旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

皇居周辺

大嘗宮一般参観…(2)

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大嘗宮一般参観とは直接の関係はありませんが、旧江戸城の遺構櫓で残っているのは伏見櫓・巽櫓(桜田二重櫓)とPTの富士見櫓です。江戸城の天守閣は徳川初期の50年間しか存在せず明暦の大火(振袖火事)以降は天守閣の再建はされず、月見の宴や花見の宴などはこの富士見櫓で行われていました。加藤清正家により万治2年(1659)の再建された櫓は石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mあり江戸城本丸の遺構として貴重な建造物です。
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11/21は快晴でした。このPt撮影の立ち位置は皇居敷地内からなので簡単に入れる場所ではありません。通常平日の午前午後で行われている参観ツアーではここを歩きますが、この参観ツアーは定員500名の大行列なので撮影チャンスは極々少ないのです。今般の11/21~12/08が「大嘗宮一般参観」と11/30~12/08の「皇居乾通り一般公開」行事のうち富士見櫓下を通れるのは大嘗宮参観ルートのだけになるので撮影チャンスは限られています(笑)
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今でも再放送が繰り返されていますが、松平健さん主演の「暴れん坊将軍」ってのがあります。実際は徳川8代将軍吉宗の時代には江戸城に天守閣は存在せず。もし天守があったら真黒なので「姫路城」写真を写して「江戸城」と嘘をついてはいけません。大体なんの御用があって三保の松原(静岡)を白馬で疾走しているのでしょう?。まして江戸時代には白馬のサラブレッドなどいません(笑)。

大嘗宮一般参観…(1)

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11/14・15で行われた「大嘗宮の儀」での大嘗宮の一般参観が今日(11/21)より始まりました。通例では大嘗宮は大嘗宮の儀が終了すると即刻取り壊されるのですが、今般は広く一般の参観ができる事となりました。11/21~12/08が「大嘗宮一般参観」で11/30~12/08が「皇居乾通り一般公開」と2つの行事が行われます。並行日程のように感じますが、11/30以降であれば乾通り&大嘗宮もみられることとなります。
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さて、今日は”空いていれば”という事でPM12:15に手荷物検査場に着いたのですが、なんと手荷物も身体検査も待ち時間なしで通過できました。大嘗宮見学コースは【坂下門前で手荷物&身体検査を受け=入口は坂下門です=宮内庁庁舎を左に見て=富士見櫓方向へ進みます=ここから東御苑敷地に入り=大手中之門の坂道を上り=中雀門跡から本丸御殿跡へ=ここから大嘗宮は見えます=思いの外大嘗宮近くまで接近できます=大嘗宮裏手へ廻り=帰路は北跳橋門から退出、梅林坂を下り平川門もしくは大手門から退出となります】ゆっくり歩いても検査完了後からなら1時間はかかりません。
例年なら同神事は「新嘗祭」と呼ばれ宮中で非公開で行われます。「大嘗祭」は新天皇即位時のみでその為の宮が造られる特別な神事です。恐らく私たちの多くは次の大嘗祭を見ることはないでしょう。そういう意味でもチャンスです!
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2019夏・皇居東御苑…(2)

