旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

皇居周辺

皇居東御苑 冨士見櫓

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皇居東御苑の「富士見櫓」は旧江戸城遺跡で唯一現存する三重の櫓です。江戸城の天守閣は徳川初期の50年間しか存在せず明暦の大火(振袖火事)で焼失後は結果として天守閣の再建はされず「富士見櫓」が天守閣の代り月見、花見のなどの宴はこの櫓で行われていました。
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冨士見櫓は東御苑側と皇居内からの見える姿が全く異なっています。皇居内からだと思いのほか高い場所にあり、ビル群などない時代では品川の海が一望でき、遠く富士山の姿が見えたなどの解説は納得ができます。現存の三重櫓は万治2年(1659)に再建されたもので加藤清正の造営とされます。
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Pt↑)皇居内からの「冨士見櫓」の姿です。1657年の明暦の大火(振袖火事)で江戸城天守は消失し再建計画も結果中止となり再建された事はありません。松平健さんの「暴れん坊将軍」は8代将軍 吉宗の時代設定となっているので、この時代には残念ながら江戸城には天守は存在していません。
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皇居宮殿、北車寄せ付近からの冨士見櫓です。徳川幕府・江戸城の遺構と大手町のビル群。この取合せお気に入りです。
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皇居東御苑 百人番所

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同心番所から大手三の門(本丸大手門)の渡櫓門石垣の間を抜けると「百人番所」が見えてきます。Pt↑)で見るように渡櫓門の石垣はかなり巨大な石が使われています。黒に近い色が石材が江戸城石垣の特徴でもあります。この石材は伊豆半島の熱海熱川で産出される安山岩(伊豆石)が使われています。その巨石をアルキメデスの原理を駆使して舟で運んでくるのは大変な技術力です。
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横の長さが50mはあろうかの建物は「百人番所」で、この建物も徳川時代からの江戸城の遺構です。「百人番所」は江戸城最大の検問所で、番所には「百人組(鉄砲百人組)」と呼ばれる根来組、伊賀組、甲賀組の忍者軍団と二十五騎組(廿五騎組)が交代で昼夜を問わず警備に当たっていました。
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巨大な石垣は「大手中の門」の石垣です。「中の門」では旧江戸城での最大級の巨石が「切込接ぎ・布積み」の技法で美しい姿を見せています。重力が集中する角の部分は「算木積」で強化されています。江戸期の武士の平均身長は160cm程度なのでとんでもなく巨大な門に見えた事でしょう。
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この土台になる石材が江戸城最大と思われます。半分が地下に埋まっている事を考えると驚きしかありません。「中の門」の石垣は寛永15年(1638)に普請され、元禄16年(1703)の地震で損傷、修復ています。約300年の風雪を過ごした石垣は風化による破損や剥離が進み平成17年に解体・修復工事がされました。設置された解説板には石垣の構造や修復工事の様子が解説されています。
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「中の門」の内側からは石垣の角の部分の石積の様子がよく見えます。付近に修復工事の際の石垣が展示されていますが、横幅の割には厚みを少ない加工の模様がわかります。Pt↑)では判り難いのですが、「中の門」の柱跡の窪みも見られます。
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本丸御殿への最後の番所で「中の門」の側にあるのが「大番所」です。百人番所より位の高い与力・同心によって警備されていました。この先は上り坂になっていて、坂の途中に最後の門である「中雀門/)があります。実は御殿への上り坂高低差がかなりあり、この高低差が西の丸御殿を皇居とする要因ともなっています。
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登城ルートの最後の門が「中雀門」で御殿の玄関門となります。三の門、中の門を駕籠に乗っての通過が許される尾張藩、紀州藩、水戸藩の御三家でもここで駕籠を下りねばなりません。石垣が激しく損傷しているのは火災により焼け焦げた跡と云われています。

