旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

稲荷神社

狐と馬が…矢先稲荷神社

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台東区松が谷2丁目の「矢先稲荷神社」です。五穀豊穣を司る「倉稲魂命」と七福神の「福禄寿」が祀られています。倉稲魂命=伏見系の稲荷社なのですが神使(眷属)の狐はおりません。Pt↑)拝殿の格天井には神武天皇から昭和までの馬とゆかりの人物や馬の姿、武具、服装などが精密に描かれた「日本馬乗史」が設えてあります。解説には昭和39年に「海老根駿堂画伯」により約5年の製作期間を経て昭和39年に奉納されたとあります。天井画なので若干の距離もあり見上げ続けるのは結構シンドイ思いをします。(社務所に「日本馬乗史絵」なる図説/¥1200がありました)
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由来によると、寛永19(1642)年に3代将軍徳川家光により武道の練成のため、三十三間堂がこの地に建立建立されました。この堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど”的の先”になることから「矢先稲荷」となったそうです。元禄11年(1698)年の江戸大火で焼失し、三十三間堂は深川に移転するも稲荷社は再建され、関東大震災や東京大空襲などの困難をへて現在に至っています。
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品川・高山稲荷神社

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JR&京急の品川駅は品川区ではなく港区なのは有名な話ですが、駅前の第一京浜に張り付くように「高山稲荷神社」があります。青森県つがる市にも「高山稲荷社」という広大な神社があり分社かと思ったのですが違うようです。ご祀神は「宇迦之御魂神」で京都伏見稲荷大社からの分霊、元々は品川の海を見渡す丘の上にあり「高山稲荷」はここからのようです。明治初年に毛利家屋敷の拡充により代替地として現在の場所に移っています。その後は第一京浜国道の拡充やらなどで次第に社地が縮小されていますが、品川の海を見渡す絶好の地であったのは想像できます。
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狛犬の台座には「慶応年間」の文字と寄進者名前が刻まれ歴史を感じさせられます。Pt↑)の手水舎奥には港区による文化財 高山稲荷神社 石灯籠(おしゃもじさま)と書かれた搭がありました。「おしゃもじさま」とは縁結びの神なんだそうですが、ありがちですが由来については判らないようです。この石灯籠の説明文にはは元は切支丹灯籠であり、高輪海岸で処刑された外国人宣教師の供養のため造られたとか海中より出土したとの説とありますが、切支丹屋敷は茗荷谷(文京区)にあったので、この伝承は”違うのではないか”との印象を受けます。
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四谷・於岩稲荷の怪

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新宿区左門町、四谷警察の裏に「四谷怪談」で有名な於岩さん縁の稲荷社が道路を挟んで10数mの位置に「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」の2社の於岩稲荷が並んでいます。両者の縁起をみると”本家”と”元祖”の様な関係ではないようです。「四谷怪談(東海道四谷怪談)」は、実在の於岩さんの没後200年ほど後に『4代目鶴屋南北』により創作されたお話です。タイトルの「東海道四谷怪談」の”東海道”は四谷の田宮家とは関係ないことを現したつもりなのですが、年月を経てグチャグチャになってしまいました。
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「於岩稲荷田宮神社」は元禄時代の田宮家の敷地にあったようです。於岩さんと婿養子の田宮伊右衛門は仲のよい夫婦であったそうですが本人没後の200年を経て「東海道四谷怪談」でとんでもない姿となるとは…。本人が知ったら激怒するでしょう。 四ツ谷に於岩さん縁の稲荷社が2社でもややこしいのですが、中央区新川にも「於岩稲荷田宮神社」があります。こちらは『東海道四谷怪談』を上演のたびにお参りに出向いていた歌舞伎役者達が明治12年の四ッ谷の火事でお岩稲荷が焼失したのを機に移転させています。つまり正当なる於岩稲荷は中央区新川という事です。四ッ谷の於岩稲荷田宮神社は田宮家旧地の昭和27年に復活したものです。実在の於岩さんの墓所は都電『新庚申塚駅』を近くの「妙行寺/みょうぎょうじ」にあります。墓所の案内板には『異説』とも思われる記載があり、話はますますと”怪談”じみてきます。
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赤羽・作徳稲荷大明神