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Pt↑)は建設中の大嘗祭(2019)が行われる「大嘗宮」の模様です。古式の宮殿そのものに柴垣で囲み悠起殿・主基殿・廻立殿の三殿は「大嘗祭」のためだけに新設され儀式後は取り壊しになります。平成の大嘗祭では大嘗宮の設営費用が14億5千万円が計上され話題になりました。ただし平成の大嘗宮の建設は非公開とされ東御苑も休園となっていました。令和の大嘗宮は近寄ることはできませんが、フェンス越しには見ることができます。
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通常の新嘗祭は宮中祭祀の収穫祭にあたり、通常は11月23日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らこれを食べその年の収穫に感謝する儀式で、新天皇が即位後初めて一世一度に行う新嘗祭が「大嘗祭」です。Pt↑)は東御苑休憩所に展示(光が映り込んでいますが)してある大嘗宮の模型です。通常展示なのでごく普通に見られますが、これと同じ宮殿がすぐ脇で建設中という事です。
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大嘗祭とは関係はないのですが、Pt↑)は皇宮警察に所属する「消防車」です。実はこれ、ヤマザキパンの配送車とにたからーリングですが、何分に広大な敷地の皇居では緊急時にすぐ対応できるように、消防車両も巡回しています。所属する消防車は見慣れた「赤」車両が多いのですが、この色の車両は貴重とも云えます。坂下門付近ではよく見かけますが、この日はたまたま三の丸尚蔵館近くで停車していました。
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2019夏・皇居東御苑

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久々に訪れた皇居東御苑の見慣れた景色が大きく変貌していました。本丸御殿(大奥跡)には新天皇即位後、令和元年11月14・15日に予定される「大嘗宮」の建設が進行中です。「即位の礼」は5月の「剣璽等承継の儀」から10月20日の「即位の礼正殿の儀」など行われるなど5つ儀式が続きますが、宮中行事の「新嘗祭」は天皇が五穀豊穣と国民の安寧を神々に祈る神事で、通常は皇居内「宮中三殿」で行われます。新天皇の即位後最初の「新嘗祭」を特に「大嘗祭」と云い特別な行事とされます。つまり今年の「大嘗祭」は恐らく二度と経験できない神事なのです。日本の秋には新嘗祭や勤労観感謝の日という五穀豊穣に感謝する伝統の日があるので、アメリカねずみに騙されて「ハロウィン」なんて浮かれている場合ではありません。大嘗祭終了後にはこの宮は取り壊されるのでこの景色は今年限りなのです。
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Pt↓)大手下乗門の休憩所辺りも工事中でした。「即位の礼」とは関連がないようすが皇室のお宝「御物」を展示する尚蔵館が増築されるようです。
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皇居東御苑・富士見櫓

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「富士見多聞」内部公開に合わせてなのでしょうか、「富士見櫓」が若干ですが近くに接近しました。フェンスの位置が移動し広場らしきモノと解説板が増設され説明が判り易くなりました。たったの数mの拡充ですが東御御苑を含む皇居全域は史跡に指定されているため遺跡等が発掘されてしまったらエライ事になります。聞いた話ですが「富士見櫓」は昭和42年以降は大きな修理がされておらず耐震構造や壁の漆喰に難があるため、当分の公開は無いと思われます。
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Pt↑)は東御苑側の「富士見櫓」、旧江戸城遺跡で唯一残った三重櫓です。江戸城の天守閣は徳川初期の50年間しか存在せず明暦の大火(振袖火事)以降は天守閣の再建はされていません。「暴れん坊将軍」=8代将軍吉宗に時代には天守閣は存在せず、この「富士見櫓」が天守閣の代わりとなり、月見、花見の宴などはこの櫓でおこなわれています。next・Pt)は皇居敷地側からの「富士見櫓」で別の建物に見えます。現存の三重櫓は万治2年(1659)の再建で石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mあり、造ったのは加藤清正とされます。江戸城本丸の遺構として貴重な建造物です。
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皇居東御苑・富士見多聞

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2016年11月15(火)より通年で皇居東御苑の「富士見多聞」の内部が公開されています。=Pt↑)は昨年の乾通り通り抜け時でこの景色は見られません。中央の白壁の長屋が「富士見多聞」です=。「多聞」とは石垣上に建てられた長屋状の構造物で防御施設とされています。旧江戸城本丸には多くの「多聞」がありましたが、現存するのはこの『富士見多聞』だけです。横幅31.5m、高さ6.3mの長屋状で、正確な建築年代は不明ですが、明暦3年(1657)の振袖火事での江戸城焼失後で万治元年(1659)との説が有力です。皇居内での江戸幕府の遺跡内の公開は初めての事なので一見の価値は充分にあります。富士見多聞内部からは蓮池堀、乾通り、局門、門長屋、紅葉山等の宮殿側の景色が見えます。
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和田倉噴水公園

