旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

上野公園

上野東照宮のお狸様

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上野恩賜公園内の徳川家康・吉宗・慶喜公を祀る上野東照宮は4年に渡る改修工事も 完了して煌びやかな姿を見せています。な
んとなく京都的な臭いもあるのでしょうか、最近は外人観光客の姿も多く見かけるようになりました。御朱印授与所も建て直され東照宮創建以前からの樹齢600年を超える大楠の回廊も整備されました。
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回廊には先には唐突として『栄誉大権現』が祀られています。この神様は「お狸様」「夢見狸」と呼ばれ、江戸時代にはるばる四国からやってきた四国八百八狸の総帥で江戸城で大暴れして追放され、その後も安置された大名、旗本諸家を次々と潰した大悪狸なのです。かなり具体的ですがこの伝承を聴いたことはありません。
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こちらがご神体の「お狸様」です。明治以降は鳥越神社に鎮座するものの災いは続き、大正年間にこの地に落ち着くと一転して「ありがたいお狸様」に変貌。「他を抜く」という縁起から強運開祖や受験の神様として信仰されたようです。柳森神社の福寿狸大神は崇められ、こちらのお狸様は四国からやって来て(蜂須賀家?)江戸の街で大暴れして追放とは波乱万丈です。この地への鎮座は大正年間との事で、賽銭箱や屋根の部分には葵の御紋が付けられ徳川家の守護神として認められたようです。
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金キラの上野東照宮

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徳川家康公を祀る東照宮は日光や久能山が有名ですが、実際は北海道から長崎まで約100ヶ所が存在します。東京では芝と上野(浅草は焼失)にあり「日光・久能山・芝・上野」を四大東照宮とも称するようです。上野の金キラぶりはたいしたもんで、上野東照宮のには徳川家康公(東照大権現)・8代将軍徳川吉宗公(暴れん坊将軍)・15代将軍徳川慶喜が祀られています。
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上野東照宮』は1616年2月静岡駿府城で危篤状であった徳川家康が病床に居合わせたジャニ友(?)の幕府顧問で上野寛永寺の開祖天海僧正と藤堂高虎の3人が一緒に魂鎮まるところを作ってほしいといの遺言を残し、藤堂家の屋敷地の上野に1627年に東照宮を造営したとされます。芝東照宮はこじんまりと、浅草東照宮(浅草寺)は殆どが消滅しているので、これだけ派手な東照宮は貴重とも云えます。
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社殿から唐門方向です(社殿には上がれません)。社殿は拝殿、幣殿、本殿からなる典型的な権現造りです。現存する社殿は、1651年に3代将軍・徳川家光(爺ちゃん大好)が造営替えにより金箔を使った日光東照宮といい勝負の豪華絢爛の造作で「金色殿」とも呼ばれたそうです。
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現在は太平洋戦争後の神仏分離令により寛永寺から独立しています。東京空将や震災などの災害を被る事や倒壊することなく、江戸の面影をそのまま現在に残す貴重な文化財建造物です。本殿屋根部分の千木・鰹木や懸魚や散りばめられた葵のご紋の造作は見事なものです。惜しむらくは拝殿内には上がれず、これで拝観料が¥500はやや高額です(苦笑)。
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唐門の柱には左甚五郎作の「昇り龍・降り龍」の彫刻があります。よく間違えるのは【頭が下向きなのが『昇り龍』で上を向いているのが『下り龍』】で「偉大な人ほど頭を垂れる」との諺によるとあるのですが、そんな諺有りましたっけ?左甚五郎による龍の彫刻は夜な夜な不忍の池に水を飲みに行くとの伝承なんてのもあります。
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なんでも「虎の石彫」が雑誌に取り上げられて知られるようになった授与所右側の虎の石彫です。家康公の干支「寅年」生まれに因んで奉納されたようです。日本ではオスが「虎」で「豹」がメスと考えらていたようで、「虎」は日本には居なかったので実際の虎と姿が違っています。

