旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

新宿区

信濃町 民音音楽博物館

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このところ神宮外苑がらみでJR信濃町駅を利用する機会が多くなりました。総武線ホームから見える「民音音楽博物館」のpop看板が気になり行ってみました。結果として週に2回行く事になったのですが…。ここヤバいです!
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「民音音楽博物館」はJR信濃町駅から四谷3丁目方向へ徒歩5分ほど。慶應病院、慶應大学の並びにあります。信濃町あたりは創価学会系の施設が多くあり、こちらも学会系の「民音文化センター」に併設された1974年開館の博物館です。
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運営は一般財団法人民主音楽協会で、嬉しい事に無料公開です。民族楽器や企画展の展示もありますが、圧巻は古典的ピアノや見たこともないオルゴールや蓄音機のコレクションです。古典ピアノとオルゴールは時間を決めてのデモ演奏があり、前回はオルゴールのデモだけだったので再訪となりました(笑)。
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オルゴール展示室で初めて見たのがこれです。ディスク(円盤)が2枚入っています。この2枚の演奏が同時に始まり主旋律と対旋律かと思ったのですが、2枚のディスクの再生のタイミングを微妙にずらして音に膨らみを持たせるリバーブ効果を出しているようです。理屈は理解できるのですが驚きです!。
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これは自動演奏ピアノです。紙を打ち抜いてオルゴールの円盤に当たるものを作成、機械に読み込ませる事で自動演奏というオルゴールとピアノの合体で、音量も申し分ありません。後方の書棚にはその「紙製の音源」が保管されています。この2台に関しては初めて見ました。
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1階の展示室では15分ほど数台のオルゴールを演奏してくれます。ディスクが数枚収納できる大型のオルゴールが並らんでいて、これだけの台数が所有している博物館は珍しいのではないでしょうか?
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大型オルゴールと一緒に初期の「蓄音機」も数台展示されています。昨年、金沢で個人の蓄音機博物館で貴重なコレクションを見学しましたが、こちらのにもかなり珍しい「蓄音機」が展示されていました。
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古典ピアノは2階の展示室にあり、10台ほどの古典ピアノが展示されています。スタインウェイやブリュートナーやらは序の口で、Pt↑)はモーツァルトが活躍した1795年製の「アントン・ワルター」です。知る人ぞ知るのトンデモ・ピアノで、現存するのは世界で数台で演奏可能なのは4台(!)とされるピアノです。なんとデモ演奏が聴けます。
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笑うしかない世界のピアノの名器群です。チェンバロなども交えて15分ほどお姉さんが展示ピアノをデモ演奏してくれます。お姉さんの音色もさることながら、部屋の音響も良く美しい音色が聴けます。
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新宿駅 箱根そば本陣

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駅そばファンなら知っているだろう新宿駅「箱根そば 本陣」です。新宿駅は小田急百貨店を核とするリニューアル工事が始まったばかりであと数年は工事中が続くのでしょう。小田急新宿駅の地下改札付近の店は一時閉店かと思ったのですが、相も変わらす客足が途絶えていません。恐らく一日の利用客は日本一かも知れません。閑古鳥状態の記憶は一度もありません(笑)。
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箱根そばは小田急グループが運営する駅そばチェーンで小田急沿線で展開しています。系統的には「名代」が付く箱根そばやFCによる店舗などでTTLでは50軒を超のようです。「本陣」を掲げる店舗は総本山的な意味なのでしょう。券売機は2台。Ptはエアポケットのようなスキを待って撮りました。鉄道系ICが私鉄なのでパスモですが当然スイカもOKです。店内は立席が半数以上を占めて腰高テーブル席も多少はありました。
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これは「小エビ入りかき揚げそば」です。駅そば店なら必須のメニューで標準的で一番の売れ線かも知れません。セルフのお水は紙コップで対応。洗って使い廻すより効率的でしょう。「本陣」は生そばを使用とあり「名代」店舗は知らないので何とも言えませんが、この辺りが差別化なのでしょう。かき揚げそば=普通に旨いです。ただ丼がチョットいただけません。
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ご飯とのセットメニューも充実していて、それを映像で見せられると気持ちが動きます。以前は丼とのセットは一般的でなく精々おにぎりか稲荷がOPでした。昨今はセットモノに工夫をこらしており、これはこれで楽しみです。
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静かなる国立競技場…(3)

