旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

千葉県

市川・法華教寺…(2)

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中山法華教寺には日蓮上人の直筆の国宝「観心本尊抄」や「立正安国論」をはじめ重要文化財64点等々が保存されてい『聖教殿』です。祖師堂の裏手を木々に囲まれた道を進んで行くのですが、”こんなところにっ”と云った感じで現れます。仏舎利のような感じで宝物殿の感じではありません。昭和6年に建設されたもので、設計者は”あの”東京帝国大学教授工学博士・伊藤忠太です。さもありなんです(笑)
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昭和60年5月に重要文化財に指定された『華教寺祖師堂』です。鎌倉時代(1325)に造られたお堂が元々で、火事などによる数回の再建を経て、Pt↑)の祖師堂は江戸中期の延宝6年(1678)のものです。Pt↑)では判りませんが屋根の形が屋根を2つ並べたような「比翼入母屋造り」形式になっています。岡山の吉備津神社に見られる珍しい形式らしいのですが、確かにこの形式の屋根の建物は見た記憶がありません。
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祖師堂をさらに進むと江戸三大鬼子母神(出ました三大)の一つ、鬼子母神同です。Pt↑)の建物は本院の『太客殿』で玄関右には寺事務所があります。長く広い廊下の先に鬼子母神堂があるのですが、幸田露伴の「五重搭」に登場したり怪しい「江戸名所図会」に掲載があったりで十返舎一九も紹介しているほどで、人気の観光スポットだったのでしょう。「鬼子母神堂」に続く廊下の左右には中庭が設えており、鬼子母神堂への繋ぎ廊下を渡ると雰囲気が一変します。
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これも重要文化財の『法華経寺五重搭』です。元和8年(1622)に加賀藩主前田利光公の援助を受けて本阿弥光室が両親の菩提をともらうために建立したとあります。搭の高さは約30mで、大田区池上の本門寺や台東区上野の寛永寺とほぼ同じくらいの高さです。Pt↑)の手前植込みの中に台湾総督の『蒋介石』の胸像は、田中角栄総理の”日中国交再会政策の時代に当時の住職が日台友好を願って建立したもののようです。
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中山法華教寺から徒歩10分くらいの所に『市川市立・東山魁記念館』がありました。道案内板が充実しているのですがくねった道を歩いていくので思いの外時間がかかったような気がします。戦争から復員後死去するまで住んだ市川市の自宅に隣接して開館した記念館です。東山魁は美術館の類が多いのですが市立としたはなかなかのものでした。微妙に青~緑を使い分けた作品は作者の名前は知らずとも見たことがあるとは思います。作品群を見ていて気が付いたのですが、目線の位置が似通っています。空間の割り付けがほぼ同じ位置になっていて、どの作品も似通った印象を受けます。巨匠ならではの仕掛けなのでしょうか?素人には判りません(苦笑)。
Pt↓)大正5年に重要文化財に指定された諸町時代後期の『四足門』です。鎌倉の愛染堂から移築したとされ法華経寺の玄関門だったようです。 こちらも大正5年の重要文化財指定の13世紀後半に建てられた『法華堂』と重要文化財が何気にあります。蒋介石の胸像はこんな感じです。
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市川・法華教寺…(1)

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千葉県市川市中山の日蓮宗総本山『法華教寺』です。勉強不足ですが市川市の中山となると中山競馬場位しか知りませんでした。京成中山駅を降り総門(黒門)から中山参道の緩い勾配を登ると山門(赤門・仁王門)Pt↑)です。法華教寺は鎌倉時代の文応元年(1260)の創立とされ、布教活動で様々な迫害を受けてきた日蓮上人の安息の地として知られます。
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山門から左右に支院が並ぶ石畳の参道を進むと前方に元和8年(1622)建立の高さ30m程の重要文化財の五重塔、左に祖師堂が見えてきます。この祖師堂も重要文化財で屋根の姿が珍しい形式です(比翼入母屋形式というそうです)。浅草寺とは異なる、お寺らしいお寺という感じです。国宝の日蓮筆による「観心本尊抄」や「立正安国論」をはじめ重要文化財、指定文化財も数多く全体を観て廻るにはかなりの時間が必要でしょう。
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市川市・葛飾八幡宮