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現在の和田倉噴水公園の場所は江戸時代以前は大手門あたりまで「平川」河口で水深は浅い入江が入りこんでいました。江戸初期に入り江は埋め立てられ、江戸湾への”道三堀”掘削され、和田倉付近は江戸城へ日常物資の搬入口として荷揚場や倉庫(一ノ蔵地)が置かれていました。堀には和田倉橋が架けられ枡形(左曲り)の「和田倉門」が架けられ、時代の変遷と共に幕府御用地の厩であったり会津藩屋敷であったりしていたようです。『和田倉噴水公園』は、昭和36年に今上天皇の御結婚を記念して創建され、工事を担当した会社の笑ってしまう”入札価格”は伝説となっています…。大噴水は平成5年6月の皇太子殿下の御結婚を機に、新たに整備し、平成7年6月に完成したものです。公園を構成する施設には”デザインテーマ”が付けられていますが今回はパスします(笑)。奥のガラス張の建物はレストハウス&情報コーナー、トイレなどです。
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皇居参観当日受付の愚

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【事前申請が必要な皇居の一般参観について、4/18〜22日は当日の受付も実施し、6月下旬から当日受け付けを本格実施】との発表があり、今日(4/20)出かけてみました。結論から言うと、これは”皇居参観”ではなく”皇居ぐだぐだ歩き会”です。通常の事前予約による1回あたりの定員はMax250名(?)、これに当日受付枠300名(AMの場合)が加わりMax550名(!)です。(今日のAMは450名。宮内庁の目標は500名/1回との事です)。これでは粛々たる皇居参観は無理というものです。日本人年配者や訳も判らず参加した外国人で450名ですよ(笑)。職員さんの案内説明は聞こえず参観者の列は100mを超え、写真を撮りながらぐだぐだ歩くとなりました。桔梗門前の受付け待機場所には”日陰”などありません、6月以降となれば熱中症の方が続出するでしょう。さらには”民度の低い国の方々”が大挙押し寄せたら事件・事故確実です。正直「皇居参観当日受付」は再考された方がよろしいかと思います。粛々たる参観のイメージが失われ単なる観光地に成り下がることになるのでしょうか…?「皇居参観当日受付」での参観者水増しは愚行です。
Pt)は参加者待合室の「窓明館」です。この部屋にこれだけの人がいるのを見たことがありません。宮殿では先頭と最後尾が100m以上離れています。折り返しの正門鉄橋の橋上。いやいや大変な人数です(笑)
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太田道灌「追慕の碑」

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皇居東御苑・平川門近く(毎日新聞社前)に太田道灌「追慕の碑」なる碑があります。解説板によると…この碑は太田道灌没後(主君による粛清)450年を記念して建立されたとあり更には平成19年が太田道灌江戸城が長禄元年(1457)に築城550年ということで都市東京と千代田区の繁栄を築いた…云々とあります。解説板の内容は間違いではないのですが、”粛清”で死んでから450年記念とは…。太田道灌透資長(1432~1486)は室町時代の武将で、「江戸」という地名は道灌が滅ぼした豪族「江戸氏」によります。武蔵国の田舎娘に馬鹿にされるくらいですからたいした教養ではありません(笑)。一方、豊臣秀吉の国替え命令で徳川家康が江戸の地に入ったのは1590年。両者は100年以上の隔たりがあり関連性などありません(!)。江戸城といっても、諸説はありますが実際のところ”太田道灌江戸城”の場所は正確には判っていません。なんでこの場所にこんなモノを作ったのでしょうか…?釈然としません(笑)。
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皇居乾通り公開…2016春

