旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

東京都下

立川駅 おでんそば/うどん

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国分寺から立川までは本の数分です。存在は以前から知っていた「おでんそば(うどん)」にチャレンジしてみることにします(笑)。立川には某中古CDショップもあるので時間を調整しながら空腹の状況を待ちます。これが名物「おでんそば(今回はうどん+さつま揚げ1枚)」の実態です。
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店舗のpopにも堂々と「立川名物」とあります。おでんはさつま揚げ1枚、がんもどき2枚、玉子2個、がんも&玉子各1の組み合わせから選べます。そば(うどん)+おでん種は有りそうで無かった気がします。味の方は予想通りの王道です。
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食べてから気が付いたのですが、資料書籍では立川駅のおでんそばは地元の中村亭が考案し「奥多摩そば」の屋号で立川駅構内で営業していたようです。実はこの店はJR-Cross系の「清流そば」なのです。店に入る時点では気が付きませんでした。どこにでもあるチェーン店には違いありません。
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さらに調べると元々の「奥多摩そば」は立川駅構内に3店舗あり、諸般の事情により一部が「清流そば」系列となったようです。JR-Cross系のチェーンでありながら「おでんそば」を立川名物として継承したという事でしょう。
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「清流亭」は中央線の東京方面ホームにあります。隣のホームには「奥多摩そば」がありました。日曜日の午後なので休業なのか店舗閉鎖となっているのかはこの位置からでは判断が付きません。ともあれ地元店には頑張って欲しいものです。

国分寺 殿ヶ谷戸庭園

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国分寺市の「殿ヶ谷戸庭園」も東京都公園協会による「都立9庭園」に含まれています。庭園は23区からは離れますがJR国分寺駅近と交通は申し分ないのですが…。庭園は期待したほどではなく30分もあれば十分です。同じような庭園デザインの弘前「藤田記念庭園」に比べたら格段に見劣りします。
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元々はもっと広大な庭園だったのでしょうが…。大正4年に土佐出身の満州鉄道の総裁であった江口定条氏の別邸として造られ、昭和4年に土佐ルーツの三菱の岩﨑彦弥太氏が買い取り洋風邸宅や茶室が追加で造られたようです。
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当時は国からの強い要請で三菱財閥が購入させられたのでしょうが、同じ土佐関連の一面もあったのかも知れません。この時代の岩﨑による不動産の買いまくりは、嫌とは言えない事情があったのでしょう(苦笑)
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「殿ヶ谷戸庭園」は昭和40年代の再開発計画が住民の意思により頓挫、昭和49年に東京都が購入し公園の整備の後、昭和54年からは都立公園として公開されています。確かに管理はシッカリしていると感じますが…。
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四季折々の木々の景観は楽しみもあるのでしょうが、さほど広い庭園ではありません。「回遊式林泉庭園」とあっても「河岸段丘」に高低差のある庭園が作庭されています。河岸段丘なら湧水豊富はあたりまえでしょう。この地勢を別邸とした感覚がよく判りません。
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洋風邸宅には「殿ヶ谷戸庭園」の歴史資料が展示されています。
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国分寺駅 爽亭で早昼

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目的は「殿ヶ谷戸庭園」です。ついでながに国分寺駅の「爽亭」に立ち寄る予定です。国分寺駅ホーム中央線下りホームに「爽亭」はあります。駅そばのホーム店舗は大体が階段下にあるので簡単に見つけることができます。
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「爽亭」は名古屋に多く東京の店舗は多くはありません。上野駅ホームで2店、きしめんが食べられる池袋店に続いての4軒めの爽亭です。爽亭は店ごとに独自の限定メニューがあるのですが、国分寺店ではお勧めを外す失策をやらかしました。
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何気にPt)の「桜えび山菜そば/¥530」を選んだのですが、店の限定メニューは「辛味ネギチャーシューそば/¥530」でした。券売機のボタンの色が違っていたのですが何故か気が付きませんでした。この桜えび山菜そば結構旨かったので納得です。お勧めメニューは次回(あれば)にすることにします。
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国分寺店の外装は上野や池袋ほどの立喰そば店感はないのですが、店内は8席程度とこじんまりとしています。事情によりこの日は4時間後に立川駅で2度目の「駅そば」になるとは思いもよりませんでした(笑)。

