旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

神奈川県

小田原 この街は?

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10数年ぶりの小田原の変貌には驚かされました。調べてみると小田原は東京駅から東海道線で約90分、新幹線なら35分と都内への通勤圏としては微妙。人口は約19万3千人(2019/06)とこれまた微妙です。戦国時代は北条氏で栄えたとしても関東の中心が江戸に移ってからはご存じの通りです。Pt↑)JR東海・小田急・箱根登山鉄道の小田原駅は天下の観光地。箱根の入口としてそれなりご立派に変貌しているのですが、普通に考えればごく普通の地方の街なのです。
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この街の観光客誘致の取り組みはハンパではありません。街のいたるところに設置された案内板の多さや旧跡の紹介板など京都くんだりの一級観光地と比しても見劣りしません。昨今は公官庁や観光協会のHPはあたり前ですが、観光パンフがPDFで開ける(その数も豊富)などそうあったもんではないでしょう。
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街で見かけたマンホールです。他にもローマ字でODAWARAなど数種類を見つけましたが、小田原らしいのはPt↑)これです。箱根の山々、小田原城、川渡しの越がモチーフです。♪小田原提灯ぶらさげてぇ♪の「お猿のかごや」かと思ったのですが、「お猿のかごや」の作者の山上武夫氏は歌詞を東京・大森で作詞しており小田原とは関係は無いようです。
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小田原観光充実の最たるものがPt↑)の小田原城址公園内二の丸観光案内所です。この案内所自体が昭和9年に造られた建物を使っており、城址公園やら小田原観光のパンフ資料が数多く置かれています。
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小田原駅の西口側には小田原ゆかりの武将・北条早雲の騎馬像が置かれています。黄色のベストは小田原でのラグビーワールドカップの宣伝を兼ねているようですが「なんで俺が!」と早雲氏はぼやいている事でしょう。箱根の玄関口・鈴費の蒲鉾・ういろ・コンクリートの小田原城くらいのイメージしかなかったのですが、城址公園の整備や常盤木門や銅門の復元作業、パンフレット類、観光ボランティアの充実など、どれだけの時間と費用を費やしてきたことでしょう。ここまで観光誘致に特化している自治体も珍しいのかも知れません。

小田原城址公園…(2)

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面白い事に小田原駅前のビルには【正規登城ルートはこちらから・小田原城天守閣正面入口】と【お堀・城址公園への散策ルート/小田原駅前商店会】の看板があります。確かに駅からは”お城通り”を進んだ方が天守までは近いのですが、お城通りでは商店街を通らないので観光客への苦肉の策なのでしょう。確かに徒歩10分以上かかりますが、お堀通りを歩き某TV番組で水を抜かれたお堀から平成21年に復元された馬出門(うまだしもん)から城内に入った方がいい感じです…。
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このルートでは天守迄の距離があるのですが、変形枡形門の馬出門から平成9年復元の銅門(あかがねもん)を右に左に曲がりながら進み、昭和46年に再建された常盤木門(ときわぎもん)を抜けると天守が見えてきます。馬出門・銅門・常盤木門・天守へと進む登城ルートは他の国宝級の城郭跡と比べても遜色はありません。Pt↑と↓)は二の丸正門の銅門は見事な枡形門形式です。お堀の水は某TV番組で抜かれました。
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小田原城址公園…(1)

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静岡からの帰路に小田原駅で途中下車、小田原城址公園へ寄って見ました。新幹線の車窓から見ることは有ってもかれこれ10数年振りです。考えてみると再建モノながら東京から一番近い天守閣の建物なんですねぇ。ここ小田原の街は江戸(東京)より1400年代からと遥かに歴史のある街で小田原城の築城にしても1417年(応永24年)との説があるようです
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上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝らにより改修が加えられ、現在の天守台の姿は1960年(昭和35年)に鉄筋コンクリート構造で再建されたモノで、江戸中期の小田原城の姿を極力再現しているそうです。EVこそありませんが、天守内の歴代の城主や小田原攻めの資料はなかなかの充実ぶりです。最上階からは太平洋や箱根の山々石垣山城が見渡せ、小田原駅や市街地の方角は北条氏の時代には城郭内側だったようで、この城がいかに巨大だったのかが偲ばれます。天守内に”全国「天守」高さ比べTOP10”なる展示があり小田原城天守は27.2mの7位なんだそうですが、江戸城の家光の天守が現存していれば約60mですからかなりの差があります。
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小田原・報徳二宮神社

