旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

新宿区

亀岡八幡宮・桜

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今年も関東地方は「絶好の花見日和」ってのがありません。開花宣言後に気温の低い日が続き、花の命が伸びたのはラッキーでした。入学式の日が桜満開だったなんて良い記憶として残っていくでしょう(笑)。さて『亀岡八幡宮』は太田道灌が鎌倉・鶴岡八幡宮を分霊し「鶴」に対して「亀」としたことに始まり、「徳川江戸城」の外堀工事の関係で寛永13(1936)頃に現在地に移転しています。お隣は尾張藩の屋敷で、以降陸軍士官学校・陸軍大学校・防衛省と変遷しています。軍人さん桜となると良寛作と言われるの『散る桜 残る桜も 散る桜』の句が浮かぶのですが、関連性は無いとはいえ太平洋戦争時の特攻隊の心情になぞらえられる事が多いようです。
飯田橋・市ヶ谷のお堀端は桜の名所です。八幡様石段上の桜も見事に咲いており、本殿あたりもさぞやと思ったのですが”残念ながら”でした(笑)。
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新宿駅上空・バスタ新宿

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つい最近(2016年4月)営業開始となった「バスタ新宿」へ行ってみました。「新宿高速バスターミナル」略して「バスタ新宿」かと思ったのですが、これが正式名称だそうです。新宿駅南口甲州街道の南側のJRホームの上空っていうんですかねぇ。7階建ビルの2~4階部分に高速路線バス関連施設が立体的に造られています。Pt↑)の発券カウンターはビル4Fにあり、外側に口の字状に方面別発車場が配置されています。新宿駅付近発着のバス会社をほぼ集約しているのですが、これで東京発の全路線という訳ではなく充実の高速バス路線網となっているようです。新宿からは九州博多が最長距離のようですが、ン十年前は東名夜行で大阪までは利用していましたが、もう体力的には無理か思います(笑)。
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都庁・都民広場・銅像

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都庁舎には第1第2本庁舎、都議会議事堂、都民広場に彫刻やレリーフなど計38点のアートワークが展示されています。”こんなにあるんかい?”というのが正直な感想です。現代美術界では知られた作家の作品なのでしょうが、庁舎内で38点の展示を見るとなると大変な時間が必要でしょう。何気に見られるのがPtの都民広場の銅像群で「風の中」、「はばたき」、「天にきく」、「犬の唄」、「早蕨」、「Mari」、「エピダウロス・追想」、「アダムとエヴァ(ジュンカンムタン)」の8作品が並んでいます。作者が付けたタイトルですから尊重するしかありません(苦笑)。
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太田道灌・久遠の像

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新宿中央公園の太田道灌「久遠の像」です。二流武家の二流たる所以を表しています。…道灌が鷹狩りの最中に雨にあい、近くの農家で”蓑”を貸してくれと頼んだところ、若い娘に蓑ならぬ山吹の枝を差し出されて激怒した有名な事件です。この娘は後拾遺集の兼明親王の歌「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」から蓑ひとつない貧乏を伝えたかったのですが、教養のない道灌にはこの意味が理解できなかったという伝承です。この伝承の舞台とされる地が1)埼玉県越生、2)豊島区面影橋付近、3)新宿区山吹町とあるのですが、そんな事より1400年代の関東に住む貧乏人の娘が後拾遺集の歌を知っている方が驚きです。…【教養のない三流武家と関東の片田舎に住む教養のある貧乏娘】…「山吹の伝承」を知らないと理解不能な作品です。意図したモノでなのでしょうか(?)銅像の雑な事(!)。妙に感心します。
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新宿・熊野神社

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西新宿の新宿中央公園西側にある「熊野神社」です。他の熊野神社と区別する為か「新宿十二社熊野神社」もしくは「新宿熊野神社」と呼ばれたりしています。場所がら”新宿の総鎮守”ですが、元々は室町時代の応永年間(1400年頃)地元の金持ちが、故郷の熊野三山より「若一王子宮」を勧請、後に熊野三山の十二所権現すべてを勧請、十二所権現とも熊野社とも呼ばれたといいます。新宿中央公園の敷地内のような感じですが神社の方が歴史があり、江戸時代は江戸郊外の景勝地として知られ、ご多聞にもれず最盛期には茶屋や料亭が約100軒もある歓楽街(花街)だつたようです。以前、神社近くに「新宿十二社天然温泉」というコーラのような色の温泉施設があったのですが、残念ながら2009年に閉店していました。
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新宿中央公園の…

