旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

千葉県

浦安 時の流れは…。

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学生時代に愛読書だった山本周五郎氏の作品に描かれた浦安はとうの昔に消え失せています。 時の流れはそんなもんですが、↑のPtでは何処の街なのかは判りません。例の施設で税収安定、埋立てに次ぐ埋立てで住宅地としても発展し続けています。今でも狭く曲がりくねった道路は変わらずの最悪状態でした。ずっと以前にこの街に住もうとした事もありました。結果止めたのはは正解でした。どうにも千葉です(笑)。
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浦安の稲荷神社、清瀧神社とこの豊受神社で「浦安三社」と称するようです。Pt↑)は浦安で最も古いとされる1157年創建の「豊受神社」です。ご祀神は豊受姫大神の衣食住を司る神です。境内社に狼が神使の三峰神社やなかなかの規模の富士塚の浅間神社、金毘羅宮、秋葉権現などが祀られて、樹齢400年を越す大銀杏は浦市の天然記念物に指定されています。
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面影はほとんどないのでしょう。猫実の庚申塔があるこの近辺が昔々の浦安の街の中心地だったようです。確かに村はずれにポツンありがちな庚申塔よりは大切にされた様子が伺えます。案内板には1715年頃に猫実村の人達のより創建とあります。
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浦安三社の稲荷社はパスしました。浦安駅から徒歩10分弱の「清瀧神社」です。漁師の街ならではでしょう、祀神は大綿津見神=海の神です。創建は1196年と伝わる古社で浦安市指定文化財の本殿は全体が鞘堂で覆われ施された彫刻類はかなり立派な造りです。境内社の浅間神社にはここにも富士塚がありました。富士塚の麓には土木学会選奨土木遺産なる初めて聞く「堀江水準標石」があり貴重なものと記載があるのでそうなのでしょう。

猫実 浦安郷土博物館

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浦安市「浦安郷土博物館」は東西線の浦安駅下車です。駅から歩くと20分程なので、駅からは¥100バス(郷土博物館下車)利用が便利です。住所が猫実(ねこざね)という珍しい地名ですが野良猫が大量にいる訳ではありません。市の施設の博物館で入館は無料なので”こんなの造って見ました”的な施設を想像していたのですが予想外のモノでした。
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博物館にはかつて漁師町とした繫栄した昭和27年頃の浦安の街が再現されています。自分たちが棄ててしまった、捨てざるを得なかった情景が再現されています。施設は平成3年に建設準備が始められ平成13年に開館しています。この時代を過ごした生きた人達には懐かしい情景しょう。この時代は知りませんがなんとなくの既知感を感じるのは面白いもんです。
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他にも浦安名産の海苔の養殖や船底浅い「べか舟」の製造などの興味ある展示もあるのですが、再現された漁師町、風呂屋、天ぷら屋、魚屋、豆腐屋、船宿、たばこ屋やべか舟、打瀬舟、焼玉エンジン等など映画セットとは違って県や市の有形文化財を集めた街の再現に目がいってしまします。
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企画展示室には期間限定で「浦安の海苔養殖」の歴史なる展示がありました。漁業で繁栄した街が時代とともに海は埋め立てられ漁業が衰退。東京ではない浦安のテーマパーク以降は住宅地と変貌したつまらん街になりました。
再現地区が展示のすべてではありませんが…。建物の外観はPt↓)です。
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松戸・赤城神社の妙

