旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

神奈川県

でけぇ!あなご天 日栄軒

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「川村屋 とり肉そば」は予定外でした。時刻は15:00を過ぎ東神奈川駅で途中下車、東京方面ホームの「日栄軒」に向かいます。川村屋から約3時間経過しているので大丈夫でしょう(苦笑)。東神奈川駅「日栄軒」とくれば『あなご天(今回はうどん)』です。なんとまぁでけぇ事! 厚みもあり丼からはみ出しています(笑)
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東神奈川駅「日栄軒」は立喰いそば店のレジェンドです。東神奈川と八王子間の横浜鉄道開業が明治41年、横浜鉄道が国有化され国鉄となるのが大正6年、翌大正7年に日栄軒が開業。なんと100年以上の歴史があります。以前から機会があればと思っていましたが、日中35℃を超える快晴の9月に実現するとは大笑いです。
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レジェンドは立喰いのみの5名が定員というところです。当然の如く扉は全開、冷房なんて洒落たものはありません。実はPt↑)の丼の先約50㎝はお汁の鍋が置かれ熱気がダイレクト、10秒食べて10秒休むの繰り返しでした。が、でかくて厚みのあるあなご天&醤油か思う真黒な汁!ハフハフと食べるのは立喰いそばの神髄です。
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客も汗だくなら調理側も同様でしょう(笑)。㈲日栄軒はチェーン展開はしておらず東神奈川駅ホームでの単独店舗です。この形態は年々減少傾向で、最近は駅そば店はJR-Cross系のような面白みのない店舗ばかりで、「どこで食べても同じ」なら、その店ならではのワクワク感はありません。桜木町の川村屋、東神奈川の日栄軒と当りが続くと嬉しいばかりです。
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メニュー&食券販売機です。最初は故障と思ったのですが、近づくと点灯します。日栄軒にも小賢しいラーメン、カレーライス、飯とのセットなどなく「いなり」があるだけです。本来の立喰い店は小腹対応で満腹感とは違ったはずです。需要はあるのでしょうが食材やら什器やら調理の手間を考えれば意味は少ないと思うのですが…。
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なんといっても開業から100年です。並みの企業でも事業を100年継続するのは大変なことです。開業時は駅周辺は工場関係が多く勤務する人達の要望で「塩分強め」のお醤油を煮込んだような真っ黒お汁となったようです。加齢とともに「塩分控えめ」が必要なのですが、だいたいが「旨いもには体には良くない」から旨いものは旨いのです。日栄軒、次回は冬の寒い日に食べてみたいものです。
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この絵を見た時は「そんなにデカイ訳はないだろう」と高をくくぅていました。出てきたのがあれです(笑)。聴けば限定的メニューで完売する日も多々あるそうです。ものこそ違え我孫子駅の弥生軒と双へきです。

川村屋が復活だってぇ

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所用があったのは横浜駅近ですが、電車内でスマホ検索をしているとWebニュースに桜木町駅の老舗駅そば店「川村屋」復活の記事がありました。川村屋の閉店すら知りませんが、桜木町は横浜の次なので行って見るしかありません。「川村屋」は南口改札を出てすぐ右です.。駅舎もが何もかも変貌した桜木町駅は何十年振りでしょう!。
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Web記事によると「川村屋」は桜木町駅が横浜駅だった明治33年に西洋料理店として伊藤博文のコネで開業、120年超の歴史があるそうです。昭和44年からは立喰いそば事業を始め、一押しの『とり肉そば』は「旨い駅そば大百科」にも掲載されています。店主や従業員の高齢化により2023年3月に地元ファンに惜しまれてながら閉店となりました。
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Web記事は続きます。そして事業継承に名乗りを上げたのが店主の次女だったそうで紆余曲折の後、めでたく2023年9月に再オープンとなったようです。誠に申し訳ないのですが…。なんだかTV的な話で、昔からの贔屓客も「ハマのあの味が帰ってきた」と大喜び…。微妙に日本人が大好きな『人情話』にすり替わっていく感があります。
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つまりは安くて 速くて 旨ければいいのです。時刻は12:00少し前、立席なしのイス25席はビッチリで、Pt撮影のスキなどありません。イス間がやや狭いのですが、さっさと帰るが基本の店はこれでも可です。ワイドショ一的インタビューではあるまいし「明治から続く歴史に想いを馳せ懐かしい味を堪能した」なんて…馬鹿かお前は(笑)。初めての「とり肉そば」…ごくごく普通に旨いのですが感涙にむせぶ程ではありません(笑)。
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人気の観光スポットにも近くJR桜木町駅と横浜市営地下鉄の乗降旅客だけでも相当数があるでしょう。駅に隣接、立喰いそば屋にあるまじき店構え、そして老舗の看板…。この条件で繁盛しなければ経営者として無能です(笑)。「川村屋」のメニューには飯とのセットやカレーやラーメンなどありません。いさぎ良いではありませんか!