田無・総持寺

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田無駅から田無神社へ向かう途中に「田無不動尊」とも呼ばれる真言宗智山派で山号を田無山とする「総持寺」があります。下調べでは「田無神社の隣でもあるしチョット寄って見るか」だったのですが、多くの日本の神々が祀られさらには中国の五行思想からの五龍神の伝承やら意味不明のパワースポットのご神木やらの神社とは違い、これぞお不動さまといった感のあるお寺さんでした。
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青梅街道からの山門を抜け,振り返ると四天王のうち多聞天と広目天像が(Pt↓)左には弘法大師像と僧侶像、後方は妙見菩薩を祀る妙見堂です。本堂前の西東京市指定文化財でもあるケヤキの巨木には圧倒されます。鶴見の大本山總持寺や成田山新勝寺ほど広大な寺ではないのですが、田無神社の印象がなんでもありのワチャワチャ神社だけに、総持寺の落ち着いた佇まいには感じ入ってしまいます。
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創建年代は不詳ですが、1600年代初めに法界山西光寺として創建され江戸年間には現田無神社の尉殿権現社の別当寺でした。神仏分離令を経て、近隣の密蔵院と観音寺を併合して「田無山総持寺」となっています。現本堂は旧西光寺の建物で嘉永3年(1850)の完成とあります。ケヤキの大木はこの年代に植えられたものならば170年を経たことになります。関東三十六不動尊霊場の10番札所や多摩八十八ケ所霊場の33番札所でもあります。寺全体として1982に選定された「新東京百景」に選ばれているそうです。
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明治維新と続く神仏分離令では幕府や大名家の庇護を失った寺社は独自に活路を探す事となります。西光寺は他の寺と統合して不動尊を祀る「総持寺」を選び、田無神社は創建が尉殿大権現が龍神を祀っていた事で大国主命を差し置いて古代中国の「書経」による自然哲学・五行思想の「五龍伝承」神社となります。田無神社をWeb検索すると スピリチュアル系のあたおか(笑)や「趣味パワースポットの輩」が盛り上げているようです。
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田無の田無神社

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新宿からの西武新宿線で田無なる駅で初めて降りました。知らなかったのですが田無市の名称はすでの無く平成13年からは「西東京市」なんだそうです。つまりこの程度の予備知識しかありませんでした。西武新宿線はJR接続は高田馬場駅でJR新宿駅に直結しておらず、終着も埼玉県の本川越駅では日常的な接点は皆無なのです。という事でたいした期待もなく訪れた「田無神社」ですが、なかなか興味ある神社でした。
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田無神社の創建は不詳ながら鎌倉時代とされ、田無北部の谷戸の宮山に鎮座し「龍神」と尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)を祀って創建、明治5年に熊野神社や八幡神社を合祀して当地へ遷座、社名を「田無神社」と改めています。さらに尉殿大権現(級津彦命・級戸辺命)に大国主命・ 須佐之男命・猿田彦命・八街比古命・八街比売命・ 日本武尊命・大鳥大神・ 応神天皇をも合祀して現在となっています。賑やかなことです(笑)。
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多数の神々に加えてには宇迦之御魂神(稲荷神)・恵比寿天・大黒天・弁財天・少彦名神・煩大人神・塩土老翁の摂社・末社が鎮座していますが、特には古代中国の「五行思想」による自然哲学思想からの五龍神による「方位除け」で有名なようです。中国・五行思想と神道の融合はよく判らないのですが、多くの出雲系の神々に加えての五龍神とは珍しい神社です。神社が掲げる「開かれた神社」は「なんでもあり」のことかも知れません。
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神域は広いとは言い難いのですが大木の緑に囲まれた神社らしい佇まいです。本殿左の市指定天然記念物の金龍が休んでいると言われるご神木は「ご神木の周りをまわり神木にふれることでパワーを頂く事ができます」とあるのですが、これがパワースポットという意味不明な表現となるのでしょうねっ。
PT↓)は神域にある五龍神の、赤・黒・青の龍神、さらに白龍と本殿が金龍で五龍です。
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東村山・八坂神社