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市川市の下総国の総鎮守「葛飾八幡宮」です。昔は「八幡の藪知らず」は境内のうちだったのでしょう。八幡の藪知らずにある不知森神社は八幡宮の境外社となっています。葛飾八幡宮の創建は寛平年間(889年頃)とあり宇多天皇により石清水八幡宮を勧請したとされます。ご祀神は応神天皇・神功皇后・玉依比売命と八幡様の神々です。この神々故、平将門・源頼朝・太田道灌・徳川家康らに崇拝されていたようです。国道14号に壱の鳥居、京成線の線路を渡ると弐の鳥居。参道を進むと市の有形文化財の朱が美しい隋神門。さらに進むと神門、そして拝殿へと。神域には境内社も数多く、推定樹齢1200年とされる国の天然記念物の大イチョウ「千本公孫樹」などなど。とても神社らしい神社と云えます(笑)。
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ここが「八幡の藪知らず」

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京成電鉄八幡駅から徒歩7分程度、国道14号線沿いに摩訶不思議な場所があります。Pt↑)は歩道橋上から撮っていますが、国道沿いに竹林と鳥居が唐突といった感じで残っています。ここが関東屈指のやばいスポットとされる場所で八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)若しくは不知八幡森(しらずやわたのもり)として知られ、古くから入ってはならない禁足地「ひとたび足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」の伝承地として知られています。今では一角にある「不知森神社」の区画だけが立入り可のようですが。Pt↓)の解説版にはその由来が書かれていますが、いずれも明確な根拠が有るわけではないようです。有力説だけでも日本武尊の陣屋説・平良将の墓所説・平将門の墓所説を筆頭に諸説が多く、とてもじゃないけど書ききれません。時代を超えて現在に繋がる不思議感に満ちています。
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流山・春はまだ…(2)

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流山は江戸時代に「白みりん」発祥の地として栄えたのですが「白みりん」といわれてもピンときません。古い商人街の雰囲気を残し観光案内板など良く整備されています。新撰組ファンには「近藤勇と土方歳三の別れの地」として有名な地です。鳥羽伏見や甲州鎮撫隊としての勝沼での戦闘で敗れた新撰組は慶応4年(1868)4月2日に徳川幕府脱走兵らと流山に結集するのですが、翌3日には西軍に包囲されて、近藤は土方らと別れ西軍に投降(?)していきます。PT↑)は現足立区綾瀬に再結集した200名超の新撰組が流山に移動、本陣を構えた跡地です。結集から投降まで近藤の流山滞在は僅か2日ですが、現在も「近藤勇陣屋跡」の石碑が整備され新撰組ファンが絶えず訪れているようです。
今回は事情により陣屋跡のみですが、流山は再訪したい雰囲気のある”田舎町”です。
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流山・春はまだ…(1)

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あまり知られてはいないのですが、あの「新撰組」の最後の局長は相馬主計(そうまかずえ)という人物で、近藤勇と共に流山で捕まるも脱走、土方らと合流して函館へ向かいます。函館戦争では土方歳三戦死の後、局長(隊長)として降伏書面の署名をしています。ここ流山は新撰組ファンには近藤勇投降の地として知られています。常磐線・馬橋駅で乗りかえ全長5.7㎞、2両編成の電車ごとに異なったカラーリングの「流鉄流山線」で終点の流山駅へ到着です。終点まで6駅でスイカ等不可で運賃は¥200でした。Pt↑)が流鉄流山線・流山駅です。”東京近郊ながらローカル色のある駅”ということで1998年に「関東の駅百選」の選定されています。。記憶にないくらい久し振りに来ましたがマンション風の建物が増えているにしても、駅付近にはコンビニすらなく”ローカル色”ではなく田舎の駅そのものです。
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千葉県佐原市…(追)