皇居東御苑 大手下乗門

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右の白壁は、現在工事中の皇室のお宝を展示する「三の丸尚蔵館」です。2023年秋に一部が公開予定のようですが、今までの規模が小さかったので開館が楽しみです。その奥が「大手三の門/大手下乗門」です。大名家は大手門もしくは桔梗門(内桜田門)から城内へ入り「大手三の門」→「中之門」→「中雀門」→「本丸御殿」と進むことになります。
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下級の幕臣は大手門外で駕籠を降りねばならず「大手三の門」までは大名や高級役人、高家などが駕籠に乗って進むことが許されていました。という事でこの門は別名「下乗門」と呼ばれ、二の丸と三の丸を分ける濠には大正8年に取り壊されるまで「下乗橋」が架かっていました。
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本丸御殿までは3ヶ所の検問所があります。Pt↑)が「同心番所」です。現在は移築されていますが、江戸時代には下乗橋の手前にあったようです。徳川幕府の歴史は264年あり「同心番所」は何年の完成なのかは定かではないのですが、止瓦の「葵紋」は徳川時代の建造物である事を示しています。
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大手門ほどハッキリとした姿ではないのですが、ここも「桝形門」形式です。今でこそ松の木が植えられていますが、石垣の上には「多聞」が造られ三方向から囲んだ構造のようです。本丸御殿へのお供の人数もここで絞られ、家臣はこの付近で主人の帰りを待つことになります。
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皇居東御苑 大手門

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皇居東御苑は旧江戸城の中枢にあたり、西軍入城時には一面の焼野原でかろうじて西の丸御殿が残っていたため、西の丸を皇居とした経緯があります。以後は宮内省や皇室施設となり1968年より「皇居東御苑」として一般開放されています。旧江戸城は家康・秀忠・家光の3代で約80年で完成しており家康時代は大手門あたりまで江戸湾が入り込んでいました。大手門は旧江戸城の表門で月3回程度の登城日には、大名家が行列を連ねて大手門前に集り、この先は大名家の格式によりお供の人数が決まっていました。
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大手門は日本城郭独特の「桝形門」となっています。Pt ↑)での右側の門が「高麗門」で左側が「渡櫓門」です。二つの門を閉じてしまえば、この区画が「砦」となる防御に優れた構造になっています。この二つの門は完成後に明暦の大火(1657)で焼失し後に再建され昭和年代まで無事ですが、昭和20年の東京空襲「渡櫓門」は消失、損傷の少なかった「高麗門」は昭和40年に修復されています。
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日本城郭の「桝形門」では、攻め手が高麗門を破った場合でも直進する道がありません。多くの場合は右方向へ曲がるのですが、日本人の多くは右利きであり、攻め手は体をすべて晒さねば弓、鉄砲が使えません。対して守備側は体半分を晒せは「渡櫓門」から弓、鉄砲を撃てるという、これも防御に特化した工夫がされています。
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判りくいのですが白壁と石垣の間には弓、鉄砲を射かける「狭間」が作られています。構造上「高麗門」は突破し易いのですが、水深は浅いとはいえ100mほどの堀を渡ってくるのも容易ではありません。「渡櫓門」内部には味方の兵力や武器弾薬を備蓄するなど防御の準備は万全と云えるでしょう。
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枡形門内には「鯱/しゃちほこ」が展示されています。オリジナルの渡櫓門の屋根に置かれていたもので、「明暦三丁酉」とあり明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)で焼失した後の、万治2年(1659)再建時のもののようです。東京空襲で渡櫓門は消失しますが、中国発祥の防火除けの鯱/しゃちほこ」は消失しなかったという事です。
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一部の石垣マニアには人気の石垣が高麗門を抜けてた正面に施されています。「鏡石」もしくは「鑑石」と称する巨石を並べた様な造りになっています。端的には権威象徴のコケ脅し的な要素が強い石積みです。多くの城郭には同様な装飾があり大阪城には更に巨大な「鑑石」が存在します。