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東村山市の「八坂神社」は、電車利用では西武新宿線の久米川駅か西武多摩線の八坂駅から歩きです。神社は府中街道沿いの八坂小学校の隣です。一の鳥居は府中街道に面し、社殿後方の杜を西武多摩線が走り抜けていきます。賑やかな場所にあるようですが神域は意外なほど「凛」としています。久々のこの感じに嬉しくなります。
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Pt↑)はカメラ位置から拝殿まで200m近くあり快晴で白トビ気味です。八坂神社の境内社は三島神社(事代主命・大山祇命)、三峯神社(伊弉諾・伊弉冉命)、御嶽神社(櫛真智命)、蚕影神社(和久産巣日神)が一緒の社殿に祀られているだけです。主祀神は牛頭天王(素戔嗚尊)で日本神道のなかでも判りにくいと云えば判りにくい神様はいないでしょう。
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元々の牛頭天王は遥かインドの釈迦生誕の地に因む祇園精舎の守護神とされる仏教系の神です。半島を経由して日本へ渡来し、神道と結びついて牛頭天王=素戔嗚尊に見なされます。仏教=神道の時代に京都の感神院祇園社(現八坂神社)から全国の祇園社や天王社と信仰が広がり織田信長も崇拝したとされるなど多くの信仰を集めます。
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明治政府による神仏分離令により権現社と牛頭天王社は弾圧に近い扱いを受けて寺社数は減少してしまいます。インド発祥の菩薩信仰が中国で道教の北極星信仰と結びついて定着した「妙見信仰」とおなじように牛頭天王信仰は日本に定着していきます。これは基本は多神教の日本人が得意とするところです。
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結局、牛頭天王はどんな神様なの良く判らなくなってしまいますが、牛頭天王=素戔嗚尊と結びついたことで「疫病・厄除けの神」となったようです。ちなみに素戔嗚尊を主祀神とする八坂神社は京都八坂神社を総本社として全国に2600社あります。おなじく素戔嗚尊を主祀とする神津島神社は全国に3000社、氷川神社が関東に200社の計5800社あります。
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神社創建年代は不詳ですが、仏教=神道時代の別当寺であった正福寺と同時期の弘安元年(1278)~応永14年(1407)前後のようです。江戸末期までは牛頭天王社(野口の天王さま)と称され、神仏分離令で八坂神社と改称しています。神社前の府中街道の道路拡張工事でレイアウトを変えたとありますが違和感は感じられず、これぞ神社という感じです。
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吉祥寺の武蔵野八幡宮

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予定は武蔵野八幡宮ではなかったのですが、たまたまこの日は立川から先の青梅線に事故があり吉祥寺へ戻りました。中央線沿線は数年に一回来るくらいで殆ど土地勘はありません。井の頭公園に至っては記憶にないくらい久々で赤&黒のCDショップが移転していた事すら知りませんでした。吉祥寺駅からアーケード街を抜けて八幡宮まで10分程度ですが、商店街に掲げられて横断幕はいまだ物騒感です。
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武蔵野八幡宮は延暦8年(789)ごろ征夷大将軍・坂上田村麻呂が大分の宇佐八幡宮から分霊し現水道橋あたりに創建したとされます。江戸時代(1657年)の「明暦の大火」の後始末で、本郷にあった「諏訪山吉祥寺」とその付近の住民は強制的に移住させられられるのですが「諏訪山吉祥寺」はこの地には移転せず住民だけが移転、鎮守として八幡宮を遷座します。
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ご祀神は宇佐八幡という事で、誉田別尊・比賣大神・大帯比賣命の3神が祀られています。五日市街道沿いの阿佐ヶ谷から三鷹あたりは八幡宮が多く、大宮八幡宮、荻窪八幡神社、井草八幡宮、三鷹大八幡神社は東北地方を平定に赴く武士団の戦勝祈願としての創建が多く、そうしてみると武蔵八幡宮は少しばかり謂れが異なるようです。
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町中の神社としてはコンパクトですが年月を経た神木に囲まれた落ち着いた佇まいです。社殿は調和の採れた美しい造形ですが、何故なのか街道沿いの鳥居と微妙に”正対”していません。境内社は厳島神社・稲荷神社・須賀神社・疱瘡神社・三島神社・出雲神社・大鳥神社が一つに纏められています。Pt↓)は鳥居付近にある「神田御上水井の頭弁財天」とあり、天明5年と記載があり「井の頭弁財天」への道しるべのようです。
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立川・阿豆佐味天神社

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あきる野市の二宮神社に出かけついで珍し神社がないかと検索したら立川市の「阿豆佐味天神社・立川水天宮・猫返し神社」を見つけました。これで「あずさみてんじんしゃ」とは読めませんよねぇ(苦笑)。さらには菅原道真ではない「天神社」でした。元々の「天神信仰」は国津神に対して高天原在住の天津神の総称で菅原道真の怨霊信仰とは異なるのですが、そのあたりは”いいじゃないですか”という事で…。
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今回は西武拝島線の武蔵砂川駅からTaxi(¥800)、帰りは立川駅へ路線バスを利用しました。「阿豆佐味天神社」は予想以上の神社でした。総本社は多摩郡瑞穂町にあり砂川は1629年に地域の開墾に伴い村の鎮守として創建されたようです。祀神は「少彦名命/すくなひこのみこと」と「天児屋根命/あやねこうあねのみこと」の2神です。
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境内社の数も多様で前項の養蚕の神・蚕影神社(猫返し神社)や安徳天皇。建礼門院らの立川水天宮。厄除の八雲神社、疫病除、縁結びの疱瘡社。五穀豊穣の稲荷社。火災盗難序の御嶽神社。縁結び安産の浅間神社。交通安全の金比羅社。疫病徐の八坂神社と多岐にわたります。昔から鎮守社として様々な願いを聴いてきた神社さんなのでしょう。
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立川・猫返し神社

