旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

稲荷神社

玉造稲荷社と豐榮稲荷神社

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なんでも金王八幡宮摂社の『玉造稲荷社』は誰が言い出したのか、都内有数の金運パワースポットなんだそうです。玉造るから金造るとかいうのではないでしょうが・・。一般的には五穀豊穣、商売繁昌、金運の神さまとして崇敬されている稲荷社ですが、玉造稲荷社のそのパワーが強くこちらだけ参拝して帰る人もいるらしいのですがまさに『違うだろぅ~』です。
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金王八幡宮に隣接し道を隔てて『豐榮(とよさか)稲荷神社』が鎮座しています。この稲荷社は昭和36年(1961)に渋谷のいくつかの神社が合祀されたもので、辿ると道玄坂にあった「豊澤稲荷大神」が渋谷川沿稲荷橋付近の「田中稲荷大神」が合祀、街の変遷により巡り巡ってこの地へ移ってきたようです。扁額には「田中稲荷大神」「豊澤稲荷大神」併記され境内の庚申塔は田中稲荷にあった江戸時代のモノです。
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失猫祈祷‥三光稲荷神社

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中央区日本橋堀留町2丁目、大通りから少し奥まった場所に「三光稲荷神社」があります。元禄年間に中村座に出演中の大阪の歌舞伎役者が伏見稲荷より勧請したとされています。今は路地裏のひっそりとした稲荷神社という感じになっていますが、路地入口には「三光稲荷神社参道」との立派な碑がたっています。ご祀神は三光稲荷大神と田所稲荷大明神の稲荷神、田所大明神が合祀されています。江戸落語には「三光新道」や「三光神社」が登場している稲荷社です。面白いのは、本殿脇に猫の置物が数十体置かれています。これは・・【古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多くことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う】・・とあります。神社参道の石碑や猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に奉納されたようです。飼い猫行方不明→捜索するも万策尽きる→三光稲荷神社で祈祷→猫無事帰還と云う事になります。今でも祈願を依頼する方もいるようでご祈祷には『愛猫名、年齢、不明となった日時経緯』が必要となります。境内に神使のきつね氏がいないのは迷い猫の捜索活動中で留守なのでしょうか?。”探偵は三光稲荷にいる”です(笑)。
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馬橋稲荷神社

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日頃は港区・千代田区の仕事が多く杉並・世田谷方面にはどうしても縁が薄くなりがちです。今回訪れたのは杉並区の『馬橋稲荷神社』です。JR中央線・阿佐ヶ谷駅下車徒歩10分程(高円寺駅からでも同じくらいです)。ここらも農道の跡なのでしょうか、狭く曲がりくねった道なので方向がイマイチ掴みにくいようです。住宅街にいきなり朱塗りの鳥居が現れます。一の鳥居から参道が150mほどで随身門。大きな鈴が吊ってあります。そして本殿へ・・。正直、杉並区にこれほど素敵な稲荷社があったとは驚きです。参道の並木が冬枯れているのは残念としても、長い年月地元の人達に寄り添ってきた神社の姿が感じられます。
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創建は鎌倉時代末期とされ旧馬橋村の鎮守で、ご祭神は宇迦之御魂 神と大麻等能豆神です。現在の社号は昭和40年の住居表示改正により「馬橋」の地名が消滅するのを憂いて『馬橋稲荷神社』に変更されそうです。Pt↓)の一の鳥居&二の鳥居、さらに二の鳥居には判りにくいのですが、高さ8mで見事な昇り龍と下り龍が彫られています。なんでもこの馬橋神社、品川神社ともう一社にしかなく”東京三鳥居”といわれています。拝殿の神使像には「願掛けキツネ」が多数ならんでいました。
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花魁・高尾稲荷神社

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中央区日本橋箱崎町10-7の『高尾稲荷神社』です。番地を入れておかないと見逃すほどこじんまりとした稲荷社です。この稲荷社には江戸万治年間に吉原三浦屋の遊女として有名な「二代目高尾太夫」が祀られ、ご神体は高尾太夫の頭蓋骨という神社です。遊女の最高位『傾城』であった齢19歳の高尾太夫は仙台藩伊達綱宗公により身請けされるのですが、意中の男に操をたてて伊達綱宗公を振ってしまいます。怒った綱宗公は太夫を「吊斬り」にして隅田川に遺棄、事件に同情した人達により高尾稲荷社として祀ったという謂れがあります。
「花魁」や「太夫」と仲良くするには初回の顔合せ・裏を返して・馴染みと段階が必要で、通い詰める根性と財力が必要となります。伊達の殿様はどれだけの日々とお金(恐らくは現在の億単位)をつぎ込んだことでしょう。挙句に振られたのでは激怒するのは当たり前です。三浦屋(所属事務所)はタレント(高尾太夫)を説得できなかったのでしょうか?もしかすると両者はグルで伊達の殿様を騙したとも考えられます。
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都の西北・水稲荷神社