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JR常磐線と武蔵野線が交差する新松戸駅ホームから見える「赤城神社」です。以前から気になっていたので寄ってみました。この「赤城神社はなんとも”妙”に溢れる神社でした。新松戸駅徒歩10分とあるのですが、道順がとんでもなく判りにくいです。恐らくは武蔵野線に開通後に道路整備する余裕なく住宅が建ってしまった結果、現在の状況になったのでしょう。
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Pt↑)青空にが神社の色が映えて美しく見えます。神木があり、鳥居があり、手水舎があり、狛犬がありの極々普通の神社に見えますが人の賑わいを全く感じません。あえて云うなら映画のセットのようです。奥の民家が兼ねているのでしょうが社務所らしき姿がなく神職も不在の様子で拝殿の扉も閉ざされています。
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いくら何でも「本日休業」はないでしょうが神社の縁起社歴案内などもありません。何気に立寄ったら拝殿の社額をみるまで「赤城神社」と判らないでしょう。群馬の赤城神社から勧請されたのでしょうが縁起書きがないので何ともです。神社は小高い丘の上にあり神木の大きさから年月が感じられますが、恐らく常磐線開通で社地が切取られ武蔵野線開通でさらに切り取られ、見返りとして神社整備がなされ、その後住宅が増えてのがこの姿なのでしょう。
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反面これだけ引っ掛かりの多い神社も珍しいです。Pt↓)神木と思われる巨木は鎮座の年月を表しているのでしょうか? 後方からの社殿の構造にも何の不思議を感じません。 神社とは関連ありませんが、松戸市のマンホールの蓋はあの演歌「矢切の渡し」なのでしょうか(笑)。
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なんだか妙な 柏神社

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JR柏駅から徒歩で5分ほどの「柏神社」はなんだか妙な神社です。神社に足を踏み入れた瞬間に既知感が浮かびました。道路に面した立地、鳥居、狛犬、手水舎、神木の位置、社殿や社務所配置の位置関係は札幌の北海道神宮頓宮とそっくりです。日本全国多くの神社を訪れましたが設計者が同じという事はないでしょうが…。「柏神社」には下記のように多くの神々が祀られたいます。旧村社に多く見られる例ですが、やはり旧村社でした。
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神社Webによると寛文元年(1661)に京都八坂神社より勧請され当地に遷座。万治3年に羽黒神社が山形羽黒神社より勧請され近隣の地に鎮座。明治21年に羽黒神社が八坂神社内に遷宮。明治40年に羽黒神社を八坂神社内に合祀して昭和49年の社殿改築時に「柏神社」となったのですが。宗教法人名はいまでも「羽黒神社」なんだそうです。
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つまりは同時期に異なる地から勧請された2社が合併して昭和の改名時までは「羽黒神社」だったという事でしょうが、旧来「天王様」=祇園社の牛頭天王ですから話がややこしくなります。合祀=合併の歴史をたどって来たようで、ご祀神が出羽三山(月山神社・湯殿山神社・羽黒神社)系が・月読命・大己貴命・少彦名命・伊氐波・神稲倉魂命で八坂神社系が 素戔嗚尊と 稲田姫命となります。こう書いていると近年の銀行の吸収合併の歴史が思い浮びます。
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「妙」は続きます。神社一角に末社が5社並んでいます。いずれも石碑が古びていて近郊集落の鎮守さまだったと思われます。右から「天神社」=高皇産霊神・神皇産霊神・津速産霊神の造化の神です。「天形星神社」=ご祀神は
素戔嗚尊です。「大塚大権現」=旧柏市大塚町にあった地域の鎮守さまのようです。「荒工大権現」=旧町名の荒久山と呼ばれた地区の鎮守さまのようです。「山神宮」=さん神宮であれば山梨県石和の神社ですが、同じ神なのか確証はありません。
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柏神社の鳥居脇の「待道さま」という小さな社です。稲荷社かと思ったのですが、由緒を調べるのに時間がかかりました。待道さま=ある夫婦が待ち合わせをするも、互いに違う場所で相手を待ちすれ違います。妊婦の妻は急に産気づき出産し自身は亡くなります。妻が道で待っていたことから「待道」と言われるようになり、以降安産の神として信仰された民間信仰のようです。

