旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

新宿区

新宿区・筑土八幡神社

210215_01
新宿区筑土八幡町の『筑土八幡町』です。神楽坂の毘沙門さん(善国寺)から遠くはなく、静かな佇まいです。千代田区九段北の平将門所縁の「筑土神社」と紛らわしいのですが、江戸城の田安門付近にあった「田安明神」が徳川幕府により筑土八幡神社隣に移転し「筑土明神」となり、その後300年の時を経て九段北に戻り「筑土神社」となったという歴史があります。神社入口の左には社号があり、右には「田村虎蔵」の顕彰碑があります。この方は鳥取県出身の童謡の作曲家で誰もが知る「金太郎」や「浦島太郎」の作曲家です。
・・・・・・・・・・・・・・
210215_03
ご祭神は応神天皇、神功皇后、中哀天皇で嵯峨天皇の時代(809年ごろ?)、付近の老人の夢に現われた八幡神のお告で祀ったのが起源とされ、その後は慈覚大師により祠が建立され最澄の作らしき阿弥陀如来像を安置したとされます。神社由来ですから追及はヤメておきましょう。
・・・・・・・・・・
210215_04
本殿に向かって右側に珍しい形式の「庚申塔」が残っています。寛文4年(1664)の作とされますが、太陽と月、桃の木に二匹の猿が彫られた庚申塔で、猿が三匹でなく牡猿、牝猿の二匹が桃の枝を持った姿になっていて、庚申に纏わる話が表現されています。猿の顔面が削られているのがやや残念です。新宿区の有形民俗文化財だそうです。
・・・・・・・・・・・・・・
210215_05
神楽坂、筑土八幡町、牛込柳町と新宿区らしくない町名です。この近辺は起伏変化の多い場所で、神社は”小高い丘の上から見晴らす”といった神社ならでは鎮座地にあります。石段途中の石鳥居は享保11年(1726)に当時の下館藩から寄進された鳥居で、新宿区最古の鳥居なんだそうです。正直…ですが(苦笑)。神社すぐ隣でビルの建設工事が始まっていました。この景色が見られるのはいつまでなのでしょうか。

神楽坂・恙無きや…(2)

210214_01
【恙無きや=つつがなきやとは読めませんよねぇ】PtのTaxiがいるあたりから坂道は外堀通りへと下っていきます。下りきって登ると江戸城の牛込御門。江戸時代この坂道は階段状でした。江戸城へ向かう穴八幡からの祭礼の山車が休息して、神楽を奉納した事から「神楽坂」の謂れがあったと思います。少し前まではこの通りには「陶器屋」が多くそれも花街に由来するのかと思ったものです。大学がある関係なのか昼食の料飲店が目立つようになりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・
210214_02
毘沙門さんへ向かう坂道の途中、ダンス・シューズの店を曲がると昔の芸子見番の隣が「伏見火防稲荷神社」です。この路地道が「見番横丁」とは後付けのような気がしないでもないのですが(笑)。古くからの商店が老朽化などで消えて行っても、変らずに残るのは寺社仏閣やこの様な街の小規模な神社なのでしょう。
・・・・・・・・・・
210214_03
この先が江戸時代に旗本の本多家があった事から「本多横丁」です。旗本=一万石以下身分なので、大した家柄ではありません。この角には以前「五十番」という中華屋さんがあって名物の肉まんが大層うまかったのですが、移転されたようです。横丁を進むと某ビートルお気に入りにの鰻屋等があり、坂道を下ると「筑土八幡神社」方面です。
・・・・・・・・・・・・・
210214_04
時が過ぎても変わらないのが山之手七福神の「毘沙門天」を祀る善国寺、神楽坂を象徴するようなお寺です。珍しいのは神使の「虎」の阿吽像でどう見ても「熊」のような珍しい虎像です。見逃しがちですが、右の虎像の台座に刻まれた「不」のような印は明治年間に測量を実施した時の目印「几号水準点」です。
・・・・・・・・・・
210214_05
毘沙門さんの前の極狭い路地を抜けて行くと、これも神楽坂の象徴の旅館「和可菜」です。狭い路地・石畳の道・緩やかな石段はこれぞ「神楽坂」です。付近に出版社があり締切り間際の作家が「缶詰」となる「和可菜」は有名でした。玄関は映画「日本の一番長い日」の首相宅として登場、傷んだ板黒塀もキレイになっていて改築が始まったようです。嫌な予感がするのは担当が「赤城神社」や「神楽坂ラカク」や「某競技場」を手掛けた建築事務所ということは…。あ~ぁです。