上野公園 小松宮彰仁親王

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上野公園(上野恩賜公園)の銅像では「西郷隆盛像」が有名ですが公園内には他にもいくつかの銅像や記念碑があります。東京都内には皇族から軍人になった宮様達の銅像があり、南麻布の有栖川宮記念公園には有栖川宮熾仁親王、北の丸公園の旧近衛師団司令部跡には北白川宮能久親王、そして上野動物園正面ゲート脇ある銅像が小松宮彰仁親王の騎馬像です。
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小松宮は戊辰戦争時は奥羽越制圧の総督として官軍の指揮をとり、西郷隆盛との西南戦争でも出征するなど戦う皇族を率先された親王です。歴史は時として悪戯をします。上野戦争時に彰義隊に擁立され、後には奥羽越列藩同盟に明主に擁立された「輪王寺宮・北白川宮能久親王」は小松宮の実兄でした。明治維新の東北戦争は兄弟宮家の戦いとなった事になります。
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幕末に仁和寺門跡から還俗を命ぜられ、仁和寺宮親王の名で奥羽征討総督として官軍の指揮を執り、後に東伏見宮に改ます。佐賀の乱では征討総督、西南戦争にも旅団長として出征し、明治15年の宮号を小松宮に改めています。明治年間には日本赤十字に携わりその関係でこの地に銅像が造られました。実は弟君の北白川宮能久親王の波乱万丈な生涯の方が興味深いのですが…。
【吉村昭氏の「彰義隊」では輪王寺宮からの戊辰戦争が描かれています】
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小松宮騎馬像の後方にあるのが「グラント将軍植樹碑」です。グラント将軍は南北戦争の北軍の将軍で第18代アメリカ大統領です。退任後、世ン仁保界中を旅し日本に立ち寄っています。明治12年の上野公園で植樹が行われ、記念碑は昭和5年に作られています。アメリカの元大統領の来日で大騒ぎとはなんかピンときません(苦笑)。
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グラント将軍記念碑のさらに後方、上野動物園出口付近には、1946年に開園した小規模な「上野公園こども遊園地」が2016年までありました。遊園地跡は更地となっていましたが、団子屋の「新鶯亭」と上野東照宮鳥居脇の味わいのある食堂(?)は健在でした。「上野名物パンダそうめん」とは如何なる内容なのでしょう?

上野 世界遺産の美術館

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上野の国立西洋美術館本館がユネスコの世界遺産に登録されたのは2016年の事でした。偉大な建築家のル・コルビュジェ氏の功績が『ル・コルビュジェの建築群と都市計画』とし世界遺産登録された時に、この西洋美術館がコルビュジェ氏が関係していたことから、めでたく東京初の世界遺産と云う事でしたが…。
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西洋美術館の収蔵作品は、現川崎重工業の松方幸次郎氏が収集した「松方コレクション」が基となっています。太平洋戦争終了後、フランス政府は松方コレクションのすべてを没収してしまい、1951年のサンフランシスコ講和会議時に作品群の一部をのぞいて専用美術館の建設条件付きで返還されました。
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1954年に美術館の設計を巨匠ル・コルビュジエに依頼。巨匠は1955年に来日し京都・奈良など候補地を視察して帰国。そして氏からの基本設計案、設計案をもとに弟子にあたる前川國男、坂倉準三、吉阪隆正の日本人により建てられます。巨匠は建築中も完成後も来日した事はなく美術館完成の姿を見ていない事になります。
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東京初の世界遺産誕生の時は大盛況でした。外観の印象より美術館の中は広く、展示された作品点数も多いので予想以上に時間がかかります。巨匠の作品は「無限成長美術館」がコンセプトとし世界で20館以上が計画されたのですが、実現したのは東京を含め3館だけと「世界遺産」だけの事はあります。
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【最後の晩餐】マールテン・ド・フォスの作品です。常設展であっても200点以上の作品が展示され「松方レクション」の凄さに圧倒されます。この個人コレクションを没収し条件付で寄贈返還の応じた歴史的背景を考えてもコレクションが散逸しなかったのは結果として良かったのかも知れません。
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ルノアールの【帽子の女】です。各所にあった喫茶店の元ネタ(?)なので記憶にあるようです。フランス政府が最後まで返還に難色を示したルノアール作品の<アルジェリアのパリの女たち>もあるのですが、見逃してしまったようです。
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英語読みはヴィンセントとなる問答無用のフィンセント・ファン・ゴッホの【ばら】です。変人として知られるゴッホの晩年は精神障害を発症し療養書生活となります。この作品は彼の終焉に向う頃の作品です。それでもヤバいです(笑)。
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ロダン作品の【地獄の門】はロダンの生前には完成せず、未完の石膏作品を松方幸次郎によりブロンズ像として完成したとは知りませんでした。この【地獄の門】のブロンズ作品は世界に7点しかなく一部を拡大したのが【考える人】です。
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上野公園・西郷と犬