平塚八幡宮…(2)

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平塚八幡宮の千木と鰹木の部分です。千木の横剥ぎと縦剥ぎ、鰹木の奇数偶数はご祀神が男神or女神を表していると云われる事が多いのですが、実際は例外が多くこの例に合致しない神社は数多く存在します。その辺りの一種の”ゆるさ”が神社参拝時の楽しみでもあります。Ptでは潰れていますが神紋の鶴丸とハート印であってハート印でない猪目がよく見えます。
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参道を進むと朱の色が鮮やかな壱の鳥居と異なる緑の囲まれた銅製の弐の鳥居となります。時節がらのマスクを装着した狛犬がなかなかの迫力です。これなら異なるもの達の侵入を防いでくれるでしょう。銅鳥居を過ぎて左に神厩舎があり若い神馬が居ました。神域には八幡様のお使い「鳩」やら何故か「あひる」神馬の「ポニー」やらと動物が多いようです。
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平塚八幡宮の創建は第16代仁徳天皇の御代68年(380)とされます。相模國一國一社の八幡宮として歴代の天皇や源頼朝公を筆頭に多くの坂東武士からも崇敬を集めたようです。 戦国時代には戦乱により社殿をはじめ社宝、社伝記の殆どは失われても、江戸時代には東海道や厚木、大山へ街道が交わる交通の要所となり門前街としても大きく発展します。現在の社殿は関東大震災で倒壊の後、昭和3年(1928)完成とありました。時の流れが良い感じです。
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社殿の横からは拝殿・幣殿・本殿が並ぶ権現造りの様子が良く判りる美しい姿が見られます。ご祀神は八幡社ならではの応神天皇(おうじんてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)と武内宿禰(たけのうちのすくね)が祀られています。宗像3女神ではなく
武内宿禰は珍しいのかも知れません。
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神厩舎の裏手に住職のコレクションの一部だそうですが全国各地の神社の絵馬が展示してありました。ガラスの反射でよくよく見ることができませんでしたが、よく集めたものです。摂末社には天照大御神・事代主神と徳川家康を祀る神明社。仁徳天皇を祀る若宮社。建御名方神の諏訪社。聖徳太子を祀る太子堂などがあります。
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平塚八幡宮…(1)

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JR平塚駅から海とは反対方向に徒歩10分程、国道1号線に面しての平塚八幡宮です。平塚と云えば「七夕まつり」で有名ですが、今年は規模を縮小しての開催とったようです。Pt↑)の横断禁止の看板が写りこむのは国道1号線、交通量が多く致し方ありません。一の鳥居は例大祭の準備でいつもと趣が異なるようです。神社神紋は鶴岡八幡宮と同じ「鶴丸紋」でした。
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鳥居から東海道線方面への通りが「八幡大門通り」で神社への表参道となりオリジナル東海道まで続きます。その先は「浜大門通り」となり海まで続いていたようです。明治20年の平塚駅の開業で海まで道は分断されますが平塚の街はこの辺りを中心に発展したきています。
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駅から直進で500mほど1号線の横断橋からの神社は思いのほか「緑」に恵まれていました。神社の旧社格は県社で現在は神社本庁の別表神社とあります。資料には「鶴峯山八幡宮」を称した時代あり、また旧相模国の伝統行事に参加する相模国五社の1社との記載があるのですが、この辺りはよく判らない部分です。
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鳥居を抜けると雰囲気が変わります。神池の右の中島に白い幟を掲げ弁天社と見間違えた「鶴峯山稲荷」があり、赤い幟を掲げ「市杵嶋姫命」を祀る弁天社は左側にあります。
市杵嶋姫命と弁財天は微妙な点があるのですが別項とします。
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川崎大師・平間寺…(2)