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佐原の町が平成8年国より選定され「重要伝統的建物群保存地区/略して重伝建地区」とは、=城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村など伝統的建造物群およびこれと一体をなして歴史的風致を形成している環境を保存するために市町村が定める地区を指す=平成28年(2016)7月現在、日本全国で43道府県92市町村の112地区が選定されています。これを多いと取るか少ないと取るか微妙な問題です。
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掲載した佐原重伝建地区のPtは”なるほど”と思わせる景観ばかりです。仕事がら全国アチコチの街へ出かける事も多いのですが、特に山陰・山陽地方や九州地方ではこんな雰囲気の街は沢山あります。そしてどの街も過疎化や建物の老巧化、保存に対する住民の意識のズレなど同じような問題を抱えています。受け継いだ歴史・伝統を後世に繋いでいく・・。その努力には頭が下がります。
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Pt↑)は、本来は農業用水を流すために造られた「樋」だったようで、今でも定期的に樋の水を小野川に落とし込んでいます。橋向こう左の建物が「伊能忠敬旧宅」です。規模からして地元の有力者だったようです。失礼ながら「伊能忠敬記念館」は地方の博物館としては驚くほど内容が濃く楽しめます。
Pt↓)の橋が「忠敬橋」、道路奥に見える煉瓦建築が「三菱館」です。この街は城下町ではなく徳川幕府の天領でした。その割にはクネクネ曲がった道ばかりです。意外と見通しが悪く交通量も多いので、写真の撮影時にはかなり緊張が強いられます。
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Pt↓)は忠敬橋から下流(?)方向を見ています。この橋の河岸を山車が通っていきます。忠敬橋から利根川側寄りは水路が広くなっています。江戸時代の物流は、迅速かつ大量に運ぶのは川を利用したもで、佐原から利根川、隅田川を経由して江戸城下へ・・。江戸城下も堀が網に目状に巡らされ物資は現飯田橋付近まで舟で運ばれます。飯田橋に残る「軽子坂」の地名は”物資の陸揚げ地”によります。
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忠敬橋から下流↑)と下流↓方向を見ています。この橋の河岸を祭の山車が通っていきます。この日は冬の平日なので観光客の賑わいはありません。佐原も他の地方の町と同様に大型店量販店や食事処などは駅から少し離れた国道沿いに集中しています。旧の街中には高齢者が目立ち、駅の待合室は高校生・・。この傾向は全国どこの地方の街へいっても同じです。
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佐原までは東京駅(浜松町)から京成バスと関鉄バスの路線バスがあり、今回は京成バスで行きました。京成バスは佐原駅北口に到着します。「重伝建地区」散策は約3時間程度が必要です。東京行バスは本数が少なく、成田方面のJRも1本/毎時なので、到着時に確認しておいた方がよろしいでしょう。バス、JRとも1800円前後/片道です。

成田山・新勝寺

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佐原探訪帰りに成田山新勝寺へ立ち寄ってみました。成田山新勝寺は真言宗智派の大本山で、ご本尊の「不動明王」から一般的には「成田不動」もしくは「成田山」と呼ばれています。初詣者数は毎年上位にランクされており約300万人位が初詣参拝するそうです。成田山参拝は車で近くの駐車場停めてという事が多く、JR成田駅からは本当に久しぶりです。参道も何もかもがすっかり整備されており、記憶と全く違う光景となっていました。それでも昔行った鰻屋や羊羹屋などなど、懐かしい感があります。あと数日で正月という事で初詣受け入れ準備も着々と進み、早くも初詣担当のガードマンが大人数で研修をしておりました。
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Pt↑)の狛犬は平成25年に復元なった「成田山薬師堂」にあります。狛犬は神様を守るガードマンの立場で、多くは獅子の姿をしています。こちらは珍しく「日本犬」の姿なんですねぇ。ついでながら稲荷神社と狐さんの関係は、神使=神様のお使い=つまりは”秘書官”という立場になります。
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佐原・諏訪神社

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こちらが『佐原の大祭』のうち、14台の山車が街中を曳き廻される10月の秋祭が行われる「諏訪神社」です。ご祀神は大国主命の息子・建御名方神(たけみなかたのかみ)で軍神・農耕神・狩猟神として知られています。社格は郷社ですが、現在の社殿は嘉永6年(1853)造営されたものとされ、本殿はPt↑)の様に丘(?)の中腹にあります。眼下には利根川の流れを見渡せたことでしょう。Pt↓)弐の鳥居(一の鳥居は駅近)を抜け石段を登ると本殿です。一方の八坂神社では神社入口が二ヶ所あるのが特徴(珍しいですかねぇ?)ですが、お諏訪さんの方が神社らしいと言えば・・。弐の鳥居隣には佐原公園があり町の名士「伊能忠敬」の銅像が建っています。小野川沿いに旧宅に建てられた銅像より”らしさ”があります。
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佐原の八坂神社

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2016年12月、佐原の山車(だし)行事が”重要無形民俗文化財・全国33件の屋台行事”で構成される「山・鉾・屋台行事」として「ユネスコ無形文化遺産」に登録が決定しました。この33件の屋台行事には唐津くんち・博多祇園山笠・京都祇園祭・高山祭・川越氷川祭・秩父夜祭などそうそうたるメンバーで構成されているのですが、7月の「八坂神社祇園祭」では10台の山車が、10月の「諏訪神社大祭」では14台の山車が街中を曳き廻される夏祭と秋祭を総称しての『佐原の大祭』がめでたく仲間入りとなりました。Pt↑)は夏祭の「八坂神社」です。ご祀神は”素戔嗚尊”とあり江戸初期に現在地に遷座したようです。佐原八坂神社の社格は”村社”とあり、正直『本当にここの神社の祭りかよっ』と思ってしまいます。境内の佐原の祭りを紹介する「水郷佐原山車会館」では、実物の山車や大人形など内容の濃い展示が見られます。
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佐原の三菱館