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知事に会いに行った訳ではないのですが、所用で東京都庁へ行ってきました。都庁後方が「新宿中央公園」。総面積8万㎡を超えるかなり広い公園です。元々は別項の熊野神社の敷地の一部で、明治35年にコニカ(小西六写真工業/現コニカミノルタ)の工場があり、園内の「写真工業発祥の地」の碑はこの事です。同社の移転後、昭和38年の新宿副都心計画の一環として昭和43年に開園しています。緑の木々越しの新宿高層ビル群はいい感じです。
やはりと云おうか銅像を数点見かけました。髪の毛をかきあげているのはタイトルが「髪」像で制作者は渡辺弘行。膝を抱えて座っているのが「瞳」像で製作者は分部順治とあります。「髪」はまだしも、「瞳」はなんで「瞳」なのか判然としません(苦笑)。この他にも数点ありますが、どうでも良くなります。
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新宿の箱根山

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山手線内で一番標高が高いとされる箱根山(44.6m)です。江戸時代は尾張徳川家の下屋敷で全体で東京ドームの10倍の広さがありました。尾張二代藩主・光友が、元禄年間に「戸山荘」という江戸屈指の日本庭園を造り庭園内の池を掘った土で築いたのがこの”山”だそうです。尾張様はこの広大な庭園内に”小田原宿”を原寸で造り「疑似宿場町遊び」を楽しんだというのですから…。そして箱根山(!)とは…。”遊び”の範疇を超えています。
1873年(明治6年)明治政府はこの地に「陸軍戸山学校」を開設しています。恐らくはその記憶なのでしょうが、園内のある幼稚園を併設した教会には似つかわしくないような構造物が残っています。この地は1932年(昭和7年)には「石井四郎…最終階級は陸軍軍医中将」により「防疫研究室」が新設され、後の関東軍防衛給水部本部・通称731部隊に発展していきます。そんなことから「箱根山」は都内有数の心霊スポットなんだそうです。
・PT↓)低い山を山らしく撮るのは困難です(苦笑)。・山頂の水準点には標高44.6mとあります。・教会の建物の一部は軍隊の施設のようです。現在でも戸山公園は広いので「箱根山」に目指すには東京メトロ副都心線「西早稲田」下車が最寄です。
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四谷・荒木町の午後

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四谷・荒木町の最寄駅は丸の内線・四谷三丁目、昭和の雰囲気を色濃く残した町として「アドマチック天国」などの番組が好みそうな街です。荒木町・迷宮の街は”新宿通り”から一歩入った、地形的にはすり鉢状の窪地(?)と云った感じです。Pt↑(車力門通り)の通り沿いや金丸稲荷辺りには路地裏の名店的な飲食店が数多くあります。江戸時代、この一帯は美濃国高須藩の屋敷で滝が付帯した「策に池」と呼ばれる大きな池がありました。明治年間には池の近辺は人気の景勝地となり、芸者衆の花街とした賑わったそうです。今は池も枯れて縮小してしまいましたが、現在も「津の守弁天」の池にその姿が残っています。
通りかかったのが”休日の午後”という時間帯だったので、街は「うらぶれ感」に満ちていました。明治時代にはお江戸の箱根と称されたり、ミシュランに掲載された飲食店もあるそうですが、とてもとても…。
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鮫河橋・南元町