神楽坂・恙無きや…(1)

210213_02
【恙無きや=つつがなきや=変わりありませんか?】
数年前の事です、街歩き企画で『神楽坂散策』が大当たり、週に一回ペースで飯田橋前に集合したものです。数年振りにやって来たJR飯田橋駅舎の変貌ぶりには驚きました。以前は何処となくショボさ溢れる駅舎だったのが商業施設と見間違えるくらいに立派になっています。完成が2020年7月という事は久しぶりどころの話ではありませんが…。
・・・・・・・・・・・
210213_06
以前の飯田橋駅西口は改札からホームまで50m以上歩きかつホームが弧を描いて造られいて場所によっては電車とホームが50㎝以上離れ、危険な感じがしました。今回の工事では駅舎の改築ばかりでなく総武線ホームの位置も変わっています。元々この駅は旧甲武鉄道の牛込駅と飯田町駅を統合して開業しており、今回の工事で新宿方面に約200m伸ばした事で、Pt↑)でのホーム先端が旧牛込駅になるようです
・・・・・・・・・・・・・・・
210213_03
飯田橋駅は変貌してもお堀を跨ぐ牛込橋も牛込御門跡も変わった様子は見られません。歩道の先の坂道からが「神楽坂」です。この坂道は午前中が下り一方、午後が上り一方通行となっており、某政治家の事実無根の都市伝説の元ともなりました。神楽坂はや大正時代に賑わった花街、少しばかり以前にはその名残りが残っていました。
・・・・・・・・・・・・
210213_04
外堀通りに面して青いテントが目に入ります。元祖大食いの聖地「神楽坂飯店」です。お店の挑戦メニューは有名でPt↓)では判りにくいでしょうが、餃子の山積みがの百個餃子で、隣の枕みたいなやつが巨大な餃子です。各¥9600で1時間以内に完食で無料とありますが…。さらに一升チャーハンは¥5840。これにくらべたら3杯分量のジャンボ・ラーメンなら何とかなるような気がします。無理はせずともこの店は何を食べても旨いです。
210213_05


"くまっちゃう”国立競技場

200119_01
国政の中枢「国会議事堂」は昭和11年の完成です。この時代の日本人の平均身長は男が157㎝、女が147㎝だったので今の本会議場傍聴席はやたら狭く感じます。中央区の「歌舞伎座」の昭和26年完成の第四期時代では、同平均身長(17歳)は男163.4㎝、女153.2cmと伸び、平成26年には20歳の男が172.2㎝、女が157.9㎝と推移しています。そうなってくると令和の国立競技場の座席はなんでここまで狭いのでしょう(!)。pt↑)は国立競技場の1階席です。右上の女性(?)は正しい姿勢(笑)で荷物を足元に置いて座っています。前の席には白いコートの女性が座っています。よく見ると右隅に靴先が写っています。男性が普通に座ると足先はここです。座り心地は最低&最悪。とてもリラックスして競技を観戦なんてのは無理な話です。が、見比べるとなんと新競技場の座席には背もたれとドリンクホルダーがあるではないですか!。これは立派な進歩だと云えます(笑)。
200119_02
このイス列は横に20席近く並び、センターに座ったらトイレ(確かウォシュレットはありません)に行くのは難行です。平均的日本人にも狭く外国人には拷問的に狭いです。JOCや●成●設やお偉い方々は実際に座ったんでしょうかねぇ?。競技場には3階席まであり収容力は増えています。3階席はスキージャンプ台なみの急傾斜となっていて高齢者や遠近両用レンズ使用者には危険極まりません。なにがなんでも約7万人収容にしたかったのでしょうが、オリンピック以降にここを満席にできるイベントがあるとは思えません。3階席はいりますかねぇ(笑)。
200119_03
「杜のスタジアム」がコンセプトとやらで、他にもやらなんやら”耳障りの良い言葉が並びます。法隆寺の五重塔から着想した庇やらは”意味不明”です。これらのお題目とやらは観客席に座ってみれば一言「ふざけるな!」です。「蕎麦屋のセイロの天日干し」や割りばしが並んでいるような姿のどこが”和風”なんでしょうねぇ?マスコミやTVメディアや建築屋の卵には評価あるようですが「姿と形は良いのだが安っぽい」感しかありません。それにしても「和風だっ!和風だっ!」の木材消費では「森林破壊、環境破壊の競技場」と呼ばれかねませんが…。
200119_04

