旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

東京十社

大宮・氷川神社の参道

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「JR新都心駅から5分程、旧中山道沿いの一之鳥居から神社に本殿まで約2㌔の「氷川参道」が続きます。約2㌔のもある参道は全国的にも例はなく恐らく「日本一の長い参道」でしょう。二之鳥居、三之鳥居と続き「武蔵一之宮・大宮氷川神社」本殿までは徒歩10分以上かかります。明治元年、東京遷都では明治天皇は当社を武蔵国総鎮守・勅祭社と定め関東の神社の中で最初に親祭を行い、この後に大宮氷川神社を含む「東京十社」を定めます。主祭神は、須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命。平安時代後期には関東武士団に広く信仰され、多くの分社が建てられます。埼玉県や東京に「氷川神社」が多いのもこんな理由なのでしょう。この参道は江戸初期には中仙道だったのですが、神社の参道では「恐れ多い」との理由で街道を付け替えています。元々は現大宮駅から岩槻あたりまで広大な敷地があったそうです。
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【東京十社】‥白山神社

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文京区白山1丁目の「東京十社」の白山神社(はくさんじんじゃ)です。旧名称の白山権現社が「文京区・白山」の地名の由来となっています。ご祀神は菊理姫命(ククリヒメノミコト・伊弉諾命・伊弉冊命で、ご神徳に縁結びはまだしも商談成立は?です(苦笑)。948年加賀の白山比咩神社から勧請され、将軍秀忠の時代に小石川植物園近くに移転、その地が館林藩主徳川綱吉の屋敷が造られることになったため現在地に遷座しました。紫陽花の名所としても知られ、6月の中旬頃の「文京あじさいまつり」では境内や白山公園で約3,000株の紫陽花を見られます。境内の『孫文先生座石の碑』は明治43年頃、神社近くに住む中国かぶれ思想家の宮崎滔天宅に寄宿していた孫文が、神社で中国の将来と革命について語り合い、孫文が”後の辛亥革命での新中国建設を誓った場所ということで有志がこの記念碑を建立したとありますが説得力が極々希薄です。
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【東京十社】‥赤坂氷川神社・(Ⅱ)

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赤坂氷川神社を別の入口の石段脇には『勝海舟』ゆかりの四合(しあわせ)稲荷神社と西行稲荷社があります。四合稲荷は文字通り稲荷4社が一緒になったもので社額は勝海舟直筆のものです。海舟さんは生活に困窮した旧幕臣の経済援助のために直筆の「書」や「社額」で収入源としていたようで、やたら作品が残っています。赤坂の地が好きで幕臣時代と明治政府時代の屋敷跡が神社を挟んであります。神社神域は元禄時代は忠臣蔵・浅野内匠頭夫人の『瑤泉院』の実家浅野土佐守屋敷で、仮名手本忠臣蔵・「南部坂雪の別れ」の南部坂がすぐ近くです。二ノ鳥居の向かって左の根元には、明治政府が高度の測量を行った際の、印となった「不」の文字のような記号が刻まれています。
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【東京十社】‥赤坂氷川神社

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東京十社に数えられる港区赤坂6丁目の氷川神社 (ひかわじんじゃ)です。港区には他に「白金氷川神社」があるので「赤坂氷川神社」と称されます。赤坂サカスや六本木ミッドタウンにも近く、近隣には「勝海舟」の屋敷跡(幕臣時代)や忠臣蔵に縁の「南部坂」などがすぐ近くですが、赤坂=繁華街というより高級住宅街といった場所です。徳川8代将軍吉宗の時代に現在地に鎮座し、現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されています。ご祀神は須佐之男命/すさのおのみこと。・稲田姫命/いなだひめのみこと・大己貴命/(おおなむちのみことの三神となっています。関東在住者には「氷川神社」は聴き慣れた神社名ですが、「氷川神社」は埼玉・東京・神奈川にしかない珍しい神社でもあります。
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【東京十社】‥品川神社