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川崎大師駅へ来て「川崎大師」は無視できません、2014年6月以来の参拝となりました。なんと川崎大師平間寺にもキャラの「ひらまくん」の姿がありました。2020年5月に誕生のキャラクターで作者が同じことから奈良の「せんとくん」に似ているとの指摘もあるようです。平安時代に尾張の国からきた漁師をしていた平間兼乗が海から弘法大師像を見つけたのが寺の起源とされている伝承からのこの姿です。
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京急川崎からの大師線は明治32年の大師電気鉄道として開業、社名の変更により京浜電気鉄となり一時的には東京急行電鉄と合併、さらに分離して京浜急行電鉄となっています。当時は電車を利用して寺社仏閣への参詣は画期的で大師電気鉄道の「初詣は川崎大師へ!」宣伝により初詣習慣は一般的になりました。
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川崎大師へは大師駅より参道を寺を通り越して戻る感じで山門へ進みます。川崎大師の名物は、咳止め飴、葛餅、達磨人形が有名ですが、店舗数は減っているように感じます。店に並んだ達磨人形のカラフルなこと!。極彩色は派手でで良いのですが「こんな達磨はありか?」と複雑です(苦笑)。
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大師信仰は広く浸透している事もあり、「初詣発祥の地」が理由ではないでしょうが、川崎大師には例年300万人超の初詣参拝者が訪れます。ここは弘法大師を本尊とする真言宗智山派の寺で、成田山新勝寺や高尾山薬王院と関東三大大師とされます。成田や高尾山に比して交通機関の便利さでは優位にあります。
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西解脱門近くに「しょうづかの婆さん」があります。三途の川で亡者の服を脱す担当の「奪衣婆/だついば」=「葬頭河の婆(そうづかのば)」が「しょうづかの婆さん」と変化したようです。以前は品川にあり「台場の久兵様」や「歯のお地蔵さん」と呼ばれ歯痛治癒や容貌を美しくするとされています。新宿区の某寺の奪衣婆(だついば)は”服を脱がす”ことから遊女の信仰があったとあるように民間の信仰としてはありがちな話です。

若宮八幡宮・金山神社

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若宮八幡宮境内に「金山神社」と称する放送自粛的(?)な神社があります。明治中期には大師駅付近にあり鉄道の施設に伴って若宮八幡宮に移って来たそうで、八幡宮社殿左の建物が金山神社、内部がのぞき込めない様な様式になっています。例年4月に開催される「かなまら祭」は全国区屈指の”奇祭”として外国人にもかなり有名で、Webによると今年は行事の一部を自粛し神事は関係者のみとなっていますが催行されるようです。
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Webに写真がある祭礼に使われる神輿は100%放送禁止でしょう(笑)。「かなまら大神輿」、「かなまら舟神輿」、「エリザベス神輿」の3基の神輿にPt↑の様なご神体を神輿に乗せ練り歩く行事は全国屈指の奇祭に相応しいようです。特には某女装クラブから寄贈された「エリザベス神輿」は爆笑ものです。テレビでは無理です(!)
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日本人は元来「性」の対しては大らかな民族性で、性に関しての奇岩や古木、神社は珍しいことではありません。金山神社の「かなまら祭」は伝統的な祭りとは異なり近年に構築された祭りのようです。近くには川崎大師があり、有名寺社には岡場所が付き物なので遊郭の女性達の商売繁盛や健康祈願が始まりなのでしょう。明治以降に廃れた信仰も民俗学者たちの注目により復活、平成28年の祭りには3万人を超える人がやって来るとは(苦笑)。
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Pt↑)の建物は「絵馬殿」です。金山神社のご祀神は鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の2神です。絵馬殿に釜・包丁を模した絵馬や金床があり、社殿内部が鍛冶屋作業場となっていたりします。この2神は「性」の神でもあり、かなやま様がかなまら様(金魔羅様)となり夫婦和合・子授けから性病快癒、エイズ除けと展開していく様は、日本的なんだなぁと感心してしまいます。
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今回は寄れませんでしたが、若宮八幡宮社務所の郷土資料館の一室が金山神社資料室になっているようです。ほど近い川崎大師へ向かいます。曇天ですが暖かくねむり猫は気持ちよさげです(笑)