食ってきたぜ! 弥生軒

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常磐線で柏から2駅の我孫子駅の立ち食いそばファンには有名で関連の書籍には必ず掲載される「弥生軒」です。今まで食レポ的な稿は極力避けてきました。食物の旨いか否かは皆々それぞれ、生まれ育った年代や地域、生活環境よっても違うものです。まして他人の昼食がなにかなど感心ありません。高額なモノ=旨いや、食べログ高評価=旨いではなく、自分が旨いと思ったら旨いで良いのです(笑)
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弥生軒は元々は駅弁業者で駅弁廃業後も構内での立ち食いソバ店舗で営業し続けているようです。この我孫子駅1-2番線の店舗は6号店とあるので他にも店があるのでしょうか? タイミング良く行列はありませんでした。店内は10名程度の立ち席のみで券売
機ではスイカ使えます。
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弥生軒は昭和3年(1928)に駅弁屋として創業とありました。立ち食いソバ店は1967年からで、営業開始時は我孫子駅には常磐線特急・急行が停車し、停車時間にそばを食べる人で賑わったのでしょう。有名な山下清画伯は駅弁屋時代に弥生軒で働いていたようでその旨が書かれていました。
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発注は「我孫子駅名物  唐揚(1ケ) そば 」の¥470(唐揚2ケにすると¥630)です。お汁は濃いめでそばはやや太です。名物の唐揚のデカい事(!)。コンビニ唐揚の3ヶくらいの大きさがあります。天ぷら・ちくわ天(1本)・天玉・わかめ・月見・たぬきのレギュラー陣もありますが、ここは唐揚そばでしょう(笑)。正直完食するには苦戦しましたが…。
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唐揚そば(2ヶ)はそばが見えません(笑)。学生時代や社会人時代では立ち食いソバは日常的な存在でした。入店→注文→食べて帰るが3分程度が基本でした。昨今の鉄道系の店舗では「女性客の呼び込み」掲げてこじゃれた店舗展開に懸命なようですが、弥生軒のような店が基本の基です。こんな老舗店が長く続いて欲しいものです。

妙見信仰・千葉神社…(続)

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秩父神社、千葉神社と「北辰信仰」ついて調べてみました。【北極星(北斗七星)を神として人の寿命・吉凶・悪行・善行を見定める菩薩への信仰】なら判り易いのですが、インド⇒中国⇒日本伝播し、日本では密教・陰陽道・神道が加味されて信仰が定着⇒明治廃仏毀釈での分離⇒仏教でも神道とも決め難い信仰となったようでます。現在では妙見信仰を掲げる神社は少なく、池上本門寺・妙見堂で見かけた記憶があります。石鳥居脇の神社案内板を一読して理解できる人はまずいないでしょう(苦笑)。
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千葉神社では一般的な神社形式にはない建物様式が見られます。Pt↑)の拝殿は2階建で1階からでも2階からでも参拝できるようになっています。大人数の参拝者を遅滞なく対処できるのでしょうが。これだけ朱の鮮やかな建物は宇佐八幡宮や祐徳稲荷で見た記憶がありますが、仏寺でも神社でも2階建ての拝殿は見た事ありません。
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拝殿の2階から神社創建1000年の奉祝事業で平成10年の完成した「尊星殿」です。右(西)の一段低い屋根が「月天楼」で左(東)が「日天楼」で、内部には依代の柱があります。中央の人がいる所が「福徳殿」で八角形に配された十二支等の宮が造られています。この上層階が「開運殿」です。石鳥居はほとんど無く尊星殿が結界を兼ねているのでしょうか?
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秩父神社の「天神地祇社」には及びませんが境内には14社の末社がズラリと並んでいます。Pt↑)の「千葉天神」は寿永元年(1182)に勧請された菅原道真を祀神とする千葉県最大の天神社だそうです。社殿は千葉神社の旧社殿であることから妙見神の後押しも期待できる天神社です。この社殿には妙に神社らしさを感じさせます。Pt↓)は境内社の一画です。見た通り末社がスラリと並んでいます。見にくいですが「亀石」は妙見菩薩が玄武(亀)に乗っているの図によります。
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妙見信仰・千葉神社…(1)