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上野公園の西郷隆盛と薩摩犬ツンの”犬を連れての兎狩りの像”ですが、仁科邦夫氏の”犬たちの明治維新・ポチの誕生”に面白い話が書かれていました。他の資料と総合すると西郷像は西南戦争のほとぼりも冷めた明治31年(1898)に完成しています。人(西郷)は高村光雲、(犬・ツン)は後藤貞行と皇居前の楠木正成&馬と同制作者によります。国家反逆者の西郷像については色々とあったようですが、本来の構想は鹿児島と同様に軍服姿だったのが途中から「丸腰姿」の変わったようです。以前から見慣れた銅像ですが遠近法(?)による西郷の体と頭のバランスに違和感は感じていましたが…。
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実際の西郷の身長は当時としては大巨人の約180㎝でこの像の身長は約370㎝と倍の高さとなっています。これに対し薩摩犬・ツンは原寸なのです。超が付くほどの写実主義者の後藤貞行は『犬の大きさ倍にしてくれ』との依頼を断り原寸にこだわったようです。像は足元から見上げるを前提で造られており、少し離れた場所からみると犬の大きさとのバランスが悪く感じるのはこんな理由です。製作には息子の菊次郎、弟の従道、従弟の大山巌や西郷戦死を見届けた河野主一郎氏が監修しているのでリアルな像となっているようです。
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鹿児島市立美術館近くの陸軍大将の軍装姿の西郷隆盛像です。彫刻家・安藤照氏の作品で昭和12年に作られました。犬はいません(笑)。軍装姿の方が西郷らしい姿です…。
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鹿児島市鍛治屋町の西郷隆盛・従道の生誕地です。この街は今でも西郷隆盛にしがみ付いています。
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東京国立博物館 黒田記念館

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東京国立博物館の正門から塀沿いに進み、旧京成上野動物園駅交差点に洋画家・黒田清輝(1866-1924 54歳没)の記念館があります。この記念館は「
遺産を美術の奨励に役立てるように…」との遺言により、昭和3年に明治生命館などを手掛けた岡田信一郎氏の設計により建てられています。
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私達は2023年の感性で氏の作品を見ますが、江戸末期生まれの黒田画伯が僅か54年の生涯で多くの作品を残しているのは驚きしかありません。黒田記念室と同時に帝国美術院付属美術研究所(長い)が設けられ、その後の東京文化財研究所をへて2007年からは東京国立博物館の管理となっています。
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黒田清輝の本名が「きよてる」で画名が「せいき」とは知りませんでした。東京美術学校教授、帝国美術院院長、貴族院議員、 従三位の子爵など知る由もありません。Pt↑)は若き日の自画像で明治22年頃にオランダを訪れた際にレンブラントの自画像作品を意識して書かれたようです。
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黒田記念館は2015年に耐震工事などが完了、以降は東京国立博物館と同様の公開となりました。自画像などの作品が多数みられます。数回「特別展」として、誰もが知っている作品が公開されます。。Pt↑)は2015年の特別展で撮ったもので、重要文化財の明治30年の作品『湖畔』です。
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『湖畔』のモデルはのちに清輝の奥さんとなる金子種子(当時23歳)だそうです。こちらも重要文化財の明治32年の作品、『智・感・情』の三部作です。2015年の公開時には重要文化財の明治26年の『舞子』。これも重要文化財の明治24年の『読書』が展示されていました。
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国立科学博物館の珍獣

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「国立科学博物館」は独立行政法人国立科学博物館が運営する博物館施設です。Pt↑)の日本館の建物は2008年6月9日に重要文化財に指定されています。元々は関東大震災の帝都復興事業の一環で1931年9月に東京科学博物館本館として完成した由緒のある建物で、1階から吹き抜け天井のステンド・グラスや床のモザイク模様など「これぞ博物館」の風格に満ちています。
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通常展の入館料¥630/大人は「日本の自然」を充分に楽しめる施設です。夏休みは子供達で、それにも増して訪日外国人で賑わっています。Ptは館内のロッカー付近にだらしなく群れる珍獣たちです。その数ざっと15匹(笑)。原産地がどこかは判りませんが築地辺りでもよく見かける光景です。日本なら小学生もやらない姿はまさに珍獣で、なんなんだっ こいつら…!
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博物館には日本を代表する「スーパースター犬」が静かな姿で展示されています。白い大型日本犬は、かの有名な『忠犬ハチ公』のです。秋田犬は秋田県産の大型在来種。古くからマタギ犬として暮らしていました。数年前にハチ公物語がアメリカで映画化され時には子犬時代のハチは柴犬の子犬が演じていたそうですが、日本人なら一目でわかるでしょう(苦笑)。
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この熊かと思う毛がフサフサな犬は、これまた「南極物語」での超スーパースター『ジロ君』です。こんな所にいらっしゃたのかと感心する一方、ハチ公は銅像にタロ君・ジロ君は歌にまで歌われた超有名犬が犬コーナーの一部なのは残念な気持ちになります。私たちの上の世代は『忠犬ハチ公』が、我々の世代『南極犬のタロ・ジロ君』がヒーロー犬でした。
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こちらは札幌の北大植物園の南極観測犬の『タロ君』」です。南極から帰国後、余生を北海道で過ごしたのは知っていましたが、ここで『タロ君』に出会うとは!。実はタロ・ジロ君以前に南極から観測隊と一緒に帰国したネコの「たけし」が居たそうですが、帰国時に港到着同時に脱走!そのまま行方不明だそうです。
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東京国立博物館 本館

