旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

目黒区

旧前田家本邸…(3)

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かつて”東洋一の建物”と称された旧前田家本邸には別棟に接待所として使われた和邸があり、Pt↓)のようにスクラッチタイルの洋館と異なる和館がが繋げられています。GHQのマッカーサーはこちらに住みたかったようですが、都心からの距離があること、また屋敷廻りには旧前田藩のラスト・サムライの住まいがあり危険極まりなく断念したとの話もあります。代わりに住んだのが空軍司令長官で、ご多分に漏れず部屋の壁を白く塗りつぶしていました。所詮は歴史文化に疎いアメリカ人のやりそうなことで、被害が少なかったのがせめてもです。
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旧前田邸は前田家16代の住居&接待所として計画され、洋館部分は1階部分は接待所2階部分が住居として使用されています。女中や使用人だけでも約100名。お屋敷を囲むように前田家由加里の人達の住まいがあり、城下町的な構成だったようです。こちらの和館は洋館では日本人の接待には不向きとの考えで造られたようです。現在はちょっと寂しいのですが川の流れる日本庭園なども造られています。面白いもんで池之端の岩崎邸は洋館部分が接待所、和館部分が住居と前田邸とは逆の構成となっています。ちなみに洋館は東京都の管轄、和館は目黒区の管轄となっています。
旧前田邸近くには「日本民芸館」がありますが稀にみるお粗末な施設(入館料¥1100)なのでよほど興味に溢れた人以外にはお勧めできません(苦笑)。
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旧前田家本邸…(2)

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前田家本邸のご当主前田利為(としなり)侯爵は七日市藩(群馬県富岡市)藩知事前田利昭公の5男として1855年に生まれ1900年に前田家本家の養嗣子となり16代当主(侯爵)となっています。学習院から陸軍士官学校を1905年(17期)に東条英機と同期で卒業、25歳の1910年にはで貴族院議員さらに陸軍大学(23期)を1911年に卒業エリートコースを進み、1942年4月にには招集されてボルネオ守備軍司令官に赴任、同年9月に航空機事故により最終階級は陸軍大将として亡くなっています。ともかくも加賀百万石の前田家のお殿様の住まいですからPt↑)のご当主の書斎など土佐や山口の成り上がりとはあきらかに雰囲気が異なります。
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元々の前田家の屋敷は現在の東京大学本郷にあり、1926年に当時の東京帝国大学との交換として目黒の地に移転してきました。屋敷の敷地を囲むように旧前田家の家来集の屋敷があり、使用人だけども100名を超えていたようです。16代が若くして亡くなり屋敷は中島飛行機の社屋として使われ、戦後はGHQの宿舎として接収されています。Pt↑)侯爵夫妻の寝室です。侯爵はイギリスでの暮らしが長く、そんなことから家具類は高級家具メーカーのハンプトン社製のものです。
pt↓)は玄関すぐのスペースです。建物は重要文化財の指定を受けてはいますが、写真(フラッシュ不可)撮影は基本的に可能です。光量不足は否めませんが、広々とした客をもてなすスペースの赤い絨毯、蛇紋岩の柱、寄木の床、シャンデリアなどなど丁重に復元作業がなされています。
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旧前田家本邸…(1)

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目黒区駒場の重要文化財の「旧前田家本邸洋館」です。整備のためしばらく休館していましたが、昨年(30.10.27)より一般公開が再開されています。この前田家は”あの「加賀百万石前田家」のことで、明治17年に「侯爵」の爵位とうけた「前田家」のことです。元々前田家は本郷の東京帝国大学の敷地にあり、大学の拡張により駒場の帝国大学の4万坪の土地と交換されこの地に移ってきました。約1万坪の敷地に昭和4~5年に地上3階地下1階の洋館と迎賓館を兼ねる2階建ての和館を建てたのが、前田家16代当主前田利為(としなり)侯爵です。
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ご多分に漏れず前田家住宅の後、中島飛行機の本社だったりGHQに接収されたりの歴史はありますが、丁重に復元作業がなされています。昭和初期の建造物ですが、さすがに加賀百万石の16代当主の住まいで、ニュアンスこそ異なりますが池之端の某家や駒込の某邸とは醸し出す風格が違います。京王井の頭線の「駒場東大駅」から徒歩10分。メトロ千代田線「代々木上原駅」から徒歩15分と割と面倒な所にありますが、出かけてみる価値は十二分にあります。
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目黒川・さくら

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『目黒川・さくら』…説明はいりません。見事です(!)。今日は午前中は皇居・乾通り、午後は目黒川と「さくら」のハシゴとなったのですが、この絵こそイメージ通りの”満開のさくら並木”です。某社のアンケートでは「この春行きたい国内の絶景スポット」の8位(微妙)だそうですが、池尻大橋駅付近から目黒駅付近までの約3.8kmの川沿いに約800本のソメイヨシノが並木が続きます。玉川通りから目黒橋までは川幅が狭く、さくらがより密集しているように感じます。
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目黒・蛸薬師