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昨今の「北区・赤羽商店街」の変貌ぶりには驚かされます。昔は旧軍の火薬庫や被服工廠がや駐屯地があり近年は大手の印刷工場がある街で、マックから入る「1番街」は印刷工場の夜勤明け工員が朝から飲める居酒屋がありました。なんという事でしょう!居酒屋文化は滅びるどころか「千べろ=1000円でベロベロ」の流行で昼酒OKの店が増え商店街の様相も変わっています。真昼間から若いねえちゃん達が酔っているのですから(苦笑)。この国は大丈夫でしょうか?
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1番街を進みます。巨大な”おはぎ”で有名な伊勢屋の少し先の屋上(Pt↑)に「作徳稲荷大明神」は鎮座しています。TVなどにも登場しますが社殿がとんでもない場所にあり「近づけない!」で有名な神社です。7/11の上に「作徳稲荷大社」の看板があり参道(?)に神社のご由緒(Pt↓)が掲げてあります。昭和5年に鍵屋染物店の当主が建立、昭和34年のビル建設時に屋上に遷座したと書かれています。立入禁止や要許可の表示はないので階段を登り屋上に出ると稲荷社は鎮座していますがお社は少し下がった隣のビルにあり金網越しでの参拝となります。銀座辺りでは屋上の稲荷社は珍しくはないのですが「お社に近づけない神社」とはこういうことでした。道路から望遠で追っても神社の一部と旗しか見えません。
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浅草の街神社…(4)

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台東区西浅草4丁目の浅草ビューホテル近く、国際通りに面して『感応稲荷神社』があります。創建時期不明だそうで、元々浅草柴崎町(この辺り)あった神社がその後数回の遷座を繰り返し結局元の場所に戻って来たようです。これといった特徴は無く神官も常駐でなく浅草神社が兼務しています。この規模の神社には珍しく手入れが行き届いています。いまでこそ付近はラブホテル街となりましたが、近くの浅草ビューホテルは元浅草国際劇場なので踊子さんたちもお参りしていたことでしょう。Pt↑)のきつね像(左側)際立った特徴があるわけではないのですがいい雰囲気です。
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浅草の街神社…(3)

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台東区浅草3-19-6にある『箭弓稲荷神社』です。浅草寺の裏の雷5656会館の裏手辺りですが見つけにくい稲荷さんです。由緒書などはなく辛うじて社額と社殿に「箭弓稲荷社」の文字があり判別ができます。黒門町の箭弓稲荷と同様に埼玉県の箭弓稲荷神社の分社と思われますが、ご祀神が「保食命」なのか「宇迦之御魂神」すら分かりません。
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『箭弓稲荷神社』のほど近く浅草三業会館に稲荷神社が鎮座しています。三業とは明治以降に料亭(飲食提供可)・待合(飲食提供不か)・芸妓屋(芸者プロダクション)で、この地区が「花街です。浅草は向島に次に芸妓数が多いとされますが、浅草三業や芸妓の守り神として鎮座しているのでしょう。
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浅草・被官稲荷社

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安政元年(1855)、江戸町火消しの頭であった新門辰五郎の妻が重病となったおり、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ病気は全快したそうです。そのお礼の意味も込め伏見稲荷神社から分霊して創建されたのが『被官稲荷神社』で浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の「被官」とは”官を被(こうむ)”から就職・出世にご利益があるようです。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。社は創建時のもので「一間社流造」という神社本殿形式になっています。覆堂は大正時代に造られたようです。
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また、様々な形式の神使の狐があちこちに見られます。親子狐・鍵や玉を咥える狐。社額は石造りで狐が付けられています。本殿の隣にずらりと並んだ通称『お姿』は壮観で、これだけ並んでいるのは豪徳寺の猫くらいなもんです。浅草神社によると「浅草神社は九つの神社を兼務している」そうです。うち6社は「稲荷社」という構成です。
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台東区・箭弓稲荷神社