四谷・於岩稲荷の怪

150830_01
新宿区左門町、四谷警察の裏に「四谷怪談」で有名な於岩さん縁の稲荷社が道路を挟んで10数mの位置に「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」の2社の於岩稲荷が並んでいます。両者の縁起をみると”本家”と”元祖”の様な関係ではないようです。「四谷怪談(東海道四谷怪談)」は、実在の於岩さんの没後200年ほど後に『4代目鶴屋南北』により創作されたお話です。タイトルの「東海道四谷怪談」の”東海道”は四谷の田宮家とは関係ないことを現したつもりなのですが、年月を経てグチャグチャになってしまいました。
150830_03
「於岩稲荷田宮神社」は元禄時代の田宮家の敷地にあったようです。於岩さんと婿養子の田宮伊右衛門は仲のよい夫婦であったそうですが本人没後の200年を経て「東海道四谷怪談」でとんでもない姿となるとは…。本人が知ったら激怒するでしょう。 四ツ谷に於岩さん縁の稲荷社が2社でもややこしいのですが、中央区新川にも「於岩稲荷田宮神社」があります。こちらは『東海道四谷怪談』を上演のたびにお参りに出向いていた歌舞伎役者達が明治12年の四ッ谷の火事でお岩稲荷が焼失したのを機に移転させています。つまり正当なる於岩稲荷は中央区新川という事です。四ッ谷の於岩稲荷田宮神社は田宮家旧地の昭和27年に復活したものです。実在の於岩さんの墓所は都電『新庚申塚駅』を近くの「妙行寺/みょうぎょうじ」にあります。墓所の案内板には『異説』とも思われる記載があり、話はますますと”怪談”じみてきます。
150830_02150830_05150830_04

日本オリンピック・ミュージアム

191011_01
2019年9月14日に新宿区霞ヶ丘町、日本青年館の隣に日本オリンピック委員会(JOC)による「日本オリンピックミュージアム」がオープンしました。メトロ銀座線「外苑前駅」からは徒歩で約7分、大江戸線「国立競技場駅」またはJR「信濃町駅」からは徒歩約12分くらいでしょう。入場料は大人/一般500円(65歳以上400円)、高校生以下無料(65歳以上&高校生以下は要証明書)となっています。到着してみるとガラス張りの建物で芝生の庭には五輪のマークや長野・札幌・前東京の聖火台(レプリカ)が展示してあります。外部から見ると期待できそうな施設なのですが…。
191011_05
館内に入ると1階が無料展示スペースで2階が有料スペースです。入館料を支払い2階へ上がると嫌な予感がしてきます。ゆっくりと見ても30分程度でしょうか?バーチャルによるアスリート体験は現代的で面白いのですが、メダルや全東京の雑貨を並べての展示は軽いですね。てっきり秩父宮や駒沢や文科省の資料が統合されたと思っていたのですがおおハズレです。いかにも電●の仕事感が漂っています(苦笑)。注)2階の展示室にはトイレがありませんので注意です。
お隣は新国立競技場です。蕎麦屋のセイロをズラリと天日干ししている様は、”和風”そのものなんでしょう(大笑)
191011_02191011_03191011_04