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フィールドにはサッカー試合準備で人工芝がひかれていました。人工芝の施設はすべてが手作業だそうで大変な作業になるようです。フィールドを俯瞰して見ると思ったよりか狭く感じ、そそり立つ観客席が異様にみえます。2020大会ではこの競技場は開会式、閉会式、陸上競技、サッカーの会場となりました。たったそれだけです。
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正直あの建築家の作品は好きではありません。新国立競技場の関してはゴタゴタの末に短期間で旧の54000人から6万人の収容人数の設計は大変な事だったでしょう。建造物としての評価も批判も受け、祭りの後は未来永劫ブツクサ云われるのは間違いありません。コンセプトなる耳に優しい言葉で飾り立てても、「格好ばかりで安っぽい」には変わりません。
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フィールドから見上げるとPtのこの部分は天井がガラス張になっています。競技場の建設費をけちる為ではなく太陽光をより取込むための工夫のようです。自然の風が吹き抜ける工夫もされているようですがどうなんでしょうか? 公表されている競技場の予想建設費用は2015年見積で1590億円、2020年見積では1670億円に増額しています。最終費用はともかくとしても維持費月間2億円のお荷物となってしまいました。設計者の知った事ではありません(笑)。
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これが悪名高き拷問の様な観客席です。イベント時に空席が目立つ事を回避するため座席の色分けは良く話題になります。観客席は1F、2F、3Fと各フロアー傾斜が異り3F席の傾斜は30°以上の傾斜は感覚的に切立って見え、恐怖すら感じます。オリンピック以降の3F席使用は考えになかったのかも知れません(笑)。
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座席は1列が横に20席以上あります。列の中間に座ってトイレへ行こうとすれば少なくとも10人以上の協力が必要となります。数人が往復となれば怒り狂う客もでてくるでしょう。日本人の平均身長は170㎝を超えているはずなので、このイス席の狭さには呆れます。背筋を伸ばして膝に手をあてた姿勢を保持して観戦せねばなりません。
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人工芝を剥がした陸上用のトラックです。この日はサッカー仕上げなのでこの状態です。月間の管理維持費が2億円/月(24億円/年)なので動員力のあるサッカーの試合は大助りなのでしょう。コンサート系では6万人を埋められるタレントは極々少数です。累積赤字は膨大なものとなり「お荷物」になることは確実です。
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有料のスタジアム見学ツアーは競技会などのイベント予定がない日程で開催されるようです。イベント開催日に営業する売店の品書きが貼ってありました。野球の東京ドームより安いのかも知れませんが、カレーパンが1ケが¥300とは何事でしょう(笑)。カレーとなると席へ戻って食べるには嫌な予感が漂います。
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スタジアム見学ツアーでは、選書の控室、インタビュールーム、参加した選手たちの落書き的なサインの壁などが見られます。それとは関係ありませんが、PTは千駄ヶ谷門付近に設置された東京オリンピックを記念する「黄金の郵便ポスト」です。まぁこれはこれで良しとしましょう。笑うしかありません!

静かなる国立競技場…(2)

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資料からみる新国立競技場は(例の経緯騒動を外しても)総建設工費は2015年の見積では1590億円と試算され、2020年の修正試算では1670億円となっています。2008年の北京が575億円、2012年のロンドンが557億円なので様々な要因が生じた実際の建設費は1670億円で収まったとは思えませんねっ。
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建物だけ見ると巨大な競技場と勘違いしますが、俯瞰してみるとこれだけ狭い敷地によくも押し込んだものだと思えてきます。旧国立競技場の建直しという名目があったにしても、これだけギチギチでは追加施設が必要となった場合でも、用地確保はできないでしょう。いっそお台場地区に新しく建設した方がよかったような気がします。
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「杜の競技場」や「和のテイスト」の象徴なのでしょう(笑)。離れた場所から見ると「そば屋のセイロの天日干し」に見えても、接近するとなかなかどうして(今のところは)美しい建造物です。これならば神宮の森のカラスも鳩も雀達も安心して暮らせます。この施設の維持費は2億円/月(年間24億円)で旧国立競技場が6700万/月(年間8億円)とされているので、この構造物の維持管理にも多額の費用が必要ですが、そんな事ぁ儲けるだけ儲けた建設屋と設計事務所の知った事ではありません。
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競技場の5階部分は「空の杜」として約850m程の回廊が作られ、競技場でイベントが開催されていない日は一般公開されています。回廊へはPt↑でEゲート付近と千駄ヶ谷門付近から階段で上がることができます。千駄ヶ谷門付近には目立ちませんがEVが利用できます。
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「空の杜」回廊から見えるのは、Pt↑)の新宿高層ビル街や聖徳記念館、神宮外苑の杜や市ヶ谷台の防衛省などですが、競技場の内部は1ミリも見ることはできません。1階の外周も同様ですが、唯一「競技場見学ツアー」の入り口からほんの少しだけ空席をごまかすためのまだら模様の観客席が見えます。ここからでは椅子席が狭さは判りませんが…(笑)。
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国立競技場の隣の2019年9月にオープンの日本オリンピック委員会(JOC)による「日本オリンピックミュージアム」にある近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵の銅像です。現代オリンピックが男爵の考えに沿ったイベントとは到底考えられませんが…。芝生の庭には日本のオリンピックに貢献した加納治五郎氏の銅や64年東京・札幌・長野の聖火台(レプリカ)が展示してあります。