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Ptは新宿区・みなみもと町公園前の信号機です。四谷駅から迎賓館方面へ…。迎賓館を右手に進み学習院初等科の敷地に添って坂道を下ると、右手に”南元町公園”があります。今はごく普通の公園なのですが…。その昔、東京市には多くの貧民窟(スラム街)があり、下谷万年町(上野駅近辺)、芝新網町(浜松町駅近辺)、そしてこの四谷鮫ケ橋(赤坂離宮のそば)が代表的な3カ所で、明治30年(1897)の調査では、下谷万年町が875戸、芝新網町で532戸、四谷鮫河橋谷町で1370戸の貧民長屋がありました。鮫河橋は江戸時代には最下級の娼婦「夜鷹の巣」として有名であり、明治~昭和初期にはこの低い湿地に5000人以上の最底辺の貧民達が暮していました。今では面影の”お”の字も”空気感”すらありません。このような”負の記憶”は忘れられてしまいます。公園の一画に社にある「四谷鮫河橋地名発祥之所」の碑に記憶が留められているようです。
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亀岡八幡宮と茶ノ木稲荷

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茶ノ木稲荷石段を登りきると『亀岡八幡宮』です。現在の社殿は1962年の再建だそうですが、元々は今とは異なる場所に1479年太田道灌が「道灌江戸城」の西の守護として鎌倉の鶴岡八幡宮を分霊したのが始まりです。鎌倉が「鶴岡」ならこちらは「亀岡」と称しているのですが、これ本当なんですかねぇ。「徳川江戸城」の外堀工事の関係で1936年(寛永13年)頃に現在地に移転してきて、3代将軍・家光や桂昌院の信仰を得たとあります。前項の眼病にご利益のある「茶ノ木稲荷」と将軍家お墨付きの八幡様があれば、これはさぞ賑わったことでしょう。
Pt↑)で社殿左の遠望施設は防衛省の市ヶ谷台です。江戸時代は尾張のお屋敷、明治年間は陸軍士官学校があった場所です。そんな関係からか境内には「八紘一宇」の石碑があります。 石段途中にある銅製鳥居の社額は、八幡宮の「八」の字が「鳩のマーク」になっています。
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茶ノ木稲荷と亀岡八幡宮

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JR市ヶ谷駅を防衛省方面に進みます。靖国通りから引っ込んだ場所の急な階段の上に「亀岡八幡宮」が鎮座しています。本殿への石段の途中に「摂社茶ノ木稲荷神社」があるのですが、稲荷社の縁起によると元々この近辺に「茶ノ木稲荷神社」が祀られており、その後太田道灌が江戸城西方の守護神として鶴岡八幡宮(鎌倉)の分霊を「亀岡八幡宮」として祀られました。この八幡社が江戸城の外堀工事により現在地に移転したとあります。つまりは…元々稲荷社の場所に八幡社が移転してきて、いつの間にやら「茶ノ木稲荷」が「亀岡八幡宮」の摂社へと立場が変わったという事になります。「茶ノ木稲荷」は弘法大師によって開かれたとされる都内でも指折りの古い稲荷神社で、江戸時代の「稲荷番付」…そんなものが(笑)…では全国のお稲荷様ランキングの前頭筆頭の地位にあった由緒正しき稲荷社です。「眼病平癒」に関して特にご利益があるそうです。
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新宿区・赤城神社

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町名的には”新宿区赤城元町”ですが…。牛込の鎮守として信仰された赤城神社は神楽坂散策では立寄りたい神社です。ご祀神は岩筒雄命と赤城姫命。鎌倉時代に群馬の赤城山の麓から牛込早稲田の地に創建され、1555年ごろ現在地に移されます。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとして信仰を集めました。と、歴史のある神社なのですが、現社殿はあまりにも”オシャレ”なのには驚いてしまいます。
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数年前までは鼬でも出そうな鬱蒼とした神社だったのですが、老朽化した社殿の建替えにあたり、神社の土地を三井不動産レジデンシャルが約70年の定期借地権契約を結び、分譲マンションの建設、カフェやギャラリーをを併設して地代や賃貸収入を神社で運営、契約終了後は神社に戻すという運営方法をとりました。氏子も少なく少子化で幼稚園経営も難しいとなると、この方法は”逆転満塁ホームラン的”発想と言えるでしょう(笑)。因みに神社のデザインは、兎さん・熊さんならぬ隈研吾氏です。”どうりで”感が漂います(笑)。
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Pt↓左)スフィンクスではなく狛犬です。これも”くま”の仕業ですかねぇ~。ご希望の方はミニ版が¥2000となっています。
境内社には参考書の旺文社寄贈の”蛍雪天神”や・聖徳太子・徳川家康を合祀する”赤城出世稲荷”があります。
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神楽坂・ラカク