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東京十社、品川区北品川にある『品川神社(しながわじんじゃ)』です。後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して品川大明神と称し後に品川神社と改めました。明治5年(1872年)郷社に、昭和50年には東京十社になっています。東海七福神の1社として大黒天が祀られ鳥居脇には大黒天の像があります。京浜急行「新番場駅」下車、第一京浜沿いに一の鳥居が見えます。石段を登る途中には「富士塚」がありますが傾斜がかなり急です。一の鳥居は登り竜、下り竜の彫刻が施してある珍しい造りとなっています。江戸時代は徳川家の庇護をうけ、宝物蔵では「葵のご紋」が施されたお神輿などが収蔵されています。江戸時代この辺りの東海道は海沿だったのですが、今は当時の面影を全く感じることはできません。
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下左)京急新馬場駅前第一京浜沿いに鳥居が見えます。珍しい鳥居なので一見の価値があります。
下中)急な階段を上ると本殿までは意外と広いスペースで、境内社が数社並んでいます。
下左)神社隣ですが、板垣退助の墓所があり、例の「板垣死すとも~」を刻んだ碑が建てられています。
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【東京十社】‥亀戸天神社

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東京十社の『亀戸天神社』は通称亀戸天神・亀戸天満宮・東宰府天満宮等とも呼ばれています。ご祀神は学問の神様として親しまれる”菅原道真公”です。受験シーズンには道真公の加護を求めて訪れる受験生も数多く訪れるので有名な神社です。江戸の正保年間(1644年頃)菅原道真の末裔であった九州の大宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐により、1661年に江戸の本所亀戸村に元々あった天神の小祠に天神像を奉祀したのが始まりとされるそうです。4代将軍家綱により振袖火事からの江戸復興事業の地として幕府より土地が寄進され、社殿・桜門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営されています。 1月の「鷽替神事」、2,3月の「梅まつり」、4月下旬の「藤まつり」、秋の「菊まつり」など季節を変えての花に関する「まつり」の多い神社です。
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左)2011年2月の撮影です。東京スカイツリーが建設中でした。
中)一の鳥居脇に「新東京八名勝・亀戸天神」の石碑がありました。”新東京八名勝”とはなんでしょう?
右)季節がら藤棚は冬枯れ真っ最中です(笑)。本家大宰府天満宮はここまで造園されてなかったような…。
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【東京十社】‥富岡八幡宮

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江東区富岡の『富岡八幡宮』です。深川八幡とも称され、東京都最大の八幡神社として知られています。江戸・寛永年間に深川の干拓工事が難航したため、建久年間に源頼朝が現横浜市富岡に勧請した「富岡八幡宮」を分霊したとのが創建のようです。八幡様となれば祀神は”応神天皇”です。徳川時代は将軍家の保護を受け、名所としてしられた広大な庭園は江戸庶民にも人気で「深川の八幡様」として親しまれたそうです。また、大相撲発祥の地とされ、境内裏手には「横綱力士碑」「力持碑」など多くの相撲関連の石碑などがあります。鳥居脇の江戸時代の測量家である「伊能忠敬の像」は、忠敬が深川界隈に住居を構え測量の旅に出かける際は安全祈願のためにに必ず参拝に来ていたことから、2001年に境内に銅像が建立されています。
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社殿は1683年に火災により焼失。元禄年間には地震により損壊。1923年の関東大震災でも損壊。さらに空襲でも被害を受けるなど繰り返し、現在の社殿は1956年(昭和31年)に造られた鉄筋コンクリートの「重層型準八萬造り」となっています。Pt↑)八幡宮の社額です。この鳥居は銅製と思われますが、上部が”屋根付き”となっています。なんという形式なのでしょうか?
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左)伊能忠敬銅像は鳥居を入ってすぐ左にあります。 中)同右には「大関力士碑」があります。 右)本殿裏手にある「横綱力士碑」です。71代「鶴竜力三郎」までの横綱名が刻まれています。
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【東京十社】…神田神社

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千代田区外神田2丁目の『神田神社』は…つい「神田明神」と云ってしまうのですが…神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など広範囲の町会の総氏神様です。730年頃に出雲系の氏族が「大己貴命」を祀ったのが創建とされ、935年頃には逆臣の「平将門」の首が近くに葬られたとういう伝承から東国の武将の崇敬を受けています。江戸城拡充に伴い現在地に移り”江戸総鎮守”として尊崇され、祭の山車が江戸城中に入り将軍が見物したことから、祭は「天下祭」or「江戸三大祭り」として知られています。江戸初期に豪華な社殿が造営され関東大震災により焼失、その後再建されています。江戸時代には「神田明神」と、明治に入って社号が「神田神社」に改められています。1874年の明治天皇の行幸にあたり、逆臣である平将門が祀られているのはマズイとの事から平将門が祭神から一時外され、1984年に祭神にめでたく復帰しています。 野村胡堂の「銭形平次捕物控」では平次親分が神田明神下に住んでいたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」がありますが…。なんでこんな馬鹿な事をするのでしょうか…?
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【東京十社】‥芝大神宮