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東京国立博物館本館は昭和7年に工事が開始され昭和13年に開館しています。鉄筋コンクリート製ながら日本独自の木造建築の姿を生かした和洋折衷デザインで、2001年には「旧東京帝室博物館」として重要文化財に指定されています。我々の年代には遠足や社会科見学で訪れた博物館の記憶は正にこの建物ものです。
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明治5年、彰義隊戦争で焼失した寛永寺の跡地に明治政府により「内国博覧会」を開催されます。この博覧会施設が帝国博物館となり帝室博物館・国立博物館と変遷します。現在は文化庁所管から東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館が所属する独立行政法人国立文化財機構であり、他の”国立”を冠する博物館とは所属機構が違います。
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TVドラマ撮影にも良く使われる本館中央ホールは訪日外国人で賑っていました。浅草を浴衣姿で散歩したり、築地「きつね屋」の牛丼に並ぶ輩ばかりでないという事です。日本文化を体感するには博物館が適しているのでしょう。上野には博物館が3施設、美術館が4施設、世界三大珍獣が揃う動物園とこれほど文化的施設があるのも珍しいのですが…。
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平成館以外の本館・東洋館・表慶館・法隆寺博物館・黒田記念館は加算料金なしで見られます。とはいっても膨大な展示を見るには時間と体力を必要とします。Pt↑)本館中央ホールを階段上からです。国内には”国立”の名を冠する博物館の他、都道府県や民間企業の博物館等々多数の博物館が存在しますが、この景色は”国立”の名にふさわしいと思います。
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添乗員が常に心掛けねばならない三大要素は、トイレ・みやげ・特別な食べ物です。その他は適当に答えても何とかなります。ご多分に洩れず本館ないの記念品等の売店も大混雑です。浮世絵モチーフ等、日本的なデザインに品々が揃っています。

東京国立博物館 法隆寺宝物館

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訪日外国人の実数がコロナ禍前に戻ってきたとの報道が賑やかです。TV報道の映像は相変わらず築地や浅草ばかりのお約束的
の予定シナリオでTV制作の馬鹿さ加減には呆れてしまいます。その浅草にほど近い、多くの訪日外国人が訪れる上野恩賜公園の博物館、美術館、動物園、東照宮が紹介されることは皆無のようです。
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上野恩賜公園には国立西洋美術館・上野の森美術館・京都美術館・東京藝術大学大学美術館と美術館が4施設。国立科学博物館・東京国立博物館・黒田記念館の博物館が3施設。東京文化会館・国際子ども図書館・旧東京音楽学校奏楽堂と忘れてならない恩賜上野動物園。不忍の池・寛永寺や谷中まで広げたらこんな観光スポットはそうはありません。
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東京国立博物館内の「法隆寺宝物館」ってのが大変なシロモノで、展示されている宝物は奈良法隆寺より明治11年に皇室に献納され、昭和24年に国有になった宝物が約300点が展示されています。奈良の法隆寺は悠久の歴史のあるお寺で広大な敷地、建造物や宝物を隈なく見るには1日では足りません。その一部が東京でも見られるのです。
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展示が展示だけに照明が落とされど光量不足になってしまいます。ずらりと並んだ金銅仏や経文や絵画や染織など興味深い展示物には圧倒されます。皇室への献納には「廃仏毀釈」を逃れる為との説もありますが、貴重な宝物が今に残るのは喜ばしいことです。この「法隆寺宝物殿」は通常展示なので追加の料金は不要です。