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「なんじゃこりゃ…!」という商業施設が神楽坂にオープンしました。『神楽坂・ラカク』…といっても住所は新宿区神楽坂ではなく矢来町です。東西線の神楽坂駅下車して地上へ出て信号を渡った場所なので「神楽坂」なのでしょうか?すでに胡散臭さが漂います。元々は出版の新潮社の倉庫だったそうですが、倉庫の雰囲気は残っているようないないような(苦笑)。これが”今風”っていうのでしょう。売出し中の若手なんたらが”コンセプトがどうたら”とか”文化の発信”とか言いたいのでしょうが…店内には違和感ばかりが漂います。ざっくりと言えば【無印良品の店にややグレードの高い商品を並べたありがちな雑貨店】…いった感じで笑うしかありません。
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店内のPtは遠慮しましたが、無印良品の店舗似なので想像はつくでしょう。Pt↓中)木製のデッキと思いきやチープな新建材です。九十九里辺りの海の家のようです。Pt↓右)倉庫の面影を残す外壁ですが石綿製でしょうか? 位置座標はなんの意味があるのでしょう?
行った→入ってみたっ→なんじゃこりゃ度は90%でしょう(残10%は業界&マニアうけ)。
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さすが都庁展望台は…

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●●と煙は高い所への7回目は東京都庁です。”東京・タダであがれる・高い場所”には外すわけにはいきません。現東京国際フォーラムにあった旧丸の内都庁は1970年代には老巧化や部門の分散化など多くの問題を抱えるていました。この新宿都庁は1988年に着工1991年より都庁としての業務をスタートしています。展望室は地上202m、45階に南展望台と来た展望台の2か所あり、いずれも第一本庁舎1階から「展望台専用エレベーター」利用します。南展望台から北展望台は別の建物なので1階まで降りて、乗り換えねばなりません。正直そうは見える景色が変わる訳ではないのですが、北展望台は23時まで、南展望台は17時30分までとなっています。(休日も南と北では異なっているようです)
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確かに東京の街が一望できます。この景色を見ていると”なんとまぁ馬鹿げた街なんだろう”と妙に感心してしまいます。  Pt↓中)気温が低く見通しがきく12月~02月は、富士山を望むことができる日が多いようです。
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防衛省・市ヶ谷ツアー

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防衛省を見学する『市ヶ谷ツアー』は月~金の午前・午後で行われています。所要時間は約2時間10分ほどで、その広大な敷地には驚かされるのですが、戦車等の展示はありません。そちらのマニア(戦車や兵器)の方には正直物足りないでしょう。しかしながら、日本国の歴史で重要な舞台となった建物の見学はそれだけで価値があります。『市ヶ谷記念館』では講堂の施設や旧陸軍大臣室、旧便殿の間などを説明を受けながら充分な見学時間が設けられています。内部の写真撮影も指示がない限りはOKです。…因みに、防衛省の建物内部、食堂・売店のある厚生施設棟(恐らく肖像権でしょう)や”いかにも感”がある迎撃ミサイル”パトリオット”の発射台付近は撮影禁止です。可笑しいのが、発射台付近は法政大学等のビルからは丸見えになっています。
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この地は都内でも高台となるので高低差がかなりあります。Pt↓左)は庁舎A棟(地上19階、地下4階)で防衛省の中枢期間となっています。左隣の220mの通信鉄塔があります。 Pt↓中)市ヶ谷記念館です。この建物はオリジナルを縮小し向きを変え移設されたものですが歴史的な価値を損なうものではありません。次に向かう厚生棟は撮影不可です。 Pt↓右)が庁舎D棟(地上10階、地下1階)で、建物前の広場は”儀仗広場”となっています。
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防衛省・市ヶ谷記念館