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静かなる国立競技場

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色々な事がありました。激動の年月でした。あえては触れずとも国立競技場も多くのゴタゴタに見舞われていました。祭囃子は遠くなり徐々に消え、祭りの後はひたすら寂寥。終ってしまえば残ったのは空虚な建物だけです。『杜のスタジアム』のコンセプトを掲げての「自然に開かれた日本らしいスタジアム」は、何十年後の人達からの「なんでこんなモノを作った?」の声が聞こえる気がします。今は「強者どもの夢の跡」の言葉しか浮かんできません。
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この先の年月は負の遺産でしかないのは否定はできません。年間の維持費だけでのン十億とは笑ってしまいます。サッカーやラグビーでは7万人の集客はとても無理。コンサートでさえ嵐なき後は矢沢くらいしか思い浮かびません。助けになれば的思惑からか最近、有料でのスタジアム観覧ツアーが企画されています。
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これが笑ってしまうような金額でなんと¥1400/大人です。この企画も期間限定のようでもあり、イベント開催時には設定がありません。オープン前のイベントでは二度と来るか的な印象の施設でした。がらんととした観客席などを見るだけならどんなもんでしょう(笑)。スタジアムの外周と5階の「空の杜」は無料なので歩いてみました。1階外周には旧国立競技場での記念碑など引き継がれています。Pt↑)は旧競技場の貴賓席付近の相撲の始祖「野見宿禰」です。
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これが今回のオリンピック・パラリンピックで使用された「聖火台」です。開会式と閉会式では競技場内に設置、期間中はお台場に移動とは苦肉の策だったのでしょう。隣には64年オリンピックの聖火台も置かれています。アチコチのイベントで引き回されここが安住の地のようです。もう1基の失敗作の64年聖火台は川口市の青木町公園においてあります。
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気にかかっていた記念碑が千駄ヶ谷門近くに復活していました。工事中に他の場所へ移動させられ、そのまま行方不明は良くある話です。Pt↑)太平洋戦争中に旧神宮外苑競技場で行われた学徒出陣の記憶を伝える『出陣学徒壮行の地』碑です。白黒ニュース映画で雨中の行進の姿がよく放送されています。
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5階の回廊「空の杜」へは階段を登らねばなりませんでした。それではという事で一ヶ所だけエレベーターが使用可となっています。場所は千駄ヶ谷門付近ですがEVホールに扉の場所が判りにくいようです。下り階段はありますが回廊を半周ないし一周しなければなりません。
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「空の杜」の回廊を歩いても見えるのは競技場からの景色であって競技場施設内部は一切見られません。新宿の高層ビル街、渋谷、六本木、皇居方面、神宮外苑の杜、市ヶ谷台の景色は緑の季節は中々のもんです。気になるのは人工的に造られた庭は剪定や掃除、冬枯れの季節を考えるとご自慢のコンセプトやらはとても評価できません。
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プレオープン時に新競技場のトイレには「ウォシュレットはありません」と書いたら、東京ならJR駅や東京メトロ駅にすら普及しているのにそれはないだろうと云われましたが、ご覧の通りありません(笑)。一方「そば屋のセイロの天日干し」とくさした外観は今のところは良い感じのようです。これをいつまで維持できるかは予想できませんが…。
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JR千駄ヶ谷駅前の「東京都体育館」です。2020東京オリンピック・パラリンピックでは卓球の会場として使われました。穀膣競技場への道すがらですが、同様に人が殆どいない競技場は面白みに欠けます。豊洲方面に造られた競技場施設も同様でしょうが、浮かんでくる言葉は「戦い済んで日が暮れて」・「強者どもの夢の跡」です。

月夜見命・稲荷鬼王神社

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以前に稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)を記事にしたのは2012年12月の事でした。新大久保の韓国街に隣接、冬ソナ・ブームの一世風靡は遥か昔となり、”韓国ジャンク・フードがお勧め”と某テレビ局が懸命に煽られた味覚音痴のガキで賑わっています。どうせなら夜の部商売の面々も放送すればと良いのにと思うのですが…(笑)。大学時代に地方から上京して来た新入生を青春の洗礼に連れて行った出来事は今も懐かしく思い出します。
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「稲荷鬼王神社」はさほど広い神社ではないのですが、見どころが沢山で知れば知るほど興味が湧いてきます。神社名は、江戸時代に付近の大久保村の氏神であった「稲荷神」が祀られる場所に、熊野から勧請された「鬼王権現」を合祀され『稲荷鬼王神社』となったとあります。その後は勧請元の熊野の「鬼王権現」は歴史の中に消え「鬼王」の名を持つ神社はここだけとなってしまいます。元々の「鬼王権現」に祀られた神々には月夜見命・大物主命・天手力男命があり、結果として現在の東京で「月夜見命=月読命」を祀る数少ない神社となっています。
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一の鳥居脇にある水鉢は神社名に因んだのか”鬼が水鉢を担ぎ上げた姿になっています。ベニア板で囲まれた狛犬はユニークな姿で珍しく正面を向いています。本殿左側の恵比寿神社には船を乗せた不思議な形式の鳥居と氏子が寄贈した「水琴窟」が造られています。本殿脇にも「水琴窟」があり二ヶ所もあるのは貴重なのでしょう。
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この映画ポスターの社務所隣りの「まちかど博物館」に掲示されています。案内によると大正年間に稲荷鬼王神社の隣接地に「大久保館」という名称の映画館が存在した記憶を留めるために平成16年より氏子有志を中心にコレクションを展示しているようです。映画鑑賞が娯楽の代表であった時代がありました。それがあの浅草でさえ映画館が一軒もなくなる時代になってしますとは…。確かに展示されたいくつかの映画は見た記憶があります。
Pt↓)は規模こそ大きくはありませんが富士塚のようです。
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下落合氷川神社&東山藤稲荷