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今般、是非見たかったのが「デジタル法隆寺宝物館」です。会期は2023.08.01~2024.01.28となっていますが、重要文化財の法隆寺金堂壁画をデジタル技術で蘇らせた作品です。オリジナル壁画の複写とデジタル作品が対比して見られます。
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法隆寺金堂は昭和24年に焼失しており、焼失前の昭和10年に撮影された写真原板を現代の技術で画像の歪みや濃淡を修正し2020年にWeb公開されてはいますが、会場の8k高画質のデカモニターで見ると唖然とします。技術の進化は凄いもんです。
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展示宝物の数々も素晴らしいのですが、谷口吉生氏の設計による「法隆寺宝物館」は現代的な建物ながら「これが日本だっ」との雰囲気があります。館内も華美な造り少なくシンプルな内装が「宝物」を際立立てます。昨今は某氏による奇妙奇天烈な博物館や図書館、ポンコツ競技場がもてはやされますが…。くま情けない限りです(苦笑)
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上野公園・Dr 野口銅像

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国立科学博物館前の鬱蒼とした木々に囲まれて「野口英世博士」の銅像があります。ある年代以上には「偉大なる医学博士」と教わっていますが、近年は大酒飲みのプレーボーイや借金踏み倒し王の散々な説もあるようです。黄熱病は熱帯シマ蚊などの蚊が媒体するウイルスを病原体とする感染症で、Dr 野口は研究の一人者として知られ、アフリカの地で自ら黄熱病に感染し亡くなります。
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後年その研究の方向は違っていた言われますが、氏の梅毒の研究も見逃せません。Dr 野口は墓所はアメリカのニューヨークにあり、墓碑銘には【186年11月24日 日本の猪苗代に生まれ1928年5月21日 アフリカのゴールドコーストで亡くなる ロッ クフェラー医学研究所の研究員 科学への貢献を通して人類のために生き 亡くなった】と記されているそうです。
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Dr 野口の銅像の設置の経緯は案内板に記載があります。銅像は福島県出身の玉応文三雄氏が発案、北里研究所が引き継ぎ、日本医師会や東京都教育委員会によって昭和26年に多摩美術大学の吉田三郎教授のより制作されています。Dr 野口はMr 千円札として知られていますが、お札の肖像の選定基準は「功績が有ったか否か」ではなく「万人が知っている」かつ「偽造が困難」が優先で最終的には財務大臣が決定します。お札の肖像の人物=歴史上の偉人ではありません!なので”樋口某程度の一発屋作家”でも良い訳です(笑)
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上野公園 旧東京音楽学校奏楽堂

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上野公園(上野恩賜公園)には数多くの歴史文化施設があり、美術館では世界文化遺産の「国立西洋美術館」、「東京都美術館」、「東京芸大美術館」、「上野の森美術館」、「黒田記念館」。博物館系列では「上野動物園」、「東京国立博物館」、「国立科学博物館」、「下町風俗資料館」。その他にも名所旧跡も数多く、重要文化財「旧東京音楽学校奏楽堂」も昔から存在は知ってはいたのですが…。
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いい言い訳は何点かあって、1)上野駅改札からやたら遠い事…京成の動物園駅が有ったらすぐ前なのですが、上野公園改札から徒歩10分以上かかります。2)公開日が日・火・水曜日が原則で、木・金・土曜はホールの使用がなければ可。休館日は月曜&特別整理期間、年末年始とありam09:30~pm 16:30と事細かです。3)入館料¥300/一般はまぁ妥当です。
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建物自体は明治23年に東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の本館として造られ移転等の紆余曲折があって昭和57年に上野公園移築され、昭和58年に台東区へ移管されます。その後は移転に伴う復元工事がなされ、昭和63年に国の重要文化財に指定されます。平成25年からの保存工事による休館を経て平成30年より公開されています。
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1階の展示室の一部は撮影可の資料が展示され、他の音楽家個人に関する資料は撮影不可となっています。展示内容は明治以降の「文部省唱歌」の資料が多く興味のない方には面白くないでしょう。玄関脇には明治期の代表的音楽家「滝廉太郎」の銅像が置かれています。明治初期の外国唱歌に無理に日本語を当てはめた曲から、日本の旋律や言葉へ広げた功績は偉大です。齢27歳で結核で亡くなられたのは残念です。
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明治期の音楽的資料より圧倒されるのが、建物2階の良く管理されたコンサート・ホールです。音を聴いた訳ではないので音響効果のほどは判りませんが、ステージに設置されたパイプ・オルガンは大正9年に徳川頼貞侯爵がイギリスから購入に昭和3年に東京音楽学校へ寄贈したものです。日本最古で世界的にも貴重なオルガンで永年の修理をへて蘇ったそうです。
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このホールは一般貸出可能だそうです。原則として純邦楽、クラッシック音楽の演奏会、コンクール、オペラ等ならOkのようです。さすがにカラオケ大会は不可でしょう(笑)。最後部から見ている音がよさそうです。ここでStonesやECやらが演ったら面白いことになりでしょう。
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2022 花曇りの上野公園