新宿区・聖徳記念絵画館

190514_01
新宿区霞ヶ丘町の「聖徳記念絵画館」、大正15年竣工の”絵画館”と表現される建物です。明治45年に糖尿病の悪化による尿毒症で61歳で崩御された明治天皇と皇后の生涯を描いた日本画40点、洋画40点の当時の名匠の作品が展示されています。勝・西郷の江戸城無血開城の絵など有名どころもあり見どころも満載です。当時の皇国史観による作品ですから突っ込み処もあるのですが、これはこれで有りです。聖徳記念絵画館を含む明治神宮外苑は、明治天皇の大喪が行われた青山練兵場の跡地で明治神宮と同様に全国からの寄付と勤労奉仕により完成したものです。
190514_02
この建物は横:約112m、幅:約34m、高:約32mで、ドーム部分中心に左右対称形になっています。外観は花崗岩が張付りですが、大理石を多用した内部意匠は当時の西洋の最新技術とデザインとなっています。この石材によるデザイン構成も大したもので充分に見ごたえがあります。この記念館は日本国の近代化の象徴であり伝統文化の継承者である明治天皇の2面性を象徴しているともいわれているようです。神宮外苑といえばの有名な銀杏並木は記念館へと続く並木道です。玄関からの眺望は、外苑がいかに広大な敷地を有していたかが偲ばれます。
190514_03190514_04190514_05

面影橋から…(1)

190407_01
荒川区・箕輪から早稲田までの都電荒川線(東京さくらトラム)の終点、早稲田の1つ手前の駅「面影橋」は路線屈指の「響きの良い」駅名で、桜の季節には神田川沿いの桜並木には花見客で賑わいます。「面影橋」の地名はフォークソングやら演歌やらのタイトルにもなっていますが、あの昭和の名曲「神田川」は作詞者の喜多条は早稲田大学のOBのこともあり(中野には神田川の歌碑もあるようですが)歌の世界観はこの付近のような気がしてなりません。
190407_02
「面影橋由来」によると、昔、目白台から続く鎌倉街道と推定される古道の街道沿いに姿見の橋との橋があり、歌人の在原業平によるとの説や将軍家光が名付けたとの説や果ては意味不明の俗説もあるようです。姿見の橋と面影(俤)橋は別の橋であるとの説なんてのもあり、つまりは”わからん”ということなんです。
新目白通りから1つ入ると天照大神を祀る天祖神社があります。天保2年(1645)元豊臣家の家臣小泉源兵衛による創建されています。鳥居脇には”犬猫との立入禁止”の看板があり、犬を伴っての散歩はあるでしょうが猫を伴ってはありますかねぇ(苦笑)。猫に向かって”あなた入ってはいけません”は有効でしょうか?なんとも微笑ましい看板です(笑)。
190407_03190407_04190407_05