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西武新宿線が高田馬場を発車して新目白通りと並行するあたりに鎮座しているのが『下落合氷川神社』です。車窓からの神社は中々立派な神社で機会があればと思っていました。高田馬場駅or下落合駅の両駅から徒歩7分程度の中間に位置しており、行ってみて判る事ってのはあるもんで、車窓からPt↑)こんな感じに見えますがこの鳥居は正参道ではないようです。とは云うものの拝殿からは本殿は見ないのでここからなら社殿の配置がわかります。
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この鳥居が正参道のようです。日付は8月中旬ですが、七五三の幟があがっていました。右方向へ進むと登りの七曲坂です。神社は丘陵地を下って神田川に面した場所にあるという事です。由緒は不明とありますが、紀元前5世紀の第5代考昭天皇の時代の創建と伝わるようです。ご祀神は素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命の氷川の3神です。
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氷川神社本場の埼玉県でも3神を祀っている社は珍しいのですが、江戸時代は「氷川明神社」と云われ、豊島区高田の氷川さんが素盞嗚命を祀る「男体の宮」で下落合が奇稲田姫命の「女体の宮」で両社で「夫婦の宮」とされていたようです。さらに経緯は判りませんが子供の大己貴命が加わって祀られるようになったようです。現社殿は第二次大戦の空襲で焼失し1951年に再建されています。冒頭にあるように拝殿から本殿は見えません。
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氷川神社から徒歩5分ほどに「おとめ山公園」があります。乙女ではなく公園の敷地は江戸時代は将軍家の鷹狩りなどの狩場で立ち入り禁止で御留山・御禁止山が由緒のようです。大正期には個人の邸宅だった敷地を紆余曲折の後、公園として開園したものです。実際は雑草伸び放題、池は汚れ放題の写真にもならないお粗末な公園でた。
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おとめ山公園の一角ですが「東山藤稲荷社」という東京では珍しい稲荷がありました、Pt↑)は元宮の場所だったのでしょうか、いきなりこれには驚きました。
「東山藤稲荷社」は927年ごろに経基流清和源氏の祖にあたる源経基が東国の源一族の氏神として伏見稲荷から勧請したいます。宇伽之御魂大神、大宮能売(オオミヤノメ)大神、佐田彦(サタヒコ)大神と伏見稲荷の稲荷3神が祀られているのは珍しいのですが…。
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Pt↑)こじんまりとでは別の場所に
「東山藤稲荷社」はありました。

新宿区・筑土八幡神社

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新宿区筑土八幡町の『筑土八幡町』です。神楽坂の毘沙門さん(善国寺)から遠くはなく、静かな佇まいです。千代田区九段北の平将門所縁の「筑土神社」と紛らわしいのですが、江戸城の田安門付近にあった「田安明神」が徳川幕府により筑土八幡神社隣に移転し「筑土明神」となり、その後300年の時を経て九段北に戻り「筑土神社」となったという歴史があります。神社入口の左には社号があり、右には「田村虎蔵」の顕彰碑があります。この方は鳥取県出身の童謡の作曲家で誰もが知る「金太郎」や「浦島太郎」の作曲家です。
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ご祭神は応神天皇、神功皇后、中哀天皇で嵯峨天皇の時代(809年ごろ?)、付近の老人の夢に現われた八幡神のお告で祀ったのが起源とされ、その後は慈覚大師により祠が建立され最澄の作らしき阿弥陀如来像を安置したとされます。神社由来ですから追及はヤメておきましょう。
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本殿に向かって右側に珍しい形式の「庚申塔」が残っています。寛文4年(1664)の作とされますが、太陽と月、桃の木に二匹の猿が彫られた庚申塔で、猿が三匹でなく牡猿、牝猿の二匹が桃の枝を持った姿になっていて、庚申に纏わる話が表現されています。猿の顔面が削られているのがやや残念です。新宿区の有形民俗文化財だそうです。
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神楽坂、筑土八幡町、牛込柳町と新宿区らしくない町名です。この近辺は起伏変化の多い場所で、神社は”小高い丘の上から見晴らす”といった神社ならでは鎮座地にあります。石段途中の石鳥居は享保11年(1726)に当時の下館藩から寄進された鳥居で、新宿区最古の鳥居なんだそうです。正直…ですが(苦笑)。神社すぐ隣でビルの建設工事が始まっていました。この景色が見られるのはいつまでなのでしょうか。

神楽坂・恙無きや…(2)