皇居東御苑 二の丸庭園

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【32023.06.06】皇居東御苑二の丸庭園の菖蒲田が見ごろの季節となっています。菖蒲田には120種以上の品種が植えられ様々が色合いの花菖蒲が咲き競っています。
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花菖蒲は株ごとに品種名の愛称(?)が記された木札が添えられています。「鬼が島」や「葵の上」やらは花枯れ、水枯れの季節では意味不明ですが、今の時期なら意図する所が判る(笑)ような気がします。
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皇居東御苑はTシャツ&半パン+スニーカー姿の貧乏外国人の人気スポットでもあり、数十人の開門待列も珍しい事ではなくなりました。貧乏外国人の浅草、築地、明治神宮、原宿など無料スポットへの嗅覚はたいしたものです。
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江戸城二の丸は3代将軍家光の時代に造られ、お世継ぎの住まいや将軍の隠居場所、生母の御殿とされ、庭師・小堀遠州による「池泉回遊式庭園」が造らています。御殿の消失&再建で元の姿は失われ、現庭園は昭和43年に復元されています。
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池を悠然と泳ぐのは当時の明仁親王(上皇陛下)によりインドネシアの鰭なが種と日本の錦鯉を交配して埼玉県水産試験場で誕生した「鰭なが錦鯉」です。貧乏外国人にはエライ人気です。
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この雑木林辺りが家光による二の丸御殿跡のようで庭園はさらに奥となります。現在の「雑木林」の姿は昭和天皇の発意により「武蔵野の原風景」が残されています。関東地方のある年代以上には懐かしい風景です。

2023 春 皇居乾通り…(3)

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乾門から北の丸公園へ…。乗馬姿の宮様は「北白川宮能久親王」です。この宮様は戊辰戦争では朝敵となったり日本の皇族で唯一人の戦場で亡くなるなど、実に波乱万丈な生涯をおくられた宮様です。
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旧近衛師団司令部庁舎で「東京国立近代美術館工芸館」として使われていました。工芸館は閉館となり2020年の夏に石川県金沢市に移転となるはずでしたが計画は進行していないようです。近衛師団司令部はこの地にあるべきと思うのですが…。
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日本武道館のある北の丸公園は春日局の屋敷や徳川御三卿の清水家や田安家の屋敷の歴史があります。お堀を挟んでに千鳥ヶ淵が気渡せる一角は「隠れ桜の名所」でした。久しぶりに行ってみると「隠れた」ではなくなった様子です(苦笑)。
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新装なった九段会館のテラスからの九段坂です。”♪上野駅から九段まで、かって知らないもどかしさ…♪!これって結構な距離です(笑)。お堀と桜の取り合わせの絵ずらはいいもんです。
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2023 春 皇居乾通り…(2)

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ここから「乾通り」を進んでいきます。繰り返しですが地面が充分見える程のガラガラです。初回は通勤ラッシュ並みに混み合っていました。こう云ってはなんですが、皇居の敷地は広く上野公園や千鳥ヶ淵の桜並木を期待して来ると拍子抜けします。むしろ秋の「紅葉の通抜け」の方が風情があります。
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ほっぽらかし感の強い「蓮池堀」の上が旧江戸城の本丸御殿の跡となります。武器倉とされる「冨士見多聞」は東御苑の敷地にあります。令和の「大嘗祭」が行われた皇居東御苑は月・金の休業日以外は予約不要で見学できます。
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立入り制限地ですが、ゆるい傾斜の坂道が「山下通り」です。江戸時代はご隠居の住む西の丸御殿があった場所で、現皇居は西の丸跡地に造られました。秋の紅葉が美しい坂道でこの付近は江戸時代から人の手が入っていないと云われます。
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太田道灌に因む「道灌堀」です。特徴的な枝垂れ桜は少し早いようでした。太田道灌の江戸城は砦的な小規模なもので、徳川の江戸城は家康・秀忠・家光の3代で約80年かかって完成しています。因みに太田道灌江戸城は厳密にはどこにあったか判らないようです。
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この坂道が「狐坂」、狐がたくさん居たのでしょう。坂を登ると天守台のすぐ下にでます。架かる橋の「西跳橋」は敵に攻められた時は破壊するようになっていました。今回は西跳橋から東御苑には通行不可になっていました。東御苑へは乾門を出て北跳橋門から東御苑に入ることになります。
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通抜け終点の「乾門」です。江戸城の北西=乾の方角なので「乾門」ですが、この門は明治21年に宮殿が造られた際に、西の丸裏門を移築したものです。道路を渡ると北の丸公園~武道館~田安門~千鳥ヶ淵~靖国神社と歩くことができます。
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2023 春 皇居乾通り…(1)