新宿区・早稲田大学

190402_01
実際のところ早稲田大学とは縁も所縁もないのですが、たまたま通りかかったら入学式が行われており、ごく軽い気持ちで学内をウロウロして来ました(苦笑)。Pt↑)は有名な「大隈講堂」です。正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」で「早稲田大学21号館」とも表記されるようです。昭和2年(1927)の建物でイギリス建築の影響を受けたチューダー・ゴシック様式とロマネスク様式の折衷で重要文化財指定とありますが、まぁそんなもんなんでしょう(笑)。
190402_02
ガウン姿の立像は創始者の「大隈重信像」で、大学創立50周年&大隈没後10回忌を兼ねて昭和7年(1932)に造られています。佐賀藩士として生まれた幼名八太郎は新約聖書やアメリカ独立宣言の強い影響を受け、明治政府では日本憲政の重鎮として活躍されていますが、薩摩の大久保、長州の伊藤博文・井上馨らとのあたかも殺し合いのような権力争いを繰り返していました。その割には意外と長生きで享年85歳で胆石症で亡くなっています。
190402_03
当時の早稲田大学高等英語学校出身(中退)の「杉原千畝」。リトアニアのカウナス領事館に第二次世界大戦中に大使として赴任、ナチスの迫害を受けた難民に日本国外務省の訓令に従わず6000人にのぼる大量のビザを発給したお話はごく近年になって注目されてきました。氏の功績と没後25周年を記念してレリーフが平成12年に造られたものです。
190402_04
学内でも一種独特の雰囲気の建物が「早稲田大学坪内逍遥博士施年演劇博物館」です。シェークピア関連の蔵書や演劇関係の写真・衣装・文献なのが収蔵されているのですが、残念ながら現在は改装工事中です。Ptでみると極力映り込みを避けていますが、入学式と各サークルの新入部員勧誘で校内は歩くのもままならない程の混雑と騒音でした。

花園神社・唐獅子

190119_01
Ptは1960年代に高倉健さん主演の「昭和残侠伝シリーズ」の主題歌「唐獅子牡丹」  ♪義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界♪ で背中で吠えたり、泣いたり、呼んだりしている獅子です。唐獅子とは中国伝承の神獣で、ライオンを元にライオンのいないアジアで形象化された神獣となったものです。強く無敵の唐獅子でも体内に巣くう虫(寄生虫)が弱点とされ、これが【獅子身中の虫】です。さらに身中の虫は牡丹の花の露が弱点とされ『牡丹の花園は獅子が安心し眠れる場所』と云われ襖絵などに見られる【唐獅子牡丹の図】はこれを表現しているという事なのでしょう。
190119_02
新宿区の花園神社の旧参道には、実は珍しい『唐獅子』の阿吽像があります。本来は中国伝承の唐獅子と朝鮮経由で渡来した狛犬(高麗犬)は別ものだったのが、例によって日本ではいつの間にやら区別が曖昧になったようです。この唐獅子の。案内板には文政4年に内藤新宿の氏子により奉納された雌雄一対の唐獅子像とあり唐獅子像には間違いないようです。唐獅子と狛犬の造作差異は多々あるのですが結構曖昧になっています。ただこの像には特徴的は唐草(?)模様があります。現在の花園神社一の鳥居の一対の狛犬像と比べても随分と姿が違っています。
190119_03190119_04190119_05

異形の狛犬と鎧神社

181113_01
新宿区北新宿の『鎧/よろい神社』です。北新宿の住所に惑わさるものの鎮座地はJR大久保駅と東中野駅の中間あたりです。昔々は農道だったのでしょうか細く曲がりくねった道ばかりでGPSがないと辿り着くのも往生します。神社は住宅密集地に忽然と鎮座しており、空気感すら異なっている感があります。祀神は日本武命・大己貴命(大国主)・小彦名命の3柱と平将門となっています。社歴では醍醐天皇の世、円照寺(真言宗豊山派)が創建、寺の鬼門封じの為の鎧大明神が造られたとあります。日本武命の東征の時に、この地に甲冑武具を埋めたとの伝承があり、さらに天歴年間には平将門の鎧を埋めたとの伝承もあります。
181113_02
崇徳上皇・菅原道真・平将門は日本三大怨霊といわれ、朝廷に対し反乱を起こした平将門は鎮圧されて京都で晒された後、バラバラになりながらも関東へ飛んできたとの伝承があり、関東には将門の首やらが落ちた「大手町の首塚」、靖国神社近くの「筑土神社」。浅草の「日輪寺」など将門伝承の寺社が数多く存在します。『鎧神社』にも将門の「鎧」を埋めたとの伝承があります。将門伝承も興味深いのですが、Pt↓)の摂社「天神社」にある狛犬が不思議な姿をしています。新宿区指定有形民俗文化財の案内板には「狛犬型庚申塔」との解説があるのですが、見ようによっては「猿」に見えます。タイトルは忘れましたが「宗像教授史」作品では「猿」と想定して話が展開していました。
181113_03181113_04181113_05