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新宿区西早稲田の「水稲荷神社」です。参道から本殿、本殿裏の摂社や富士塚などいかにも古社の風格がありますが、昭和38年(1963)に早稲田大学との土地交換により引っ越してきた神社です。元は早稲田大学の構内にあり「冨塚稲荷」と呼ばれていたのが、神域に元禄15年に霊水が湧き出したことで『水稲荷神社』と改名、眼病や水商売、消防の神様として有名だったようです。この地へ鎮座してからそれほどの年月ではないのですが、雰囲気は古社ならではの重厚感が漂っています。
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社殿左側に見事な飛翔型のきつね像があります。「耳欠け狐 身体の痛い所を神狐と交互に撫でると痛みがやわらぐといわれます」と案内板があります。さらに社殿裏には「戸塚の町名の起源となった富塚古墳」があるのですが、驚くことにはこちらも神同様引っ越してきたようです。
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現 水稲荷社の敷地は、徳川御三卿・清水家の下屋敷で、区立公園の『甘泉園公園』の敷地の一部のようです。現在でも大名屋敷の面影を残しているとのふれこみなのですが、区立公園の限界なのでしょうか、手入れの悪い荒れ果てた感じがあります。
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文京区・澤蔵司稲荷

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文京区小石川の澤蔵司(たくぞうす)稲荷にも面白い伝承があります。「稲荷社」でありながら実際は浄土宗の「慈眼院」というお寺で、徳川家康の生母・於大の方や千姫の墓所の徳川将軍家の菩提寺「傳通院」の末寺なのです。その傳通院に太田道灌が江戸城内に勧請した「稲荷大明神」が修行僧の「澤蔵司」に化けて修行に入り、浄土宗の奥義を僅か3年で極めたのですが、尻尾を出して寝ていたので正体がバレてしまい寺を去ったという話で、去り際「私を祀りなさい」と言い残したため「慈眼院」に祀られたそうです。
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そんな事から「無量山傳通院鎮守・澤蔵司稲荷」が正式名称です。山門を入ると、お寺なので鳥居はありませんが、眷属の「キツネ」はおります。本堂軒下には「白狐」が見られます、本堂脇の窪地には稲荷社ではよく見かける「お穴様」が・・。さらにはお寺近くの「むくの木」の巨木には澤蔵司が宿るとされ、修行中の澤蔵司はこの木の葉をお金に変えて、傳通院前の蕎麦屋「萬盛」で大好物の天婦羅蕎麦を良く食べたそうです。悪い奴(キツネ)です。「萬盛」は現存していますが残念ながら休業日でした。
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赤坂・美喜井稲荷神社…3

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豊川稲荷東京別院まで来たので青山通り(246号)の反対側、現在改築中の「虎屋」のお隣の「美喜井稲荷神社」にも立寄ってみました。3回目の訪問ながらも委細不明、調査の進展はありません(苦笑)。Pt↑)のように虎屋が改築中なもで稲荷社の全貌が良く見えます。ご覧のようなこじんまりとした稲荷社です。元々稲荷社は人々の生活に寄り添うような身近な神様として祀られ、「五穀豊穣」の神様が商売繁盛や火災予防、甚だしくは「迷子猫の捜索」までお願いされるようになりました。この美喜井稲荷神社にしても「火事を知らせて飼い主を救い、自分は焼け死んだ猫の霊を祀ったもの」との伝承もあるようですが定かではありません。
Pt↓)劣化が進んだのでしょうか、猫の像にカバーが掛けられています。相変わらず摩訶不思議な彫刻です。案内板には『美喜井稲荷のご守護神は京都の比叡山から御降りになりました霊の高い神様です。この神様にお願いする方は蛸を召し上がらぬこと。この神様を信仰される方はなにも心配いりません』と書かれています。
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港区・豊川稲荷東京別院

