旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

皇居周辺

凄!皇居乾通り一般公開…Ⅳ

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(↑)の写真は、本日(8日)12:56の宮内庁々舎前です。路面が見え、人がまばらな部分すらあります。この状態は『ガラガラ状態』といっても過言ではありません(笑)。ちょうど”潮目の時間”に当ったのか今日は並び始めから奇跡的なほどの短時間で宮内庁前へ到着しました。 宮内庁によると、4日…54,140 5日…90,990 6日…81,820 7日…89,280 8日…68,830 合計385,060 が訪れたそうです。…この数字は誰がどうやってカウントしたのか不思議なのですが…繰り返しですが、前例のないイベントなので責められませんが、10時から3時までの開放(後に修正)。10時開門はともかく陽が長い時期に3時迄なんていかにもお役所的で”残業できません感”が匂います。まぁこれで前例ができたのでこれからの行事は大丈夫(?)と期待したいものです。
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(↓左)道灌堀のしだれ桜。ここが写真スポットなので混雑しているように見えてしまいます。
(↓中)乾門近く。ご覧のように路面が見えるほど空いています。大混雑の日はラッシュ時の駅以上でした。
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凄!皇居乾通り一般公開…Ⅲ

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史上初の試みなので予想が付かないのは判りますが…。宮内庁も皇宮警察も警視庁も今日(7日)が月曜日なので”タカ”をくくっていたのでしょうねぇ。現場で感じたのは、今日(7日)は、昨日以上の人出だったと思われます。…18:00のTVニュースでは、89280人だそうです…。目視の限りでは警察の車両は土日の半分程度(DJポリスは出動したか否か判らず)まともに隊列誘導などできていません。宮内庁の背広組はなすすべのなく突っ立っているだけの体。頑張っていたのは皇宮警察くらいという感じでした。このような状況にも関わらず、罵詈雑言や怒号が飛び交う訳でもなく、横入りをするでもなく整然粛々と列をなす日本人ってやはりとんでもない民族なんですね(笑)。中国・韓国でしたら、こんな事はありえないでしょう(!)。
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↑上)紅葉山からの緩い勾配「山下通り」。紅葉の名所であり、カラスの名所でもあります。人が写り込んでいない貴重な1枚です。
↓左)乾通りから東御苑への「西桔橋」です。天守台下までのかなりの急こう配な坂道を登ります。
↓中)見慣れない車両ですが、皇宮警察の消防車です。因みに皇宮警察のパトカーは”濃紺”一色です。
↓右)10:50から並び始めて12:47に検問所Ⅱです。最後尾は一体どこなんでしょうか?見えません!
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凄!皇居乾通り一般公開…Ⅱ

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昨土曜日の「皇居乾通り一般公開」には9万人を超える人が訪れたようです。この人数はお正月の「一般参賀」の人数を遥かに超えています。日本人の櫻好き事もあるのでしょが…(?)。 さて、連日の並び始め~坂下門までの待ち時間は、金曜日が約1時間20分、土曜日が2時間30分だったのが、今日はタイミング良く50分(!)でOKでした(笑)。天候面での不安(参観中小雨有)と大混雑の報道のせいで恐れをなしたのでしょうか、宮殿内もさほどの大混雑ではありませんでした。で、肝心の櫻は…残念盛りを過ぎています。(↑上)乾通屈指の櫻の名所「道灌濠」と櫻です。太田道灌江戸城の外濠との説がありますが、あくまで”説”です。濠の左は紅葉山で、皇居の中でも一番美しい所なんだそうです。
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(↓左)…人気の撮影スポット「道灌濠」です。皇宮職員が”立ち止まらないで”連呼してますが誰も聞きません。
(↓中)乾通りでも、この近辺に櫻が多いのですが…。花の盛りは残念ながら過ぎています。
(↓右)「乾門」の内側からです。同様なイベントを紅葉時期に予定だそうですが、どうなんでしょうねぇ(苦笑)。
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凄!皇居乾通り一般公開