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★3/31の早朝に発表があり「乾通り公開」は4/3(日)までの期間延長となりました。
桜の開花は実に難しいものです(苦笑)。皇居乾通り公開2014年春は4/4~4/8だったのですが(2015春は開催なし)この時の桜花は盛りが過ぎていました。今年は今年で東京の開花宣言以降に低温の日が続き、結果として今日まで”満開に至らず”と云う事になったようです。こればかりはどうにもならないのですが…。そんな理由もあるのでしょうが、今年は坂下門前大混雑という現象もなく順調に観られたようです。Pt1)並び始めから坂下門を抜けるまで約15分。昔を思い返せば驚きです。Pt2)道灌堀と桜…乾通り屈指の見事な桜なのですが、満開はまだです。Pt3)西桔橋分岐から乾門までが桜の本数が多いのですが、狐坂経由天守台へ向かう人が多いような…。Pt4)兎にも角にも乾門から退出です。また2年後の春にという事で…。
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皇居乾通り公開…2015秋

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今日(7日/月)『皇居乾通り一般公開』へ行ってまいりました。昨年の桜&紅葉を思い起こせば"ウソッ"と思うくらい空いています。TVニュースによると今日が41700人が来場。5日からの3日間で11万人なのですが、昨年の桜初日の75000人を思えば…笑ってしまう人数です。前々回のように3時間並んで10分で通過完了では、旅行商品として成立しにくく、多くの旅行会社は二の足を踏んだようです。あえて言うなら、旅行会社の添乗員では宮殿の施設や旧江戸城の説明や案内をこなせるスタッフがいますかねぇ?。だらだらと歩くだけなら代金が頂戴できる企画商品ではありませんね。(Pt↑ 蓮池堀~富士見多聞)
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Pt↓)09:45の坂下門手前100m。先頭から300名以内でしょう。この時点で約1600名(少ない)が並んでいます。 宮内庁々舎前から富士見櫓です。地面が見えます=つまり混んではいません。 歩くルートから紅葉の名所の山下通り(紅葉山の下で山下通り)方面です=鮮やかな色とは云い難いようです。
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旧江戸城・田安門

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九段坂方面から北の丸公園や日本武道館の入口なっている『旧江戸城・田安門』は、寛永13年(1636)に造られ、現存する旧江戸城建築遺構のうちで最古といわれ国の重要文化財となっています。この近辺は,古くは「田安口」または「飯田口」と呼ばれ”田安大明神”があったので門名となったようです。江戸城経営後は北丸と称し、代官屋敷や春日局や英勝院の屋敷などもこのあたりでした。のちに8代将軍吉宗は、ここに一家を創立して田安家を興しています。田安門・渡櫓門の武道館側に西南戦争に出征し戦死した警視隊員の「弥生慰霊堂」への石段があります。特に立ち入り禁止ではないようです。Pt↑)はこの場所からで、枡形門(高麗門と渡櫓門)の構造が良くわかります。またこの地は昭和5年3月に関東大震災後の東京の復興模様を昭和天皇がご覧になった場所でもあります。
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旧江戸城・清水門

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重要文化財の清水門です。Pt↓)の修復工事が完了して以前の姿に蘇っていました。この御門は1624年(寛永元年)浅野長晟により建てられた高麗門→右折→渡櫓門と、典型的な「枡形門」の形式の城門です。御門の名称は、1)この近辺に清水が湧き出ていた。 2)この辺りに清水寺があった。毎度のことですが、”ああ云われています。こういう話もあります状態”です。1759年(宝暦9年)に9代将軍家重の第二子重好を擁立して徳川御三卿の清水家が創立されていますが、その名称はこの御門名に由来します。清水門から入ってすぐが、劣化が著しくバーゲン会場としての方が有名になった”科学技術館”です。
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皇居乾通り公開…2014秋・了