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皇居「乾通り」一般公開が実に3年振りに実施されています。初日の25日(土)が冷たい雨。日、月、火と雨模様の日が続き、今日になってようやく青空になりました。初回の2014年の「桜」は1日に10万人近くが訪れ、あの時はこの皇居前広場が人で埋め尽くされていました。
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「乾通り」は事前の予約は必要ありません。手荷物検査とボディチェックは例年通りで加わったのは手指の消毒と体温チェック位です。「坂下門」から進みますが、なんと上下線に区切られているではありませんか(苦笑)。それだけ混雑に余裕があるという事でしょう。そういえば「止まらず歩いて~」のアナウスもありません。
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坂の下にある「坂下門」から入って正面の緑の屋根の建物が宮内庁々舎です。昭和10年(1935)に建てられた建物です。以前に所用で何度か館内に入りましたが行動が制限されてた為、”古めかしい建物以外”は殆ど記憶がありません。因みに青と白の天幕は宮内庁行事で使用されるモノです。
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接近禁止ですが「坂下門」から左へ坂道を登ると「宮殿北車寄せ」です。この車寄せは組閣後の政府閣僚や叙勲者の玄関となり、外国からの要人は皇居正門側の南車寄せを使用します。一般参賀が行われる長和殿東庭になります。
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こちらも接近できませんが、江戸城の遺跡「冨士見櫓」です。旧江戸城の現存する櫓は冨士見櫓・辰巳櫓・伏見櫓しかありません。宮内庁の皇居見学ツアーではすぐ下を通るのですが…。見上げる櫓は実に美しい姿をしています。
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皇居‥楠木正成像

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上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と共に東京の三大銅像とも云われる楠正成(楠公)像です。この銅像は住友財閥が四国の別子銅山の開坑200年記念に献納したもので、原型作成に3年、完成には10年の歳月を費やして1900年に完成しています。実際の製作はかなりの分業化ですが中心となるのは楠公が高村光雲、馬が後藤貞行と上野の西郷像と同じチームです。
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この銅像には多くの特徴点があります。国内の多くの銅像は中が空洞なのですが、この銅像は中まで銅が詰まっていて総重量は6.7tもあります。この重量を馬の足だけで支えているバランス感覚はお見事です。一般的な銅像の場合は碑文がある方が正面なのですが、正面から見ると楠公の顔が見えないという珍しい形式となっています。正面に顔を向けると皇居に尻を向けることになり礼を失する事からの造りのようです。
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さらに妙な点は、この楠木正成像の姿は正慶2年(1333)に、後醍醐天皇が隠岐の島から戻られるのを出迎えた時の姿を元にしています。天皇家が南朝と北朝に分裂していた時代ですが、現在の皇室は北朝系、つまりは敵方の侍大将が「皇居で変事が起きていませんか?」と警戒中構図という事になります。さらには楠公の姿は多くの肖像画があるようなのですが、高村光雲の表現した表情がどの肖像画とも違うとの指摘もあります。後藤貞行作の「馬」の尻尾の表現には多くの批判があったようです。
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楠公のある場所は都内でも有数な観光バスの駐車場があり、コロナ禍以前は多くの中国、韓国、ベトナムからの観光客で賑わっていました。このところは徐々に海外の観光団が増えてきたような感じがします。

何を思う・和気清麻呂

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千代田区大手町の内堀道路沿い、東京消防庁の向かいの公園内(大手掘緑地)に和気清麻呂の銅像があります。この像は昭和15年に紀元2600年記念事業として建立されたもので、楠木正成像が”武”で和気清麻呂像が”文”を象徴した皇室への2忠臣を表現しているそうです。像の高さは4m20cmほどあり、台座には『紀元二千六百記念・建設委員長、陸軍大将・林何某。寄贈者・石川何某』の記載が見られます。"如何にも”の時代背景です。
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道鏡の野望を打ち砕いて皇統を護った忠臣として知られる和気清麻呂は、733年に備前国藤野郡(岡山県和気郡和気町)に生まれ近衛府の武官として朝廷に仕ます。769年の道教事件=宇佐八幡神託事件では、孝謙天皇の寵愛を得てた僧侶道鏡が皇族ならぬもの(道鏡)が天皇になろうとした野望を防ぎ孝謙上皇に別部穢麻呂と改名され鹿児島に左遷るも、道鏡失脚により復権・復帰しています。この功績により皇室への忠臣となり、時を経てこの地に銅像が建てられたという事です…
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この像は、皇紀2600年(昭和15年)を記念して、「大日本護王会」と「清麻呂公銅像建設期成会」が制作を計画し、当時の有名彫刻家であった朝倉文夫、北村西望、佐藤清蔵に「競作」での作成を依頼します。結局佐藤清蔵の作品が選ばれますが、「競作」の件を知らなかった朝倉文夫は激怒し、途中で制作を辞退しています。「楠木正成像」の馬の尻尾の経緯と云いメンドクサイ時代だったようです(笑)。
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大嘗宮一般参観…(2)