新宿・天龍寺・・(2)

180115_01
JR新宿駅から7分ほど新宿4丁目交差点付近に曹洞宗・天龍寺があります。天龍寺の前身は徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母”於愛の方”の実家の菩提寺遠江国の法泉寺とされ、家康の江戸入府に際し遠江国より移され天竜川に因んで「天龍寺」と改めています。当初は牛込でしたが天和の大火(八百屋お七火事)により焼失してしまい、天和3年(1683)に現在地に移転となっています。とはいえここは四谷大木戸の外、内藤新宿の外ということでかなり辺鄙な地だったのでしょう。山門の造作はかなり立派で葵の御紋の設えなどに徳川家との関わりが見られます。
180115_02
境内には5代将軍綱吉の側用人牧野成貞により寄進された「時の鐘」があります。現在の梵鐘は3代目ですが、上野寛永寺、市ヶ谷八幡と天龍寺の鐘が「江戸三大名鐘」とも呼ばれたそうです。内藤新宿に時を知らせる役目ながら江戸城からはかなり遠い場所にあることから木戸の門限遅参等の事件を避けるため、定時よりやや早く鐘が鳴らされていたようです。新宿・天龍寺・・(1)にあるように明治年間には天龍寺裏手にスラム街が形成されるようになり昭和40年代までは雰囲気が残っていたようです。
180115_03180115_041801115_05

新宿・天龍寺・・(1)

180114_01
明治20年(1887)に明治政府は『屋営業取締規則』を施行、現新宿4丁目の護本山天龍寺(曹洞宗)付近が「木賃宿営業許可地域」に指定されます。木賃宿とは湯治場のように客は食材等を持込み燃料代金(木賃)を払って料理の提供を受けるシステムの旅館の事でしたが、明治以後は粗末な安宿を意味するようになりました。政府はこの法律により芝新網町、上野万年町、四谷鮫ヶ橋にあった最下層の貧民街を帝都中心部から郊外地へ追い立てる施策を行います。=帝都の中心に存在した貧民街は住民を立ち退かせる事で無かったものとしてしまいます=こうして天龍寺の門前のこの辺りに日雇い労働者、旅芸人、街娼や男娼、その家族達が集まり次第にスラム街が形成されていきます。Pt↑)のDocomoタワーに向かって右側が天龍寺の敷地で左側がうっすらと木賃宿街の感を残すビジネスホテル街です。再開発が進む新宿4丁目にもこんな歴史があったとは・・。Ptにある街並みは元雷電稲荷神社に隣接しています。こうした時の流れから恐らくは天龍寺の境内社として賑わった稲荷社が街がスラム化していくうちに衰え花園神社に合祀せざるを得なかったのかも知れません。「元雷電稲荷神社」は昭和58年に旭町・安藤某氏により旧地に再建とありました。地元の方にはこの地が「雷電さま」なのかもしれません。
180114_03180114_04180114_02

新宿・花園神社・・(2)