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新宿区市谷本庁の防衛省では『市ヶ谷台ツアー』と称して事前申し込みによる見学ツアーが実施されています(月~金の午前・午後の2回、所要時間2時間15分程度)。専任の担当ガイドによる案内があり写真撮影も、指示以外の場所はOKとなっています。Pt↑)は市ヶ谷台を象徴する施設の「旧1号館」。”歴史的建造物”として建物の一部を移築復元した「市ヶ谷記念館」です。右の鉄塔が東京で3番目に高い220mの通信鉄塔です(左は敷地外の一般マンション)。
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140902_02140902_03江戸時代、この地には徳川御三家の尾張家の5万坪に及ぶ広大な上屋敷があり、明治年間には陸軍士官学校、昭和年間には大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部と変遷しています。昭和20年には米軍が接収、極東国際軍事裁判(東京裁判)行われています。昭和34年に返還され昭和35年から陸上自衛隊と自衛隊幹部学校が置かれ、平成12年には防衛庁が六本木・檜町から移転してきています。  Pt左右)は記念館講堂の内部です。左は陛下の玉座からの視線で見ています。右は入口から見ています(中央の四角部分が玉座付近です)。さすがに陛下がおいでになる施設だけあって様々な設計工夫がされていますが、説明を聞くと「そこまでやるかい!」の仕上げが多々あります。因みに極東国際軍事裁判(東京裁判)はこの講堂を改装して開かれていました。
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1970年作家・三島由紀夫が自衛隊員にクーデターを呼びかけ割腹自殺を図った事件はPt↓)左の旧陸軍大臣室が舞台となっており、室内の扉部分には刀による傷跡が残っています。Pt中)は当日、自衛隊員に向かって演説をしたバルコニーです。演説の内容はヘリの爆音で殆ど聴こえなかったそうです。 Pt↓右)は行動入口の”防衛庁”時代の看板です。書は中曽根康弘氏のものだそうです。
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新撰組・試衛館跡

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幕末マニア・新撰組マニアにはつと有名な新宿区市谷柳町の試衛館(しえいかん)跡(?)です。天保年間に近藤勇の養父である天然理心流の近藤周助が創設した剣道場で、後に新撰組の中核をなす土方義三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助や長倉新八・原田左之助・藤堂平助・斎藤一らがこの道場で出合ったこととなります。 10年ほど前にNHK大河ドラマでムチャクチャな「新撰組」を放送した時は、それなりだったのでしょうが…。今は昔”強者どもの夢の跡”と言った体になってしまいました。 東京メトロ大江戸線下車。大久保通りを神楽坂方面に緩い坂道を登ります。交差点から100m程の右側「柳町病院」の路地を入り、50mほどの右奥がこの場所です。 それらしき”もの”はPt↑)の標柱だけです。表現も”この辺りにあった”と自信なさげです。夏草の雑草に覆われててしまっています。すぐ右手の神社も…フェンス囲まれ施錠されており、荒れ果てていてどちらの神社なのか良くわかりません。社の彫刻からかろうじて稲荷社(?)と判断しました。…ご覧のありさまですPt↓)。
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新撰組と会津藩の関係は、正社員と派遣社員の関係に置き換えると面白いのですが…【治安のよろしくない京都の警備を請け負った㈱会津藩は、家臣(正社員)がダーティ仕事を担当すると万一の時には本人や家族への保障やらなんやらでメンドクサイ。ダーティ専門の暴力派遣社員(新撰組)に担当させれば、万一の時には㈱会津藩は知らぬ存ぜぬで逃げられる。用済みになったら契約解除でオシマイ…と、置き換えると現代でも良くある話となってしまいます。
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奥の方に朽ち果てた神社があり、まさかと思って近づくとPt↑)の標柱があります。ここまでたどり着くまで、なんの目印もありません。
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田安稲荷神社