川崎・若宮八幡宮

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京急川崎駅で大師線に乗り換え3駅目の「川崎大師駅」で下車します。大師線は明治32年(1899)に川崎大師の参拝者輸送を目的とした現京浜急行電鉄の最古の路線です。開業には人力車組合の猛反対があったとか、”電車で行く初詣”の始まりだとかの伝承は微笑ましい限りです。駅を背に左方向が川崎大師参道で、若宮八幡宮は右前方向に徒歩2分程度です。
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創建年は永禄年間(1559)の検知記録に記載があることから1520~1555と想定されているようです。創建以来、川崎大師平間寺に属する鎮守社であり明治の神仏分離時に独立となります。元々は大師河原干拓の際に現大田区東六郷の八幡塚六郷神社から祀神である応神天皇の子供、仁徳天皇を分霊した祀ったようです。
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神社祭事に、節分の行事では豆の変わりにお菓子やお煎餅をまくとあり、中国地方のローカル風習の「恵方巻」を関東では初めておこなったとあります。恵方巻ってのは某コンビニチェーンが販促用に仕掛けた行事のはずなのですが(笑)。それはともかく、ご祀神は仁徳天皇(大鷦鷯尊/おおみささぎのみこと)、ご利益は厄除け・安産子育てとあります。
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「大師河原酒合戦350年記念」の碑なんてのもあり、これは慶安元年(1648)に3日3晩にわたり酒を飲み続けた”合戦”の碑で、これが10月に行われる例大祭の「水鳥の祭」に繋がっていて、拝殿左右に積み上げられた酒樽はその関連でしょう。境内社が数社あり一社は藤森稲荷神社(宇賀之魂命)、隣が大鷲神社(日本武尊)です。さらなる一社が「金山神社」ですが、これは別項に続きます。
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横浜市西区・杉山神社

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大國魂神社の「六所宮」のうち六之宮とされる「杉山神社」を調べてみました。驚く事には「杉山神社」は横浜市一帯と川崎、町田周辺を限定で鎮座し、江戸時代には72社あったとされ現在でも40数社あるそうです。狭い地域にこれだけの密集度とは氷川神社どころではありません。しかも、延喜式に記載の「杉山神社」と推定される神社は4社ほどあるようです。
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という事で数ある杉山神社のうち大國魂神社の例大祭「くらやみ祭」に参列している横浜市緑区西八朔町の「杉山神社」へ行ってきました。JR横浜線・十日市場駅(快速停らず)から徒歩15分程度です。駅を背にして緩い坂道を下るとほどなく河岸段丘の耕作地帯に出ます。恩田川の川沿いの高台に神社はあり、これだけでも「古社」の立地要件は満たしています。
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この神社は神職が常駐していないようですが、神域はよく手入れされ石段脇には横浜市緑消防団第三分団が控えています。バス停脇社標には「延喜式内社武蔵総社六之宮杉山神社」とあり、30mほど離れた場所には一部が壊された(?)杉山神社のみの旧社標がありました。石段を登ると「昭和16年西八朔青年団解散記念」とある狛犬が迎えます(苦笑)。ご祭神は「五十猛命=素戔嗚命の子」。配祀神として「大日霊貴命=天照大御神」・「素戔嗚命」・ 「太田命=誰?」となっています。
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神職不在の神社は”荒れ果て感が顕著なのですが、この神社は地域で大切にされている感に満ちています。見渡せば河岸段丘を流れる恩田川。人々の暮らしを見守ってきた神社なのでしょう。拝殿には大國魂神社宮司による「延喜式内社武蔵総社六之宮 杉山神社」の社額があります。論社論争中という話ですが言い切って良いものなのでしょうか?
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小田原 この街は?

