旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

大田区

洗足池・千束八幡神社

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洗足池は都内屈指の広さの池なのですが、実際は20分もあれば一周できます。勝夫妻墓所の反対側に唐突に馬の銅像が置いてありました。『千束八幡神社』の神域の名馬『池月』の銅像なのですが、薄い記憶を辿り案内板を読むと、源義経の「宇治川先陣争い」の名場面に登場する馬=字が違うようですが(池月/生食)=です。大田区の出身だったとは知りませんでした(苦笑)。八幡様ですからご祀神は宇佐八幡から勧請の応神天皇なのは容易に分りますが、後三年の役では奥州へ向かう源義家が必勝を祈願したとか、鎌倉へ向かう源頼朝がこの地で「池に映る月」のように見事な野生馬(後の池月)を捕えて、戦の”吉兆”と喜んだという伝承あたりにはかなり無理があるように感jじてしまいます。
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勝海舟夫妻の墓所

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東急東横線・洗足池駅下車、中原街道を渡ると洗足池。池の畔の一画に「勝海舟夫妻の墓」があります。勝海舟(海舟は号で諱は義那。麟太郎→安房→安芳と変遷)文政6年(1823)現在の両国・回向院近くで生まれ、幕臣として海軍奉行となり、西郷隆盛との江戸無血開城交渉は有名な話です。明治政府では海軍卿、枢密院顧問官を歴任し伯爵になっています。勝は洗足池周辺の景色を好み「洗足軒」という名称の別邸を有していました。明治32年(1899)没後、遺言によりこの地に葬られています。実に自由奔放なお方で「氷川清話」ではホラ話ばかりと云っても過言ではありません。赤坂の住まいでは正妻と妾(4人?)が同居していて、正妻の遺言が「旦那と一緒に葬ってくれるなっ」ですから(笑)。勝夫妻の墓所隣には勝が西郷隆盛の死を悼み現葛飾区四ツ木の浄光院に建て、大正2年にこの地に移してきた『西郷隆盛の留魂祠』があります。国家反逆者の死を弔うんですから政府側に人間としてはボロクソに非難されたことでしょうね。
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本門寺・妙見堂

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本門寺の境内と云っていいのでしょうが『妙見堂』という名称のお堂です。…「こちらの妙見大菩薩は、寛文4年(1664)に、加藤清正公の息女、瑶林院殿が本門寺へ納めた室町時代の御尊像です」…とあるのですが、「妙見菩薩信仰」自体が興味深い信仰です。元々は古代バビロニアに始まり、インド経由で中国で”道教”と結びつき仏教とともに日本に渡来しています。北辰とも云われる”北極星”を神格化したもので、千葉周作の北辰一刀流(弟子である坂本龍馬も?)や葛飾北斎などの信仰されていました。本門寺との関係は日蓮上人が妙見菩薩を祀る神社を崇拝していたことから日蓮宗のお寺に祀られることが多いのだそうです。
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季節ならでは…。紫陽花が咲き緑溢れる季節です。それにしても実にバランス感覚の良いお堂です。鎌倉ではありません、ここは池上本門寺です。
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池上・本門寺

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東急池上線池上駅から歩いて15分くらいの日蓮宗・大本山【池上・本門寺】です。正式名称は山号=長栄山、院号=大国院、寺号=本門寺で、【長栄山大国院本門寺】となるのですが、池上本門寺の呼称のほうが馴染みがあります。
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140606_02140606_03山門を抜けるとこの石段です。別称を此経難持坂(しきょうなんじざか)というそうです。江戸時代初期に加藤清正の寄進により造営されたとされる石段で、法華経の偈文96文字にちなんで96段で構築されています。石段上から見ると山門越しに池上の街がいい感じに見えます。池波正太郎の鬼平(おにへい)で知られる『鬼平犯科帳』シリーズの『本門寺暮雪』にこの石段「此経難持坂」が登場、平蔵らが本門寺を参拝したおり、いきなり石段上から賊に襲われるという場面だそうです。なんのことはなく池波正太郎は本門寺近くの品川区に住んでおり、この近辺に土地カンがあったというやつでしょう。
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140606_05140606_04池上本門寺の開祖「日蓮聖人」は、弘安5年9月に身延山から、病気療養のため常陸の湯に向う途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で700数年前の弘安5年(1282)10月に、61歳で亡くなっています。【長栄山本門寺】の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられ池上宗仲公が寄進した約7万坪の土地にお寺が築かれています。という事でPt左)日蓮上人の像があります。Pt右の”仁王門”は昭和20年に焼失、再建された門です。アントニオ猪木をモデルとした仁王像が安置されていたことで知られていました。
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本門寺墓地には、ある年代以上の方には圧倒的ヒーロー【力道山…本名:金信洛、日本名:百田光浩、享年満39歳】の墓所があります。資料によると身長176㎝、体重116㎏で大男ではなかったようです。はるか昔、墓参に来ていたBI砲時代のジャイアント馬場やアントニオ猪木に遭遇したことがあったのですが、ゴミ捨て場の脇で墓もそう立派でなかったような記憶があります。年月を経て、石碑が建ち銅像が建っていました。
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羽田・穴森稲荷神社…(2)