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Pt↑)の「佐原三菱館」は「佐原市佐原伝統的建造物群保存地区」のシンボル的な建物です。実際はこの煉瓦造りの洋風建築は他の伝統建築とは趣を異にするのですが・・。完成は大正3年(1914)、後に三菱銀行に吸収される「川崎銀行佐原支店」として建てられています。=大正の3年・三菱・煉瓦造りの洋風建築=となると東京駅舎と符合する点がありますが、併設の「佐原街並み交流館」で話を聞いたところ、設計・施工は現清水建設(設計者は辰野金吾の弟子との説あり)何処で焼かれた煉瓦なのか詳細不明だそうです。川崎銀行佐原支店は昭和18年に三菱銀行と合併、平成元年に三菱銀行佐原支店の新店舗移転により、建物は佐原市に寄贈され、平成3年には「三菱銀行佐原支店旧本館」として千葉県の有形文化財(建造物)となり、平成8年に国の「重要伝統的建物群保存地区」に選定されています。現在は老巧化により建物内部には入れませんが「佐原街並み交流館」には資料関係が展示されています。とても地方大都市とは思えない佐原の町には似つかわしくない建物ですが、この街が経済的に賑わった時代を思い起こさせます。
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千葉県佐原市…(3)

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「佐原市の名士となると寛政12年(1800)から文化13年(1816)まで17年を費やして全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させた「伊能忠敬」でしょう。延享2年(1745)九十九里町に生まれ、佐原の伊能家に17歳で婿入り50歳までこの地で暮らしています。小野川水路沿いには「国指定遺跡・伊能忠敬旧宅」が保存されており、地元では結構な名家だったようです。実際に蝦夷地の測量を開始したのは忠敬は55歳の時で73歳で亡くなるまで全国を巡った、いやはや大変な御人です(!)。水路の向かい側には「伊能忠敬記念館」があり数々の資料が展示されています。地方の町の記念館(失礼)としては展示内容が濃く驚きます。貧弱な測量器具を駆使して現在の衛星測量地図に近い地図を完成させていたんですねぇ(!)。
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千葉県佐原市…(2)

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「香取市」は千葉県の北東部なんですよねぇ(苦笑)。地元の方によるとTV放送こそ少なかったものの、東北震災ではかなりの被害に見舞われ、ここまで復旧するには5年要したそうです。この日はPt↑)のような曇天で前日夜半からの雨の影響もあり観光客も少なく商店も休業が多く、「小江戸舟めぐり」も午前中は増水模様で運休でした。時間がなかったので急ぎ足で廻りましたが「小野川水路と街並みの絵になる景観」は琵琶湖・近江八幡や九州・柳川と比べても見劣りはしません。江戸時代は幕府「天領」として利根川水運の中継地として繁栄した町で、いわゆる「城下町」とは違った空気感があります。
Pt↓)で水路に架かる橋は「樋橋」⇒通称:ジャージャー橋」とも呼ばれ、元々は田圃に農業用水を送るための「樋」だったそうです。見えにくいのですが水が落ちています。このジャージャー落ちる水音は『残したい日本の音風景100選』に選ばれているそうです。
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千葉県佐原市…(1)

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冒頭からナンですが、千葉県北東部の「佐原市」は2006年の佐原市・栗原町・小見川町・山田町の合併により「香取市」となっています。同市内には下総一宮、香取神社の総本社「香取神宮」があることでも有名です。また、日本各地には(怪しい)蔵造りの町並の埼玉・川越や説得力に欠ける栃木県栃木市等々と”小江戸”と称する町が数多くあり、「佐原(サワラ)と呼ばれた町」もその一つです。実際Pt↑)のJR佐原駅舎が物語るように素敵な街並みが残っています。
Pt↓)街角の飲料の自販機はグレーカラーに「小江戸・佐原」と描かれています。この丸型の郵便ポストは街のアチコチで見かけました。この街の雰囲気にピッタリです。もちろん現役です。
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昭和の社博物館…(終)

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本館2階の展示室へ進みます。満ち満ちた雑然感も慣れてきたのですが、ここには更なる雑然感があります。展示手法が少しばかり異なりPt↑)の昭和の部屋や駄菓子屋、床屋を再現したモノや果ては五右衛門風呂までありますが、テーマ別展示室は雑然感が薄れてしまっているような気がします。
今回は初めての訪問という事でざっと見てきましたが、まだまだ面白い物がありそうです。パンフレットのオーナーのコメントでは”20数年の歳月をかけて収集した3500点あまりを展示”。さぞ家族や廻りからいろいろと云われてきたことでしょう。頭が下がる思いがします。…(了)
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昭和の社博物館…(5)