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秋季皇居乾通り一般公開が12/7(日)終了しました。公式の参観者は5日間の合計で349,500名(12/3=57,490 12/4=42,600 12/5=85,730 12/6=78,700 12/7=84,980)だそうです。という事は…春季乾通りが385,060人でしたから若干下回ったようです。なんのかんのでほぼ皆勤だったのですが、春の記憶が生々しく正直ビビッツていました。いざ行事が始まると、最寄りの駅から交差点・信号毎に警官や案内板が配置され案内誘導がなされていました。前回の大ネックだった手荷物検査&ボディ・チェックもその位置をずらし、女性の担当官を増員するなどの人員配置がされていました。兎にも角にも今回は警視庁の気合いの入り方が違っていましたね。前回でよほどボロクソに言われたんでしょうねぇ(笑)。そんなことで気分的には楽々という感じです。なにせ春に比べると今回は『待たされた感』がなかったようでう。
警視庁並びに皇宮警察は職務としても、5日間も仕事にならず休日出勤までした宮内庁職員の皆様もお疲れ様でした。しかしながら、ここまで経費・人件費を支出してしまうとなると、来春以降はあるんでしょうかねぇ?

皇居乾通り公開…2014秋

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昨日、今日と「秋の皇居乾通り一般公開」へ行ってきました。昨日は雨模様という事もあり列最後尾から一度も立ち止まることなく記録的に短時間で坂下門からの入場となりました(!)。天候も良い今日は、昨日の反動での大々混雑を予想していたのですが…。さすがに宮内庁庁舎から乾通りは多くの人、人、人ですが、思いのほか順調に参観できました(苦笑)。関係各位も春の大失態ともいえる運営を反省したのでしょうねぇ。今回は警視庁も皇宮警察も参観者をスムースに誘導する作戦を創意工夫したようです。  *列の最後尾が桜田門(内側)付近に設定されています。東京駅下車で歩くより、JR有楽町orメトロ桜田門下車で二重橋方向を目指した方が列により早く並べます。西桔橋~乾門の渋滞が酷いようなので、西桔橋~狐坂~天守台跡の方が歩きやすいようです。二の丸庭園の武蔵野の原風景=懐かしさが漂います。
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個人的な感想ですが。春の桜の通り抜けに比べ格段に見ごたえがあります。「桜」は上野公園的なイメージで行くと肩透かしとなりますが、紅葉は遠目がきき、色合いの様々なコントラストが見られます。本丸跡の東御苑にも紅葉の美しい場所や庭園があり、秋の方が見所が盛りだくさんといった感じです。日程は土・日とあと2日間です。天候さえ良ければ今日にもまして大々々混雑になるのでしょうねぇ(笑)
*トイレ難民にならないよう要注意です!2時間弱は無理と覚悟しましょう。 当然ですが”自販機”はありません。
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左)紅葉の名所なのですが「山下通り」です。”紅葉の盛り”は過ぎてしまったようです。
中)西桔橋(にしはねばし)からの蓮池濠です。冬枯れで手入れしていなのは”わざと”です。
左)西桔橋から狐坂を登ったところの石垣です。珍しいごく初期の”打ち込みはぎ”のようです。
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旧江戸城・二の丸庭園の鯉

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皇居東御苑・二の丸庭園は、3代将軍家光の命により1636年(寛永13年)に”小堀遠州”の手によるものとされます。1867年(慶応3年)に焼失、明治以降は殆ど顧みられなかった庭園を復元したものです。回遊式庭園の池には、鰭長錦鯉(ひれながにしきごい)が悠々と泳いでいます。Ptで見るように(残念ながら曇天でしたが…)背鰭、尾鰭、腹鰭が長く、泳ぐ姿が優美です。元は日本のニシキゴイとインドネシア原産のヒレナガゴイの交配種で、陛下が皇太子時代にインドネシアからの打診によりニシキゴイの品種改良に着手し1982年位誕生した品種です。さいたま市・大宮公園には関連する碑があり、この品種は観賞魚として埼玉県を中心に広まっているそうです。以前「皇居の池の鯉がカワウに襲われた事件」はこの鯉の事です。
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Pt中)この菖蒲蒲は見事で蕪ごとに優雅な名称がつけられています。この日は咲いておりませんでした。
Pt右)以前は吹上御所にあり、昭和43年に点景として移築されたお茶室『諏訪の茶屋』です。
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旧江戸城・不浄門の謎