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千葉市中央区の「千葉神社」は『妙見本宮』とも称される妙見信仰の有数な神社です。妙見信仰は古代バビロニアに始まりインドで菩薩信仰となり、さらに中国で道教の北極星信仰と結びついて日本に伝来した信仰です。北極星を神とする北辰妙見菩薩の信仰なのですが、この北辰妙見菩薩の「菩薩」は仏教での「菩薩」とは異なるグループに属する菩薩で帝釈天、毘沙門天等の「天」のグループへ所属します。ややこしさその(1)です。
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飛鳥時代に渡来人により日本伝来、東日本へ広まります。日本ならではの『習合=見なされ』により、軍神、薬師如来、平将門伝承、隠れキリシタンのデウス等々に見立てられる事ととなり、江戸時代には古事記、日本書紀による「天之御中主大神」と「北辰妙見尊星王」は同一と見なされ「妙見信仰」として確立したようです。北斗星信仰、道教、密教、神道が入混じり「お姿」も一定していません。玄武(亀)に乗る鎧武将の姿として知られています。ややこしさその(2)。
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千葉神社は下総の豪族千葉氏により長保2年ごろの創建とされ、鎌倉幕府、徳川幕府からも信仰を受けています。江戸時代までは「北斗山金剛授寺尊光院」という真言宗の寺院でしたが、明治政府による神仏分離(廃仏毀釈)により神社となり、市最新は日本神話での「天之御中主大神」となります。あまり知られていない神様ですが、名前が「神」であって「尊」や「命」ではありません。それなりに格のある神様なのです。 ややこしさその(3)。
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『妙見様(みょうけんさま)』とも呼ばれる『北辰妙見尊星王=天之御中主大神』は北辰(北極星と北斗七星)の神霊として古来より諸星諸神・方位方角を支配し、人々の「厄」を取り除くとされます。道教・陰陽道・易学・九星気学・風水学が混じった特別な神で、日本神話での「天之御中主大神」は天照大御神以前の最初の天地創造の「造化三神」の一神です。日本書紀の登場は一度限りで功績もよく判らない神ですが「天地創造の神」として妙見菩薩と習合したのでしょう。
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社額の「妙見」の下方の丸い紋章は「神紋・三光紋(さんこうもん)」or「月星紋(つきぼしもん)」と呼ばれ、妙見様(北極星)の差配する天空の日・月・星(じつ・げつ・じょう)の三つの光を表します。Pt↑)は拝殿の扉部分で、お馴染みにハートマークならぬ「猪目」があります。ここにも「神紋・三光紋」があります。神紋の他に社紋として九曜紋があるのですが今回は事情によりパスです。
猪目は魑魅魍魎が侵入を防ぐ為の様式です。「ハート・マーク」などはあり得ません。

市川・法華教寺…(2)