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東松山の箭弓稲荷神社の御由緒には【享保年間には隆盛を極めて遠方よりの参拝者がご訪れ、江戸地市中では日本橋小田原町を 中心に「箭弓稲荷江戸講中」が盛んであった】とあります。台東区の箭弓稲荷社も明治年間に東松山・箭弓稲荷神社から分霊こそされていますが、元は石川主殿頭の屋敷稲荷で3代徳川家光の時代に家光より”銀杏”が下賜され「銀杏稲荷」を名乗ったことに始るようです。Pt↑)鳥居がなければ神社とは分らない規模の神社です。鳥居を潜ると落語家など氏子の名前の奉納額が掲げられています。面白いことにはこちらの由緒案内にはご祀神が保食命ではな宇迦之御魂神になっています。まぁ同一とされる神様ですから良いのでしょう(苦笑)。
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東伏見稲荷神社

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東京近郊には東松山や東久留米のように【東】がつく地名があります。西東京市の『東伏見稲荷神社』も京都に対しての【東】が付けられています。創建由来が、関東の稲荷神信者により中島飛行機の社有地に京都の総本社から昭和4年(1929)に勧請し創建されたそうです。神社の創建されたことにより地名も変更され、西武新宿線の最寄駅も「上保谷」から「東伏見」に変更されています。こうなると否が応でも京都総本社のイメージが浮かんでくるのですが、実際はかなり残念な現実がありました。西部新宿線の「東伏見駅」は急行すら止まらず駅前には門前町の雰囲気はなく”一の鳥居”があるのみです。神社までは徒歩10分程度ですがお土産屋も食事処も茶店も一切ありません(!)
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青梅街道との交差点近くまで来ると丘の上に朱の鳥居が見えてきます。この景色が「新東京百景」に選ばれているそうです(笑)。階段を登り門を抜けると本殿が見えてきます。ご祀神は宇迦御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神の稲荷の代表的は三神です。本殿裏には朱の鳥居が林立する摂社も数多いのですが、正直、関東における「伏見稲荷東京別院」と称するなら物足りないとしか表現できません。最寄りの駅から参道を歩き神社へ向っていくわくわく感はまったく無く、京都の”あのイメージ”は微塵もありません。
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箭弓稲荷神社…(終)

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広い敷地なのですが摂社、境内社が少ないようです。Pt↑)は穴森稲荷(団十郎稲荷)で7代目市川団十郎 に所縁の稲荷社です。7代目団十郎とは江戸・化政年間から天保年間に活躍したの歌舞伎役者です。7代目は狐を題材とした演目を興行すると、稲荷大神の加護のもと大盛況で興行を終えられたそうです。そんな縁から文政4年(1821)社が奉納されています。
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敷地内には宿泊施設や例年4月には約3,500㎡の園内に約1300株の牡丹が咲く「ぼたん園」があります。大正12年(1923)の東武東上線坂戸~東松山間の開通記念にして東武鉄道から牡丹・藤・松などがを奉納されたのが始まりらしいです。まぁ、花の時期なら見事なモノでしょうね。Pt↑)はぼたん園の奥に鎮座する「天神社」です。
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本殿左側のぼたん園の方向に、異なる木が根元だけが一ツに繋がっているという、珍しい大木があり”縁結びのご神木”とされています。ご神木のしたにはキツネのマスコット「やっくん&きゅうちゃん」です。これだけの古社でも「キャラクター」に走るのでしょうか?
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「箭弓」の音が「野球」に繋がるというのでプロ関係を始め野球関係者の参拝が多いとあります。甲子園出場やら試合勝利や贔屓の選手の活躍祈願なんてのもあり、西武ライオンズ関係者も訪れるそうです。神社参道には幟が林立して盛り上げているようですが1300年の古社が野球の神とは馬鹿な話です。
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箭弓稲荷神社…(3)