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小田原城址内の「報徳二宮神社」は二宮尊徳翁(金次郎)を祀る神社です。Pt↑)は翁の金次郎時代の姿で「薪を背負って本を読む姿」は見かけた記憶があるかも知れません。この”歩きスマホ的姿”は現代なら危険すぎると非難を浴びるでしょう(笑)。案内板によると【昭初期頃から全国の小学校に向けて約1000体が作られたが戦時中に供出され、今に残る高さ1mのブロンズ製はこれだけ】なんだそうです。そういえば佃島の住吉神社や新宿の花園神社の像は石制だったような…。
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この二宮尊徳翁は農政の改革による財政の再建という功績なのですが、申し訳なにのですがあまりピンとくるお話ではありません。この薪&本の像にしても「山に立ち入って薪を拾い集め海辺で販売する道すがらの姿」という話もあり、そうなるとすばしっこい小金稼ぎをしていたようです。当時の施政の考えとして尊徳翁の様なヒーローが必要だったのかも知れませんが、全国の小学校に銅像が造られるまでの功績とはとても思えないのですが…。
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川崎市立日本民家園

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Pt↑)は富山県五箇山から移築した合掌造の民家です。日本の古民家を象徴する景観なのかも知れません。「川崎市立日本民家園」は小田急線・向ヶ丘遊園駅から徒歩20分ほど、丘陵地に20数軒の古民家が移築されています。200-300年の建物でほとんどが関東圏の民家のようです。日本民家園は開業50周年だそうで、250年(移築時)+50年=300年(現在)となると「オリジナル状態では日本最古の建物」があるかも知れません。
今の季節は茅葺屋根の民家では湿気管理と害虫予防で囲炉裏炊きをしており、これが熱いのと煙いので往生します。ゆっくり見て歩くと1時間半くらいですが、丘陵地の点在しているのでかなりのハイキング気分です。現実には古民家の維持管理補修にはとんでもない費用がかかります。建材も職人も減っていきます。公立の施設でなければ経営は難しいでしょう。
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鎌倉・腹切りやぐら

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観光客やエセグルメで賑わう若宮大路(郵便局辺リ)から紅葉山方面に入って行きます。住宅地を進み大正13年(1924)に架けられた「東勝寺橋」を渡り坂道を進むと、国指定史跡「東勝寺跡」の案内板だけがポツンとあります。隣が”放置自転車保管場”ですから住宅地とは云え町はずれ感が漂います。更に進むとハイキングコースの入口、左側が「腹切りやぐら」です。この場所は鎌倉有数の心霊スポットとされています。元弘3年(1333)後醍醐天皇による「元弘の乱」の最後の戦いで、天皇側の新田義貞との「東勝寺合戦」に敗れた鎌倉方北条高時が北条一族(283人)と家臣(870人)が自害した場所で、鎌倉幕府(1192-1333)はこの地で滅亡しています。そうなれば落武者の霊だの心霊スポットとされるのは無理ありません。
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鎌倉・源頼朝墓所

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建久9年(1198)11月27日頼朝さんは相模川での橋供養の帰路に突然体調を崩して、建久10年(1199)1月11日に出家、13日に享年53歳で亡くなります。平家一門や源義経の怨霊に襲われ落馬したのが原因との説もあるくらい奇妙なことには幕府の公式記録「吾妻鏡」には死因についての記録がなく、前述の怨霊説、妻の政子による暗殺説、持病の悪化によるなど諸説が溢れています。「吾妻鏡」は、後年北条氏によって書かれて史書なので都合の悪い事は削除したのかも知れません。鶴岡八幡宮から徒歩10分弱、白旗神社内に頼朝さんの墓所があります。安永8年(1779)に頼朝さんの子孫と自称する薩摩の島津重豪により再建されたものですが、あながちハズレではなさそうです。Pt↓)墓所までは階段を53段(死亡時の年齢)登ります。階段手摺には源氏の印「笹竜胆」の紋がありました。
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鎌倉・荏柄天神社