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前例のないイベントなので誰も責められないのですが…。昨日(4日)からの「皇居乾通り一般公開」はとんでもないことになっています。
昨日は13:00に参観待ち行列に並んで坂下門通過までが1時間10分。この先は乾通りを”トコロテン式”に前へ進むだけです。それでも櫻を愛でながら、乾門・北の丸公園・田安門・靖国神社まで約3時間かかりました。TV等の報道によると約55000人(国立競技場の収容より少い)、13時30分入場締切になったようです。初日とはいえ平日ですからねぇ。それにしても…有名どころの旅行会社は、宮殿敷地内では社旗(ツアー旗)などを使用は控えていましたが、赤い旗の新興某旅行会社は堂々と社旗をかざしていました。添乗員のレベルが低いのか、会社の教育レベルが低いのか(苦笑)。  聞くところによると…。大手旅行会社のクラブツーリズムは関東一円から連日観光バス10台以上、6日(日)は30台以上のツアー設定をしているようです。宮内庁は旅行会社の優先入場などの特例を一切認めないそうなので、”並ぶだけ無駄現象”が生じてしまうのでしょうか…。
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(↓左)は普段の皇居前広場で警視庁まで人影はまばらです。今日は11:40分時点で(↑)坂下門から始まった列は(↓中)の広場を越し、(↓右)の二重橋前を越し、桜田門で曲がって凱旋堀付近まで…。写真の彼方に見える列は参観待の行列です。二重橋付近では一般観光者も規制を受けていました。今日(土曜日)は10万人超えると思われます。12:00頃には”本日は無理です”のアナウスが早くも流れていました。
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乾門から北の丸公園…Ⅱ

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昨日(3日)生憎の雨模様のなか皇居参観へ行ってきました。季節なんですねぇ。午前の参観者は約300名(!)。雨中の大行列でした。さらに明日からは、「乾通りの一般公開」です。天候次第では何万人が訪れるか想像もつかないそうです。「出来ればこの期間は休暇を取りたい」などと冗談交じりに云う職員の方もいたりで…気持ちは判ります(笑)。日程の前半くらいなら「櫻」は大丈夫です。が、しかし…あとはお楽しみという事で。
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乾門を出て、信号を渡ると(↓中)の見事な桜があります。この先が北の丸公園。左へ進んで東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)の敷地内には『北白川宮能久親王』の銅像(↑)があります。この宮様は伏見宮家の皇子として誕生、江戸へ下って上野寛永寺の輪王寺宮となっています。戊辰戦争時は静岡まで有栖川宮(義兄)との戦争回避交渉に出向き、上野戦争では彰義隊に擁立されたり、さらには奥羽越列藩同盟の盟主とされるなど数奇な運命を辿られています。見かたによっては戊辰戦争(明治維新)は”宮様兄弟どうしの戦争”になっていたという事なのです。
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乾門から北の丸公園

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東京は突然の如く暖かい日が続き、櫻の花も一挙に満開状態となりました。東京で櫻の名所となればやはり”千鳥ヶ淵”ですかね。↑は北の丸公園のお堀の上からの千鳥ヶ淵方面です。ちょうど堀の反対岸あたりがボート・ハウスで、ビルの下あたりが遊歩道です。”櫻の名所”ですから混雑は当然の事としても、人波をかき分け混み合った埃っぽい遊歩道を歩くよりも、こちらからの眺めが断然にお薦めです。
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↓左&中が今年注目の「皇居乾通り」の出口となる【乾門】です。ご覧のように大きな御門ではありません。すぐ前には高速の出入口があり、北の丸公園方面への横断歩道となります。このさほど広くない出口から数万人の人が出てくるとなると…。いやいや恐ろしいことになりそうです(苦笑)。それにもまして気がかりなのは、こう暖かいと日程中の桜は大丈夫なのでしょうか?
↓右。中の歩道を渡ると【東京国立近代美術館工芸館】、近衛師団の司令部の建物です。敷地内には”北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)”の騎馬像があります。
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皇居・乾通りの一般公開

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宮内庁では、天皇陛下が80歳を迎えられたことを記念し、今回初めての試みとして、桜と紅葉が美しい皇居・『乾通り』…(乾通りは坂下門から入り。宮内庁庁舎から乾門を結ぶ約750mの通りで、桜が約76本、モミジ類60本が植えられ、崩御の前年には昭和天皇が花見を楽しまれた場所です)…が期間限定で一般公開されることになりました。さくらの季節は、4月4日(金)~4月8日(火)の5日間の日程で、入門は坂下門からのみ、AM10時からPM3時まで、退出時間は乾門がPM4時、東御苑からがPM4時30分となっています。兎にも角にも、今年初めての試みなので”大々大混雑”が予想されます。…坂下門であらかじめ列を作って入門するようになります。その際、列を崩したり、立ち止まったりなどしないでください。… 【いかにも感】に満ちています(笑)。 *写真上の宮内庁庁舎の右奥に伸びる道路が『乾通り』です。
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(宮内庁HPには注意事項が事細かに掲載されています)
・乾通り一般公開に際しては、大勢の方の来場が予想されますので、次の点にご注意願います。
 (1)乾通り一般公開の閉門時間は午後3時となっておりますので、余裕を持ってお越しください。
 (2)坂下門であらかじめ列を作って入門するようになります。その際、列を崩したり、立ち止まったりなどしないでください。
 (3)坂下門から乾門の間は、平坦な道路ですが、西桔橋から皇居東御苑に至る間は、坂道ですので、履物には十分にご注意ください。特に、ハイヒール、下駄履きなどの方はご注意願います。