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出口が見えてきたという事でしょう、上野恩寵公園の桜にも多くの人達が訪れるようになりました。宴席の自粛や通路も一方通行に指定されるなどの規制(お願い)はあるようです。江戸時代からの花見の名所として知られる上野のお山には染井吉野など約800本の桜が植えられていて、お花見の人気度は東京都内では4位、全国区では7位だそうです。
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ここ数年は壮絶な桜並木名所を訪れることが増え、正直桜約800本は「こんなに少なかったのか」と思ってしまいます。
昔、新入社員を迎えて上野の花見は重要な社内行事でした。花見前日の午前中のホームレスの連中と交渉、終夜での 席取を依頼します。社員と交代時に食べ残し飲み残しの片づけで¥5000とたばこ数箱が契約内容です。彼らには貴重な現金収入だったのかも知れません(笑)
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思い出してしまうのが、江戸年間の曹洞宗の僧侶であった良寛和尚の辞世の句と伝わる『散る桜 残る桜も 散る桜』です。禅の教えによる辞世の句ですが、意味なんざぁ日本人なら読めばわかるってもんです。この句は大東亜戦争中には特攻隊で出撃する若者達にも共感されたようです。決して特攻隊の為の句ではないのですが…。
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明治政府は焼け野原となった寛永寺の跡地に医学校を建設する計画でした。この計画はオランダ人医師・ボードウィンの進言により廃案となります。計画が実行されていたら上野恩寵公演の存在は無かったという事です。

2021 花曇りの上野公園

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桜満開の時期には花曇り日が多くスコ~ンと快晴の日は意外に続かないものです。外出がてら上野公園へ寄ってみました。テレビ撮影班を探して姿を撮ろうと企んだのですが、時間が時間なので見当たりません(苦笑)。銀座の居酒屋で役人達の宴席模様を延々と待ち伏せする連中のことですから、ネタを探して1社くらい居てもよさそうなものですが(笑)。
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宮城でコロナ感染者が増えて山形にも波及しているようです。患者数の増加は東北震災10年式典の日から10日後くらいですから…。宮城では追悼行事が行われ、多くの参加者や取材の報道の輩、テレビ関係者が集中しました。東京からコロナを運んだのはマスコミ関係者だろうとの説があるようですが、身内から感染者が出ても報道するマスコミなどある訳ありません。こうなると聖火出発式後にも同様な事態が起きるかも知れません。
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とにもかくにも日本人は桜の季節が好きです。注意喚起の看板の事項はあくまで「お願い」であって強制力はありません。一般的には100人にお願いしても10-15%はOKしないものです。この少数派を探しに探して「上野公園の花見は大混乱です」とやるのがテレビ報道の常ですが、すでに『狼少年』に変身しています。
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2020・谷中七福神