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【小松崎茂/1915年東京出身の画家・イラストレーター】…1960年代の子供達(特に男の子)には懐かしい絵の数々です。未来都市などの空想科学イラストや軍艦・戦車・レシプロ航空機等のプラモデルの箱絵等々や「サンダーバード」シリーズの箱絵もそうだったと思います。子供時代の記憶が不確かになっていたとしても、ここに展示された作品を見れば懐かしく思い出すでしょう。思い入れがあるのでしょうねっ。ここも特設コーナー的になっています。Pt↑)戦艦長門、戦艦大和は田宮模型のプラモデル箱絵の原画だと思われます。自転車に乗って街のプラモデル屋に走ったの頃が思い出されます。
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昭和の社博物館…(4)

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さぁいよいよ入館料¥300/大人を払ってメイン棟に入ります。いきなり目に入ってくる光景は何気に”南極大陸の石”なんてのがあり、さながらおもちゃ箱をひっくり返したようで、もう何が何やらです。Pt↑)は映画「Always 3丁目の夕日」にご出演のダイハツ・ミゼット、ダットサン・ブルーバード(210/1958年、310/1961年、410/1963年)のお歴々です。さらにはチョイ出演の1961年ホンダスーパーカブもありました。ゴジラやら昭和28年製の三島式オートバイなんてのもあります。この”ぐちぐちゃ感”に比べれば、次の石原裕次郎コーナーやフイギィア類、レシプロ航空機模型やサンダーバードコーナーなどは整理されています。最も感激したのが「小松崎茂氏の作品群」です。氏の作品の戦艦大和や零戦などの絵は、プラモデルの箱絵として使われ昔の子供達の多くは憧れたものです。館内では100枚以上撮影しているので、もっと掲載したいのですが…。残念です。
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昭和の社博物館…(3)

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今度は本館建物に向かって左側です。更に事態は混沌としてきます。№6の日産ブルーバードは石原裕次郎の映画「栄光への500㌔」で撮影に使用された車だそうです。スペースシャトルらしきものがあります。奥の方の黄色い電車は流山電鉄の車両等々があります。どのように運んできたのでしょうかねえ? a)踏切の敷石は都内の路面電車の踏切を移設したとあります。b)感激もののいすずとマツダの三輪トラックのそろい踏みです。笑うしかありません…。c)昭和63年~平成22年まで南極・調和基地で活躍した”氷上作業車”です。どうやるとこんな車両がてに入るのでしょうかねぇ?さぁこれからが館内です。
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昭和の社博物館…(2)

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本館建物に向かって右側の「クラッシックカー館」です。Pt以外にも軽の消防自動車・ホンダライフ・箱型のシボレーやVW・三菱ソーラーカー・丸金自転車・三菱デボネア・陸自のバイク・BMWのバイク・スカイライン2000ターボ・ベレットGTR・軽自動車”ホンダN360等々が展示してあります。どの車両もピカピカという訳ではありませんが、そこは経年変化の妙です。展示車両のなかから選抜したPtが以下ですが…。a)映画「Always 3丁目の夕日 64」で使用された”ダイハ3輪トラック(エンブレムがお城)”の車両 b)1961年製の”トヨタ・パブリカ”。例の”国民車”ってヤツです。 c)そして1958年~1970年まで約40万台が生産された名車”スバル360”。その奥はホンダN360です。このスバルのデザインは現代でも充分に通用しますねっ。
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昭和の社博物館…(1)

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えてして個人のコレクションなどは傍から見て理解されにくいモノです。その極致とも思える博物館が千葉県松戸市にありました(笑)。ここ『昭和の社博物館』はJR武蔵野線”東松戸駅”から徒歩15分(行きはTAXI利用しました)にあります。個人オーナーの収集品の博物館で、さまざまな個人の収集品が雑然と展示してあり、懐かしさのあまり笑ってしまうような品々ばかりです。入館料は¥300。開館日は金・土・日・祝の10:00~16:00なので注意が必要です。写真撮影は一応の許可はとりましたが問題ないようです。今回は入口付近のPtばかりですが、地元ローカル線車輛があったり、ガレージ上にはセスナ機、事務所屋根にはボート等々…。これだけでも”なんじゃぁ これっ”感に溢れていて笑ってしまいます。
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