・でい酔者、動物(身体障害者補助犬を除く。)を同伴する者、危険物を携行する者、旗ざお、大きな荷物等で乾通りの通行を妨げ、 又は他に危害、迷惑等を及ぼすおそれのある物を携行する者、その他乾通り一般公開に支障があると認められる者は、入門をお断りします。

・春季皇居乾通り一般公開に当たっては、次に挙げる行為をしないでください。 これに反した場合は退去を求めることがあります。
 (1) 職員の整理誘導・制止に従わず、場内の通行の安全を妨げ、又は立入を禁じた場所に入ること。
 (2) 飲食、飲酒、喫煙をすること。
 (3) 三脚、脚立等の機材を使用し、又は業として写真・映画を撮影すること。
 (4) 自転車等での乗り入れ又は運動競技を行うこと。
 (5) 施設その他の物を破損・移動し、又は土石の類を採取すること。
 (6) 動植物や魚を捕獲・採取し、又は殺傷・損傷すること。
 (7) 物の販売・頒布、募金又は業として興行を行うこと。
 (8) 貼り紙・ビラ類の配布、集会又は示威行為をすること。
 (9) ごみの廃棄、又は騒音を発生すること。
 (10) その他皇居内の秩序又は風紀を乱し、乾通り一般公開に支障があると認められる行為をすること。

・その他
 (1) 混雑や危険を防止するため、坂下門の外で携帯品を確認させていただくことがあります。
 (2) 駐車場の用意はありませんので、ご注意願います。
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左)宮内庁々舎前から富士見櫓方向ですが、この先は通行不可になるのでしょう。
  当然、自販機などはありません。恐らくは勤労奉仕団用のトイレも使用不可だと思います。
中)坂の下なので”坂下門と判りやすい名称です。この坂下門付近にトイレはありません。
右)入口となる坂下門です。門を抜けると上の(↑)宮内庁々舎が目の前です。
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本丸御殿・天守台跡

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天守台の眼下には本丸御殿跡が広がります。江戸城天守は、1606年に着工され2度の改築を経て1640年に完成しています。以後焼失と再建を繰り返し1863年の明暦の大火以降は天守台は再建されることはありませんでした。ですから暴れん坊将軍(8代将軍吉宗)の時代には天守閣はある訳ありません。ここから中雀門にかけてびっしりと御殿が密集していたことになります。御殿は書院造になっており、最初に「表」と称する将軍への謁見や公式の儀式、政務を行う場所で幕府の中央政庁としての役割の区画があり、続いての「中奥」。将軍が日常起居したり政務をみたりする公邸がありました。弘化2年(1845年)造営の御殿では「表」と「中奥」を合わせて約1万8194㎡あったそうです。さらに現在の書陵部から楽部の庁舎にかけての地域には、最盛時には数百人の女中が居住していた約2万4520㎡とも云われる広大な「大奥」の敷地がありました。
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左)この近辺が”パワースポット”なんだそうですが…。意味するところが判りません。
中)天守閣再建の命を受けた前田藩は、遠く四国から石を運んできました。なので”石の色”が異なります。
右)正面は雅楽のコンサートホールで、樹木の影には宮内庁の雅楽練習場があります。
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行幸通り・銀杏並木

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『東京都道404号皇居前東京停車場線』が正式名称の、天皇が行幸するために通られる東京駅中央口までの特例都道です。行幸のほか新任大使の信任状奉呈式の馬車列もここを通り、先日もその模様がニュースになっていました。今の季節は銀杏の色づきが見事です。銀杏の紀元は古く、シダ類と共に地球の氷河期を乗り越えてきた植物だそうです。雌雄があり、見分けるには葉っぱの形(ズボン=男の木、スカート=女の木)で区別できるなんて話がありますがこれは俗説なんだそうです。写真の中央に並ぶ銀杏の木は『古代銀杏』という種類で、神宮外苑や国会議事堂付近の銀杏とは異なりこの行幸通りと新宿御苑が有名です。そういわれてみると木の高さはないのですが、横に広がった立派な枝ぶりです。行幸通りの東京駅寄りの銀杏並木は、まだ青々としています。日当たり云々の問題ではなく樹齢の問題(若い)とのことなのですが…?。
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旧江戸城・田安門&清水門