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【恙無きや=つつがなきやとは読めませんよねぇ】PtのTaxiがいるあたりから坂道は外堀通りへと下っていきます。下りきって登ると江戸城の牛込御門。江戸時代この坂道は階段状でした。江戸城へ向かう穴八幡からの祭礼の山車が休息して、神楽を奉納した事から「神楽坂」の謂れがあったと思います。少し前まではこの通りには「陶器屋」が多くそれも花街に由来するのかと思ったものです。大学がある関係なのか昼食の料飲店が目立つようになりました。
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毘沙門さんへ向かう坂道の途中、ダンス・シューズの店を曲がると昔の芸子見番の隣が「伏見火防稲荷神社」です。この路地道が「見番横丁」とは後付けのような気がしないでもないのですが(笑)。古くからの商店が老朽化などで消えて行っても、変らずに残るのは寺社仏閣やこの様な街の小規模な神社なのでしょう。
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この先が江戸時代に旗本の本多家があった事から「本多横丁」です。旗本=一万石以下身分なので、大した家柄ではありません。この角には以前「五十番」という中華屋さんがあって名物の肉まんが大層うまかったのですが、移転されたようです。横丁を進むと某ビートルお気に入りにの鰻屋等があり、坂道を下ると「筑土八幡神社」方面です。
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時が過ぎても変わらないのが山之手七福神の「毘沙門天」を祀る善国寺、神楽坂を象徴するようなお寺です。珍しいのは神使の「虎」の阿吽像でどう見ても「熊」のような珍しい虎像です。見逃しがちですが、右の虎像の台座に刻まれた「不」のような印は明治年間に測量を実施した時の目印「几号水準点」です。
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毘沙門さんの前の極狭い路地を抜けて行くと、これも神楽坂の象徴の旅館「和可菜」です。狭い路地・石畳の道・緩やかな石段はこれぞ「神楽坂」です。付近に出版社があり締切り間際の作家が「缶詰」となる「和可菜」は有名でした。玄関は映画「日本の一番長い日」の首相宅として登場、傷んだ板黒塀もキレイになっていて改築が始まったようです。嫌な予感がするのは担当が「赤城神社」や「神楽坂ラカク」や「某競技場」を手掛けた建築事務所ということは…。あ~ぁです。

神楽坂・恙無きや…(1)

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【恙無きや=つつがなきや=変わりありませんか?】
数年前の事です、街歩き企画で『神楽坂散策』が大当たり、週に一回ペースで飯田橋前に集合したものです。数年振りにやって来たJR飯田橋駅舎の変貌ぶりには驚きました。以前は何処となくショボさ溢れる駅舎だったのが商業施設と見間違えるくらいに立派になっています。完成が2020年7月という事は久しぶりどころの話ではありませんが…。
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以前の飯田橋駅西口は改札からホームまで50m以上歩きかつホームが弧を描いて造られいて場所によっては電車とホームが50㎝以上離れ、危険な感じがしました。今回の工事では駅舎の改築ばかりでなく総武線ホームの位置も変わっています。元々この駅は旧甲武鉄道の牛込駅と飯田町駅を統合して開業しており、今回の工事で新宿方面に約200m伸ばした事で、Pt↑)でのホーム先端が旧牛込駅になるようです
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飯田橋駅は変貌してもお堀を跨ぐ牛込橋も牛込御門跡も変わった様子は見られません。歩道の先の坂道からが「神楽坂」です。この坂道は午前中が下り一方、午後が上り一方通行となっており、某政治家の事実無根の都市伝説の元ともなりました。神楽坂はや大正時代に賑わった花街、少しばかり以前にはその名残りが残っていました。
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外堀通りに面して青いテントが目に入ります。元祖大食いの聖地「神楽坂飯店」です。お店の挑戦メニューは有名でPt↓)では判りにくいでしょうが、餃子の山積みがの百個餃子で、隣の枕みたいなやつが巨大な餃子です。各¥9600で1時間以内に完食で無料とありますが…。さらに一升チャーハンは¥5840。これにくらべたら3杯分量のジャンボ・ラーメンなら何とかなるような気がします。無理はせずともこの店は何を食べても旨いです。
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"くまっちゃう”国立競技場