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昔から身近にいた動物の代表は「猫」だと言っても良いでしょう。身近な割には猫を所縁とする寺社は意外と少ないものです。東京では招き猫伝承の杉並・豪徳寺や浅草の今戸神社(実際は捏造された伝承ですが)や新宿区南長崎の無量寺の猫地蔵、さらには港区赤坂の美喜井井稲荷などがあります。今回の通称「猫返し神社」はエッセイ部分を除くと話の傾向としては日本橋堀留町の三光稲荷神社に似ているようです。
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正式名称は「猫返し神社」な訳はなく立川市砂川町の菅原道真でない方の「少彦名命」を祀る阿豆佐味天神社(あずさみてんじんしゃ)の「蚕影神社」で祀神は金色姫命という養蚕の神との事です。この地は江戸時代は養蚕業が盛んで蚕を喰い荒らす鼠を猫が退治するという流れで建立された神社のようです。昔の飼猫は鼠退治の為にご飯がロクに与えられず腹減り状態で必死に鼠を捕まえていたという話もあるようですが(笑)。
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近くに在住のジャズ・ピアニストの山下洋輔氏の飼い猫が行方不明となり、氏が神社にお参りすると無事に帰還。これを繰り返すこと数度の顛末をエッセイに掲載したところ一気に猫返し伝承が広まったとの事です。ということは三光稲荷社と同じです。花街のお姉さん有名ジャズ・ピアニストの違いというお話です。
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山下氏の話が広まるにつれ猫好きの人々に参拝が増えたらしく、猫のデザイン絵馬、猫の石像、猫の手水舎となかなかの充実ぶりです。通常の雄猫の縄張りは意外と広く行方不明は珍しい事ではないのですが…。この「蚕影神社」は阿豆佐味天神社の境内社です。猫云々がなければ訪れる事も無かったでしょうが、実際は阿豆佐味天神社も良い感じでした。
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あきる野市・二宮神社…(2)

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梅雨の合間の晴れ日はデジカメの露出計が完全に騙されがちです。鳥居と社号標がある石段が二宮神社の表参道となるのでしょう。「二宮神社」調べて行けば行くほど疑問点が出てきます。だいたいが「天津神」が主祀神の神社はSF物語のようで未知の神々が次々と登場するのですが、少なくとも嵐=二宮は関係ありません。
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Pt↑)の向かい側に「お池」や「御手洗池」と呼ばれる湧水池があります。【日本武尊の東征途中でこの地で「国常立尊」を祀ったところ湧き出た湧水】との伝承があるようですが関東での日本武尊東征の伝承はあちこちに伝わっています…(苦笑)。水量豊富で透明度もあり飲料としても充分でしょう。古代の人々が集落を造るには絶好地です。
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この湧水池のほとりに「社宮社/しゃぐじしゃ」の社殿があります。ご祀神はよく判りません。説1は三種神器の「八咫鏡」を作ったとされる超マイナーな【石凝姥命】の説。説2は地元に根付いた民間伝承の神。まぁ2でしょうねっ。昨今は神域の池がキレイになった神社が増えていますがこの池の透明度はケタ違いです!
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あきる野市・二宮神社