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Pt↑は、旧江戸城「平川門・渡櫓門」です。…【徳川御三卿の登城や大奥のお女中の出入り門で、平川橋から濠を渡り、正面右の平川門・高麗門を抜けると左側に渡櫓門があります。渡櫓門には二っの門が造られており、右側が城内で死者や犯罪者を城外に運び出す「不浄門」であったそうです。】…実際に写真の位置から(内緒で)門を見ると、なにか変です。死者の場合は棺桶(風呂桶状)で搬出したのでしょうが、棺桶を担いで平川橋を渡ったとは考えられません。この付近は帯曲輪と称する郭が濠に突き出すような構造だったので、この帯曲輪に舟を着けて日本橋川を利用して搬出したと考える方が自然です。Ptで見ると渡櫓門から不浄門へUの字状に道があり、不浄門の閂(かんぬき)も手前側にあるので、こちら側から搬出した事になるのでしょうか?資料集を見ても「不浄門/帯曲輪門」=「この門から犯罪者・死者」を搬出とあるのですが、位置関係がどうにも得心できません。
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旧江戸城・北桔橋門

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北桔橋門は皇居東御苑・天守台跡の後方に位置します。この場所は江戸城でも最も濠が深くなっており、石垣も堅ろうな造りになっています。橋の構造は吊り橋状で橋を上げ下げすることで、有事の際には外部に脱出したり、交通を遮断する仕掛けとなっていました。可動構造となっているため 「橋」 の部分は5~6mの程度しかありません。江戸時代は高麗門と渡櫓門からなる「枡形門」であったようですが、現在は高麗門しか残っていません。皇居東御苑の散策では大手町方面の”大手門”から”北桔橋門”から出て北の丸公園~靖国神社へと散策することができます。
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Pt中)天守台跡です。再建の命を受けた前田藩が四国産の石材を運んできため、”伊豆石”とは色が異なります。 Pt右)乾通りからの西桔橋門(中央部分)です。本丸と西の丸の連絡道(因みに”狐坂”)になるため、この橋も有事には破壊できる構造になっていました。桜通り抜け時の撮影で、通常は一般人は近寄れませんし皇居参観のコースにも入っていません。
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上野東照宮修復完了