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久しぶりの港区元赤坂の『豊川稲荷東京別院』です。名称のとおり愛知県の豊川稲荷の東京別院、曹洞宗のお寺です。創建者はあの「大岡越前守忠相」で元々は赤坂一ツ木の藩邸内にあり、1887年に稲荷社をこの地に移転したとされています。いまさらですが『稲荷社』には、五穀豊穣の神「倉稲魂神」を祀る伏見稲荷社の神道系と仏教系の吒枳尼天(だきにてん)を祀る豊川稲荷の仏教系の二系統があり、どちらもお使い(秘書官)は『狐』とされています。豊川稲荷から246号を挟んで反対側には説明に困ってしまう「美喜井稲荷」もありますが・・。
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ここ豊川稲荷は名称の通り神社でなく曹洞宗の『お寺』です。そんなわけで境内は見慣れた稲荷社とは鳥居の数が少ない等の雰囲気がやや異なります。赤坂見附側には神道系の鳥居は殆どありません。敷地の途中からが神道系の稲荷社のようです。お使い(眷属)は一緒なので境内には狐の像がワンサカとあります。Pt↑)の狐像の大きい事(!)。耳が強調されて一種異様な姿をしていますがデザイン的にはどうなんでしょう。神使(狐)が同じで神様が違う神社とお寺が同じ敷地にあるという考えて見れば不可思議な場所です。
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東上野・下谷神社

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東上野3丁目の下谷神社です。浅草通りに面した大きな鳥居を有していますが、その割には本殿はこじんまりとしています。ご祀神は大年神(誰?)と日本武尊。神社の創建は天平2年(730年頃)とされ、けっこうな古社です。東京メトロ銀座線・稲荷町駅が最寄駅とですが、この「稲荷町駅」の駅名は下谷神社が古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と称する都内最古の稲荷社だったことにより、おみくじが『キツネおみくじ』ってのも「おぉそうきたか」という感じです。神社の歴史で主祀神が入れ替わるのは珍しい事ではありませんが。下谷稲荷社→下谷神社に下谷稲荷町→東上野に変わっても駅名に記憶が残っているのは面白いと思います。社内には「寄席発祥の地」の石碑があります。1700年代に神社境内で初めて寄席が開かれたことによります。
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川越・民部稲荷神社…(2)

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川越で「丸広百貨店」を知らない人はいません。しかし屋上に「民部稲荷神社」が祀られているのは意外と気づかないかも知れません。ここの稲荷社は三越の三囲神社のように川越八幡宮からの分社で、丸広百貨店の鎮守様かと思っていました。確証は得られないのですが、民部狐の昔話で八王子から川越へ逃亡したとの話がありましたが、丸広百貨店の場所こそが逃亡先だったようです。聞いた話では、百貨店の拡張に伴い古い稲荷社を川越八幡へ移したところ⇒数年のうちに業績悪化⇒某伊●丹に吸収されそうになる⇒「民部稲荷」が守り神として復活⇒無事に危機を脱する。物語としてはありがちです。
屋上には遊園地「わんぱくランド」があります。ある年代から上の人達にはデパートの屋上遊園地は何とも郷愁をさそうと思います。回転する飛行塔、ミニモノレール、観覧車。因みにこの観覧車は日本で二番目小さいそうです。
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川越・民部稲荷神社

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目的は「川越八幡宮」だったのですが、境内社に「民部稲荷神社」の話が面白いので紹介していきます。TVの「まんが日本昔ばなし」で紹介されたようですが=侍に化け「民部」と名乗り八王子辺りに住んいた老狐とお寺の小僧と和尚のお話で、寺に招かれ民部狐は家来を連れて宴に臨み和尚と意気投合、盛り上がって民部Gと寺Gとで相撲大会になってしまう。これで狐であることがバレてしまい、正体がバレた民部狐は「打ち身の治療術」を伝授して川越方面へ移っていった=こんな伝承があります。民部稲荷神社(相撲稲荷)には足腰を強くするというご利益があり、駅伝選手などに人気があるそうです。
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さて、川越八幡宮は後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創建と伝えられます。太田道灌がチョロチョロした時代や徳川時代の遥か以前のことです。関東平野は現在と地形と全く異なり、府中や川越の方が交通や文化的にも栄えていました。八幡神社となるとご祀神は15代・応神天皇で神社数は全国に約1万5000社あるとされます。川越八幡宮のように約1000年の歴史があると境内社などにはとかく面白い神様が祀られています。
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Pt↑)の「ぐち聞きさま」は聖徳太子のお姿で、一度に何人もの訴えを聞き分け苦しみ悩む多くの人の救いとなってきたとの伝承があるようです。「ぐち聞きさま」の前に腰を掛けて悩みを打ち明ける。そんな人が居る居ないは別として、興味深いお話です。また剪定がすすんでサッパリしていますが「縁結びイチョウ」とよばれる大木がと鎮座しています。
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橋戸稲荷と伊豆長八