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鎌倉宮からほど近くに太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神と称する「荏柄天神社」があります。ご祀神は、平安時代の政治家であった菅原道真です。創建は 1104(長治元)年。晴れていた空が突然かき曇り、雷鳴とともに菅原道真の肖像画が降臨した事によるそうです。1180年、鎌倉幕府を創設した源頼朝は、荏柄天神社を鬼門(北東)の守り神とし、源氏・足利氏・北条氏・豊臣氏・徳川氏と鎌倉の武士たちの尊崇を受けていたようです。以前にも触れましたが菅原道真公は中央での政争に敗れ九州に左遷されたのを恨んで、都に雷を落とすは疫病を流行らせたりの大暴れ。平将門、崇徳上皇と共に『日本三大怨霊神』と「されています。神様に祭り上げられておけば気分をよくして「祟りなくなる」ということなのですが・・。
お社は50段程度の階段の上にあります。結構シンドイ階段です。
Pt↓)はかっぱ漫画で有名な「清水昆」が愛用の筆を供養するために建てた「かっぱ筆塚」です。
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鎌倉・大塔宮(鎌倉宮)

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JR鎌倉駅4番からバスで約15分(¥180)で大塔宮(鎌倉宮)に到着します。位置的にはアバウト鶴岡八幡宮の奥になるのですが観光客は多くないようです。社格は”旧官幣中社”とあり、「護良親王」が祀られています。Pt↑)は一の鳥居です。白鳥居はコンクリートや石造りなどありますが、笠木(1本目の赤、2本目の貫が白)で島木が白く貫が飛び出ていない明神鳥居は珍しい造りです。神職に聞いたところ・・鳥居はコンクリート製で”白”は護良親王の純な心と捉えて下さい。この形式は全国で唯一でしょうが、あえて表現していません・・とのお話でした。
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祀神の護良親王は後醍醐天皇の子で、後醍醐天皇は建武中興により鎌倉幕府を滅亡させますが、後に足利尊氏と対立、護良親王は捕えられ幽閉のち殺害されています。鎌倉宮は明治2年(1869)に明治天皇が建武中興の功績を讃え護良親王を祀る神社の造営を命じたことによります。本殿裏には親王が幽閉された伝承の土牢(?)が残っています。面白いのが神社の宝物殿で、乃木希典や伊藤博文、幕末期の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3舟の書が揃って展示してあります。
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さて鎌倉…(6)

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鎌倉銘菓となると「豊島屋・鳩サブレー」でしょう。豊島屋初代が八幡宮の鳩もモチーフに鳩サブレーを考案し、明治時代末から売られているそうです。Pt↑)のように鶴岡八幡宮楼門の扁額の文字、八幡の「八」が2羽の鳩になっています(市ヶ谷・亀ヶ岡八幡宮も同様でした)。八幡信仰は大分の神功皇后と応神天皇を祀る宇佐八幡に始まり京都・石清水八幡宮から全国へ信仰が広まって行く過程で”白い鳩”がその道案内したとかの伝承(その他にも何種類かの説話もありますが)によるようです。
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鶴岡八幡宮は康平8年(1063)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請したが始まり、源義家(八幡太郎義家)、源頼朝、徳川幕府と武家の崇敬を集めました。明治の以前は多くの神宮寺や東照宮などがあったようですが、廃仏稀釈により破壊されています。「日本三大八幡」だそうですが、1)大分・宇佐神宮 2)京都・石清水八幡宮 3)福岡・筥崎宮 4) 鶴岡八幡宮の4社のから1)&2)に3)or4)のどちらかを加て「三大」となるそうです。
・・・・・・<Pt↓>・・・・・・
平成22年3月の大風で源実朝暗殺現場の大銀杏は倒壊し、移植された銀杏が根付くのが期待されます。
楼門から由比ヶ浜方面を見ると、かなりの絶景です。
三の鳥居先の太鼓橋です。いつのまにやら通行禁止になっていました。
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さて鎌倉…(5)