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国政の中枢「国会議事堂」は昭和11年の完成です。この時代の日本人の平均身長は男が157㎝、女が147㎝だったので今の本会議場傍聴席はやたら狭く感じます。中央区の「歌舞伎座」の昭和26年完成の第四期時代では、同平均身長(17歳)は男163.4㎝、女153.2cmと伸び、平成26年には20歳の男が172.2㎝、女が157.9㎝と推移しています。そうなってくると令和の国立競技場の座席はなんでここまで狭いのでしょう(!)。pt↑)は国立競技場の1階席です。右上の女性(?)は正しい姿勢(笑)で荷物を足元に置いて座っています。前の席には白いコートの女性が座っています。よく見ると右隅に靴先が写っています。男性が普通に座ると足先はここです。座り心地は最低&最悪。とてもリラックスして競技を観戦なんてのは無理な話です。が、見比べるとなんと新競技場の座席には背もたれとドリンクホルダーがあるではないですか!。これは立派な進歩だと云えます(笑)。
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このイス列は横に20席近く並び、センターに座ったらトイレ(確かウォシュレットはありません)に行くのは難行です。平均的日本人にも狭く外国人には拷問的に狭いです。JOCや●成●設やお偉い方々は実際に座ったんでしょうかねぇ?。競技場には3階席まであり収容力は増えています。3階席はスキージャンプ台なみの急傾斜となっていて高齢者や遠近両用レンズ使用者には危険極まりません。なにがなんでも約7万人収容にしたかったのでしょうが、オリンピック以降にここを満席にできるイベントがあるとは思えません。3階席はいりますかねぇ(笑)。
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「杜のスタジアム」がコンセプトとやらで、他にもやらなんやら”耳障りの良い言葉が並びます。法隆寺の五重塔から着想した庇やらは”意味不明”です。これらのお題目とやらは観客席に座ってみれば一言「ふざけるな!」です。「蕎麦屋のセイロの天日干し」や割りばしが並んでいるような姿のどこが”和風”なんでしょうねぇ?マスコミやTVメディアや建築屋の卵には評価あるようですが「姿と形は良いのだが安っぽい」感しかありません。それにしても「和風だっ!和風だっ!」の木材消費では「森林破壊、環境破壊の競技場」と呼ばれかねませんが…。
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四谷・於岩稲荷の怪

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新宿区左門町、四谷警察の裏に「四谷怪談」で有名な於岩さん縁の稲荷社が道路を挟んで10数mの位置に「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」の2社の於岩稲荷が並んでいます。両者の縁起をみると”本家”と”元祖”の様な関係ではないようです。「四谷怪談(東海道四谷怪談)」は、実在の於岩さんの没後200年ほど後に『4代目鶴屋南北』により創作されたお話です。タイトルの「東海道四谷怪談」の”東海道”は四谷の田宮家とは関係ないことを現したつもりなのですが、年月を経てグチャグチャになってしまいました。
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「於岩稲荷田宮神社」は元禄時代の田宮家の敷地にあったようです。於岩さんと婿養子の田宮伊右衛門は仲のよい夫婦であったそうですが本人没後の200年を経て「東海道四谷怪談」でとんでもない姿となるとは…。本人が知ったら激怒するでしょう。 四ツ谷に於岩さん縁の稲荷社が2社でもややこしいのですが、中央区新川にも「於岩稲荷田宮神社」があります。こちらは『東海道四谷怪談』を上演のたびにお参りに出向いていた歌舞伎役者達が明治12年の四ッ谷の火事でお岩稲荷が焼失したのを機に移転させています。つまり正当なる於岩稲荷は中央区新川という事です。四ッ谷の於岩稲荷田宮神社は田宮家旧地の昭和27年に復活したものです。実在の於岩さんの墓所は都電『新庚申塚駅』を近くの「妙行寺/みょうぎょうじ」にあります。墓所の案内板には『異説』とも思われる記載があり、話はますますと”怪談”じみてきます。
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寒っ!国立競技場

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12月21日、国立競技場オープニングイベントへ行ってまいりました。施設が完成して初めて6万人からの一般客を入れて警備やら諸々の確認も兼ねたイベントなのでしょう。12月の寒空に18:30から約3時間の長丁場(!)。和太鼓、東北各県の祭り、三浦カズのドリブル披露、元ラグビー日本代表の登場と続き「ドリカム」のミニライブ(演奏)そして「嵐」(カラオケと歌はマイム?)での登場(!)。残念ながらあまりの寒さに力尽き途中でリタイヤしました。イベントはウサイン・ボルトの登場へと続いたようですが盛りだくさんの企画の割には多くの観客は「嵐」目当のようでした。大声でしゃべるだけのMC松岡某のうるさい事や嵐のメンバーの名前を間違える大ボケ女子アナの平井なんたらには苛立ちがつのり、あげくの地元町内会のパレードにいたってはなんじゃそれです。それもこれも寒さのせいです(笑)。それにしても例によっての「スポンサー&関係者席」のガラガラ状態はひどいもんですなぁ。
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マスコミ報道では素晴しい施設の報道ばかりですが、実際に見みると『見てくれはカッコ良いのだが、実は安っぽい』あのお方の特徴がよく表れています。蕎麦屋のセイロが干してあるような外壁、建材むき出しの天井は工事途中のようで座席から見上げると”篭の鳥”といった感じです(苦笑)。座席にしても平均的日本人男性(170㎝超)がリラックスして座れない狭さ(!)。「正しい姿勢を保って競技を見る」は苦痛でしかないでしょう。犠牲にしてまで収容人数(座席数)にこだわる必要はあるのでしょうか?。競技場は施設にすぎず建築物ではありません。”板切れを多用して和風のテイスト”やらコンセプトやら●●をイメージやらの聞こえが良い言葉を並べてもすぐに施設のお粗末さは露呈するでしょう。気になる音響は…。屋根が抜けているので東京ドームほどの音の廻りは無いようです。高音域がやや痩せてしまう位でしょうか?ここをフルにできるイベントやバンドっていますかねぇ?
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日本オリンピック・ミュージアム