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大嘗宮一般参観とは直接の関係はありませんが、旧江戸城の遺構櫓で残っているのは伏見櫓・巽櫓(桜田二重櫓)とPTの富士見櫓です。江戸城の天守閣は徳川初期の50年間しか存在せず明暦の大火(振袖火事)以降は天守閣の再建はされず、月見の宴や花見の宴などはこの富士見櫓で行われていました。加藤清正家により万治2年(1659)の再建された櫓は石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mあり江戸城本丸の遺構として貴重な建造物です。
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11/21は快晴でした。このPt撮影の立ち位置は皇居敷地内からなので簡単に入れる場所ではありません。通常平日の午前午後で行われている参観ツアーではここを歩きますが、この参観ツアーは定員500名の大行列なので撮影チャンスは極々少ないのです。今般の11/21~12/08が「大嘗宮一般参観」と11/30~12/08の「皇居乾通り一般公開」行事のうち富士見櫓下を通れるのは大嘗宮参観ルートのだけになるので撮影チャンスは限られています(笑)
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今でも再放送が繰り返されていますが、松平健さん主演の「暴れん坊将軍」ってのがあります。実際は徳川8代将軍吉宗の時代には江戸城に天守閣は存在せず。もし天守があったら真黒なので「姫路城」写真を写して「江戸城」と嘘をついてはいけません。大体なんの御用があって三保の松原(静岡)を白馬で疾走しているのでしょう?。まして江戸時代には白馬のサラブレッドなどいません(笑)。

大嘗宮一般参観…(1)

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11/14・15で行われた「大嘗宮の儀」での大嘗宮の一般参観が今日(11/21)より始まりました。通例では大嘗宮は大嘗宮の儀が終了すると即刻取り壊されるのですが、今般は広く一般の参観ができる事となりました。11/21~12/08が「大嘗宮一般参観」で11/30~12/08が「皇居乾通り一般公開」と2つの行事が行われます。並行日程のように感じますが、11/30以降であれば乾通り&大嘗宮もみられることとなります。
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さて、今日は”空いていれば”という事でPM12:15に手荷物検査場に着いたのですが、なんと手荷物も身体検査も待ち時間なしで通過できました。大嘗宮見学コースは【坂下門前で手荷物&身体検査を受け=入口は坂下門です=宮内庁庁舎を左に見て=富士見櫓方向へ進みます=ここから東御苑敷地に入り=大手中之門の坂道を上り=中雀門跡から本丸御殿跡へ=ここから大嘗宮は見えます=思いの外大嘗宮近くまで接近できます=大嘗宮裏手へ廻り=帰路は北跳橋門から退出、梅林坂を下り平川門もしくは大手門から退出となります】ゆっくり歩いても検査完了後からなら1時間はかかりません。
例年なら同神事は「新嘗祭」と呼ばれ宮中で非公開で行われます。「大嘗祭」は新天皇即位時のみでその為の宮が造られる特別な神事です。恐らく私たちの多くは次の大嘗祭を見ることはないでしょう。そういう意味でもチャンスです!
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2019夏・皇居東御苑…(2)