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由比ヶ浜からの海岸から鶴岡八幡宮へ続く1.8㎞の参道が『若宮大路』です。昭和61年(1986)には「日本の道100選」に選ばれていますが、常に渋滞している道と行った方が的確でしょう。Pt↑)が由比ヶ浜よりの御影石で造られた鶴岡八幡宮「一の鳥居」です。寛文8年(1668)に徳川4代将軍・家綱公により一から三の鳥居までが寄進されたのですが、大正12年(1937)の関東大震災で崩壊し、高さ8.5mの一の鳥居だけが元の形式に再建されています。江戸時代以前の古地図ではこの辺りが海岸線だったようです。
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Pt↑)が「二の鳥居」。そして若宮大路の象徴の「段蔓」です。昔は一の鳥居まで続いていたようですが、現在は二から三の鳥居間の約500mが残っています。「段蔓」は源頼朝が妻政子の安産祈願に八幡宮参道を造成した際に若宮大路の一段高い所に築かれたものです。現在は桜並木が整備されており、昭和48年には”日本桜名所100”に選ばれています。因みに二の鳥居、三の鳥居はコンクリート製です。
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JR鎌倉駅から二の鳥居/段蔓、三の鳥居あたりまでが、これでもかというほど老舗あり新興勢力ありの食事処、物産展、土産物屋が続いています。私らの学生時代の鎌倉は今ほどの賑わいはなく落ち着いた雰囲気の街でした。思うに今の観光地としての賑いは台東区・浅草の街と似かよっています。観光客で賑わうのを否定するつもりは毛頭ありませんが、これも時の流れなのでしょう。そうですよねっ、頼朝さん(!)。

さて鎌倉…(4)

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長谷の『甘縄神明宮』です。ご覧のように参拝者が大挙して来るような神社でもエセグルメとも縁はなく、参拝者は誰もいらっしゃいません。長谷寺や大仏を訪れた人達は何処へ行ったのでしょう(苦笑)。ご祀神は天照大神を筆頭に倉稲魂命・伊邪那美命・武甕槌命と伊勢系の神々、さらに菅原道真公がいらっしゃいます。創建は和銅3年(710)とされ=いい国(1192)創ろう鎌倉幕府=の480年前という事になります。現存する本殿・拝殿は昭和12年(1937)の再建とありますが、創建和銅3年は、鎌倉でも一番の古社と言われています。後方は丘陵地帯、前は海と集落には最適な地形だったのでしょう。源頼義が甘縄神明宮に祈願をして義家が生まれたとの伝承もあり、源氏と関係の深い神社だったようです。
資料により甘縄神明宮・甘縄神明神社・甘縄神社との表現がありますが、鳥居脇の石碑は『甘縄神明宮』でした。
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さて鎌倉…(3)

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長谷寺から徒歩7分程の『大異山高徳院清浄泉寺・高徳院』にデンといらっしゃるのが鎌倉大仏、長谷の大仏として知られる国宝・阿弥陀如来像です。高さが約11m、重量約12t(因みに奈良の大仏は高さ約14.7m)あります。高徳院自体が創建年や開基が不明で大仏の造営に付いても不明な点が多いようですが、奈良大仏より修理の回数が少なくよりオリジナルの姿を残しているそうです。大仏の内部は空洞で天気の良い日は背中側の扉が開いています。狭い場所なのでMax30名の制限はありますが、拝観料に¥20追加すれば大仏の内部を見学できます。映像では判りにくいのですが、大仏さんはかなりの猫背姿勢で、首の部分には襟巻状に補修形跡があり、創建時には金箔が貼られていた少しばかりの名残りが確認できます。
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さて鎌倉…(2)

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【眼下には鎌倉市街、由比ヶ浜から厨子までの展望。四季折々の花々楽しめる古刹】・・鎌倉でも屈指&最強のお寺が『慈照院長谷寺』です。天候も宜しく右も左も外人だらけ、さながらお祭りのようです。由比ヶ浜を望む展望テラスに在ったのがPt↑)、”Beware Of Kites/トビに注意”と描かれています。外人旅行者の被害も多いんでしょうねぇ。絵馬(Votive Tablet)の説明には英文でも書かれていましたが、子授け・安産・祈願・御礼・・・わかるんですかね?。”おもてなし”って浮かれている方々、日本人にとって簡単な事を説明するのが一番難しいのです(苦笑)。
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江ノ電長谷駅から徒歩5分程。良くわからないC級グルメ店やショップを眺めながら歩いて行きます。今風なんでしょうねぇ長谷寺の拝観券は自動券売機が設置されスイカ等が使えます。これはこれで良しですが、寺男さんか巫女さんの方が有難味があるようです。長谷寺はの創建は奈良時代とされていますが良くわからないようす。Pt↑)は長谷寺・山門です。誰も写りこまないPtは以外に難しいもんです。重要文化財のご本尊・十一面観音立像は高さが9mの大きなもので主要な建物は関東大震災後に再建されています。諸堂は由比ヶ浜を見下ろす山腹にあり、繰り返しですが”鎌倉最強”と思います。
Pt↓)はかきがら稲荷社で漂着した観音像に付着していた蠣殻を祀っているそうです。
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さて鎌倉…(1)