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10数年ぶりの小田原の変貌には驚かされました。調べてみると小田原は東京駅から東海道線で約90分、新幹線なら35分と都内への通勤圏としては微妙。人口は約19万3千人(2019/06)とこれまた微妙です。戦国時代は北条氏で栄えたとしても関東の中心が江戸に移ってからはご存じの通りです。Pt↑)JR東海・小田急・箱根登山鉄道の小田原駅は天下の観光地。箱根の入口としてそれなりご立派に変貌しているのですが、普通に考えればごく普通の地方の街なのです。
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この街の観光客誘致の取り組みはハンパではありません。街のいたるところに設置された案内板の多さや旧跡の紹介板など京都くんだりの一級観光地と比しても見劣りしません。昨今は公官庁や観光協会のHPはあたり前ですが、観光パンフがPDFで開ける(その数も豊富)などそうあったもんではないでしょう。
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街で見かけたマンホールです。他にもローマ字でODAWARAなど数種類を見つけましたが、小田原らしいのはPt↑)これです。箱根の山々、小田原城、川渡しの越がモチーフです。♪小田原提灯ぶらさげてぇ♪の「お猿のかごや」かと思ったのですが、「お猿のかごや」の作者の山上武夫氏は歌詞を東京・大森で作詞しており小田原とは関係は無いようです。
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小田原観光充実の最たるものがPt↑)の小田原城址公園内二の丸観光案内所です。この案内所自体が昭和9年に造られた建物を使っており、城址公園やら小田原観光のパンフ資料が数多く置かれています。
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小田原駅の西口側には小田原ゆかりの武将・北条早雲の騎馬像が置かれています。黄色のベストは小田原でのラグビーワールドカップの宣伝を兼ねているようですが「なんで俺が!」と早雲氏はぼやいている事でしょう。箱根の玄関口・鈴費の蒲鉾・ういろ・コンクリートの小田原城くらいのイメージしかなかったのですが、城址公園の整備や常盤木門や銅門の復元作業、パンフレット類、観光ボランティアの充実など、どれだけの時間と費用を費やしてきたことでしょう。ここまで観光誘致に特化している自治体も珍しいのかも知れません。

小田原城址公園…(2)

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面白い事に小田原駅前のビルには【正規登城ルートはこちらから・小田原城天守閣正面入口】と【お堀・城址公園への散策ルート/小田原駅前商店会】の看板があります。確かに駅からは”お城通り”を進んだ方が天守までは近いのですが、お城通りでは商店街を通らないので観光客への苦肉の策なのでしょう。確かに徒歩10分以上かかりますが、お堀通りを歩き某TV番組で水を抜かれたお堀から平成21年に復元された馬出門(うまだしもん)から城内に入った方がいい感じです…。
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このルートでは天守迄の距離があるのですが、変形枡形門の馬出門から平成9年復元の銅門(あかがねもん)を右に左に曲がりながら進み、昭和46年に再建された常盤木門(ときわぎもん)を抜けると天守が見えてきます。馬出門・銅門・常盤木門・天守へと進む登城ルートは他の国宝級の城郭跡と比べても遜色はありません。Pt↑と↓)は二の丸正門の銅門は見事な枡形門形式です。お堀の水は某TV番組で抜かれました。
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小田原城址公園…(1)