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2019年9月14日に新宿区霞ヶ丘町、日本青年館の隣に日本オリンピック委員会(JOC)による「日本オリンピックミュージアム」がオープンしました。メトロ銀座線「外苑前駅」からは徒歩で約7分、大江戸線「国立競技場駅」またはJR「信濃町駅」からは徒歩約12分くらいでしょう。入場料は大人/一般500円(65歳以上400円)、高校生以下無料(65歳以上&高校生以下は要証明書)となっています。到着してみるとガラス張りの建物で芝生の庭には五輪のマークや長野・札幌・前東京の聖火台(レプリカ)が展示してあります。外部から見ると期待できそうな施設なのですが…。
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館内に入ると1階が無料展示スペースで2階が有料スペースです。入館料を支払い2階へ上がると嫌な予感がしてきます。ゆっくりと見ても30分程度でしょうか?バーチャルによるアスリート体験は現代的で面白いのですが、メダルや全東京の雑貨を並べての展示は軽いですね。てっきり秩父宮や駒沢や文科省の資料が統合されたと思っていたのですがおおハズレです。いかにも電●の仕事感が漂っています(苦笑)。注)2階の展示室にはトイレがありませんので注意です。
お隣は新国立競技場です。蕎麦屋のセイロをズラリと天日干ししている様は、”和風”そのものなんでしょう(大笑)
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新宿区・聖徳記念絵画館

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新宿区霞ヶ丘町の「聖徳記念絵画館」、大正15年竣工の”絵画館”と表現される建物です。明治45年に糖尿病の悪化による尿毒症で61歳で崩御された明治天皇と皇后の生涯を描いた日本画40点、洋画40点の当時の名匠の作品が展示されています。勝・西郷の江戸城無血開城の絵など有名どころもあり見どころも満載です。当時の皇国史観による作品ですから突っ込み処もあるのですが、これはこれで有りです。聖徳記念絵画館を含む明治神宮外苑は、明治天皇の大喪が行われた青山練兵場の跡地で明治神宮と同様に全国からの寄付と勤労奉仕により完成したものです。
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この建物は横:約112m、幅:約34m、高:約32mで、ドーム部分中心に左右対称形になっています。外観は花崗岩が張付りですが、大理石を多用した内部意匠は当時の西洋の最新技術とデザインとなっています。この石材によるデザイン構成も大したもので充分に見ごたえがあります。この記念館は日本国の近代化の象徴であり伝統文化の継承者である明治天皇の2面性を象徴しているともいわれているようです。神宮外苑といえばの有名な銀杏並木は記念館へと続く並木道です。玄関からの眺望は、外苑がいかに広大な敷地を有していたかが偲ばれます。
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面影橋から…(1)

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荒川区・箕輪から早稲田までの都電荒川線(東京さくらトラム)の終点、早稲田の1つ手前の駅「面影橋」は路線屈指の「響きの良い」駅名で、桜の季節には神田川沿いの桜並木には花見客で賑わいます。「面影橋」の地名はフォークソングやら演歌やらのタイトルにもなっていますが、あの昭和の名曲「神田川」は作詞者の喜多条は早稲田大学のOBのこともあり(中野には神田川の歌碑もあるようですが)歌の世界観はこの付近のような気がしてなりません。
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「面影橋由来」によると、昔、目白台から続く鎌倉街道と推定される古道の街道沿いに姿見の橋との橋があり、歌人の在原業平によるとの説や将軍家光が名付けたとの説や果ては意味不明の俗説もあるようです。姿見の橋と面影(俤)橋は別の橋であるとの説なんてのもあり、つまりは”わからん”ということなんです。
新目白通りから1つ入ると天照大神を祀る天祖神社があります。天保2年(1645)元豊臣家の家臣小泉源兵衛による創建されています。鳥居脇には”犬猫との立入禁止”の看板があり、犬を伴っての散歩はあるでしょうが猫を伴ってはありますかねぇ(苦笑)。猫に向かって”あなた入ってはいけません”は有効でしょうか?なんとも微笑ましい看板です(笑)。
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新宿区・早稲田大学

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実際のところ早稲田大学とは縁も所縁もないのですが、たまたま通りかかったら入学式が行われており、ごく軽い気持ちで学内をウロウロして来ました(苦笑)。Pt↑)は有名な「大隈講堂」です。正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」で「早稲田大学21号館」とも表記されるようです。昭和2年(1927)の建物でイギリス建築の影響を受けたチューダー・ゴシック様式とロマネスク様式の折衷で重要文化財指定とありますが、まぁそんなもんなんでしょう(笑)。
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ガウン姿の立像は創始者の「大隈重信像」で、大学創立50周年&大隈没後10回忌を兼ねて昭和7年(1932)に造られています。佐賀藩士として生まれた幼名八太郎は新約聖書やアメリカ独立宣言の強い影響を受け、明治政府では日本憲政の重鎮として活躍されていますが、薩摩の大久保、長州の伊藤博文・井上馨らとのあたかも殺し合いのような権力争いを繰り返していました。その割には意外と長生きで享年85歳で胆石症で亡くなっています。
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当時の早稲田大学高等英語学校出身(中退)の「杉原千畝」。リトアニアのカウナス領事館に第二次世界大戦中に大使として赴任、ナチスの迫害を受けた難民に日本国外務省の訓令に従わず6000人にのぼる大量のビザを発給したお話はごく近年になって注目されてきました。氏の功績と没後25周年を記念してレリーフが平成12年に造られたものです。
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学内でも一種独特の雰囲気の建物が「早稲田大学坪内逍遥博士施年演劇博物館」です。シェークピア関連の蔵書や演劇関係の写真・衣装・文献なのが収蔵されているのですが、残念ながら現在は改装工事中です。Ptでみると極力映り込みを避けていますが、入学式と各サークルの新入部員勧誘で校内は歩くのもままならない程の混雑と騒音でした。