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中山法華教寺には日蓮上人の直筆の国宝「観心本尊抄」や「立正安国論」をはじめ重要文化財64点等々が保存されてい『聖教殿』です。祖師堂の裏手を木々に囲まれた道を進んで行くのですが、”こんなところにっ”と云った感じで現れます。仏舎利のような感じで宝物殿の感じではありません。昭和6年に建設されたもので、設計者は”あの”東京帝国大学教授工学博士・伊藤忠太です。さもありなんです(笑)
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昭和60年5月に重要文化財に指定された『華教寺祖師堂』です。鎌倉時代(1325)に造られたお堂が元々で、火事などによる数回の再建を経て、Pt↑)の祖師堂は江戸中期の延宝6年(1678)のものです。Pt↑)では判りませんが屋根の形が屋根を2つ並べたような「比翼入母屋造り」形式になっています。岡山の吉備津神社に見られる珍しい形式らしいのですが、確かにこの形式の屋根の建物は見た記憶がありません。
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祖師堂をさらに進むと江戸三大鬼子母神(出ました三大)の一つ、鬼子母神同です。Pt↑)の建物は本院の『太客殿』で玄関右には寺事務所があります。長く広い廊下の先に鬼子母神堂があるのですが、幸田露伴の「五重搭」に登場したり怪しい「江戸名所図会」に掲載があったりで十返舎一九も紹介しているほどで、人気の観光スポットだったのでしょう。「鬼子母神堂」に続く廊下の左右には中庭が設えており、鬼子母神堂への繋ぎ廊下を渡ると雰囲気が一変します。
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これも重要文化財の『法華経寺五重搭』です。元和8年(1622)に加賀藩主前田利光公の援助を受けて本阿弥光室が両親の菩提をともらうために建立したとあります。搭の高さは約30mで、大田区池上の本門寺や台東区上野の寛永寺とほぼ同じくらいの高さです。Pt↑)の手前植込みの中に台湾総督の『蒋介石』の胸像は、田中角栄総理の”日中国交再会政策の時代に当時の住職が日台友好を願って建立したもののようです。
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中山法華教寺から徒歩10分くらいの所に『市川市立・東山魁記念館』がありました。道案内板が充実しているのですがくねった道を歩いていくので思いの外時間がかかったような気がします。戦争から復員後死去するまで住んだ市川市の自宅に隣接して開館した記念館です。東山魁は美術館の類が多いのですが市立としたはなかなかのものでした。微妙に青~緑を使い分けた作品は作者の名前は知らずとも見たことがあるとは思います。作品群を見ていて気が付いたのですが、目線の位置が似通っています。空間の割り付けがほぼ同じ位置になっていて、どの作品も似通った印象を受けます。巨匠ならではの仕掛けなのでしょうか?素人には判りません(苦笑)。
Pt↓)大正5年に重要文化財に指定された諸町時代後期の『四足門』です。鎌倉の愛染堂から移築したとされ法華経寺の玄関門だったようです。 こちらも大正5年の重要文化財指定の13世紀後半に建てられた『法華堂』と重要文化財が何気にあります。蒋介石の胸像はこんな感じです。
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市川・法華教寺…(1)

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千葉県市川市中山の日蓮宗総本山『法華教寺』です。勉強不足ですが市川市の中山となると中山競馬場位しか知りませんでした。京成中山駅を降り総門(黒門)から中山参道の緩い勾配を登ると山門(赤門・仁王門)Pt↑)です。法華教寺は鎌倉時代の文応元年(1260)の創立とされ、布教活動で様々な迫害を受けてきた日蓮上人の安息の地として知られます。
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山門から左右に支院が並ぶ石畳の参道を進むと前方に元和8年(1622)建立の高さ30m程の重要文化財の五重塔、左に祖師堂が見えてきます。この祖師堂も重要文化財で屋根の姿が珍しい形式です(比翼入母屋形式というそうです)。浅草寺とは異なる、お寺らしいお寺という感じです。国宝の日蓮筆による「観心本尊抄」や「立正安国論」をはじめ重要文化財、指定文化財も数多く全体を観て廻るにはかなりの時間が必要でしょう。
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市川市・葛飾八幡宮

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市川市の下総国の総鎮守「葛飾八幡宮」です。昔は「八幡の藪知らず」は境内のうちだったのでしょう。八幡の藪知らずにある不知森神社は八幡宮の境外社となっています。葛飾八幡宮の創建は寛平年間(889年頃)とあり宇多天皇により石清水八幡宮を勧請したとされます。ご祀神は応神天皇・神功皇后・玉依比売命と八幡様の神々です。この神々故、平将門・源頼朝・太田道灌・徳川家康らに崇拝されていたようです。国道14号に壱の鳥居、京成線の線路を渡ると弐の鳥居。参道を進むと市の有形文化財の朱が美しい隋神門。さらに進むと神門、そして拝殿へと。神域には境内社も数多く、推定樹齢1200年とされる国の天然記念物の大イチョウ「千本公孫樹」などなど。とても神社らしい神社と云えます(笑)。
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ここが「八幡の藪知らず」