180108_06
花園神社から距離にして500mほどの新宿2丁目16番にPt↑)の花園神社に合祀された「雷電稲荷神社」が残っています。「受持神」を祀神とする雷電稲荷は昭和3年に花園神社に合祀されているのですが、いつのまにやら合祀前跡地に神社が再建されていたという不思議と云えば不思議な神社です。神社の由緒によると源義家が奥州征伐に行く途中、ゲリラ雷雨に遭遇、雨宿りをしていると1匹の白狐が現れ、義家の前で3回頭を下げたところ雷雨が止んだのというお話により雷電稲荷神社が創られたという伝承があるようです。何故か豪徳寺の招き猫伝承と酷似しています。『白狐が出てきて頭を下げたら雷雨が止んだ』→登場したのが白狐だったので稲荷大明神を祀ったんですかねぇ(苦笑)。合祀先の花園神社にしても、尾張様の屋敷内稲荷社として創建→後に別当寺を三光院が務めたことから三光稲荷→花畑に因んで花園稲荷→明治の神仏分離により三光院と別れ→大正5年に花園稲荷社→昭和3年に雷電稲荷神社を合祀→昭和40年に大鳥神社を合祀→花園神社と改称。なんとまぁ忙しい社歴です。
180108_07180108_08180108_09

新宿・花園神社・・(1)

180108_01
この地が「内藤新宿」と呼ばれた江戸時代から新宿総鎮守として知られる「花園神社」です。創建由緒は不明とあり、元々はやや南の現伊勢丹付近にあったようです。その後尾張藩下屋敷(現在地)に移り、花が咲き乱れる花園があった事から「花園(稲荷)神社」となったようです。ご祀神は倉稲魂命の花園神社、日本武尊の大鳥神社、受持神の雷電神社の三柱となっています。新宿という土地柄もあるのでしょうが、神社には妙な点が多々あります。下のPtに靖國通りに面しての鳥居がありますが元々はこちらが正参道だったようで、朱の鳥居は本殿を建て替えた際に付け替えています。本殿が一の鳥居に正対していない理由はこれのようです。(Pt↓3)の碑には「雷電稲荷神社」とあり雷電稲荷がここにあったようです。ご祀神に伏見系稲荷社の倉稲魂命と伊勢系稲荷社の受持神の二柱が合祀されていますが雷電神社は稲荷を表していません。表現が微妙ですが、珍しい事例の神社史があるようです。
180108_02180108_03180108_04

都の西北・水稲荷神社

171128_01
新宿区西早稲田の「水稲荷神社」です。参道から本殿、本殿裏の摂社や富士塚などいかにも古社の風格がありますが、昭和38年(1963)に早稲田大学との土地交換により引っ越してきた神社です。元は早稲田大学の構内にあり「冨塚稲荷」と呼ばれていたのが、神域に元禄15年に霊水が湧き出したことで『水稲荷神社』と改名、眼病や水商売、消防の神様として有名だったようです。この地へ鎮座してからそれほどの年月ではないのですが、雰囲気は古社ならではの重厚感が漂っています。
171128_02
社殿左側に見事な飛翔型のきつね像があります。「耳欠け狐 身体の痛い所を神狐と交互に撫でると痛みがやわらぐといわれます」と案内板があります。さらに社殿裏には「戸塚の町名の起源となった富塚古墳」があるのですが、驚くことにはこちらも神同様引っ越してきたようです。
171128_03
現 水稲荷社の敷地は、徳川御三卿・清水家の下屋敷で、区立公園の『甘泉園公園』の敷地の一部のようです。現在でも大名屋敷の面影を残しているとのふれこみなのですが、区立公園の限界なのでしょうか、手入れの悪い荒れ果てた感じがあります。
171128_04171128_05171128_06

高田馬場と高田馬場駅

171127_01
端的に言ってしまうと元禄5年(1692)に中山(堀部)安兵衛らの「高田馬場の決闘」があってのは、当時の江戸郊外の戸塚村・高田馬場で現 新宿区西早稲田の「穴八幡宮」の裏手辺りです。「高田馬場」は寛永年間位に造られて旗本の馬術の練習場でした。「高田馬場駅」は新宿区高田馬場1丁目で明治43年(1910)に山手線の駅として開業し、旧跡「高田馬場跡」とは徒歩約10分離れています。駅名の決定には=本来は”たかだ”ではなく”たかた”=「高田馬場の決闘」に由来するようです。この決闘で名を挙げ中山安兵衛は堀部家に婿入り、で忠臣蔵仇討に続くのですから奇なものです。Pt↑)は西早稲田の交差点「八幡寿司」にある高田馬場の案内板です。この交差点近くの水稲荷参道には「堀部安兵衛の碑」がありました。
171127_02