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「京都七福神」を最古とする説もあるようですが、江戸享和年間(1800年頃)の随筆「享和雑記」に記載のある「谷中七福神」最古説が有力と思われます。この時代の谷中は寺町で四季の観光名所も多く自然発生的に確立されたのでしょう。谷中七福神は「不忍池弁天堂」から始めます。「弁財天」は「吉兆天」を追い出して残った女性神(後述あり)。宝船の絵では他の神は爺とメタボを抜いてなのでセンター位置にいます。「愛嬌」を司り音楽神・芸能神の担当です。
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七福神巡りではお寺と神社が混載していることが多いのですが、谷中七福神はすべてが「お寺」なので二礼二拍手なのか合掌なのかを意識する事はありません。不忍池から上野高校の坂を登ると【天台宗・護国院=大黒天】です。「大黒天」はヒンズー教の神様で司るのは「富財」。五穀豊穣・財産・台所の神として敬われます。
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続いて谷中霊園に近接する【臨済宗・長安寺=寿老人】です。寿老人と福禄寿は”同じ神様”とする説もある、中国・道教の神様です。元々両神は幸運をもたらす南極星の化身であり南極星信仰が日本では別々の形で根付いたようです。寿老人の特徴は鹿を従え桃を持っています。七福神での担当は「長寿」です。
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都内有数の古寺には【天台宗・天王寺=毘沙門天】が祀られています。江戸時代天王寺は目黒不動尊・湯島天神と共に富くじの興行がおこなわれました。インドのヒンズー教の神「毘沙門天」は面白い神様で、如来の廻りに四天王として北方を護る時は「多聞天」、単独になると「毘沙門天」とグループ活動とソロ活動で名前が違います。面白いのは「毘沙門天」の正妻は「吉兆天」ですが「毘沙門天」と「弁財天」とは愛人関係にありました。これを知った正妻の「吉兆天」は自ら身を引いたことで七福神の女性神は「弁財天」だけとなった…。良い話です!
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西日暮里近くの【日蓮宗・修性院=布袋尊】が祀られています。インドと中国道教の神々ときて、この「布袋尊」は唐代末期に中国に実在していた僧侶です。伝承では18人の子供たちを従え、背負った袋の中身を人々に分け与えていたことから、死後は弥勒菩薩の生まれ変わりとして神格化されたようです。司るのは「大量」。
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【臨済宗・青雲寺=恵比寿神】では日本古来の神の登場です。大国主命の子息で、福を表す「鯛」と福を吊り上げる「釣竿」を持っています。商売繁盛や海の守護の神として敬われ、七福神の担当は「正直」です。
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ラストはJR田端駅近くの【真言宗・東覚寺=福禄寿】です。福禄寿の福は子孫繁栄、禄は財産、寿は健康長寿を表し福と禄と寿が揃ってこそ司る「人望」が生まれるとされます。七福神とはインド、中国、日本の神々と実在の人物迄が混じる【神様の多国籍軍】であり「多数の神に願いごとをするとどの神も助けなくなる」という考え方により「格の低い神様」ともされます。お役所の担当窓口のようなものかも知れません。

東京国立博物館・特別公開

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令和の即位に伴う儀式で10月22日の新天皇が即位を公に表す「即位礼正殿の儀」で使われた「高御座と御帳台」が上野の「東京国立博物館」で特別公開されることとなりました。同じ国立でも昨日は「競技場」今日は「博物館」と忙しい日が続きます。当日、開館の40分前には博物館入口には寒空に約200名(?)のが並んでいました。特別公開は高御座関連の見学のみは無料でその旨のタグが支給されます。展示期間は12月22日から1月19日(休館日あり)まで。博物館本館の2部屋を使い1部屋には「高御座と御帳台」が展示され1部屋には装束やお道具の数々が展示されています。
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「即位礼正殿の儀」はTV放映され記憶にもありますが「高御座と御帳台」が目の前で見られるとは…。展示室への入場人数の制限はあるようですが、人の頭越しでも見ることはできました。例によっての「スマホ撮影隊渋滞」は著しく操作に不慣れで渋滞に拍車がかかるようです。ガラス越しの撮影は映り込みに苦労しますが充分な光量はあるのでフラッシュ機能は止めましょう。無料配布されるパンフレットが珍しいほどの出来で是非ともの入手をお勧めます。
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池之端・五条天神と花園稲荷社

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上野・池之端の『五条天神』です。修学旅行なのでしょうか?子供達の姿が見えます。天神社=菅原道真=学問の神様で参拝なのでしょうが、五条天神の場合は少しばかり異なります。天神社縁起によると【日本武尊の東征の際、この地で医・薬祖神の大己貴命と少彦名命を祀った】とあります。いずれも出雲の神々ですが、大己貴命とは大国主命の事で少彦貴名命(背が極端に低い神様で”一寸法師のモデルで温泉療法や百薬の長の酒をもたらした神)と協力して国造りに携わったといわれます。大己貴命(大国主命)が「因幡の白兎」で重篤の兎の治療をした謂れから両神が医・薬祖神となっています。菅原道真が合祀されたのは寛永18年と約350年前にすぎません。因みにご五条天神は東京の古社にはありがちな遷座を繰り返し、この地に遷座したのは昭和3年の事です。
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東京にも数か所、伏見稲荷の鳥居を思わせる稲荷社があります。赤坂日枝神社の稲荷社、根津神社の乙女稲荷神社。ここ花園稲荷も人気のようです。本殿脇に鉄格子で閉ざされた社があります。立入り禁止ではなく”ちゃんと閉めましょう”と書いてあるのですが、外国人には読めないでしょうね(笑)。この社が「お穴様」で、むかし上野の山に住んでた「弥佐衛門なる狐」が【寛永寺ができると住む所がなくなって困る】と天海僧正に直訴して立退きの条件(?)として祀ってもらったという伝承があります。彰義隊上野戦争時には”穴稲荷門の戦”として大激戦の地となったそうですが‥。上野戦争は一方的な殲滅戦なので”激戦地”と言われても?です。また呼称の変遷が多い稲荷神社で「忍岡稲荷」や「お穴様/穴稲荷」と呼ばれ、明治の再興時に「花園稲荷」と改名したとの流れのようです。
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旧寛永寺五重の搭