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静岡からの帰路に小田原駅で途中下車、小田原城址公園へ寄って見ました。新幹線の車窓から見ることは有ってもかれこれ10数年振りです。考えてみると再建モノながら東京から一番近い天守閣の建物なんですねぇ。ここ小田原の街は江戸(東京)より1400年代からと遥かに歴史のある街で小田原城の築城にしても1417年(応永24年)との説があるようです
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上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝らにより改修が加えられ、現在の天守台の姿は1960年(昭和35年)に鉄筋コンクリート構造で再建されたモノで、江戸中期の小田原城の姿を極力再現しているそうです。EVこそありませんが、天守内の歴代の城主や小田原攻めの資料はなかなかの充実ぶりです。最上階からは太平洋や箱根の山々石垣山城が見渡せ、小田原駅や市街地の方角は北条氏の時代には城郭内側だったようで、この城がいかに巨大だったのかが偲ばれます。天守内に”全国「天守」高さ比べTOP10”なる展示があり小田原城天守は27.2mの7位なんだそうですが、江戸城の家光の天守が現存していれば約60mですからかなりの差があります。
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小田原・報徳二宮神社

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小田原城址内の「報徳二宮神社」は二宮尊徳翁(金次郎)を祀る神社です。Pt↑)は翁の金次郎時代の姿で「薪を背負って本を読む姿」は見かけた記憶があるかも知れません。この”歩きスマホ的姿”は現代なら危険すぎると非難を浴びるでしょう(笑)。案内板によると【昭初期頃から全国の小学校に向けて約1000体が作られたが戦時中に供出され、今に残る高さ1mのブロンズ製はこれだけ】なんだそうです。そういえば佃島の住吉神社や新宿の花園神社の像は石制だったような…。
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この二宮尊徳翁は農政の改革による財政の再建という功績なのですが、申し訳なにのですがあまりピンとくるお話ではありません。この薪&本の像にしても「山に立ち入って薪を拾い集め海辺で販売する道すがらの姿」という話もあり、そうなるとすばしっこい小金稼ぎをしていたようです。当時の施政の考えとして尊徳翁の様なヒーローが必要だったのかも知れませんが、全国の小学校に銅像が造られるまでの功績とはとても思えないのですが…。
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川崎市立日本民家園

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Pt↑)は富山県五箇山から移築した合掌造の民家です。日本の古民家を象徴する景観なのかも知れません。「川崎市立日本民家園」は小田急線・向ヶ丘遊園駅から徒歩20分ほど、丘陵地に20数軒の古民家が移築されています。200-300年の建物でほとんどが関東圏の民家のようです。日本民家園は開業50周年だそうで、250年(移築時)+50年=300年(現在)となると「オリジナル状態では日本最古の建物」があるかも知れません。
今の季節は茅葺屋根の民家では湿気管理と害虫予防で囲炉裏炊きをしており、これが熱いのと煙いので往生します。ゆっくり見て歩くと1時間半くらいですが、丘陵地の点在しているのでかなりのハイキング気分です。現実には古民家の維持管理補修にはとんでもない費用がかかります。建材も職人も減っていきます。公立の施設でなければ経営は難しいでしょう。
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鎌倉・腹切りやぐら

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観光客やエセグルメで賑わう若宮大路(郵便局辺リ)から紅葉山方面に入って行きます。住宅地を進み大正13年(1924)に架けられた「東勝寺橋」を渡り坂道を進むと、国指定史跡「東勝寺跡」の案内板だけがポツンとあります。隣が”放置自転車保管場”ですから住宅地とは云え町はずれ感が漂います。更に進むとハイキングコースの入口、左側が「腹切りやぐら」です。この場所は鎌倉有数の心霊スポットとされています。元弘3年(1333)後醍醐天皇による「元弘の乱」の最後の戦いで、天皇側の新田義貞との「東勝寺合戦」に敗れた鎌倉方北条高時が北条一族(283人)と家臣(870人)が自害した場所で、鎌倉幕府(1192-1333)はこの地で滅亡しています。そうなれば落武者の霊だの心霊スポットとされるのは無理ありません。
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鎌倉・源頼朝墓所

