお墓は文豪・森鴎外やら日本陸軍での経歴を廃して「森林太郎墓」とシンプル至極となっています。
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城下町津和野の幻想

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「津和野町」は島根県です。こんな書き出しなのかは、関東の人間は萩と津和野を一緒くたにしがちです。実際は県も違い、車で1時間ほど離れていて、山間の街と海辺の街という違いがあります。江戸時代は津和野藩亀井氏の城下町で、コンパクトな街の情景は「山陰の小京都」とも云われ、2015年には文化庁の日本遺産として登録されています。小京都として目標にされた街ゆえになのでしょうが、景観は整備され落ち着いた雰囲気なのですが、山陰地方にはよく見られる「ありきたりの街並みになったなぁ」というのが正直な感想です。学生時代に最初に訪れた時の感慨は戻ってきませでした。それだけ歳をとったのでしょう。
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下関・高い所から

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門司にも「門司港レトロハイマート」なる黒川紀章による31階建ての高層マンション&展望室があるのですが、下関にも負けずに「海峡ゆめタワー」なるランドマーク・タワーがあります。海峡を挟んで御時様なシロモノが二つとは…。なんだかなぁです(苦笑)。とはいうものの143mの展望台からの眺めは大変結構です。Pt↑)瀬戸大橋・早鞆の瀬戸・壇ノ浦方面。海峡奥が瀬戸内海です。確かに狭い海峡です。
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小倉方面。海峡に浮かぶ小島が宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場所「巌流島」です。この決闘については吉川英治氏らの作品によるところが多く、実際の小次郎は遥かに年長だったとかの話があります。アントニオ猪木とマサ斎藤が決闘がおこなわれたには、1987年10月のことで2時間4分14秒、マサ斎藤の戦意喪失で猪木の勝利に終わりました。初代タイガーマスクの佐山さとる氏は下関出身らしく,いまでもこの街で興行を行うようです。
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JR下関駅方面です。駅近くは橋上の歩道が完備していてデパート等の商業施設が集中しているようです、Ptの左には関釜フェリーの客船ターミナルがあります。JR門司駅は2006年1月に放火により全焼しており現在の駅は2014年に建て替えられたものです。この海峡ゆめタワーは平成8年にオープンした施設で、お決まりのイベントホールやレストラン街が併設されていますが、訪れた時は観光客はおろか猫の子1匹いない状況で閑散としていました。「恋人の聖地」認定などありますが???です。正直な感想は”なんでこんなモノ造ったんだろう”です。おかげまで展望室からの眺望は独り占めでした。
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下関・赤間神宮… (3)

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赤間神宮 の3回目です。今回は隣も隣の下関と云えばのフグ料理の『割烹旅館春帆楼』です。元々は阿弥陀寺の方丈の場所なので赤間神宮の敷地内という感じです。伊藤博文により命名された『春帆楼』は「ふぐ料理公許1号店」で高級ふぐ料理店の代名詞です。春帆楼は明治28年(1895)4月、日本と清国との日清戦争での「日清講和条約」の締結の会場としても有名で、敷地内の重要文化財の日清講和記念館には当時の資料が展示されています。Pt↑)の胸像は日本側の内閣総理大臣の伊藤博文と外務大臣の陸奥宗光です。伊藤博文はタナぼたで天下を拾った後は出身が貧しい農家であることを揶揄されるのが嫌で殆ど長州には帰っていませんが、この時ばかりはの晴れ姿だったのでしょう。
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下関・赤間神宮… (2)

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小泉八雲が「臥遊奇談」を典拠とした作品集「怪談」にもある『耳なし芳一』の舞台はこの赤間神宮です。赤間神宮が阿弥陀寺だったころ、盲目の琵琶法師・芳一は夜な夜な現れる武士に請われて多くの貴人達の前で琵琶を所望され”壇ノ浦の戦い”のくだりではすすり泣く声が聞こえてきました。宴は数日間続き、不審に思った和尚が平家一門の墓所の前で琵琶を奏でる芳一を発見、怨霊避けに全身に般若心経を芳一の全身に書き込むも耳だけ書き忘れ、平家怨霊に耳だけを持っていかれてしまったという話ですが・・。考えてみれば平家の怨霊とされる者たちは、怨霊でもなんでもなく自分たちが滅びていくストーリーを聞きたかっただけで悪いことはしていません。戦には負け一門は崩壊状態、挙句に”怨霊”扱いとはあまりにも不憫です。
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下関・赤間神宮

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壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は壇ノ浦戦場では発見できなかったのですが、この地に建久2年(1191)勅命により承久元年(859)開かれた阿弥陀仏寺名内に御影堂が建立され、安徳天皇生母である建礼門院ゆかりの尼が菩提を弔ってきました。明治の神仏分離により阿弥陀寺は「天皇社」神社に改称、明治22年(1889)にこの地が天皇陵と認定され「赤間宮」に改称、昭和15年(1940)には官幣大社の「赤間神宮」へと昇格してきました。
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竜宮を模した「水天門」は、二位の尼による「今ぞ知る みもすの川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」にちなんで太平洋戦争で焼失した赤間神宮を再建する際に竜宮城を模した造営となったようです。名称の「水天門」は壇ノ浦の戦いを生きのびた伊勢局が安徳天皇・二位尼・建礼門院の菩提を弔うために建立した久留米の「水天宮」のよるようです。
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壇ノ浦・御裳川公園