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Pt↑)は建設中の大嘗祭(2019)が行われる「大嘗宮」の模様です。古式の宮殿そのものに柴垣で囲み悠起殿・主基殿・廻立殿の三殿は「大嘗祭」のためだけに新設され儀式後は取り壊しになります。平成の大嘗祭では大嘗宮の設営費用が14億5千万円が計上され話題になりました。ただし平成の大嘗宮の建設は非公開とされ東御苑も休園となっていました。令和の大嘗宮は近寄ることはできませんが、フェンス越しには見ることができます。
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通常の新嘗祭は宮中祭祀の収穫祭にあたり、通常は11月23日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らこれを食べその年の収穫に感謝する儀式で、新天皇が即位後初めて一世一度に行う新嘗祭が「大嘗祭」です。Pt↑)は東御苑休憩所に展示(光が映り込んでいますが)してある大嘗宮の模型です。通常展示なのでごく普通に見られますが、これと同じ宮殿がすぐ脇で建設中という事です。
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大嘗祭とは関係はないのですが、Pt↑)は皇宮警察に所属する「消防車」です。実はこれ、ヤマザキパンの配送車とにたからーリングですが、何分に広大な敷地の皇居では緊急時にすぐ対応できるように、消防車両も巡回しています。所属する消防車は見慣れた「赤」車両が多いのですが、この色の車両は貴重とも云えます。坂下門付近ではよく見かけますが、この日はたまたま三の丸尚蔵館近くで停車していました。
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2019夏・皇居東御苑

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久々に訪れた皇居東御苑の見慣れた景色が大きく変貌していました。本丸御殿(大奥跡)には新天皇即位後、令和元年11月14・15日に予定される「大嘗宮」の建設が進行中です。「即位の礼」は5月の「剣璽等承継の儀」から10月20日の「即位の礼正殿の儀」など行われるなど5つ儀式が続きますが、宮中行事の「新嘗祭」は天皇が五穀豊穣と国民の安寧を神々に祈る神事で、通常は皇居内「宮中三殿」で行われます。新天皇の即位後最初の「新嘗祭」を特に「大嘗祭」と云い特別な行事とされます。つまり今年の「大嘗祭」は恐らく二度と経験できない神事なのです。日本の秋には新嘗祭や勤労観感謝の日という五穀豊穣に感謝する伝統の日があるので、アメリカねずみに騙されて「ハロウィン」なんて浮かれている場合ではありません。大嘗祭終了後にはこの宮は取り壊されるのでこの景色は今年限りなのです。
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Pt↓)大手下乗門の休憩所辺りも工事中でした。「即位の礼」とは関連がないようすが皇室のお宝「御物」を展示する尚蔵館が増築されるようです。
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皇居東御苑・富士見多聞

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2016年11月15(火)より通年で皇居東御苑の「富士見多聞」の内部が公開されています。=Pt↑)は昨年の乾通り通り抜け時でこの景色は見られません。中央の白壁の長屋が「富士見多聞」です=。「多聞」とは石垣上に建てられた長屋状の構造物で防御施設とされています。旧江戸城本丸には多くの「多聞」がありましたが、現存するのはこの『富士見多聞』だけです。横幅31.5m、高さ6.3mの長屋状で、正確な建築年代は不明ですが、明暦3年(1657)の振袖火事での江戸城焼失後で万治元年(1659)との説が有力です。皇居内での江戸幕府の遺跡内の公開は初めての事なので一見の価値は充分にあります。富士見多聞内部からは蓮池堀、乾通り、局門、門長屋、紅葉山等の宮殿側の景色が見えます。
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和田倉噴水公園

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現在の和田倉噴水公園の場所は江戸時代以前は大手門あたりまで「平川」河口で水深は浅い入江が入りこんでいました。江戸初期に入り江は埋め立てられ、江戸湾への”道三堀”掘削され、和田倉付近は江戸城へ日常物資の搬入口として荷揚場や倉庫(一ノ蔵地)が置かれていました。堀には和田倉橋が架けられ枡形(左曲り)の「和田倉門」が架けられ、時代の変遷と共に幕府御用地の厩であったり会津藩屋敷であったりしていたようです。『和田倉噴水公園』は、昭和36年に今上天皇の御結婚を記念して創建され、工事を担当した会社の笑ってしまう”入札価格”は伝説となっています…。大噴水は平成5年6月の皇太子殿下の御結婚を機に、新たに整備し、平成7年6月に完成したものです。公園を構成する施設には”デザインテーマ”が付けられていますが今回はパスします(笑)。奥のガラス張の建物はレストハウス&情報コーナー、トイレなどです。
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太田道灌「追慕の碑」