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建久9年(1198)11月27日頼朝さんは相模川での橋供養の帰路に突然体調を崩して、建久10年(1199)1月11日に出家、13日に享年53歳で亡くなります。平家一門や源義経の怨霊に襲われ落馬したのが原因との説もあるくらい奇妙なことには幕府の公式記録「吾妻鏡」には死因についての記録がなく、前述の怨霊説、妻の政子による暗殺説、持病の悪化によるなど諸説が溢れています。「吾妻鏡」は、後年北条氏によって書かれて史書なので都合の悪い事は削除したのかも知れません。鶴岡八幡宮から徒歩10分弱、白旗神社内に頼朝さんの墓所があります。安永8年(1779)に頼朝さんの子孫と自称する薩摩の島津重豪により再建されたものですが、あながちハズレではなさそうです。Pt↓)墓所までは階段を53段(死亡時の年齢)登ります。階段手摺には源氏の印「笹竜胆」の紋がありました。
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鎌倉・荏柄天神社

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鎌倉宮からほど近くに太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神と称する「荏柄天神社」があります。ご祀神は、平安時代の政治家であった菅原道真です。創建は 1104(長治元)年。晴れていた空が突然かき曇り、雷鳴とともに菅原道真の肖像画が降臨した事によるそうです。1180年、鎌倉幕府を創設した源頼朝は、荏柄天神社を鬼門(北東)の守り神とし、源氏・足利氏・北条氏・豊臣氏・徳川氏と鎌倉の武士たちの尊崇を受けていたようです。以前にも触れましたが菅原道真公は中央での政争に敗れ九州に左遷されたのを恨んで、都に雷を落とすは疫病を流行らせたりの大暴れ。平将門、崇徳上皇と共に『日本三大怨霊神』と「されています。神様に祭り上げられておけば気分をよくして「祟りなくなる」ということなのですが・・。
お社は50段程度の階段の上にあります。結構シンドイ階段です。
Pt↓)はかっぱ漫画で有名な「清水昆」が愛用の筆を供養するために建てた「かっぱ筆塚」です。
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鎌倉・大塔宮(鎌倉宮)

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JR鎌倉駅4番からバスで約15分(¥180)で大塔宮(鎌倉宮)に到着します。位置的にはアバウト鶴岡八幡宮の奥になるのですが観光客は多くないようです。社格は”旧官幣中社”とあり、「護良親王」が祀られています。Pt↑)は一の鳥居です。白鳥居はコンクリートや石造りなどありますが、笠木(1本目の赤、2本目の貫が白)で島木が白く貫が飛び出ていない明神鳥居は珍しい造りです。神職に聞いたところ・・鳥居はコンクリート製で”白”は護良親王の純な心と捉えて下さい。この形式は全国で唯一でしょうが、あえて表現していません・・とのお話でした。
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祀神の護良親王は後醍醐天皇の子で、後醍醐天皇は建武中興により鎌倉幕府を滅亡させますが、後に足利尊氏と対立、護良親王は捕えられ幽閉のち殺害されています。鎌倉宮は明治2年(1869)に明治天皇が建武中興の功績を讃え護良親王を祀る神社の造営を命じたことによります。本殿裏には親王が幽閉された伝承の土牢(?)が残っています。面白いのが神社の宝物殿で、乃木希典や伊藤博文、幕末期の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3舟の書が揃って展示してあります。
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さて鎌倉…(6)