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1日に4回も潮流の向きを変える関門海峡は、狭い所では約700m、潮流の速度は時速18㎞にもなります。瀬戸内海への入口で交通の要所でとなり、たびたび日本の歴史の舞台となります。寿永4年(1185)3月24日には平知盛を総大将とする平氏と源義経の源氏がこの「壇ノ浦」で合戦を繰り広げています。Pt↑)は「みもす(御裳)川公園」に建つ「壇ノ浦古戦場」の碑です。対岸の関門橋に下あたりが和布刈神社です。
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合戦は前半が平家有利で展開し最終的には源氏勢のの逆転勝利となります。平氏の敗戦を総大将・平知盛より知らされた二位尼は「今ぞ知る みもすの川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」の辞世のの句を残して幼い安徳天皇と建礼門院らとともに壇ノ浦に身を投げます。それがこの付近と云われています。
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公園の建つ像は源義経は「八艘飛び」、平知盛は「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残しての姿。歌舞伎の「義経千本桜」のクライマックスシーンです。知盛は碇を担いだとも鎧を二枚重ねで着用したともいわれていますが、水死体を源氏に見せたくなかったのでしょう。この戦いで平氏は所謂大将や将軍クラスのほとんどが戦死してしまい軍事的対抗勢力としての存在は消滅してしまいます。
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文久3年と4年に「馬関戦争」と呼ばれる攘夷思想に基づく武力衝突がこの海峡でありました。文久3年は長州藩が関門海峡を通過する外国船に対して無通告で砲撃。元治1年にはイギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊により長州藩の軍事施設が壊滅することとなります。山口県が諸外国に対して宣戦布告をしたということです。対岸が見えるほど狭い海峡なら気合さえあれば勝てると思ったのでしょうか(?)。
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国道9号線の山側には1958年に21年の年月をかけて1958年に完成の関門トンネル人道の入口があります。エレベーターで地下約50mまで降り約780mのトンネルを約15分で海底トンネル内にの山口県と福岡県の県境を行き来できることになります。自動車道の関門国道トンネルと関門橋は有料ですが関門トンネル人道は歩いて通行するには無料です。

長府・忌宮神社

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忌宮神社=いみのみやじんじゃと読みます。式内社・長門の国二ノ宮・旧国弊社・神社本庁別表神社とあり、仇やおろそかな神社ではありません。ご祀神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と伝説の方々が祀られています。仲哀天皇元年、仲哀天皇と神宮皇后の熊襲征伐のおり、この地に行宮豊浦宮を建て7年間滞在したとされます。また仲哀天皇に渡来人から蚕卵の献上があり蚕種渡来の地ともされます。九州筑紫で没した仲哀天皇を三韓征伐の帰路に神功皇后がこの地に祀り、後年、聖武天皇の時代に香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧請、合祀しています。長府の滞在は4時間強でしたが、ごく普通の街に興味深い由緒を持つ神社が鎮座しているなど勉強不足が恥ずかしくなります。
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既視感(?) 長府毛利邸

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下関市長府惣社町の『長府毛利邸』です。この建物は長府毛利家14代長府藩最後の藩主・毛利元敏公の邸宅として明治36年(1903)に完成しています。明治天皇の行幸の折の宿舎ともなっていて「明治天皇御宿泊の間」として残されています。この「毛利家」ってのは支藩が多く勘違い思い違いをすることが多く気をつけねばなりません。毛利邸入口から母屋まで続く道はいかにも上級武家の住まいといった感じで萩城下で見られる下級武士のボロ住まい地区とは雲泥の差です(笑)。観光施設と解放されいるのですが、建物の配置や庭の眺めは千葉県松戸の徳川家の「戸定邸」と正面外観は埼玉県川越の「本丸御殿」と良く似かよっています。屋敷の前に立った時「既視感」を感じたのはそのせいでしょう。因みに銅像は毛利元就公の四男・元清公の次男の毛利秀元公です。関ヶ原や大阪夏の陣で有名な殿様です。
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長府・乃木神社

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下関市長府の『乃木神社』です。大正3年(1914)乃木希典の生まれ故郷である長府に乃木記念会が結成され、幼少時代に暮らした(生まれたのは麻布の長府毛利藩邸)旧家を復元し、幼少期の遺品などを展示する記念館が造ら、大正10年には隣接して乃木神社が造られています。訪れてみると東京の乃木神社に比べて素朴な感じがします。乃木希典は伊藤俊輔や山縣狂介のように武家とは言えない最下層身分の生まれではなく武家の出なのですが、それにしてもこの程度の家です。Ptした)のように乃木神社は地元では「学問の神様」になっています。まぁ晩年は学習院の長だったのですから”良し”なんでしょう。あの司馬遼太郎氏は乃木が嫌いらしく「坂の上の雲」の旅順攻略戦ではとんでもなく無能な将軍として描かれています。時代を考えると必ずしもそこまで無能な将軍ではないのですが(苦笑)。
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長府・功山寺