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千住大橋を荒川区から足立区方向へ渡って、左へ200mほどにある『橋戸稲荷神社』です。前回の訪問は2012.4月からは”うらぶれ感”が進んでいるように感じます。創建は延長4年(926)とも1490年(延徳2年)とも云われ現在とは場所が違うようで、隅田川の流れの変化により移転を余儀なくされたようです。千住が宿場町として栄えると共に多くの人たちの信仰を集るようになったといわれます。現在の本殿は「土蔵造り」となっており、拝殿の前扉には”狐の夫婦の漆喰絵”が描かれています。文久3年(1863)頃に鏝絵の名工として名高かった「伊豆長八」の作で伊豆長八の作品として貴重な遺作だそうです。実物は公開されていませんが、Pt↓)の拝殿前に雄狐と子狐を抱いた雌狐の姿のレプリカが飾られています。社殿前左の狐象はかなり痛みが激しくなっていますが神使のきつね像は珍しい”飛翔系の姿”となっています。
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南青山・三河稲荷神社

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青山通りを青山霊園に向い赤坂消防署の手前あたりの奥まった地に鎮座しているのが【三河稲荷神社】です。コンパクトな敷地に鳥居、社殿、手水舎、勧請由来の碑がなどが並んでおり、神社入口から見ると社殿は90°の位置関係になっています。そんな訳でPtの撮影には厳しいモノがありました(苦笑)。由緒書きによると…三河稲荷神社は、天正19年に神田三河町へに移住してきた三河からの武士団が三河より奉遷して創建、後に神田三河町の屋敷が御用地になったため貞享年間(1680年頃)当地へ遷座したとあります。何とはなしに…。赤い柱の社殿が大きいようなきがします。正面の鳥居には「勧請四百年」の額があります。手水舎の屋根などはなかなか工夫に溢れています。
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世継稲荷神社と築土神社

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千代田区九段北の「築土神社」と「世継稲荷神社」です。この二社は同じ敷地内にあります。「世継稲荷神社」は嘉吉元年(1441)に創建された稲荷社で、この付近一帯が”田安郷”と呼ばれたことから「田安稲荷」と称されていました。2代将軍の秀忠公が参詣したおり、橙の木があるのを見て「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛したことから「世継稲荷」となったようです。徳川・田安家の鎮守神としても崇拝され、文久2年(1862)には14代将軍家茂公の正室である和宮が子宝を願って参詣しています。どう見ても世継稲荷神社より築土神社の方が立派なのですが…。
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「築土神社」は10世紀前半頃のクーデーター事件の首謀者『平将門』伝承に由来し、太田道灌が造営し、その後は現九段坂上、現JR飯田橋駅付近、新宿区筑土八幡町へと移転し続け、昭和29年に「世継稲荷神社」の敷地内へ移転してきています。これだけ移転を繰り返しても廃絶にならないのはそれだけの”理由”があったのしょうか?九段坂を靖國神社へ向う途中に「築土神社」の社が見えるのですが、とても現代的な造りとなっています。
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千代田区・亀住稲荷神社

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千代田区外神田5-4-7の『亀住稲荷神社』です。Pt↑)のカメラの撮影立ち位置は台東区となるので、ぎりぎりで千代田区の神社ということになります。東京&首都圏の寺院神社案内に詳しい【猫のあしあと】というHPがあるのですが、さすがの【猫のあしあと】の記載も至極あっさりしています。曰く…”亀住稲荷神社の創建年代等は不詳ですが、小笠原家邸内に鎮祀した稲荷社だといい、明治8年に町内共有神社の許可を受けたといいます。”…これが主文です。小倉藩の小笠原家の中屋敷がこの辺りだったので、屋敷内の稲荷社であったと思われます。
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千束稲荷と樋口一葉

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台東区竜泉2-19-3の『樋口一葉の名作「たけくらべ」ゆかりの千束稲荷神社』です。東京メトロ・三ノ輪駅下車、国際通りを浅草方面に5分ほど、台東区立樋口一葉記念館はここではありません。一葉の『たけくらべ』や『塵中日記』に祭礼の模様が描かれている(らしい)をもって”ゆかり”という事です(苦笑)。ご本人は千束には1年も住んでいませんから、微妙といえば微妙です…。千束稲荷神社は、江戸寛永年間の4代将軍徳川家綱の時代の創建とされています。当時は三ノ輪から浅草一円を「千束郷」と称し、北千束郷あたりの氏神となっていました。明治年間になってからは竜泉寺町一円の氏神として今に至っています。神社の境内は「たけくらべ」にあるお祭の場面で子供達が遊んでいる神社としも知られています。そんな訳で平成20年に一葉の胸像を建立されているのですが、病気がちな本人のイメージとかけ離れているような気がします。”せめて胸像位は…”という配慮でしょうか?
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麻疹祈祷・太郎稲荷神社