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皇居東御苑・平川門近く(毎日新聞社前)に太田道灌「追慕の碑」なる碑があります。解説板によると…この碑は太田道灌没後(主君による粛清)450年を記念して建立されたとあり更には平成19年が太田道灌江戸城が長禄元年(1457)に築城550年ということで都市東京と千代田区の繁栄を築いた…云々とあります。解説板の内容は間違いではないのですが、”粛清”で死んでから450年記念とは…。太田道灌透資長(1432~1486)は室町時代の武将で、「江戸」という地名は道灌が滅ぼした豪族「江戸氏」によります。武蔵国の田舎娘に馬鹿にされるくらいですからたいした教養ではありません(笑)。一方、豊臣秀吉の国替え命令で徳川家康が江戸の地に入ったのは1590年。両者は100年以上の隔たりがあり関連性などありません(!)。江戸城といっても、諸説はありますが実際のところ”太田道灌江戸城”の場所は正確には判っていません。なんでこの場所にこんなモノを作ったのでしょうか…?釈然としません(笑)。
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皇居乾通り公開…2016 春

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★3/31の早朝に発表があり「乾通り公開」は4/3(日)までの期間延長となりました。
桜の開花は実に難しいものです(苦笑)。皇居乾通り公開2014年春は4/4~4/8だったのですが(2015春は開催なし)この時の桜花は盛りが過ぎていました。今年は今年で東京の開花宣言以降に低温の日が続き、結果として今日まで”満開に至らず”と云う事になったようです。こればかりはどうにもならないのですが…。そんな理由もあるのでしょうが、今年は坂下門前大混雑という現象もなく順調に観られたようです。Pt1)並び始めから坂下門を抜けるまで約15分。昔を思い返せば驚きです。Pt2)道灌堀と桜…乾通り屈指の見事な桜なのですが、満開はまだです。Pt3)西桔橋分岐から乾門までが桜の本数が多いのですが、狐坂経由天守台へ向かう人が多いような…。Pt4)兎にも角にも乾門から退出です。また2年後の春にという事で…。
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皇居乾通り公開…2015 秋

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今日(7日/月)『皇居乾通り一般公開』へ行ってまいりました。昨年の桜&紅葉を思い起こせば"ウソッ"と思うくらい空いています。TVニュースによると今日が41700人が来場。5日からの3日間で11万人なのですが、昨年の桜初日の75000人を思えば…笑ってしまう人数です。前々回のように3時間並んで10分で通過完了では、旅行商品として成立しにくく、多くの旅行会社は二の足を踏んだようです。あえて言うなら、旅行会社の添乗員では宮殿の施設や旧江戸城の説明や案内をこなせるスタッフがいますかねぇ?。だらだらと歩くだけなら代金が頂戴できる企画商品ではありませんね。(Pt↑ 蓮池堀~富士見多聞)
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Pt↓)09:45の坂下門手前100m。先頭から300名以内でしょう。この時点で約1600名(少ない)が並んでいます。 宮内庁々舎前から富士見櫓です。地面が見えます=つまり混んではいません。 歩くルートから紅葉の名所の山下通り(紅葉山の下で山下通り)方面です=鮮やかな色とは云い難いようです。
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旧江戸城・田安門

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九段坂方面から北の丸公園や日本武道館の入口なっている『旧江戸城・田安門』は、寛永13年(1636)に造られ、現存する旧江戸城建築遺構のうちで最古といわれ国の重要文化財となっています。この近辺は,古くは「田安口」または「飯田口」と呼ばれ”田安大明神”があったので門名となったようです。江戸城経営後は北丸と称し、代官屋敷や春日局や英勝院の屋敷などもこのあたりでした。のちに8代将軍吉宗は、ここに一家を創立して田安家を興しています。田安門・渡櫓門の武道館側に西南戦争に出征し戦死した警視隊員の「弥生慰霊堂」への石段があります。特に立ち入り禁止ではないようです。Pt↑)はこの場所からで、枡形門(高麗門と渡櫓門)の構造が良くわかります。またこの地は昭和5年3月に関東大震災後の東京の復興模様を昭和天皇がご覧になった場所でもあります。
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