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「大國魂神社」の関連で東殿の二の宮、あきる野市の「二宮神社」へ行ってみました。中央線を拝島で乗換えて五日市線「東秋留」下車徒歩5分程です。この神社【やばいよっ】が3ッ付く位のやばさです。やばいと云っても二宮繋がりで「嵐=二宮」の聖地なんて馬鹿は言いません(笑)。見渡せば多摩川の本支流を望む丘に涸れる事のない湧水に恵まれた人々の暮らしには絶好の場所です。地形的には浦和の氷川女體神社と良く似ています。
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神社の創建年は不詳です。「小河大神」・「小河大明神」や「二宮大明神」とも云われ、いまでも大國魂神社六所宮の一座なのですが、古代神社名鑑の「延喜式」に式内社との記載がない(そこまでの格式がない)という不可思議な神社なのです。ご祀神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)と称する高天原在住の天津神で、古事記や日本書紀に記載はあるが実績がよく判らない神様です。社殿は平安時代に武将・藤原秀郷により造営され、鎌倉武士や徳川家と繋がりも厚かったようです。現在の社殿は江戸時代に建立されたもので、明治3年に現社名の「二宮神社」となっています。
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神社の格式を表すのは「延喜式」記載の有無とや明治年間に制度化され第二次大戦後に廃止された「近代社格制度」によるとされますが、現在とは歴史解釈も情報量も圧倒的に違い参考にしかなりません。この神社は社格云々より、この土地に生まれ暮らし死んでいった人達が敬い大事に守ってきた歴史が感じられます。鎮守神社はこういう存在なのでしょう。
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境内末社には伊勢神社・八幡社・八雲社・天神社・稲荷社・諏訪社等がありました。珍しいのは「荒波々伎(アラハバキ)神社」がある事です。この神様は何者なのかが良く判りません。元々はこの地に先住した東北系部族の神であり出雲系の部族が先住の民を追出し祀神を入替えたとの説があります。大宮・氷川神社にもそんな伝承があります。この地でも同じことがあったのかもしれません。先住者を排除してもその記憶は残すとはモロ日本的です。
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拝殿と本殿を横から見ます。この造りは「三間社流造」だそうで幣殿が通路状になっています。社殿は東向きですが何故なのか北向きの扉があります(電柱の後方)。本殿内部には室町時代造営の宮殿があるそうで鞘堂的な構造になっているのでしょうか?9月の例大祭は通称「しょうが祭」と。云われ”しょうが”を奉納し夜には東京唯一の農村歌舞伎を伝承している都の無形民俗文化財の秋川歌舞伎が催されるそうです。たしかにやはい神社です。
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社殿位置から見下ろした景色、この方向が東のようです。いまでこそ住宅がありますが多摩川の本支流を見渡す丘に鎮座しています。この丘の下ると「東京の名湧水57選」選定の涸れることのない「二宮神社・お池」があります。川の流れる平地、山には獣たち、涸れることのない湧水。古代の人達が住むには絶好の場所です。
境内社の1)左から稲荷神社・天津社・八雲神社・八幡神社・伊勢神社。2)諏訪神社。 3)社務所です。
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府中市・大國魂神社…(5)

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大國魂神社の神社HPに案内がありますが神社近くには数社の「摂末社」が鎮座しています。【瀧神社】は東府中駅から徒歩7分位でしょうか、大國魂神社の例祭ではこちらの滝で身を清めるそうですがホントかよと思います。崖状の傾斜地にあり、お社はパッと見ると「おみくじの販売機」のようです。ご祭神は加茂別雷命・玉依姫命・加茂別建角身命とあり大國魂神社の「水神社」はこちらから分霊されています。
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場所がら競馬関係者の住宅が多いようです。京王出臍線「府中競馬正門前」の線路際には応神天皇を祀る【武蔵国府八幡宮】があります。聖武天皇の時代に一国一社を京都の石清水八幡宮から勧請しています。地図でみると”八幡町緑地”となっていますが荒れ気味の雑木林のようです。神社の整備補助は無理でも緑地の整備なら予算は付くでしょうに…。
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更に情けないのが少名彦命(スクナヒコノミコト)を祀る菅原道真でない方の【天神社】です。隣の日吉神社の方がそこそこ立派なので天神社を見つけた時は町内会集会所物置かと思いました。大国主命と共に国造りに携わった神が祀られ、さらにはあの近藤勇の天然理流の試合が行われた場所でもある天神社がこのありさまとは…。
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続いての「境外摂末社」は府中本町駅から徒歩5分位の【坪宮】です。ご祀神は兄多気比命(えたけいのみこと)で大國魂大神以前に武蔵国国造の神なのです。大国魂神社のくらやみ祭り例大祭でも特に重要とされるお社です。
ついでと云ったら語弊がありますが東府中駅から坪宮まで約2時間かかります。こんな社寺もありました。 1)坂の名は「天神坂」天神さま隣の「日吉神社」、近藤さん達が暴れたのはこの神域では…。 2)真言宗豊山派の妙光院です。多摩八十八ケ所霊場の23番だそうです。 3)妙光院隣接の天台宗の慈覚大師の開山による安養寺です。
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府中市・大國魂神社…(4)