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京成電鉄八幡駅から徒歩7分程度、国道14号線沿いに摩訶不思議な場所があります。Pt↑)は歩道橋上から撮っていますが、国道沿いに竹林と鳥居が唐突といった感じで残っています。ここが関東屈指のやばいスポットとされる場所で八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)若しくは不知八幡森(しらずやわたのもり)として知られ、古くから入ってはならない禁足地「ひとたび足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」の伝承地として知られています。今では一角にある「不知森神社」の区画だけが立入り可のようですが。Pt↓)の解説版にはその由来が書かれていますが、いずれも明確な根拠が有るわけではないようです。有力説だけでも日本武尊の陣屋説・平良将の墓所説・平将門の墓所説を筆頭に諸説が多く、とてもじゃないけど書ききれません。時代を超えて現在に繋がる不思議感に満ちています。
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流山・春はまだ…(2)

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流山は江戸時代に「白みりん」発祥の地として栄えたのですが「白みりん」といわれてもピンときません。古い商人街の雰囲気を残し観光案内板など良く整備されています。新撰組ファンには「近藤勇と土方歳三の別れの地」として有名な地です。鳥羽伏見や甲州鎮撫隊としての勝沼での戦闘で敗れた新撰組は慶応4年(1868)4月2日に徳川幕府脱走兵らと流山に結集するのですが、翌3日には西軍に包囲されて、近藤は土方らと別れ西軍に投降(?)していきます。PT↑)は現足立区綾瀬に再結集した200名超の新撰組が流山に移動、本陣を構えた跡地です。結集から投降まで近藤の流山滞在は僅か2日ですが、現在も「近藤勇陣屋跡」の石碑が整備され新撰組ファンが絶えず訪れているようです。
今回は事情により陣屋跡のみですが、流山は再訪したい雰囲気のある”田舎町”です。
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流山・春はまだ…(1)

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あまり知られてはいないのですが、あの「新撰組」の最後の局長は相馬主計(そうまかずえ)という人物で、近藤勇と共に流山で捕まるも脱走、土方らと合流して函館へ向かいます。函館戦争では土方歳三戦死の後、局長(隊長)として降伏書面の署名をしています。ここ流山は新撰組ファンには近藤勇投降の地として知られています。常磐線・馬橋駅で乗りかえ全長5.7㎞、2両編成の電車ごとに異なったカラーリングの「流鉄流山線」で終点の流山駅へ到着です。終点まで6駅でスイカ等不可で運賃は¥200でした。Pt↑)が流鉄流山線・流山駅です。”東京近郊ながらローカル色のある駅”ということで1998年に「関東の駅百選」の選定されています。。記憶にないくらい久し振りに来ましたがマンション風の建物が増えているにしても、駅付近にはコンビニすらなく”ローカル色”ではなく田舎の駅そのものです。
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千葉県佐原市…(追)