新宿区・穴八幡宮

171126_01
東京都新宿区、早稲田大学近くの穴八幡宮(あなはちまんぐう)です。ご祀神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后となります。平成の修復では鳥居や随身門はきれいに直されています。本殿の黒い造りは神社の”色”としては珍しいようです。元は「高田八幡宮」とよばれ、蟲封じ・商売盛・出世・開運にご利益があるとされています。平安時代後期の1062年ごろ【八幡太郎義家】が奥州から凱旋の途中、この地に八幡様を祀ったのが始まりとされていますが、それにしても東京には八幡太郎義家⇒奥州征伐⇒八幡社勧請の多い事(!)。神社ばかり勧請してその合間に戦をしていたような感があります。江戸時代には3代将軍家光は穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とし、8代将軍吉宗は世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬奉納するなど幕府との結びつきが多くなり、江戸の庶民からも”蟲封じの祈祷”として信仰を集め、1879年のは後の大正天皇もの蟲封じの祈祷を行っています。人気スポットの「神楽坂」の名称の由来は(他にもああだ、こうだと色々ありますが)神楽坂に穴八幡(旧称高田八幡)の休所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奉納したから伝承もあるようです。
171126_04171126_03171126_02

微妙な感触・成子天神社

171119_01
その昔、京都での政権争いに敗れて左遷されたのは「菅原道真」本人だけではなく一族郎党の多くも同罪だったようです。新宿区西新宿の『成子天神社』も当主の死を悲しんだ家臣が当主の像を祀ったのが始まりとあり、社殿は徳川家光の時代に春日局により「天満天神社」として造営されたとあります。という事は、平安時代に創建され1100年を超える東京ではかなりの古社なのです。社殿は青梅街道沿から、「古社」というイメージとはほど遠いマンションやビル群に囲まれた150mほどの参道の先に社殿が鎮座しています。台湾や東南アジアのお寺のような微妙な感触にとらわれますが、神楽坂の赤城神社と同様に神社が土地を提供⇒不動産屋が賃貸マンションを建設⇒家賃収入で運営のパターンのようです。天神社にはつきものの「撫で牛」や神域に配置された「七福神像」もなんとなく微妙なのですが、赤城神社ほどの安っぽさはありません。
171119_02171119_03171119_04

浄瑠璃坂の仇討

170908_01
忠臣蔵・赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件はあまりにも有名ですが、遡る事29年前に「あれぇ~」と思う事件が、現在の新宿区市谷砂土原町の「浄瑠璃坂」で起こっています。発端は宇都宮藩・前藩主の法要で起こった口論なのですが、話が長くなるので割愛します。寛文12年2月3日(1672)に恨みを果たすべく42名の浪人が敵が身を寄せる武家に討ち入った事件で、生憎と敵は不在でしたが引き上げる途中の牛込御門(飯田橋駅付近)で更なる乱闘となり、結果討ちとっています。吉良邸事件と異なるのは、討ち入った当事者達は死罪を免れて伊豆大島へ流罪、赦免後は井伊家に再就職となったいます。情報通の大石内蔵助がこの前例を知らないはずはなく、吉良邸事件の作戦計画では大いに活用したと思われます。メンバー選定では『大丈夫!浄瑠璃坂の前例があるから切腹はないよ』と気乗りしない仲間を巻き添えにしたのかも知れません。
170908_02
東京メトロ市ヶ谷駅5or6番から地上へ出ます。少しクランク気味ですが「浄瑠璃坂」の坂下です。坂の説明には事件の記述はありません。この急な坂道を登りきった辺りが討ち入りの現場なのですが、それらしきモノはなに一つありません。新宿区の指定史跡の解説板にしても平成28年12月に設置されたものです。
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