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大國魂神社から北方向へ続く「馬場大門欅並木」は源頼義・義家の親子が「前9年の役」で奥州へ向かう途中で戦勝を祈願、凱旋時に欅苗木を奉納したことによります。欅並木途中には源義家(八幡太郎義家)の像がありますが、この親子はとにかく神頼みの戦勝祈願ばかりしています。奥州豪族の阿部氏の反乱の前9年役は実質12年続き、親子は味方が10名以下となるほどの大敗を喫し、辛うじて清原氏の加勢で辛勝します。「勝利凱旋」なんでしょうかねぇ。
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旧甲州街道と府中街道の交差点の「府中高札場跡」です。江戸時代、宿場の中心地に幕府の政策や禁止令など生活に密着した多岐に渡る情報を高札場に掲示します。故吉村昭氏の作品の「桜田門外の変」の指導者・関鉄之助(高野長英)の指名手配情報も掲示告知されたのでしょう。似顔絵とプロフィールの捜索情報ながら検挙率の高さには驚かされます。高野長英の場合、生国・陸奥、丈高く太り候方、面長にて角張候方、色白く、眉毛薄く、目尻下がり、黒目赤き方。これで「アイツ怪しいゾ‥」となったのですかねぇ(?)
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武蔵野線・府中本町駅前は東京競馬の開催がないと閑散としています。改札から大國魂神社へ向かうとガラ~ンとして広場があります。実はここは歴史的遺構で8世紀初頭に存在した武蔵国の国司館の遺構であり、1590年代には豊臣秀吉が小田原征伐と奥州仕置で関東に滞在した際に徳川家康が秀吉接待の為に造った御殿跡でもあります。元はイトーヨーカードの駐車場だったそうで、現在は「国司館と家康御殿史跡広場」となっています。
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府中市・大國魂神社…(3)

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拝殿から左廻りでの摂社です。こちらは「水神社」、水波能売命/ミズハノメノミコト、加茂別雷命/カモワキイカズチノミコト、玉依姫命/タマヨリヒメノミコト、加茂別建角身命/カモワキタケヌミノミコトの4神が祀られています。申し訳ないのですが存じ上げません。昭和58年に境外末社の「瀧神社」より分霊されたとあります。
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こちらは「松尾神社」。寛政12年(1800)に武蔵国の醸造家により京都の松尾大社より勧請されたとあります。ご祀神は大山咋命/オオヤマクイノミコト。酒、醤油、味噌等の醸造の守護神や開拓の神とされます。
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こちらは「巽神社」。ご祀神は市杵嶋姫命/イチキシマヒメノミコトとありますが弁財天のことです。芸術の神でもあり花柳界からの信仰が厚いようです。神社名の「巽」は元の鎮座地から遷座した際に本殿の巽の方角に置かれたので「巽神社」となったようです。本殿向かって左側に鎮座の摂社はここまでです。
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狛犬が置かれているのが「東照宮」です。徳川家康公を祀る東照宮は全国に数多くありますが大國魂神社は徳川家の庇護も厚く、近くには徳川家の御殿が造られ鷹狩りが行われていました。さらには家康公を久能山から日光へ移す際にこの地で過ごされた事から元和4年に徳川秀忠の命で造営されたと云われます。にしては地味ですが…(苦笑)。
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こちらは住吉神社と大鷲神社です。住吉神社のご祀神は表筒男命/ウハヅツオノミコト・中筒男命/ナタヅツノオノミコト・底筒男命/ソコヅツオノミコトで大阪住吉の総本社から分霊されています。大鷲神社のご祀神の大鷲大神/オオトリノオオカミは開運・商売繁盛の神として知られています。
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《神社は裏側は不可思議に溢れています》本殿の裏側の樹齢1000年ともいわれる大銀杏です。古社にはつきものの大銀杏とはいえ大変な巨木です。どれだけ多くの人々の願いを聴いてきたことでしょうか。大國魂神社は謂れは判りませんが北方向を向いています。晴れた日の午前中の写真は逆光気味となってしまいます。
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府中市・大國魂神社…(2)

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「武蔵国総社」と称される大國魂神社には様々な摂社が鎮座しています。京王府中駅から源頼義・義家親子が植えたとされる国名勝天然記念物「馬場大門欅並木」を進み、旧甲州街道を渡ると昭和26年の造られた高さ10m程の大鳥居と大國魂神社の社号標です。御影石の鳥居としては日本一と言われるようです。
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参道を進むと左に宮乃咩(みやのめ)神社のご祀神は天鈿女命(あめのうづめのみこと)、日本神話の岩戸隠れや転送ん降臨に登場する女神で「芸能の神」としても信仰されています。創建は大國魂神社と同年代のようで、源頼朝の妻の北条政子の安産を祈願したとされ「安産の神」で知られ”柄杓”を奉納するようです。本殿の造りが只者ではありません。
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「隋神門」手前の「手水舎」です。右側にという事は参道は右側通行なのでしょうが、神社HPでは記録に残る資料では神域のあちこちを移動しているようです。千鳥破風の屋根や多くの聖獣の彫刻など、ここまで立派な造りの手水舎はあまり見かけません。建物右の石碑は明治40年の「日露戦役記念碑」です。
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手水舎の向かい側には太平洋戦争時の郷土出征兵士を祀る「忠魂碑」と旧海軍の軽巡洋艦「多摩」の戦没者を祀る「軍艦多摩戦没者慰霊碑」です。Pt↓) 1.大鳥居を抜け右側の神戸(ごうど)稲荷神社です。旧町内名神戸の方々によるものとあります。2.)参道途中の「ふるさと府中歴史観」脇には「国史跡 武蔵国府跡」の石碑があります。国府はこの辺りからJR府中本町にかけてあったようです。
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府中市・大國魂神社