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東京十社の「芝大神宮」は港区芝大門1丁目に鎮座する神社です。もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していましたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明」と呼ばれ、後に武蔵国飯倉庄に鎮座したことから「飯倉神明」、さらに芝の地が町の様相を呈してくると「芝神明」と呼称が変遷し、明治5年以降は「芝大神宮」を称するようになっています。伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、「関東のお伊勢様」とも称され、江戸時代には「伊勢神宮」への参拝に行く代替えとして芝大神宮への参詣者が多かったようです。江戸のから伊勢までの日数や費用を考えるともっともな話でしょう。芝大神宮の例大祭はユニークで、9/11~21までの期間、9/16の例祭を挟んで神事が続くのですが長期間「だらだら」と続くので『だらだら祭』と言われています。
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江戸時代は、旅人がこれからの道中無事や無事帰着の感謝の参拝や前述の伊勢神宮の代替参拝でう賑わっています。そうなると参拝者を当て込んだ、茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所等の風俗店や、芝居などの見世物小屋で一大歓楽街として大変な賑わいだったそうです。さすがにいまはその面影はありません。
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【東京十社】‥赤坂日枝神社

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千代田区永田町の東京十社・赤坂日枝神社(ひえじんじゃ)です。Pt↑)”山王鳥居”と呼ばれる明神鳥居に三角形の屋根が乗った形をしており「山王信仰」の特徴です。江戸三大祭の一つ”山王祭”が行われる神社として知られ、大山咋神(おほやまくひのかみ)が主祭神、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)が祀られています。太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現喜多院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのが始まりとされます。徳川家康は城内の紅葉山に遷座、江戸城の鎮守としました。2代秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、明暦の大火(1657年)により社殿を焼失したため、将軍家綱により現在の赤坂の地に遷座し、
明治元年1月の東京奠都の際に准勅祭社に指定、大正元年には官幣大社に昇格しています。現神社は1945年の東京大空襲で社殿が焼失し1958年に再建された社殿です。
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以前は溜池側からは急階段を登ったのですが、現在はEVが設置され楽々になっています。度々ですが、神社の神門(本殿側から)がVenturesのLPジャケットに使われています。別の入口の鳥居も”山王鳥居”となっています。
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【東京十社】‥根津神社(根津権現)

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文京区根津にある根津神社(ねづじんじゃ)です。明治初期の神仏分離の際に「権現」の名称が禁止となりましたが、地元では今でも「権現様」や「根津権現」と呼ばれているようです。創建は古く1900年近く前に『日本武尊』がに創祀したと伝えられ、文明年間に『太田道灌』により社殿が創られ、江戸時代になり現在地に移転しています。社殿は1706年の創建で、1705年徳川5代将軍・徳川綱吉が養嗣子6代将軍家宣のために屋敷地を献納して天下普請しもので、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされ、社殿7棟が国の重要文化財に指定されています。現存する社殿も江戸時代の権現造りです。正面から見ると構造が判りにくいのですが、朱の鳥居が林立する境内社の「乙女稲荷社」の舞台からみると権現造りの配置がよくわかります。
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神社の隣が東京大学です。大学が移転してくる前は門前に「根津遊郭」があり、移転に伴い洲崎に強制移転となっています。 根津神社は”躑躅の名所”として知られていますが、この季節の銀杏も見事です。
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【東京十社】‥王子神社

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北区・王子の地名の由来となっているとされる、王子神社(旧称王子権現)です。東北線等の車窓から神社の杜見がえ「王子稲荷」と間違われますが、稲荷はここから徒歩7分ほど先です。大変に高い格式を持つ神社で中世に熊野信仰の拠点となった神社です。ご祀神は、伊弉諾尊、伊弉册尊、天照大神で相殿に事解男命、速玉之男命となっています。 境内には東京都指定文化財となった大銀杏があり、大正13年の実測で幹は6.36m、高さ19.69mだったそうですが如何せんデーターが古すぎます(!)。王子神社は『東京十社』の一社に数えられています。…東京十社とは、明治初年に明治天皇により定められた東京近郊の10の神社のことを云います。1868年 明治天皇は氷川神社(さいたま市)を勅祭社とし、近郊の主だった神社を准勅祭社と定め、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としました。この制度自体は時代とともに変遷し、1975年。昭和天皇即位50年の際して、関係神社の協議により「東京十社巡り」が企画され今日に至っています…
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