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佐原の町が平成8年国より選定され「重要伝統的建物群保存地区/略して重伝建地区」とは、=城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村など伝統的建造物群およびこれと一体をなして歴史的風致を形成している環境を保存するために市町村が定める地区を指す=平成28年(2016)7月現在、日本全国で43道府県92市町村の112地区が選定されています。これを多いと取るか少ないと取るか微妙な問題です。
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掲載した佐原重伝建地区のPtは”なるほど”と思わせる景観ばかりです。仕事がら全国アチコチの街へ出かける事も多いのですが、特に山陰・山陽地方や九州地方ではこんな雰囲気の街は沢山あります。そしてどの街も過疎化や建物の老巧化、保存に対する住民の意識のズレなど同じような問題を抱えています。受け継いだ歴史・伝統を後世に繋いでいく・・。その努力には頭が下がります。
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Pt↑)は、本来は農業用水を流すために造られた「樋」だったようで、今でも定期的に樋の水を小野川に落とし込んでいます。橋向こう左の建物が「伊能忠敬旧宅」です。規模からして地元の有力者だったようです。失礼ながら「伊能忠敬記念館」は地方の博物館としては驚くほど内容が濃く楽しめます。
Pt↓)の橋が「忠敬橋」、道路奥に見える煉瓦建築が「三菱館」です。この街は城下町ではなく徳川幕府の天領でした。その割にはクネクネ曲がった道ばかりです。意外と見通しが悪く交通量も多いので、写真の撮影時にはかなり緊張が強いられます。
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Pt↓)は忠敬橋から下流(?)方向を見ています。この橋の河岸を山車が通っていきます。忠敬橋から利根川側寄りは水路が広くなっています。江戸時代の物流は、迅速かつ大量に運ぶのは川を利用したもで、佐原から利根川、隅田川を経由して江戸城下へ・・。江戸城下も堀が網に目状に巡らされ物資は現飯田橋付近まで舟で運ばれます。飯田橋に残る「軽子坂」の地名は”物資の陸揚げ地”によります。
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忠敬橋から下流↑)と下流↓方向を見ています。この橋の河岸を祭の山車が通っていきます。この日は冬の平日なので観光客の賑わいはありません。佐原も他の地方の町と同様に大型店量販店や食事処などは駅から少し離れた国道沿いに集中しています。旧の街中には高齢者が目立ち、駅の待合室は高校生・・。この傾向は全国どこの地方の街へいっても同じです。
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佐原までは東京駅(浜松町)から京成バスと関鉄バスの路線バスがあり、今回は京成バスで行きました。京成バスは佐原駅北口に到着します。「重伝建地区」散策は約3時間程度が必要です。東京行バスは本数が少なく、成田方面のJRも1本/毎時なので、到着時に確認しておいた方がよろしいでしょう。バス、JRとも1800円前後/片道です。

成田山・新勝寺

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佐原探訪帰りに成田山新勝寺へ立ち寄ってみました。成田山新勝寺は真言宗智派の大本山で、ご本尊の「不動明王」から一般的には「成田不動」もしくは「成田山」と呼ばれています。初詣者数は毎年上位にランクされており約300万人位が初詣参拝するそうです。成田山参拝は車で近くの駐車場停めてという事が多く、JR成田駅からは本当に久しぶりです。参道も何もかもがすっかり整備されており、記憶と全く違う光景となっていました。それでも昔行った鰻屋や羊羹屋などなど、懐かしい感があります。あと数日で正月という事で初詣受け入れ準備も着々と進み、早くも初詣担当のガードマンが大人数で研修をしておりました。
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Pt↑)の狛犬は平成25年に復元なった「成田山薬師堂」にあります。狛犬は神様を守るガードマンの立場で、多くは獅子の姿をしています。こちらは珍しく「日本犬」の姿なんですねぇ。ついでながら稲荷神社と狐さんの関係は、神使=神様のお使い=つまりは”秘書官”という立場になります。
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佐原・諏訪神社

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こちらが『佐原の大祭』のうち、14台の山車が街中を曳き廻される10月の秋祭が行われる「諏訪神社」です。ご祀神は大国主命の息子・建御名方神(たけみなかたのかみ)で軍神・農耕神・狩猟神として知られています。社格は郷社ですが、現在の社殿は嘉永6年(1853)造営されたものとされ、本殿はPt↑)の様に丘(?)の中腹にあります。眼下には利根川の流れを見渡せたことでしょう。Pt↓)弐の鳥居(一の鳥居は駅近)を抜け石段を登ると本殿です。一方の八坂神社では神社入口が二ヶ所あるのが特徴(珍しいですかねぇ?)ですが、お諏訪さんの方が神社らしいと言えば・・。弐の鳥居隣には佐原公園があり町の名士「伊能忠敬」の銅像が建っています。小野川沿いに旧宅に建てられた銅像より”らしさ”があります。
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佐原の八坂神社