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東急目黒線・不動前駅で下車、目黒不動尊への道すがらの「通称蛸薬師/不老山薬師寺成就院」です。成就院は天安2年(858年)慈覚大師円仁によって開山されています。ご本尊は大師の自作と伝えられる3匹の蛸に支えられ蓮華座に乗った薬師如来像なんだそうですが、見ることはできませんでした。「蛸薬師」と呼ばれ疫病除けとして賑わうそうです。境内には、徳川2大将軍秀忠の側室「お静の方」が、我が子の保科正之の栄達を祈願して奉納された「お静地蔵」が建てられています。この保科正之は2代将軍秀忠の第3子で3代将軍家光の異母兄弟にあたります。高遠城主から会津松平の祖となっています。4代将軍家綱を補助して振袖火事で丸焼けになった江戸城再建を”江戸の街の再建が先だ”と前田藩に命じた江戸城天守台再建計画を中止にしたりしています。このお地蔵の上方には”ありがたや福をすいよせるたこ薬師”と書かれたユーモラスな看板が見られます。
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目黒不動尊・龍泉寺…Ⅱ

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東京でも屈指の古刹だけあって境内には大本堂裏手の大日如坐来像(1683年造像。総高385cm、座高282cm)を始め興味あるなどが史跡、文化財が多々あります。興味深いのが昭和の思想家で東京裁判では民間人としては唯一人A級で起訴された「大川周明」。226事件の思想的後ろ盾とされ民間人でありながら反乱罪の首謀者として死刑判決にされた「北一輝」。江戸時代の蘭学者で薩摩芋の関東地方での普及に努めたとされる「青木昆陽」の墓所や本居宣長の子孫で童謡「七つの子」や「十五夜お月さん」の作者「本居長世」の碑なんてのもあります。山門近くには、鶴屋南北の 「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」 の「鈴が森」 に登場する「白井権八」と吉原の三浦屋の大夫「小紫」との後追い心中事件の「比翼塚」があるのですが…この話歌舞伎のこともあり怪しいものです。
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左)226事件の思想的首謀者とされた北一輝の碑。  中)童謡作家本居長世の碑。  右)白井権八・小紫の比翼塚。
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目黒不動尊・龍泉寺…Ⅰ

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『目黒不動尊』と呼ばれる泰叡山・龍泉寺は不動明王を本尊とする天台宗のお寺です。江戸札所33番札所、関東36不動尊の18番であり江戸五色不動の数えられています。創建は808年「円仁」によるものとされ、1630年に寛永寺の子院となったことから徳川家光による庇護を受けて江戸庶民の行楽地でした。江戸文化年間には湯島天満、谷中感応寺とともに「江戸の三富」として富くじ興行がおこなわれ繁栄しています。仁王門(↑)の正面に大本堂へ至る急な石段の登り口には『狛犬』があるのですが、一般的な獅子の姿とは異なり普通の『犬』の形状をしています。
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左)子犬を抱いた狛犬です。耳が垂れたごく普通の犬の姿です。山門には獅子の姿の狛犬もあります。
中・右)急階段を登りきると本堂です。落語の「目黒のさんま」はこの近くでのお話のようです。
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目黒・大鳥神社

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目黒区下目黒の『大鳥神社』です。日本武尊・国常立尊・弟橘媛命の3神が祀られています。日本武尊が東夷平定の折に立ち寄って祈願し、後に日本武尊の霊が白鳥となって当地に飛来して”鳥明神”として祀られたとあり、大鳥神社としての創建は社殿が完成した大同元年(806年)としています。室町時代の”長禄の江戸図”には「鳥明神」として描かれており、当時の江戸図には9つの神社しか記載がなかったので、大鳥神社は”江戸九社”のひとつとして知られていました。現在の社殿は昭和37年に完成したもので、11月の「酉の日」には毎年賑わいを見せています。神社隣の目黒通りと山手通りの交差点は「大鳥神社」の名前が付いており交通の要となっています。
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都内と近郊には”日本武尊が東夷平定の折祈願”の神社が数多くあります。神社があれば=祈願の明け暮れだったのでしょうかねぇ?
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目黒・大圓寺

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JR目黒駅から”行人坂”と呼ばれる急な坂道の途中に大圓寺があります。”行人坂”は大圓寺の修験道の行者がここを往来したことにより、江戸時代は『目黒不動尊』への参詣路でもありました。大圓寺の創建は寛永元年(1624年)大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりとあります。江戸・明和9年(1772年)の『行人坂火事』では多くの死者を出し、境内のる「五百羅漢の石像」は、大火の犠牲者供養のために創られたものとされます。
行人坂を下ると「目黒雅叙園」。目黒川にかかる橋は雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ江戸往時の景観は、広重の錦絵「名所江戸百景・目黒太鼓橋より夕日の岡」にあります。大圓寺一帯は”夕日の岡”といわれ、紅葉・桜の名所でもあったそうです。
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右)江戸時代に漁師が海から引き上げて奉納した「とろけ地蔵」と五百羅漢(五百以上羅漢)です。不気味です。
中)放火犯人の「八百屋お七」とお相手の”男”吉三(きちざ)の牌があります。
右)目黒川の太鼓橋よりの”紅葉・さくら”ならぬ一世を風靡した伝説のラブホテルが見えます。
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