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上野動物園の敷地内の重要文化財の『旧寛永寺五重の搭』です。残念ながら動物園内なので見るには動物園の入場料を支払わなければなりません。もともとは上野東照宮に付随して寛永8年(1631)に造られていますが火災により焼失、寛永16年(1639)に再建されています。高さは36.4mあり明治年間の神仏分離令により東照宮から寛永寺に管理が移り、1911年に重要文化財に指定され現在は東京都の管理となっています。法隆寺の五重塔とは異なり1階の屋根から最上階の屋根の面積が同じ(法隆寺は上層階に従って屋根の面積が縮小)となっています。見ようによってはバランス悪く感じられます。これ以上搭にはは近寄れないので残念ですが龍の彫刻や極彩色の十二支は良く見えません。
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上野公園・五条天神社

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上野公園不忍池に隣接した『五条天神社』です。摂社の「花園稲荷」の鳥居や赤の幟の方が目立っていて外国人には人気のようです。五条天神社は日本武尊が東征の折に「大己貴命」と「少彦名命」をこの地に祀ったのが創建とされ「菅原道真」は江戸時代に合祀されたようです。「大己貴命」と「少彦名命」は医薬祖神様とあり、相殿には学問の神様が祀られていることから、医薬系志望の受験生に人気が高い神社だそうです。天神社は時代の変遷や寛永寺の拡張により何度かの移転をしていますが、江戸元禄年間には現在のアメ横の線路沿い、ヨドバシカメラに隣接して「旧社地跡」を示す碑があります。天神社は正月の1日、2日、3日と初天神の25日の「鷽替え神事」でも有名ですが、今年は3年に1度の例大祭「大神輿の渡御」が5月25日に行われます。その旨を告知する幟が氏子内の上野公園から上野広小路一帯に掲げられています。
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博物館動物園駅

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Pt↑)は上野公園の『博物館動物園駅舎』です。昭和8年の京成本線の開通に合わせ、当時の帝國博物館、科学博物館、東京音楽学校、東京美術学校、上野動物園の最寄駅=とは云っても京成線沿線ですが=として開業しています。時代を経て乗降客の数が減少し、駅舎も老巧化したため平成16年に廃止となりました。薄っすらと記憶がありますが、駅全体が薄暗くホームの長さも寸足らと、とても長い編成の電車が停車できる駅ではありませんでした。反面、現在の機能性重視の駅舎とことなり、当時ならでは意匠がこらされた駅舎でした。今も駅のホームなどは壊されていないハズなのですが、地上部分の駅舎は少しは手を入れて欲しいものです。
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Pt中)は旧正門を表側からみています。昔の写真を見ると門左右のレンガ建ての部分(切符売場?)の上の傘状の建造物が乗っかっていました。  表門前の郵便ポストは動物園ならではの”パンダ”をイメージした塗り分けになっいます。郵便局員が集配にきており、ポストとしてチャント機能しております。
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上野動物園の大物達

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上野動物園は=正式には東京都恩賜上野動物園=都立の動物園で公益財団法人東京動物園協会が管理運営しています。1882年の開園で日本で最も古い動物園で、西園と東園を結ぶモノレール(90秒/¥150/大人片道)も日本で一番古い設備となるようです。 Pt↑)の門は旧正門として使われていた門で、パンダ舎を右に進んだ方向にあります。上野動物園の表門は何度か改装され、この門は明治45年~昭和08年まで使われた2代目の門のようです。
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こちらが現在の表門です。正門ではなく”表門”と呼称するところが面白いです。昔も今も子供連れで賑わっています。旧正門とは200mほど離れているので門自体を移築したより、この位置に門を造り直したと思う方が自然かもしれません。上野動物園は大人が出かけても意外と楽しめます。五重の塔がどうのとか、藤堂孝虎がどうのとか云ってるよりだらけきった動物を見ている方がほのぼのします(笑)。

有名な話ですが…。左のパンダ(だらけた寝方です)・中のオカピ・右のこびとカバの世界珍獣会の巨頭が同じ動物園に所属しているのは日本ではここ上野動物園だけです(!)。いずれ劣らぬ希少価値の絶滅危惧種です。
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