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所用で藤沢まできたついでに鎌倉まで足を延ばしてみました。車で来ることはあっても江ノ電に乗るのは20数年振りです。2両編成で細々と走っていたのがいつのまにやら4両編成となっているんですねぇ。藤沢~鎌倉、全15駅、所要34分。江ノ電は線路が単線なので1時間/5本のダイヤ編成はこれで限界なのでしょうが、倒産寸前だった江ノ電がここまで持ち直すとは思ってもみませんでした。様々な面で観光に特化している姿はそれはそれでたいしたモンです。お土産品のポスターにしてものサイズの必要はあるんですかねぇ?
人気寺院の最寄駅の”長谷駅”のトイレには「私設が古くて申し訳ありません~」の掲示には笑かせてもらいます。流石にこの駅の佇まいですから・・。
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横須賀・三笠公園

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Pt↑)は「さかみ」ではなく『みかさ』です。明治38年(1905)バルチック艦隊との日本海海戦では連合艦隊の旗艦を務めています。明治35年(1902年)イギリスでの竣工、この時代の日本には戦艦を建造するだけの技術力・国力がなく富士型戦艦2隻、敷島型戦艦4隻の6隻をイギリスに発注しています。戦艦三笠1隻の建造費が1200万円(現5兆円)。これは当時の国家予算の5%とは驚きです。日本海海戦後直後に佐世保港で弾薬庫爆発事故をおこし日本海海戦(死傷者約110名)以上の約440名の死傷者を出すなどで、後年はパッとした戦績はなく退役。芝浦港へ回送途中に関東大震災により着底。そのまま現三笠公園に保存となりました。戦後は米軍の娯楽施設(ソ連はスクラップ化を主張。そりゃぁ無理ありませんが・・)として使用され、その際に甲板より上の構造物の多くは撤去され、現構造物は復原されたものです。オリジナル部分は建造から115年を経た「鉄製の軍艦」として世界的に貴重な遺構となっているそうです。
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日露戦争を描いた小説として有名なのは司馬遼太郎のNHKでドラマ化もされた「坂の上の雲」でしょう。「小説」としては面白いのですが、司馬作品を読んで(見て)史実と思い込んむ方々が多く見られりのは困りモンです。「坂の上の雲」と「他の日露戦争史」では違いに唖然とする場面が多々あります。例えば旅順203高地の攻略戦で完全な無能将軍された乃木将軍と伊地知参謀などはいい例です(苦笑)。反対に「竜馬が行く」のように本人の過大評価の極みもありますが。・・大体がご本人の「リョウ」の字は【竜】ではなく【龍】です・・実際のところ「他の日露戦争史」の表現ではT字戦法も東郷ターンも海戦の大勝利を神格化するために創作された気がします。
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横浜・関内エリア三塔めぐり

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横浜・関内エリアの歴史的建造物をめぐる『横浜三塔めぐり』…これも三大とか七大とかの語呂合わせなんでしょうか(?) Pt↑)が「ジャックの塔」こと”横浜市開港記念館”す。1917年に横浜開港50周年記念事業として”開港記念横浜会館”として開館した建物です。1989年に関東大震災などで失われていたドーム屋根が復元され国の重要文化材に指定されています。時計塔の高さは約36mあります。
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「ジャックの塔」から徒歩3分ほどで、1928年に完成した「キングの塔」こと神奈川県庁舎です。1996年には登録有形文化財/建造物に登録されていますが、現役使用中ですので妥当な所でしょう。塔の高さは49mだそうです。 日本大通りに面したどっしりとした昭和初期に流行した帝冠様式建物で、まさに”キング”の風格があります。現役の庁舎なので土・日・祭はご覧のように入口は閉じられています。
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「キングの塔」から徒歩5分。緑色の帽子(ドーム)の「クィーンの塔」こと横浜税関です。関東大震災後の帝都復興事業に一環として1934年に完成しています。塔の高さは51mと意外と高く、こちらも2001年横浜市指定歴史的建造物に指定されています。税関資料展示室(クィーンひろば)が併設され不法密輸品等の資料展示室があります。この展示室けっこう楽しめます。
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クイーン(51m)、キング(49m)、ジャック(36m)の三塔が同時に見られる場所を探すのは大変で、そんなことから県庁分庁舎前・赤レンガパーク・大桟橋国際客船ターミナルの3つのスポットをめぐると”願いがかなう”とか象の鼻パークの三塔スポットは”恋愛祈願のスポット”とされるようです。 こんな馬鹿げた事を言い出したのは誰なんでしょうか(苦笑)。 Pt↓)は大桟橋テラスからド逆光を無理やり撮っています。
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鶴見・總持寺…(2)