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本殿前の穴森稲荷神社(羽田の穴森さん)御由緒書です。稲荷神社では日本書紀にある宇迦之御魂(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊受姫命(とようけひめのみこと)保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの五穀豊穣を司る穀物・食物の神々を主祭神としていますが、穴森稲荷社では伊勢神宮・外宮で天照大神の”食事係”として祀られてる豊受姫命が主祭神となっています。

130918_04130917_02「堤防に“穴”が開く水害から街を“守”る神社」が穴守の名の由来だそうです。本殿横の千本鳥居の先には“お穴様”と呼ばれる「奥之宮」があり、社のなかには大量の小さな鳥居やお姿が山積みにされています。こうなってしまうとゴミ捨て場と区別がつかなくなってしまうようです。鳥居群の社額が「穴森稲荷大明神」となっているので、この奥之宮が元々の本殿だったと思われます。こちらの縁起物の「神砂」(あなもりの砂)は商・工・農・漁業・家内安全の招福は玄関入口へ。病気平癒の場合は床の下へ。災・厄・禍除降の場合はその方向へ。新築・増改築は敷地の中心へ。撒くとご利益があるそうです。

130918_03130918_02江戸時代には、「穴守」という名前が「『穴を性病から守る』」に通じると考えられて、遊女達の信仰を集めたと云われています。なまじ稲荷社は身近に存在しているので、この様な事柄までお願いされていたのですねぇ。奥之宮にさらに奥に進み富士塚の様な場所にさらに数社の稲荷社があります。「開運稲荷神社」・「必勝稲荷社」・「福徳稲荷社」・「幸稲荷社」・「末廣稲荷社」・「築山稲荷」・「出世稲荷」…主だった境内摂社でもこんな感じです。こちらの神社は参道が三方向にあり、どれが一之鳥居になるのかよく判りません。駅前の鳥居が一之鳥居という事はないでしょうが、東京魚がし講寄進の標柱(写真左)があるこの参道が一番それらしいのですが…。

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羽田・穴森稲荷神社…(1)

130917_01130917_02江戸の昔、文化年間(1800年頃)に新田開墾されたおり、堤防が決壊して村々は海水被害を受けた。そこで村々で、稲荷大神を祀ると海が静まった。これが穴守稲荷神社の起こりだそうです(なんとも築地の波除稲荷と似通った話です)。1884年には暴風により崩壊し再建されています。さらに1886年には「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へと改称されています。この時代には周辺で潮干狩りや温泉が湧いたこともあり、京浜電気鉄道(現在の京浜急行)が、稲荷門前までの支線を伸ばすなど交通が整備され穴守稲荷神社の界隈は歓楽地と賑わったそうです。但し、これは現在と場所が異なります。神社は太平洋戦争が終わった直後の1945年に羽田空港の拡張のため、米軍より強制退去を迫られることになり、現在の地へ移転となっています。都市伝説としよく知られる”羽田空港の赤鳥居の怪”は移転前の穴森稲荷社の鳥居のことです。写真左は穴森稲荷神社本殿。右は本殿の裏手にある奥之宮で”神砂(あなもりの砂)”として有名な縁起物はこちらです。それにしても穴森稲荷神社、境内摂社がやたら多いようです。

本殿前の”狛狐”。左は「珠」、右は「子狐」です。年代はさほど古くありませんが、いい姿をしています。
右は京浜急行穴森稲荷駅前の狐像。地元の方による寄贈で、名前は「コンちゃん」だそうです。
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