060801060802左は靖国通りに面した田安門です。今ではむしろ日本武道館の入口と云う感じとなっています。江戸時代はここは「北の丸」と称し、代官屋敷や千姫や春日局の屋敷などがあり、8代将軍吉宗はここに直系の田安家と清水家(一ツ橋を加え徳川御三卿)を興しています。現在の田安門は寛永13年(1636)のもので、現存する旧江戸城建築遺構のうちで最古のものとされます。右の清水門は北の丸の東門で、創建年代は不明で、現在の門は万治元年(1658)に再建されたものです。今は内容存在自体が陳腐となってしまった科学技術館に最寄なのですが、それ以外は目立った事がありません。しかしながら、江戸城の遺構として貴重な、田安・清水門は昭和36年6月に国の重要文化財に指定されています。東日本大震災では、屋根瓦のずれや漆喰壁の剥落等の被害があり、平成24年12月~平成25年3月の工期予定で保存修理工事が行なわれています。清水門は、建物全体を覆って工事を実施しているためご覧のような景色となっています。

旧江戸城・平川門

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東京メトロ”竹橋”駅、パレスサイドビル・毎日新聞社の向かい側に「平川門」があります。この門は徳川御三卿(田安・清水・一橋)の登城門や大奥のお女中の出入り門だったのすが、大手門等などに比して面白い特徴があります。お堀を平川橋で渡ると、高麗門が正面ではなく右側にあります(橋に対して正面にありません)。高麗門を抜けると左側に渡櫓門がありますが、更に隣にもう一つの門があります。この門は「不浄門」とも呼ばれ城内で死者や犯罪者が生じた時は、この門より場外に運び出されたそうです。生きたままこの門から出たのは「絵島」と「浅野内匠頭」の2人だけと云われていますが恐らくは「江戸城後付伝説」の一つでしょう。御三卿や大奥女中の使用する門に隣接して死人・犯罪者用の門が並んでいるのは不自然だと思うのですが…。

左)こちらが不浄門と云われる門です。残念ながら正面には立ち入れません。
中)高麗門の左方向に渡櫓門があります。門をくぐると二の丸方面へ右へ左へクネクネと路が続きます。
右)意図的なのか改築や増築の結果なのか、この枡形門は不可思議な構造をしています。
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旧江戸城・展望台から二の丸庭園

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本丸休憩所の脇から少し坂を登った「台所前三重櫓」があったとされる場所に『展望台』があります。ややもすると見落としがちですが、眼下には二の丸雑木林と大手町のビル群が広がります。二の丸は将軍の別邸やお世継ぎの御殿が建っていた場所とされます。慶応3年の火災で二の丸の御殿が消失した後は荒れ放題だったのですが、昭和35年に旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備するにあたり、二の丸庭園は9代将軍家重時代の庭絵図面をもとに回遊式庭園として復元されました。”小堀遠州”作といわれる庭園の配置は現在とほぼ同じ場所になるそうです。二の丸庭園は四季折々に花が咲き、池には珍しい尾を持つ鯉が泳いでいます。この雑木林は”武蔵野の原風景を残すよう遭えて手をかけてはいない”とのこと…。子供の頃の東京近郊はこんな景色ばかりでした。

左)展望台から百人番所方向です。済寧館と呼ばれる宮内庁武道館の屋根が見えます。
中)汐見坂から見た白鳥濠です。濠の水源は地下水のみだそうです。
右)白鳥濠からの石垣は実に見事です。この石垣に上にこの『展望台』があります。
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旧江戸城・本丸跡

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旧江戸城天守台跡です。江戸城の天守閣は江戸時代初期の50年間しか存在しておらず、慶長年間の「家康」天守と元和年間の「秀忠」天守閣は建位置が異っています。この天守台は「家光」の寛永年間のもので、天守閣は黒壁に緑の銅葺き屋根で5層6階建て、天守台は4方約40㍍、高さは約58㍍もあったそうです。寛永天守閣(家光)も明暦の大火(振袖火事)で消失してしまいます。幕府は加賀前田藩に天守閣の再建を命じましたが、将軍叔父にあたる保科正之(家光の異母兄弟)の提言により天守閣の再建工事は中止となりました。この再建工事では、加賀前田藩は止せばよいのに瀬戸内海から石を運んできた為、他の伊豆産の石垣と違って見えます。

