旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

板橋区

中仙道・板橋宿…裏

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昭和5年(1930年)に発覚した「板橋貰い子殺し事件」は、当時東京最後の極貧街と云われた、この近辺「岩の坂地区/現板橋本町・坂町商店街」でおこっています。=事情があって子供を育てられない子供を貰い、子供を殺して養育費(持参金)を着服するという事件で、真相は不明な部分もありますが、1年で41人が殺害された事件です。=。「岩の坂」という地名は「本町」と変わり、貧民街であった記憶はなにも残っていません。Pt↓)の本を読まなければ知ることもなかったでしょう。なにより驚くのは、ほんの数十年前の出来事という事です。
【貧民の帝都】…塩見鮮一郎/文春新書、【東京の下層社会】…紀田純一郎/ちくま学芸文庫、【日本の下層社会】…横田源之助/岩波文庫。
絵馬は「縁切榎」の”別れさせて祈願”の絵馬、殆どが呪詛の言葉に満ちています。恐ろしい風景です…。
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中仙道・板橋宿…表

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「板橋宿&旧中仙道」のイメージで訪れるとガッカリします。”それらしきもの”は殆どありません(苦笑)。驚くのはやたら自転車が多い事です。江戸時代は、上宿・仲宿・下宿の総称が「板橋宿」と呼ばれていました。千住、新宿、品川の規模はないものの、150人もの「飯盛女」が置かれ繁栄していました。明治時代の”街道”から”鉄道”への時代変化に適応できずに板橋宿は衰退、「板橋遊郭」へと変貌して行きます。繁栄は昭和中期まで続くのですが、明治17年の大火で板橋宿の大半が焼失、焼け跡に集まった人達(600世帯・2500人?)が暮らす「東京最後の貧民街」を形成するようになります。Pt↑)は地名”板橋”の由来となった石神井川に架かる橋です。橋を渡ったゆるい上り坂からが「本町・坂町商店街」で「旧岩の坂地区」となるようです。中のPt)は 真言宗豊山派の文殊院。「三ノ輪の浄閑寺」と同様に死んだ遊女の投込み寺で、墓地には遊女の墓があります。
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新撰組の近藤です!

07_16_0107_16_03笑ってしまうほど良く似ていますが、この銅像は”澤ほ●れ”ではありません(笑)。JR板橋駅前『近藤勇墓所』のご本人”近藤勇”の銅像です。間違えてはいけないのは、ここは処刑された場所でも、埋葬された場所でもありません。没後の明治9年に新撰組での盟友”永倉新八”の発起によりこの地に造られた供養塔(?)で良いと思います。なので1本の石碑に「近藤勇・冝昌(!)、土方歳三・義豊之墓」と刻まれてたり、他の隊士の碑があったりですが、数少ない新撰組幹部の生き残り”永倉新八”の碑が一番大きいのは笑えます。この方は維新後は北海道に渡って”樺戸監獄”の剣術指南などをしています。ところで、記憶違いかも知れませんが、近藤勇の諱(いみな)は「昌宜(まさよし)」だったと思うのですが、石碑には「宜昌」と記されています。おぃおぃ永倉(本名長倉)さん。これはワザとやったのですか?

07_16_0307_16_04ともあれ、新撰組の人気はいまだに根強いようです。”寄せ書きノート”の様なモノが常備してあったりするのは、それなりに訪れる人が多いという事でしょう。この区画も丁寧に管理されています。訪れた時は石碑や近藤勇像に”海老せんべい”が供えてありましたが、なにか謂れがあるのでしょうか?
『新撰組』は視点を変えてみると「会津藩が京都でのテロ警備を担当するにあたり、自前の藩士では対外的に問題が生じるし、怪我人や死亡者が出たら、当人や家族への補償問題も生じてしまうので、威勢の良いあんちゃんを武士にしてやるとの契約で雇い、私設警察とした」というのが実情に近いと思います。プロジェクトが終わったら”派遣切り”。どの時代もたいして変わりません(苦笑)
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