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府中は「武蔵国」の昔から政治経済の中心として、江戸時代には甲州街道「府中宿」として繁栄していました。この地に鎮座するのが「大國魂神社」です。神社HPでは創建は約1900年前の景行天皇41年(111年)とあり、大化の改新以降には武蔵国府が置かれ”国司”が武蔵国諸神を大國魂神社に祀ったのが起源のようです。”国司”が祭祀のたびに遠出するのが大変なので、この地にまとめて祀ったという事のなのでしょう。
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流造・切妻千鳥破風の拝殿です。慶長年間の徳川家康による社殿造営の際は幣殿(権現造?)があり、明治18年の改築時に現在の形式になっています。祀神の大國魂大神は大国主命と同神で、武蔵国の守り神として人々に衣食住、医療やまじないの術を授けられた神様で、今では福神・縁結び・厄除け・厄払いの神として知られています。
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工事中の為Pt)は2011年の撮影画像です。拝殿奥の本殿は東京都有形文化財指定で室町時代の神社建築様式の三殿一棟の姿を残しています。向かって左側(枝のかげ)は東殿として一ノ宮・小野大神、二ノ宮・小河大神、三ノ宮・氷川大神が、右西殿には四ノ宮・秩父大神、五ノ宮・金佐奈大神、六ノ宮・杉山大神が、中央の中殿には大國魂大神、御霊大神、国内諸神が祀られています。著名な六神を祀り「六所宮」とも称せられていました。
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一ノ宮(小野神社)は多摩市、二ノ宮の(二宮神社/小河大神)はあきる野市、三ノ宮(氷川神社)はさいたま市、四ノ宮(秩父神社)は秩父市、五ノ宮(金讃神社)は児玉郡、六ノ宮(杉山神社)は横浜市緑区と広大な武蔵国に点在しています。これでは国司の職務は大変です。一か所に集めたのは効率的と云えば効率的ですが…。
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神社の最寄駅は京王線・府中駅orJR府中本町ですが、京王府中の方が賑やかで食事処など豊富です。府中本町は史跡「国司館と家康御殿史跡跡広場」は最寄りですが、参道は「隋神門」脇に出てしまいます。Ptは旧甲州街道側の高さ10mの御影石製の大鳥居です。今の季節なら緑に囲まれた参道は気分の良いものです。参道途中の「宮乃咩神社/みやのめじんじゃ」は安産や芸能の神として人気があるそうです。
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平成23年に大國魂神社御鎮座壱千九百年(1900年)事業の一環で改築された「隋神門」です。高さ8.5m,幅2.5mで門扉だけでも高さ4.5m、幅4.7mあります。正面側には随神像、後面側には恵比寿・大国が納められています。隋神門の手前右側の「手水舎」はえらく凝った造りで各所にちりばめられた獅子、龍、獏、鳳凰などの聖獣の彫刻は実に見事です。
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隋神門と拝殿の間にあるのが「中雀門」です。朱に塗られた門は色彩的に異色感があります。塀は延べで80m、軒高2.5mで昭和44年に明治維新百年記念事業として改築されました。隋神門と中雀門との間には、お寺の「鐘楼」に対して「鼓楼」と呼ばれる時を知らせる太鼓を収めた建物があります。良く判らないのが左右に置かれた「亀石」と「鶴石」です。鶴と亀の姿でもなく鳥居の台座でもない自然石で恐らく「結界」を表すのでしょう。
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多摩市・小野神社…(3)