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山口県下関市の中心部から約8㎞、行政上は長府地区なのでしょうが、観光協会によると1800年の歴史あふれる城下町・長府なんだそうです。たいして期待もせず滞在時間も短かったのですが、どうしてどうして魅力的な街でした。Pt↑)は『功山寺』へ向かう緩やかな上り坂です。この坂の上に毛利藩主の墓所『功山寺』があります。創建は鎌倉時代とされ我が国最古の唐様建築の禅寺形式が残っており国宝に指定されていますPt↓)この寺は歴史の舞台にも登場しており、文久3年8月の政変で失脚した7人の公家が長州藩に落ち延び7名のうち5名がこの寺に潜伏しています。また元治元年(1865)に高杉晋作が伊藤俊輔らとクーデター(回天義挙)を起こし長州藩内での紛争の発端となった地です。そんな事で境内には高杉晋作の像が置かれています。この像は民間の寄付によるものだそうで、さすが「元長州藩」です(苦笑)。
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関門海峡・早鞆の瀬戸

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和布刈神社の後方の壇ノ浦を眼下にする和布刈展望台には「源平壇ノ浦合戦壁画」と合戦の解説板があります。1185年4月25日に眼下のごく狭い海峡で源氏と平家の「治承・寿永の乱」の最後の戦いが繰り広げられました。この狭い海峡に平家軍は500艘の軍船を擁し対する源氏軍は840艘の軍船が激突した訳です。実際の船上はもっと右方向のようですが、数の上では有利でも海戦に慣れてない源氏には不利な状況で、開戦時は潮の流れが(左~右)と平家に有利な状況でしたが、時間が経つと潮の流れが逆転、まさかの平家の壊滅状態となってしまいました。勘違いされるのはこの戦いで平家は政治的な拮抗勢力としては壊滅しますが一門の血脈が途絶えた訳ではありません。
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門司・和布刈神社

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北九州市門司区の『和布刈(めかり)神社』です。以前に小倉出身の推理小説作家・松本清張の作品にこの神社で行われる「和布刈神事」が登場していたのですがどの作品だったか思い出せませんでした。調べたら「時間の習俗」という作品でしたが内容についての記憶は全くありません(笑)。Pt↑)この辺りは関門海峡で約700mまで狭まり「早鞆の瀬戸」と呼ばれています。下関側対岸が「壇ノ浦」で、戦い前夜には平家一門の酒宴が神社で開かれたとの話も伝わります。
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神社創建は神功皇后の三冠征伐の後仲哀天皇9年(200)の創建とされるかなりの古社です。海峡の守護神として崇敬され足利尊氏、大内義弘、仁保常陸介などによる社殿の修築造営があったようです。神社名の「和布刈神事」は旧暦元旦の未明に神職が関門海峡のワカメを刈り取り神前に供え、その後朝廷に献上される神事で今も福岡県の無形文化財です。
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下関市大字彦島字船島

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関門海峡に浮かぶ小さな無人島、住所は「山口県下関市大字彦島字船島」、正式名称は船島ですが”巌流佐々木小次郎”に因んで『巌流島』名称の方が有名です。通説では宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘は慶長17年4月13日にあったとされています。因みにアントニオ猪木とマサ斎藤の巌流島の戦いは1987年のことでした。島の面積は島を所有した三菱重工業の埋め立てにより拡張し、第二次大戦頃からの旧軍の要塞地帯の時代を経て現在は無人島で、住人はタヌ公だけのようです。今回は門司港から関門汽船で往路10分、島の上陸が30分、復路に10分で行ってきました。島は全島禁煙でごみ箱すらなく武蔵・小次郎の像や佐々木巌流の碑を見るだけなら30分の上陸で充分です。
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潮騒の街 門司港レトロ…(2)

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門司港から多くの人々が中国大陸を行き来した時代がありました。そしてこの港からは200万人を超える旧日本軍兵士が中国大陸や南方の国々へと出征しています。生きて帰ることができなかった兵士にとっては、船上から見る関門海峡の景色が最後の故国の景色となった事でしょう。海岸沿いの「しおかぜの路」にはその歴史を後世に伝えるようにと『門司港出征の碑』が創られています。さらに碑の近くには『出征軍馬の水飲み場』があり、かっては海岸通りに数か所あったようですが、全国から農耕馬が軍馬として徴用され門司港に集まった軍馬の水飲み場です。レトロな街並みだとかB級グルメだとかアホな観光客に媚びなばならぬ時代なのでしょうがこの様な歴史も伝えていって欲しいものです。
工事中の駅舎脇には「バナナの叩き売り発祥の地」の碑があります、以前は完熟したり傷んだバナナを売りさばかねばならい必要性から「叩き売り」が始まり、全国的に有名になったのは「男はつらいよ」映画によるものらしいです。
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