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この「總持寺」は1911年に石川県輪島からこの地に移転して来ています。という事で、大祖堂、三門などの第二次大戦後に建立された鉄筋コンクリート造りと、大正から昭和時代前期にかけての木造建築が混在、このうち仏殿などの建築物の16件が有形文化財登録となっています。
Pt↑は、1965年に竣工した「大祖堂」です。Pt↓の「仏殿」の右側に位置し高さ36mだそうです。こちらには開祖・太祖瑩山禅師、高祖・道元禅師、二祖・峨山禅師をはじめ歴代の禅師が祀られています。「三門」を経て「總持寺石柱」からここまで、たいそうな距離があります。
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下左)右の建物は、研修道場や各種セレモニーの会場として使用される「三松閣」です。
下中)総受付や売店のある「香積台」です。こちらには高さ約180㎝の木彫りの「大黒尊天」が祀られています。
下右)こちらが大正4年の竣工の「仏殿」です。「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」とも呼ばれ、「本尊釈迦如来像」が安置されています。140625_06140625_04140625_05


鶴見・總持寺…(1)

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横浜市鶴見区の鶴見が丘に曹同宗大本山の總持寺(そうじじ)があります。山号は諸嶽山(しょがくさん)。ご本尊は釈迦如来ですが、ご本尊の釈迦如来を安置する「仏殿」より、歴代の祖師を祀る「大祖堂」の方が規模が大きいのが特色とあります。明治44年に石川県能登よりこの地に移転、以来、諸堂を整備し、約10坪の広大な境内にさまざまな堂宇を建立されています。境内には鶴見大学などもあり兎にも角にも圧倒的な規模のお寺です。(Pt↑)は昭和44に落成した「三門」です。鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさなんだそうです。 確かにデカイです(!)。
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JR鶴見駅西口から横浜方面に徒歩10分弱で(Pt↓左)が「總持寺」の入口です。ここは入口で「仏殿」は遥か先です。緑豊かな参道を進むと「大本山總持寺」の石柱(Pt↓中)があります。参道左右は鶴見大学です。(Pt↓右)の門は「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれた總持寺の総門です。
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川崎大師・平間寺

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神奈川県川崎市の【平間寺】は真言宗智山派のお寺で、山号は「金剛山」、院号は「金乗院」なのですが…。通称で【川崎大師】の方が一般的かと思います。正月の初詣参拝者数では上位に数えられいます。正月の大混雑がないと別のお寺ではないかと思える程ですが、これはこれで良い感じです。
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140611_02140611_03京浜急行大師線川崎大師駅から徒歩10分位です。表参道、仲見世を経て「大山門」に至るのですが、時間帯なのか人通りが少なく、見物たんきり飴の実演販売もやっておりませんでした。仲見世通りは実質200m弱と思われますが、”たんきり飴”と”だるま屋”の多いこと(!)流石に名物です。
右が「大山門」です。開創850年記念事業で昭和52年(1977)11月の完成だそうです。一見仁王像安置に見えるのですが、東の持国天・南の増長天・西の広目天・北の多聞天からなる四天王の像となっています。柵と網で見にくいのですが迫力満点の像が安置されています。
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140611_09140611_04大山門過ぎると正面に大本堂がデ~ンとあります。川崎大師・初詣の映像はこの大本堂、大混雑の模様が使われます。ご本尊は弘法大師像で、創建は1128年(大治3年)とあるので鎌倉幕府以前です。1813年/文化10年にときの将軍・徳川家斉が厄除けに訪れたことから「厄除け大師」と広まったようです。京急川崎駅からの大師線は1899年に開業、京浜急行のルーツとさています。元々川崎大師への参詣客の輸送を目的に建設されたのですが、参拝客の増加による予想外の収益と大ヒットとなり、各地の私鉄会社へ影響を与える事なったと云われています。本当なんでしょうかねぇ?
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