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調べていくと、お隣の府中市にも天下春命(あめのうわはるのみこと)・瀬織津比咩命(せつおりひめのみこと)の2柱を祀神とする『小野神社』があり『武蔵一之宮』を掲げているようです。この2社は多摩川の氾濫の度に遷座を繰り返した結果2社に分かれたのでしょう。つまり『武蔵一之宮』は大宮氷川神社・多摩小野神社・府中小野神社(さらには氷川女體神社との説もあり)があることになるのですが、東京・埼玉・神奈川に約200社ある氷川神社の総本社『大宮氷川神社』と比べる小野神社系はどうしても分が悪くなります。
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因みに『大宮氷川神社』のご祀神は須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命の3柱で、神社の社格としても延喜式での式内社、勅祭社。旧社格は官幣大社で現別表神社。宮中四方拝の一社。初詣の参拝者も埼玉県1位、全国でも10位以内の約210万人と圧倒的に異なります。神社に優劣をつけるのは意味のないことで長い年月を地域の人に崇敬され、今でもその地に鎮座しているのはそれだけで価値のあることです。
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拝殿・本殿の造り拝殿と本殿が離れている古い神社形式です。時代が下ると建物を繋ぐ幣殿が造られ「権現造り」となっていくので、それ以前の神社形式です。小野神社HPには明治10年代の神社の絵が掲載されていますが、やはり天津神の神社にしては朱色の派手な社となっています。朱色は稲荷神社のそれとも異なるようですが、勢いで塗ってしまったのとは違うようです。同HPには大正15年に失火により全焼し、昭和2年に本殿、拝殿が再建された旨の記載がありした。
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多摩市・小野神社…(2)

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『武蔵一之宮・小野神社』と『武蔵一之宮・大宮氷川神社』の両一之宮は元祖と本家の様な対立関係ではありません。武蔵国総社の『大國魂神社』が造られたとき武州六大明神として一之宮小野神社(多摩市)・二之宮小河神社(あきる野市)・三之宮氷川神社(さいたま市)・四之宮秩父神社(秩父市)・五之宮金鑚神社(児玉郡神川村)・六之宮杉山神社(横浜市)が祀られ、この時点では大宮氷川神社は三之宮となっています。ここらが一之宮論争の論拠のようです。一之宮小野神社(多摩市)と大國魂神社(府中市)は距離的く、大國魂神社に多くの参拝者が集中することから一之宮をさいたま市に移したのではないでしょうか。
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神社の優劣を比べるのは意味のない事ですが、どうしても慣れ親しんだ大宮氷川神社と比べてしまいます。それにしても驚かされるのは小野神社の『隋神門』です。この門が再建されたのは昭和39年とありますが、門に施された彫刻の見事な事!ざっと見とも青龍・朱雀。白虎・玄武と思われる四神、十二支の動物達、さらには風神。雷神らの神獣が文字通り白く光る眼をこらして神域を守っています。
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武蔵一之宮・小野神社

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『一之宮』とは飛鳥時代から明治初期まで日本の地理区分の基本であった「令制国」で一番社格の高い神社をいいます。 1)令制国1国に1社   2)祀神は国津神の神々もしくは地元住民の崇拝強い地元神   3)延喜式神名帳に記載された式内社であることなどの規定はあるのですがそうはいかないのが如何にも日本的です。武蔵の国一之宮といえばさいたま市の『氷川神社』を指すのが一般的ですが、多摩市一ノ宮町に鎮座する『小野神社』も武蔵一之宮を称しています。京王線・聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩10分程度。氷川神社に比べると神域はコンパクトに感じの神社です。
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本家と元祖とかの関係では薄く、小野神社の主祀神は天下春命(あめのうわはるのみこと)・瀬織津比咩命(せつおりひめのみこと)・伊弉諾尊・素盞嗚尊らの天津神です。国津神の大己貴大神(大国主)も祀ら、さらに境内社の神々までいれればかなり賑やかな状況となっています。「多摩市にも武蔵一之宮が」と簡単な気持で出かけたのですが、思いのほか興味深い神社のようです。=続く=

東伏見稲荷神社

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東京近郊には東松山や東久留米のように【東】がつく地名があります。西東京市の『東伏見稲荷神社』も京都に対しての【東】が付けられています。創建由来が、関東の稲荷神信者により中島飛行機の社有地に京都の総本社から昭和4年(1929)に勧請し創建されたそうです。神社の創建されたことにより地名も変更され、西武新宿線の最寄駅も「上保谷」から「東伏見」に変更されています。こうなると否が応でも京都総本社のイメージが浮かんでくるのですが、実際はかなり残念な現実がありました。西部新宿線の「東伏見駅」は急行すら止まらず駅前には門前町の雰囲気はなく”一の鳥居”があるのみです。神社までは徒歩10分程度ですがお土産屋も食事処も茶店も一切ありません(!)
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青梅街道との交差点近くまで来ると丘の上に朱の鳥居が見えてきます。この景色が「新東京百景」に選ばれているそうです(笑)。階段を登り門を抜けると本殿が見えてきます。ご祀神は宇迦御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神の稲荷の代表的は三神です。本殿裏には朱の鳥居が林立する摂社も数多いのですが、正直、関東における「伏見稲荷東京別院」と称するなら物足りないとしか表現できません。最寄りの駅から参道を歩き神社へ向っていくわくわく感はまったく無く、京都の”あのイメージ”は微塵もありません。
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