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Pt↑)は社殿の裏の『元宮』です。創建当時の名称は「箭弓」ではなく「野久」だったようです。長元3年(1030)に源頼信と平忠常の戦いの際、源頼信が布陣した近くの「野久稲荷大明神」で戦勝祈願を行い【白羽の矢型の雲が敵陣に向かうのを見て】チャンスとばかりにせめこんで大勝利!快勝の御礼に社殿を奉納したという故事があるそうです。つまり神社yは長元3年以前から存在しているので、関東の神社にはありがちな八幡太郎義家や太田道灌より遥か以前の話となります。ご祀神の稲荷神は1)保食神(うけもちのみこと)。厄介な神様で日本神話の「日本書記」に記載があり「古事記」にはありません。豊受大神は「古事記」にあって「日本書記」にはありません。さらにややこしいのは宇迦之御魂神は「古事記」では宇迦之御魂神で「日本書記」では倉稲魂命として記載されています。保食神・豊受大神・宇迦之御魂神(倉稲魂命)は同一の神様とされますがとても同じ神様とは思えません。他にも仏教系(曹洞宗)の陀羅尼天も稲荷神ですからややこしさが増します。まぁ例外が多く厳格な規定が有るわけではないので「適当に」でよろしいかと思います。Pt↓)は露光不足ながら本殿に施された彫刻の様子です。江戸から離れた地の「稲荷社」としては見事な彫刻が施されています。

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箭弓稲荷神社…(2)

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箭弓稲荷神社の創建が伝承の様に和銅5年(712)ならば社歴が1300年を越します。稲荷神社としては武蔵野国の最古社と称するのも頷けます。「日本五大(三大とも)稲荷」とも伝わり、古くから近郊の松山城主や川越城主の崇拝を受け、江戸時代には関東一円からの箭弓稲荷講で賑わった時代もあったようです。昨今は箭弓=野球のの音から野球関係者の参拝が多いようで「バット型の絵馬」や「ホームベース型の絵馬」、おみくじもPt↓)の硬球型なんてのも用意されています。さらには神社の参道には西口商店街による”全国高校球児・目指せ甲子園!”の幟が林立し賑やかです。
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箭弓=野球の”こじつけ”はまだ笑えますが、参集殿に展示されているギネス世界記録認定の「世界最大の木製スタンプ=御朱印」はどうかと思います(苦笑)。高さ1.42m・印面1.3mだそうで、いくら世界に類を見ないといってもあきれ返って言葉にもなりません。こんなバカげたことをする寺社はないでしょうから当面は安泰でしょう。 拝殿の前、距離は離れていますが”キツネ像”が置かれています。左側のキツネはクネクネ型で台東区下谷の「小野照崎神社」で見たことがあります。右側のキツネは子連れです。この形式のキツネ像はレアな部類に入ります。
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箭弓稲荷神社…(1)