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こちちらが台東区下谷2丁目の『太郎稲荷』」です。ごく普通の街稲荷ですが、江戸時代には築後柳川藩立花家の江戸下屋敷があり、柳川より勧請した「太郎稲荷」が祀られていました。享和3年(1803年)頃、江戸の街に麻疹が大流行し柳川藩の若殿も罹患しています。下屋敷内の「太郎稲荷」に病気治癒を祈願したところ、たちまち病状が回復したそうです。この話が広まってご利益にあやかりたい人々が大挙して柳川藩下屋敷に押し寄せることとなりました。噂が噂を呼び、翌1804年になっても参拝者が殺到し続けたようです。江戸時代の町民は許可なく大名屋敷に立ち入れないため、立花家では月に4日間だけ神社を限定的に開放し、結果として益々の人気を煽ったようです。「陽がのぼる前から立花家下屋敷の門前には参詣者が詰めかけ、道脇に下水に落ち、泥だらけになる者数知れず」。…大変な混雑ぶりです。流行の拡大とともに、縁起類、はやり唄、小唄なども数多く創られたそうで、近くの浅草寺を上回る人気となり「太郎稲荷」近辺には新しい盛り場が形成されるというスゴイ事になりました。通常、流行は一過性ですが、「太郎稲荷」については、享和3年から文化元年にかけてが第一ピーク。天保年化に人気が再燃し、慶応3年(1867年)にも流行が再燃しています。
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現在の神社には繁栄の名残はありません。それでも人々に大切にされてきた様子が感じられます。 1)間口はこれだけです。住宅地に鎮座しているので注意しないと見落とします。 2)こじんまりとした本殿ですがさや堂が創られています。地元では大事にされてきたのでしょう。 3.)本殿の様子です。額の写真は講中での慰安旅行の記念写真のようです。
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西町太郎稲荷神社

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台東区東上野1丁目の『西町太郎稲荷神社』です。武家屋敷稲荷なのでこじんまりとした感じになっています。金ピカの境内掲示には =当町は江戸時代の万冶年間、九州筑後柳川藩11万9600石の太守立花左近将監が”江戸中屋敷”として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内の現在地に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌に御利益あらたかな処から江戸明治大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されてきております~<略>~=とあります。落語の「ぞろぞろ」に出てくる『太郎稲荷』は柳川藩下屋敷の稲荷社で、1803年頃と1867年頃に大ブームとなり、太郎稲荷の参詣者で道が渋滞起こるまでになったそうです。この熱狂状態が続いた後は、一時の熱狂はさめてしまい衰退してしまったといういかにも日本的な話になっています。
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浅草・嬉の森稲荷

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久々に浅草へ出かけたのですが…。まぁまぁ相も変わらず”外国人”の多いこと(!)。台東区民会館前(二天門駐車場)あたりでは、かん高い会話が飛び交っています。面白いもので容姿・髪型を観察していると、中国・台湾・韓国・タイの区別がつくようになります(笑)。連中はそのまま浅草寺に向かうので「姥ヶ池」も「嬉の森稲荷神社」も興味などあるはずもありません。まぁ日本人も同様でしょうが(苦笑)。
この『嬉の森稲荷神社』は台東区民会館前の向かい側の公園脇にあります。”うれしのもり”とはなんとも語感の良い神社でが、案内板によれば…【嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森に祀られていた。嬉の森は、(略)一説に入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。(略)嬉の森稲荷は、関東大震災に消失を免れ、また昭和20年3月の東京空襲の戦火も免れたという。嬉の森稲荷は火伏の神として信仰され、4月の2の午の日には、近隣人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。】…とあります。
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北区・王子稲荷神社

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この『王子稲荷神社』は、大晦日の夜に諸国のキツネ達が神社近くの”榎”の下で装束を整え『王子稲荷神社』に初詣するという伝承で有名です。創建は平安時代以前とされる古社で、ご祀神は「宇迦之御魂神」・「宇気母智之神」・「和久産巣日神」が祀られています。関東稲荷総社…【この”関東”とは東北も含めての東国三十三国をさします】…の格式を持つとされています。関東を治めた北条氏、そして徳川氏からは社格200石という江戸市中の他の神社にくらべても破格の扱いを受けています。江戸市民からも神社一番人気を続けたそうで、歌川広重の「名所江戸百景」にも「王子装束ゑの木大晦日の狐火」はよく知られています。 王子稲荷社は幼稚園を併設しているため、平日は幼稚園わきの坂道から入ります。本殿からさらに右奥に進むと、江戸時代から伝わる「願掛け石」があります。さらに奥にある「狐の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなっています。
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