左)本丸御殿への最後の検問所「大番所」で、最も格式の高い番所です。建物は再建されています。
中)「書院門」若しくは「中雀門」と呼ばれる門の跡です。火災の痕と思われ石垣はボロボロになっています。
右)本丸跡の芝生広場です。この場所に江戸幕府の中枢となる建物が林立していました。
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旧江戸城・中の門跡

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写真は中の門跡です。この石垣は2005年~2007年にかけて解体修理がされています。この修理により基礎構造などが判明した事も多く、最大の石材は35㌧もあったそうです。門跡手前の長い建物が「百人番所」という本丸の最大の検問所です。ここでは根来、伊賀、甲賀、二十五騎組の4組編成が各与力20名、同心100名で昼夜を問わず交代で警備にあたっていました。
中の門を過ぎると右側に「大番所」と呼ばれる格式の高い番所があります。坂道左に登り再度右に曲がると「中雀門」と呼ばれる本丸への最後の門跡があります。現在は石垣の上に建造物はありませんが、江戸当時は櫓や多聞などの建造物が威圧的に建ち並んでいました。

左)解体修理での石垣の現物が展示されています。横幅の割には厚みが薄く造られています。
中)百人番所より三の門方向です。この建物南北に約50mあるそうです。
右)中の門より大番所方向です。大番所は他より格式が高く、位の高い与力、同心が詰めていました。
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旧江戸城・大手三の門跡

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正面が「大手・三の門」もしくは「大手・下乗門」です。江戸当時は大名家の格式により登城の際に駕籠」を降りて検問を受ける場所が決まっていました。因みに、この門を駕籠に乗ったまま通れるのは尾張・紀伊・水戸の御三家だけとされ、他の大名はここで駕籠を降ろされています。門の奥に見えるのが「同心番所」と称する検問所です。同心とは江戸幕府の機構のなかで庶務・警備の仕事に携わる下級役人をいい、身分は形式的に一代限りの御家人です。

左)こちらが「同心番所」です。大手・三の門を警護する与力、同心が詰めていました。
中)建設年は不明ですが、江戸時代の建物です。止め瓦に「菊の御紋」ならぬ「葵の御紋」があります。
右)「切り込み積み」が見事な石垣です。上からの建造物の重みが掛からない為、石垣に歪みが見られます。
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旧江戸城・大手門

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写真は大手門、旧江戸城の正門にあたります。この大手門は戦災で焼失し後に再建されていますが、興味深い事には「東北震災」時には江戸時代以来の門は概ね無事で、この再建大手渡櫓門の壁面だけが卵の殻を剥くようにボロボロと崩れてしまいました。現在は修復も完了し元の美しい姿を見せています。
徳川幕府創設時には幕府は各大名家に江戸城の建設普請を命じていました。この大手門については仙台伊達家があたっています。門の形式は「枡形門」と云われ手前の高麗門(こうらいもん)と奥側の渡櫓門(わたりやぐらもん)とで一対の形式で、各門の扉を閉じれば内側が砦となります。一の門(高麗門)を入って右に曲がって二の門(渡櫓門)となる形式で、日本人の約70%が右利なので、攻める兵は全身を晒さなければ弓や鉄砲が撃てず、守備側は半身を出せば弓、鉄砲が撃てる、世界にも稀な日本の城郭独特の防衛の考え方となっています。

左)石垣マニア(?)以外には関心がないでしょうが、高麗門入口付近には珍しい形式の石積みが見られます。
中)高麗門を真横から、渡櫓門を正面からです。有事にはこの区画が砦となります。
右)大手渡櫓門です。東北震災時に剥がれおちた壁は美しく修復されています。
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富士見櫓と巽櫓

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内濠通りからの巽櫓と富士見櫓、さらに桔梗門の高麗門が見えています。絵になる景色なので"江戸城の絵”として使われることが多いようです。手前が巽櫓(たつみやぐら)で辰巳櫓とも書き(本丸の辰巳の方角にあることにより)書きますが、宮内庁が説明する正式名称は「桜田二重櫓」だそうです。皇居参観者の入口となっている「桔梗門」も正式には「内桜田門」です。江戸城創建者の太田道灌の家紋(桔梗)ついていたことから桔梗門となったようですが…。むしろ平将門を裏切った愛人の「桔梗」の名からの方がピッタリくるような気がします。
更に皇居内に「富士見櫓」が遠望できます。この富士見櫓と巽櫓と皇居正門側の伏見櫓の3ッが江戸時代から現代に残る遺構の櫓となります。富士見櫓は万治2年(1659年)の再建ですが、明暦の大火(1657年)以降江戸城には天守閣は造られなかった為、この櫓が天守閣の代わりとなっていました。従って8代将軍吉宗を主人公とした「暴れん坊将軍」に登場する江戸城の絵は”大嘘”と言う事になります。