花園神社・唐獅子

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Ptは1960年代に高倉健さん主演の「昭和残侠伝シリーズ」の主題歌「唐獅子牡丹」  ♪義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界♪ で背中で吠えたり、泣いたり、呼んだりしている獅子です。唐獅子とは中国伝承の神獣で、ライオンを元にライオンのいないアジアで形象化された神獣となったものです。強く無敵の唐獅子でも体内に巣くう虫(寄生虫)が弱点とされ、これが【獅子身中の虫】です。さらに身中の虫は牡丹の花の露が弱点とされ『牡丹の花園は獅子が安心し眠れる場所』と云われ襖絵などに見られる【唐獅子牡丹の図】はこれを表現しているという事なのでしょう。
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新宿区の花園神社の旧参道には、実は珍しい『唐獅子』の阿吽像があります。本来は中国伝承の唐獅子と朝鮮経由で渡来した狛犬(高麗犬)は別ものだったのが、例によって日本ではいつの間にやら区別が曖昧になったようです。この唐獅子の。案内板には文政4年に内藤新宿の氏子により奉納された雌雄一対の唐獅子像とあり唐獅子像には間違いないようです。唐獅子と狛犬の造作差異は多々あるのですが結構曖昧になっています。ただこの像には特徴的は唐草(?)模様があります。現在の花園神社一の鳥居の一対の狛犬像と比べても随分と姿が違っています。
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異形の狛犬と鎧神社

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新宿区北新宿の『鎧/よろい神社』です。北新宿の住所に惑わさるものの鎮座地はJR大久保駅と東中野駅の中間あたりです。昔々は農道だったのでしょうか細く曲がりくねった道ばかりでGPSがないと辿り着くのも往生します。神社は住宅密集地に忽然と鎮座しており、空気感すら異なっている感があります。祀神は日本武命・大己貴命(大国主)・小彦名命の3柱と平将門となっています。社歴では醍醐天皇の世、円照寺(真言宗豊山派)が創建、寺の鬼門封じの為の鎧大明神が造られたとあります。日本武命の東征の時に、この地に甲冑武具を埋めたとの伝承があり、さらに天歴年間には平将門の鎧を埋めたとの伝承もあります。
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崇徳上皇・菅原道真・平将門は日本三大怨霊といわれ、朝廷に対し反乱を起こした平将門は鎮圧されて京都で晒された後、バラバラになりながらも関東へ飛んできたとの伝承があり、関東には将門の首やらが落ちた「大手町の首塚」、靖国神社近くの「筑土神社」。浅草の「日輪寺」など将門伝承の寺社が数多く存在します。『鎧神社』にも将門の「鎧」を埋めたとの伝承があります。将門伝承も興味深いのですが、Pt↓)の摂社「天神社」にある狛犬が不思議な姿をしています。新宿区指定有形民俗文化財の案内板には「狛犬型庚申塔」との解説があるのですが、見ようによっては「猿」に見えます。タイトルは忘れましたが「宗像教授史」作品では「猿」と想定して話が展開していました。
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新宿・天龍寺・・(2)

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JR新宿駅から7分ほど新宿4丁目交差点付近に曹洞宗・天龍寺があります。天龍寺の前身は徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母”於愛の方”の実家の菩提寺遠江国の法泉寺とされ、家康の江戸入府に際し遠江国より移され天竜川に因んで「天龍寺」と改めています。当初は牛込でしたが天和の大火(八百屋お七火事)により焼失してしまい、天和3年(1683)に現在地に移転となっています。とはいえここは四谷大木戸の外、内藤新宿の外ということでかなり辺鄙な地だったのでしょう。山門の造作はかなり立派で葵の御紋の設えなどに徳川家との関わりが見られます。
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境内には5代将軍綱吉の側用人牧野成貞により寄進された「時の鐘」があります。現在の梵鐘は3代目ですが、上野寛永寺、市ヶ谷八幡と天龍寺の鐘が「江戸三大名鐘」とも呼ばれたそうです。内藤新宿に時を知らせる役目ながら江戸城からはかなり遠い場所にあることから木戸の門限遅参等の事件を避けるため、定時よりやや早く鐘が鳴らされていたようです。新宿・天龍寺・・(1)にあるように明治年間には天龍寺裏手にスラム街が形成されるようになり昭和40年代までは雰囲気が残っていたようです。
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