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2016年12月、佐原の山車(だし)行事が”重要無形民俗文化財・全国33件の屋台行事”で構成される「山・鉾・屋台行事」として「ユネスコ無形文化遺産」に登録が決定しました。この33件の屋台行事には唐津くんち・博多祇園山笠・京都祇園祭・高山祭・川越氷川祭・秩父夜祭などそうそうたるメンバーで構成されているのですが、7月の「八坂神社祇園祭」では10台の山車が、10月の「諏訪神社大祭」では14台の山車が街中を曳き廻される夏祭と秋祭を総称しての『佐原の大祭』がめでたく仲間入りとなりました。Pt↑)は夏祭の「八坂神社」です。ご祀神は”素戔嗚尊”とあり江戸初期に現在地に遷座したようです。佐原八坂神社の社格は”村社”とあり、正直『本当にここの神社の祭りかよっ』と思ってしまいます。境内の佐原の祭りを紹介する「水郷佐原山車会館」では、実物の山車や大人形など内容の濃い展示が見られます。
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佐原の三菱館

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Pt↑)の「佐原三菱館」は「佐原市佐原伝統的建造物群保存地区」のシンボル的な建物です。実際はこの煉瓦造りの洋風建築は他の伝統建築とは趣を異にするのですが・・。完成は大正3年(1914)、後に三菱銀行に吸収される「川崎銀行佐原支店」として建てられています。=大正の3年・三菱・煉瓦造りの洋風建築=となると東京駅舎と符合する点がありますが、併設の「佐原街並み交流館」で話を聞いたところ、設計・施工は現清水建設(設計者は辰野金吾の弟子との説あり)何処で焼かれた煉瓦なのか詳細不明だそうです。川崎銀行佐原支店は昭和18年に三菱銀行と合併、平成元年に三菱銀行佐原支店の新店舗移転により、建物は佐原市に寄贈され、平成3年には「三菱銀行佐原支店旧本館」として千葉県の有形文化財(建造物)となり、平成8年に国の「重要伝統的建物群保存地区」に選定されています。現在は老巧化により建物内部には入れませんが「佐原街並み交流館」には資料関係が展示されています。とても地方大都市とは思えない佐原の町には似つかわしくない建物ですが、この街が経済的に賑わった時代を思い起こさせます。
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千葉県佐原市…(3)

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「佐原市の名士となると寛政12年(1800)から文化13年(1816)まで17年を費やして全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させた「伊能忠敬」でしょう。延享2年(1745)九十九里町に生まれ、佐原の伊能家に17歳で婿入り50歳までこの地で暮らしています。小野川水路沿いには「国指定遺跡・伊能忠敬旧宅」が保存されており、地元では結構な名家だったようです。実際に蝦夷地の測量を開始したのは忠敬は55歳の時で73歳で亡くなるまで全国を巡った、いやはや大変な御人です(!)。水路の向かい側には「伊能忠敬記念館」があり数々の資料が展示されています。地方の町の記念館(失礼)としては展示内容が濃く驚きます。貧弱な測量器具を駆使して現在の衛星測量地図に近い地図を完成させていたんですねぇ(!)。
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千葉県佐原市…(2)

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「香取市」は千葉県の北東部なんですよねぇ(苦笑)。地元の方によるとTV放送こそ少なかったものの、東北震災ではかなりの被害に見舞われ、ここまで復旧するには5年要したそうです。この日はPt↑)のような曇天で前日夜半からの雨の影響もあり観光客も少なく商店も休業が多く、「小江戸舟めぐり」も午前中は増水模様で運休でした。時間がなかったので急ぎ足で廻りましたが「小野川水路と街並みの絵になる景観」は琵琶湖・近江八幡や九州・柳川と比べても見劣りはしません。江戸時代は幕府「天領」として利根川水運の中継地として繁栄した町で、いわゆる「城下町」とは違った空気感があります。
Pt↓)で水路に架かる橋は「樋橋」⇒通称:ジャージャー橋」とも呼ばれ、元々は田圃に農業用水を送るための「樋」だったそうです。見えにくいのですが水が落ちています。このジャージャー落ちる水音は『残したい日本の音風景100選』に選ばれているそうです。
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