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池袋から東武東上線というなじみのない路線で1時間ほど、小江戸・川越の先「東松山駅」に到着です。ここ『箭弓(やきゅう)稲荷神社』は駅から徒歩5分ほどにあります。Mid埼玉ということで期待薄でしたが、とんだ勉強不足でなんとも「やばいよっ!やばいよっ!」の稲荷社でした。ご祀神は保食神/ウケモチノカミ(伏見系での宇迦之御魂神・伊勢系での豊受比賣神と同一神と云われますが)です。3系統の神社は雰囲気が異るのですが深入りはやめておきます。和銅5年(712)に小さな祠として創建とありますがこれは伝承の世界でしょう。旧社各は県社、神社本庁の別表神社なのですが、Pt↑)のようにそこらの稲荷社とは神域のあきらかに雰囲気が違っています。
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Pt↑)のように拝殿・幣殿・本殿が一直線に並ぶ「権現造り」と思われます。拝殿に「流れ」が付けられた形式になっており、一般的は権現造りとは少し異なります。資料には本殿は正徳5年(1715)・幣殿は文化8年(1811)・拝殿は天保6年(1835)の建造とありその差が120年あることになります。この本殿に施された『彫刻群』がなんとも素晴らしいのですが、残念ながら梅雨曇りの天気でまともなPtがありません。
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Pt↑)は三の鳥居なのでしょうか(?)なんと明神系鳥居にの袖柱が付けられた「両部鳥居」になっています。これだけの古社ですから昔は神域も広大だったのでしょうが、この場所だけが両部鳥居で、しかもPt↓)のよう社額に鞘堂のような物が付けられています。正直なところ数多くの稲荷社をめぐってきましたが、この様な形式の鳥居は初めて見ました。
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返す返すも曇天なのが残念至極です。箭弓が野球に通ずるとのことで人気の神社程度の認識は崩れていきます。拝殿・幣殿・本殿に施された彫刻は素晴らしく、埼玉県唯一の国宝・妻沼の聖天様の極彩色での復活も素晴らしいのですが、箭弓稲荷社の彩色のない彫刻も甲乙つけがたい作品群です。Pt↓)極々普通の稲荷社だと思っていたのですが・・。
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浅草の街神社…(2)

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「無事富稲荷神社」からほんの数m(台東区1-14まで同じです)に「御手洗稲荷神社」があります。困った事には由緒を始め”神社情報”がまったくありません。社額には「御手洗稲荷大明神」とあり稲荷社であることは確実ですが、まさか「おてあらい」とは読まないでしょうがそれすら分かりません。さらには入口の柵は施錠されていて境内に入ることすらできません。まぁ飲食街のことなので酔客がトイレ使いしたり寝込んだり対策での施錠でしょうが、参拝のできない神社というのも微妙です。付近で聞き込みをすれば由緒など判明するのでしょうが・・。
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浅草の街神社…(1)

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台東区浅草1丁目の『無事富稲荷神社』です。すしや横丁へ向かう食通街と称する場所にあるのですが、Pt↑)のようになんともこじんまりとした稲荷社です。困ってしまうのは二文字目がGoogleの地図検索では「無富」とあり神社では「無事富」となっています。となると「ぶじとみいなり」で良いのかとの疑問も生じてきます。神社の由来や社歴に関する掲示は一切ありませんが、神社前の旧町名由来案内にはこの近辺は以前は「旧)浅草新畑町」と云い、浅草寺境内の畑地として農作物を作っていたとあります。これでは稲荷社との関連のヒントにもなりませんが、「今年も無事に豊作でありますように」と云った感じなのでしょうか(苦笑)。
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日本橋・大原稲荷神社

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中央区日本橋兜町、位置的には中央警察署の前あたりの「大原稲荷神社」です。大原会館と称するビルの敷地にあり両者の関連性が伺えます。創建年代は不明とありますが、社殿の裏手の高速道路は以前は楓川(もみじがわ)運河ということで運河を利用した近隣会社の信仰を集めたと想像されます。社殿裏には一部が焼け焦げた銀杏の巨木や、富士塚とも思われる石積には風化したきつね像が置かれていて、こちらが元宮だったのでしょう。面白いことには神社の社格は「天一位大原稲荷神社」とあり一般的な稲荷社の正一位より上位なのでしょうか?
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兜町・兜神社