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鎌倉銘菓となると「豊島屋・鳩サブレー」でしょう。豊島屋初代が八幡宮の鳩もモチーフに鳩サブレーを考案し、明治時代末から売られているそうです。Pt↑)のように鶴岡八幡宮楼門の扁額の文字、八幡の「八」が2羽の鳩になっています(市ヶ谷・亀ヶ岡八幡宮も同様でした)。八幡信仰は大分の神功皇后と応神天皇を祀る宇佐八幡に始まり京都・石清水八幡宮から全国へ信仰が広まって行く過程で”白い鳩”がその道案内したとかの伝承(その他にも何種類かの説話もありますが)によるようです。
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鶴岡八幡宮は康平8年(1063)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請したが始まり、源義家(八幡太郎義家)、源頼朝、徳川幕府と武家の崇敬を集めました。明治の以前は多くの神宮寺や東照宮などがあったようですが、廃仏稀釈により破壊されています。「日本三大八幡」だそうですが、1)大分・宇佐神宮 2)京都・石清水八幡宮 3)福岡・筥崎宮 4) 鶴岡八幡宮の4社のから1)&2)に3)or4)のどちらかを加て「三大」となるそうです。
・・・・・・<Pt↓>・・・・・・
平成22年3月の大風で源実朝暗殺現場の大銀杏は倒壊し、移植された銀杏が根付くのが期待されます。
楼門から由比ヶ浜方面を見ると、かなりの絶景です。
三の鳥居先の太鼓橋です。いつのまにやら通行禁止になっていました。
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さて鎌倉…(5)

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由比ヶ浜からの海岸から鶴岡八幡宮へ続く1.8㎞の参道が『若宮大路』です。昭和61年(1986)には「日本の道100選」に選ばれていますが、常に渋滞している道と行った方が的確でしょう。Pt↑)が由比ヶ浜よりの御影石で造られた鶴岡八幡宮「一の鳥居」です。寛文8年(1668)に徳川4代将軍・家綱公により一から三の鳥居までが寄進されたのですが、大正12年(1937)の関東大震災で崩壊し、高さ8.5mの一の鳥居だけが元の形式に再建されています。江戸時代以前の古地図ではこの辺りが海岸線だったようです。
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Pt↑)が「二の鳥居」。そして若宮大路の象徴の「段蔓」です。昔は一の鳥居まで続いていたようですが、現在は二から三の鳥居間の約500mが残っています。「段蔓」は源頼朝が妻政子の安産祈願に八幡宮参道を造成した際に若宮大路の一段高い所に築かれたものです。現在は桜並木が整備されており、昭和48年には”日本桜名所100”に選ばれています。因みに二の鳥居、三の鳥居はコンクリート製です。
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JR鎌倉駅から二の鳥居/段蔓、三の鳥居あたりまでが、これでもかというほど老舗あり新興勢力ありの食事処、物産展、土産物屋が続いています。私らの学生時代の鎌倉は今ほどの賑わいはなく落ち着いた雰囲気の街でした。思うに今の観光地としての賑いは台東区・浅草の街と似かよっています。観光客で賑わうのを否定するつもりは毛頭ありませんが、これも時の流れなのでしょう。そうですよねっ、頼朝さん(!)。

さて鎌倉…(4)

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長谷の『甘縄神明宮』です。ご覧のように参拝者が大挙して来るような神社でもエセグルメとも縁はなく、参拝者は誰もいらっしゃいません。長谷寺や大仏を訪れた人達は何処へ行ったのでしょう(苦笑)。ご祀神は天照大神を筆頭に倉稲魂命・伊邪那美命・武甕槌命と伊勢系の神々、さらに菅原道真公がいらっしゃいます。創建は和銅3年(710)とされ=いい国(1192)創ろう鎌倉幕府=の480年前という事になります。現存する本殿・拝殿は昭和12年(1937)の再建とありますが、創建和銅3年は、鎌倉でも一番の古社と言われています。後方は丘陵地帯、前は海と集落には最適な地形だったのでしょう。源頼義が甘縄神明宮に祈願をして義家が生まれたとの伝承もあり、源氏と関係の深い神社だったようです。
資料により甘縄神明宮・甘縄神明神社・甘縄神社との表現がありますが、鳥居脇の石碑は『甘縄神明宮』でした。
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