和気清麻呂の銅像

050704050703千代田区大手町1丁目・大手濠の公園(?)内に和気清麻呂の銅像があります。この像は昭和15年に紀元2600年記念事業として建立されたもので、楠木正成像が”武”で和気清麻呂像が”文”を象徴した皇室への2忠臣を表現しているそうです。台座の裏には『紀元二千六百記念・建設委員長、陸軍大将・林何某。寄贈者・石川何某』の記載が見られます。"如何にも”の時代背景です。和気清麻呂は、 奈良朝期末に地方豪族出身の身から「右兵衛尉」となり、姉広虫とともに天皇家の信任を得ています。所謂”道鏡事件”で道鏡が皇位をうかがった時、宇佐八幡の信託により孝謙上皇と道鏡の野望を挫いています。この事件では、清麻呂は孝謙上皇に別部穢麻呂と改名され鹿児島に左遷され、後に道鏡失脚により復権・復帰しています。…皇族ならぬもの(道鏡)が天皇になろうとした野望を防いだ功績により皇室への忠臣となり、時代を経てこの地に銅像が建てられたという事です…

炎天下の『皇居参観』

koukyo1koukyo2皇居」参観に行ってきました。この日は午前中とはいえ炎天下での参観となりましたが、外国人を含め約70名と予想外の大人数です。
写真①)巽櫓の奥の『桔梗門』前に指定時刻に集合です。‥露天待ちですから雨天時は注意です‥。手続き後桔梗門より写真②)の窓明館(休所)に案内され約10分程度のビデオを鑑賞し注意事項説明を受けます。案内係りに先導され出発します。‥休所には売店、トイレ、手荷物用の無料ロッカーがあります‥。→元枢密院の建物を右に見て、写真③)の富士見櫓(高さ約30m)へ進みます。東御苑内から見るのとは印象が異なります。→写真⑤)宮内庁庁舎を右に、写真④)坂下門を左に見て→写真⑥)宮殿へ進みます。一般参賀で陛下や皇族の皆様が手を振られる場所です。→写真⑦が正門鉄橋(二重橋)を皇居内から見ることになります。→写真⑧)伏見城から移築したと伝えられる「伏見櫓」が真近になります。伏見櫓と伏見多聞が繋がっていない様子が良く判ります。→再び宮殿東庭を通り宮内庁庁舎の裏手へ進み、山下通りと称する皇居らしい道を通り蓮池堀、再び富士見櫓前を通り窓明館へ戻り桔梗門より退出します。約2,2㎞、所要時間は約50分です。
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1)参観申込み方法は宮内庁HPを参照にしてください。
2)当日、「身分証明証」の提示を求められる場合がありますので持参してください。
4)外国人向けには”ガイド・ラジオ(英語?)”が用意されています。
3)写真の撮影は列を乱さない程度であればOKでした。

皇居東御苑‥汐見坂

shiomizaka天守台跡から左に桃華楽堂、宮内庁楽部を見て「汐見坂」に進みます。明暦に大火の後本丸が拡張されたのに伴い、この坂が設けられました。思いのほか急な坂ですので雨天時などは充分に足元に気をつけてください。坂の上からは右に「白鳥濠」、正面に二の丸雑木林が見渡せます。二の丸雑木林はかつての武蔵野の面影を残す意向により手を入れてないと云われていますが。東京近郊で子供時代を過ごした身とすれば、どこかで見た風景にしか見えません。この雑木林の奥には二の丸庭園があります。
坂道を下り右に進めば大手門へ戻れます。左に進めば「平川門」から毎日新聞社前へ出られます。この平川門は大奥の女中方が出入りした門です。春日局が門限までに城に戻れず足止めさせられたのはこの門でした。また平川門に付随する形で「不浄門」と呼ばれる門があり、城内で死亡者や罪人がでた場合はこの門から城外へ出されました。生きたままこの門から出たのは”浅野の殿様”だけと言われていますが、そんな事は無いと思います。
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