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2009年から5年間(!)修復状態だった『上野東照宮』が何時の間にやら工事が完了して一般に公開されておりました(笑)。長いこと東照宮の絵を描いた目隠し幕で覆われていたのですが、春のぼたん苑の開園時期に合わせたのでしょうか、本当に”いつの間にやら”という感じです。修復前は朱塗りの建物だったような記憶があるのですが蘇った東照宮は俗称「金色殿」の復活に相応しい仕上げになっています。
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140501_04140501_03「東照宮」といえば日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、港区・芝、台東区・浅草、埼玉・川越をはじめ全国各地に数多く存在します。上野東照宮のご祀神は徳川家康(東照大権現)・8代将軍徳川吉宗・15代将軍徳川慶喜となっていますが、何故に慶喜が祀神なのかは疑問があります。『上野東照宮』は1616年2月静岡駿府城で危篤状であった徳川家康が病床に居合わせた幕府顧問で上野寛永寺の開祖天海僧正と大名の藤堂高虎に”3人1つ所”に末永く魂鎮まるところを作ってほしいといの遺言を残し、藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営したとされます。都内、芝・東照宮はこじんまりと、浅草・東照宮は浅草寺”二天門”以外は殆どが消滅しています。そういう意味では貴重な東照宮とも云えます。
写真=左は社殿から唐門方向です(社殿には上がれません)。右は拝殿、幣殿、本殿からなる権現造りです。
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140501_06140501_05現存する社殿は、1651年に3代将軍・徳川家光(爺ちゃん大好)が造営替えをしたもので、金箔をふんだんに使い、日光東照宮といい勝負の豪華絢爛の造作で「金色殿」とも呼ばれたそうです。 当時は東叡山寛永寺の一部でしたが、第2次大戦後の神仏分離令により寛永寺から独立しています。戦争や震災などの災害で一度も倒壊することなく、江戸の面影をそのまま現在に残す貴重な文化財建造物です。 写真は左)は唐門を表側から、左)は社殿側からです。唐門の柱には”左甚五郎”作の「昇り龍・降り龍」の彫刻があります。これはこれで良いのでしょうが…。細部までの塗装の色合いや修復具合は、埼玉・妻沼聖天様に比べると疑問点が多々あります。あちらは「国宝」でこちらは「重要文化財」の差なのでしょうかねぇ。
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140501_08140501_09社殿脇の回廊に『栄誉大権現』が祀られています。『栄誉大権現』は「お狸様」「夢見狸」と呼ばれ、江戸時代に江戸城大奥で大暴れして追放され、その後も安置された大名、旗本諸家を潰した四国八百八狸の総帥の大悪狸で、大正年間に東照宮に奉献されてから災いがなくなったという伝承があります。 現在では”他を抜く狸”という縁起から強運開祖の受験の神様として信仰されています。 とあるのですが…修復期間中はこちらへも立ち入れませんでした。付近には『五条天神社』・『上野大仏』と受験の神様や古社の『花園稲荷』もあります。「お狸様」もうかうかしてられません。それにしても、大奥で大暴れとは…何をやらかしたのでしょうか?
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左)1633年(寛永10年)酒井忠世建築奉納の備前御影石の鳥居。国指定の重要文化財です。
中)社殿の建築の年(1651年)に全国の諸大名より奉納された石灯篭が200基以上並んでいます。
右)幹の太さが8mを超える上野公園一の「大楠」。樹齢600年以上の上野の祖木といわれる御神木です。
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皇居乾通り・宴のあと

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↑左は期間中の乾通りです(最混雑時は通勤ラッシュ並みでした)。 ↑右は、今日(9日・11:30頃)の乾通りです。”宴のあと”とはこういう事を云うのでしょう。乾通りには静けさが戻り、カラスの鳴き声が聞こえていました。カラス達も見たこともない群衆が押し寄せて来てさぞ驚いたでしょうねぇ(笑)。いろいろありましたが、ともかく終了のはこびとなりました。初日の4日はあまりの群衆の多さに閉門を2時間早めてしまうという大失態(!)。さぞクレーム大会だったことでしょう。群衆の誘導手順について宮内庁、皇宮警察、警視庁の役割分担が破綻した日もありました。これに懲りて”今後の同様なイベントは一切催行せず”にならなければ良いのですが。
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(↑左)は、宮内庁々舎前の模様です。この路面が見えなくなってしまう程の人々が訪れたのですから驚きです。(↑右)は、本日午前のの皇居参観(この参観コースは「乾通り開放」とは異なります)の模様です。毎回250名前後が定員なのですが、午前の参観者は130名と通常の半分程度でした
いまさらですが…上野公園などの桜並木を思い描いてこられた方は、乾の桜並木には”アレレ”と思われたことでしょう(苦笑)。今回の特別公開にあたり、宮内庁は旅行会社の団体について優先入場等は一切認めませんでした。『旅行会社のツアーなら優先的に入れると思った』の声もありましたが、これはあり得ないことです。宮内庁が認める訳がありません。ツアーバスで来られて2時間前後並んで、皇居内は人・人・人、桜は???。押し出されるように前へ歩くだけでは年配者にはさぞ過酷(苦行)だったことでしょう。
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