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日本橋兜町の東京証券取引所の裏手に商業の守護神としての倉稲魂命と恵比寿・大黒を合祀する「兜神社」があります。創建は後三年役や前九年役での神社創建が大好きの「八幡太郎義家」の欧州征伐に関係するとか、承平の乱での藤原秀郷と平将門に関連するとかあるようですが怪しい伝承のようです。明治4年には三井物産の前身の東京商社が兜町の鎮守として兜神社を創建、明治7年には源義家を廃して、向島から三井の鎮守三囲稲荷を分霊、さらに恵比寿・大黒を合祀しています。明治11年には東京証券取引所の前身の東京株式取引所が氏子総代になり企業絡みの神社となっています。そんなこともあり神社の神域、紋章、社殿のどれをとっても一般の稲荷社とは違っています。Ptの感じとは違いさほど広いわけではなく大名屋敷稲荷程度の広さしかありません(苦笑)。
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新宿・花園神社・・(2)

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花園神社から距離にして500mほどの新宿2丁目16番にPt↑)の花園神社に合祀された「雷電稲荷神社」が残っています。「受持神」を祀神とする雷電稲荷は昭和3年に花園神社に合祀されているのですが、いつのまにやら合祀前跡地に神社が再建されていたという不思議と云えば不思議な神社です。神社の由緒によると源義家が奥州征伐に行く途中、ゲリラ雷雨に遭遇、雨宿りをしていると1匹の白狐が現れ、義家の前で3回頭を下げたところ雷雨が止んだのというお話により雷電稲荷神社が創られたという伝承があるようです。何故か豪徳寺の招き猫伝承と酷似しています。『白狐が出てきて頭を下げたら雷雨が止んだ』→登場したのが白狐だったので稲荷大明神を祀ったんですかねぇ(苦笑)。合祀先の花園神社にしても、尾張様の屋敷内稲荷社として創建→後に別当寺を三光院が務めたことから三光稲荷→花畑に因んで花園稲荷→明治の神仏分離により三光院と別れ→大正5年に花園稲荷社→昭和3年に雷電稲荷神社を合祀→昭和40年に大鳥神社を合祀→花園神社と改称。なんとまぁ忙しい社歴です。
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新宿・花園神社・・(1)

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この地が「内藤新宿」と呼ばれた江戸時代から新宿総鎮守として知られる「花園神社」です。創建由緒は不明とあり、元々はやや南の現伊勢丹付近にあったようです。その後尾張藩下屋敷(現在地)に移り、花が咲き乱れる花園があった事から「花園(稲荷)神社」となったようです。ご祀神は倉稲魂命の花園神社、日本武尊の大鳥神社、受持神の雷電神社の三柱となっています。新宿という土地柄もあるのでしょうが、神社には妙な点が多々あります。下のPtに靖國通りに面しての鳥居がありますが元々はこちらが正参道だったようで、朱の鳥居は本殿を建て替えた際に付け替えています。本殿が一の鳥居に正対していない理由はこれのようです。(Pt↓3)の碑には「雷電稲荷神社」とあり雷電稲荷がここにあったようです。ご祀神に伏見系稲荷社の倉稲魂命と伊勢系稲荷社の受持神の二柱が合祀されていますが雷電神社は稲荷を表していません。表現が微妙ですが、珍しい事例の神社史があるようです。
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玉造稲荷社と豐榮稲荷神社

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なんでも金王八幡宮摂社の『玉造稲荷社』は誰が言い出したのか、都内有数の金運パワースポットなんだそうです。玉造るから金造るとかいうのではないでしょうが・・。一般的には五穀豊穣、商売繁昌、金運の神さまとして崇敬されている稲荷社ですが、玉造稲荷社のそのパワーが強くこちらだけ参拝して帰る人もいるらしいのですがまさに『違うだろぅ~』です。
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金王八幡宮に隣接し道を隔てて『豐榮(とよさか)稲荷神社』が鎮座しています。この稲荷社は昭和36年(1961)に渋谷のいくつかの神社が合祀されたもので、辿ると道玄坂にあった「豊澤稲荷大神」が渋谷川沿稲荷橋付近の「田中稲荷大神」が合祀、街の変遷により巡り巡ってこの地へ移ってきたようです。扁額には「田中稲荷大神」「豊澤稲荷大神」併記され境内の庚申塔は田中稲荷にあった江戸時代のモノです。
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