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新宿区四谷4丁目、田安稲荷神社です。正式には『田安・鎮護稲荷神社』と称します。”田安”とくれば8代将軍(俗にあばれんぼう将軍)徳川吉宗が自身の血筋を残すために興した田安・清水・一橋のご三卿の田安家の下屋敷があった場所になります。明治4年に屋敷が撤去となった際に残された『田安稲荷神社』と更には付近にあった柳生家の『鎮護稲荷神社』とを合祀しています。昔(江戸時代)に大名屋敷や商家の一角に祀られて、壊したいが、壊せないの「屋敷稲荷」の典型のようです。時代を経てマンションの一角に取り込まれてしまいましたが、東京にはこのような稲荷社が数多く残っています。誰でも”祟り”は怖いものです(苦笑)。
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新宿通りと外苑西通りの交差点から側道を入るような形で進みます。Pt↓左)の看板が造られていますが…、
看板まである割にはPt↑)のように、こじんまりとした稲荷社です。地元の方々が稲荷社を大事にしてきた証のようです。
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田安家の門と幸国寺

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地下鉄大江戸線・牛込柳町下車、大久保通りからほんの少し裏手に入ると、「日蓮宗・幸国寺」があります。Pt↑)が幸国寺の山門ですが、この山門は明治維新後に譲りうけた田安家の屋敷門と伝わる門です。田安家は一ツ橋、清水家と共に徳川御三卿であり、尾張、紀州、水戸の御三家とは異なり領地は持っていませんが、御三家に次ぐ十万石の格式を持ち、北の丸公園「田安門」付近に大きな屋敷を構えていました。 東京大学の「赤門」のように徳川大名家の屋敷門が移築や流用され今も残っている例は多いのですが、この門は構造や形式等から江戸後期の建築と推定されています。幕末から明治初頭に幸国寺の檀家「長嶋家」より寄進されていますが…田安家と長嶋家の関係がイマイチ微妙です…「田安家の門」であるという史料は確認されていないそうです。
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Pt↓左)Web検索で「田安家」・「門」で検索すると出てくる写真ですが、高麗門、渡櫓門の「枡形門」になっているので「清水門」と思われます。
Pt↓中)諸説あるようですが、幸国寺の山門=田安家の屋敷門は違うと思います。この規模の門が10万石大名家の門とは到底思えません。貧弱すぎます。140807_05140807_04
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猫地蔵・自性院(無量寺)

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都営大江戸線「落合南長崎駅」の駅コンコース・A1出口辺りに↑の看板があります。”商売繁盛・猫地蔵尊…子育て、開運、厄除け”さらに・道灌招ぎ猫供養地蔵・猫面地蔵尊とあります。こちらが新宿区西落合1-11-23にある世田谷・豪徳寺とはちがった「招き猫伝承」で知られる自性院(無量寺)です。縁結びにご利益があるとされ浅草今戸の某神社は「招き猫」ではなく「招き猫人形」という紛らわしい伝承です。
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140512_02140512_07「落合南長崎駅」をでて徒歩2-3分でPt左の青い看板が見えてきます。こちらが自性院(無量寺の入口です。看板に反対側に石柱の上に乗った”ネコ”の像があります。この小判(?)を抱えたネコはねこ長80㎝くらいと大型です。
さて”太田道灌招き猫伝承”とは…文明9年(1477)の江古田ヶ原の戦で、太田道灌が戦に敗れて道に迷っていると、黒猫が現われて手招きをし「自性院」に案内してくれたので道灌は命拾いをし、後の戦いで勝利することができたといいます。この黒猫の死後、手厚く祀ったのが「猫地蔵」の始まりとされています。”ネコの招かれて難を逃れた”の部分は豪徳寺の伝承と似ているような気もしますが、時代的にはこちらの方が古くなります。いずれにしろ浅草の某所のような嘘臭い招き猫伝承とは異なるようです。
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Pt左)が”猫地蔵堂”で秘仏の猫地蔵が祀られており、2月3日の節分会にのみ開帳されます。自性院は真言宗のお寺で豊島88ヶ所霊場の24番札所となっています。猫地蔵堂の前に「猫地蔵和讃」の碑(Pt中)があり、2系統の猫地像の由来が2&3番に書かれています。Pt右)猫地蔵堂の中には入れませんので、ガラス越に強引に写してみましたが、どれが猫地蔵なのか判然としません。
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