旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

板橋区

板橋・ときわ台天祖神社

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ツクヨミorツキヨミは日本神話に登場する神で古事記では「月読命」、日本書紀では「月読尊」と表されます。伊邪那岐命(伊弉諾尊)より生み出された3兄弟で、長女が天照大御神(天照大神)、須佐之男命(素戔鳴尊)の兄(姉)に当たります。天照が高天原、須佐之男命が海原を統治し、月読は夜を統治するのですが、姉と弟の活躍に比して記紀にも月読の記載は殆どなく、一説には天照との不仲が理由とされ、性別すら判然としない不可思議は神様なのです。
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天照を祀神とする神社は伊勢神宮や天祖神社など。須佐之男命を祀神とする神社は八坂神社や氷川神社などあるのですが、月読命を祀神とするのは隠岐と京都の月読神社、伊勢神宮の内宮と外宮、山形の月山神社などの少数です。東京では摂社末社として鎮座する例が多いようです。Ptは板橋区常盤台の「天祖神社」の境内社で、4社が並び手前から伊勢神社(大日孁貴命)・月読神社(月読命)・日枝神社(大山咋命)・北野神社(菅原道真)・稲荷神社(宇迦之御魂命)と並んでいます。
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天祖神社の祀神は天照大御神で神宮を公とすれば天祖は民と云うことです。この日は遅ればせながらの七五三の参拝行事が行われていました。地元の鎮守として敬われているのでしょう。季節がら銀杏の落葉で掃除行き届かず感があります。東武東上線の常盤台駅から数分の店舗や住宅密集地で大きく成長した木々は一の鳥居を覆い隠すようです。
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ときわ台天祖神社の創建は不詳ですが、鎌倉時代に豊島氏による開拓、さらには古墳時代の禁足祭祀地と推測されるようです(苦笑)。江戸時代には旧上板橋村の鎮守として神明社、神明宮などと称さたようです。明治5年(1872)には村社となり「天祖神社」と改称、昭和20年(1945)の空襲で神楽殿が半壊し社殿も被災。昭和28年(1953)年に神楽殿が再建、昭和45年(1970)に社殿の改修が行われています
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冬季はどうしても自然光が弱くPtが地味目になります。Pt↑)は群馬県の一之宮・貫前(ヌキサキ)神社での末社で「月読神社」です。貫前神社が伊勢との関連は微妙ですが、月読命を祀られるのは珍しいといえます。

板橋区立郷土資料館

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夏の日差しに耐えかねて赤塚氷川神社から徒歩5分ほどの板橋区立郷土博物館に涼みがてら寄りました。ここらが1450年頃の豪族千葉氏による赤塚城があった場所だそうです。板橋区立美術館や本家の縮小サイズの東京大仏も近いのですが、それにしても夏のこの時期では勘弁してもらいました。郷土博物館までは都営三田線・西高島平から徒歩15分程度ですが、よくもまあ、区立郷土館やら美術館やらを足の便の悪い場所に造ったものです。
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建物自体はごく一般的な郷土館ですが実は意外なほど(失礼)展示関連は充実しています。用意されたパンフレットの作りこみや開催中の企画展【板橋のねがい・いのり・くらし…2021.09.20まで】の資料や展示の内容は侮れません。企画展資料では板橋名所の「縁切榎」については3頁を使い写真なども充実のなかなかのモノです。忌まわしい事件のあった地の多くでは事件の資料展示がされることなど稀です。江戸時代の下級遊郭街の板橋宿が明治年間には東京最後の貧民街でありその地でおこった「岩之坂子殺し事件」等は、消し去られ日本特有の『なかったこと』にされているようです。
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昭和5年(1930年)に発覚した「岩之坂子殺し事件」は、当時東京最後の極貧街と云われた「岩の坂地区/現板橋本町・坂町商店街」でおこっています。=事情があって子供を育てられない子供を養子にして子供を殺し養育費(持参金)を着服するという事件で、真相は不明な部分もありますが1年で41人(以上)が殺害された事件です。=。「岩の坂」という地名は「本町」と変わり、貧民街であった記憶はなにも残っていません。なにより驚くのは、ほんの数十年前の出来事という事です。

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板橋・赤塚氷川神社…(2)

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寛政7年(1795)の銘がある一之鳥居橋から約200mほど続く「欅並木」の参道です。進入禁止の車止めが残念ですが、この欅並木は板橋区の登録文化財(天然記念物)だそうです。案内板によると昭和33年よりの区画整理や昭和52年の社殿改築で神社の光景は変わったとありますが、住宅街にこれだけの神社があるのは貴重なことだと思います。
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一之鳥居を背にして参道入口の飛び地にある樹齢1700年を超すであろう欅の巨木の根元に「赤塚乳房大神」と刻まれた石碑が建っています。明治年間の落語家「三遊亭園朝」の作品『怪談乳房榎』のモデルともされ乳房病に霊験があるようです。落語のほうは現代にも通じる不倫の果てのゴタゴタ殺人に怪談が絡むような構成です。落語は「榎」で現物は「欅」です。お供え物は何故かレトルト・パックのご飯でした。
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参道を進んで中間あたりに二之鳥居です。一の鳥居が明神系に対して明神系でも両部鳥居と称される鳥居です。代表的な例では宮島の厳島神社でしょう。大宮氷川神社は一から三之鳥居は明神鳥居で両部形式はありません。神仏混淆の神社に多くみられる形式ですが、とにかく神社の歴史で祀神が変わるなんて例も多々あるので”これだっ”と決めつけない方が無難です。
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二之鳥居の隣に小規模ながら赤塚氷川神社の富士塚があります。標高はそうは高くはないのですが神社自体がやや高台のようで民家の無い時代だったら富士山がみえたのでしょうか?解説板によるとこの富士塚は現新座市の浅海吉右衛門の「丸吉講」によります。古墳の流用とも思えるのですが樹木が生い茂って全体の形が判りません。山頂には浅間神社が祀られていますが、祠前には恵比寿天と大黒天に像が置かれています。
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一之鳥居→参道の並木→二之鳥居→石灯籠→手水舎→狛犬→社殿と進んできて振り返るとこんな感じです。神社関連の書籍にあるような配置そのものの神社です。Pt↓)の狛犬、いい感じです! 一之鳥居脇にある庚申塔、後ろの茶の建物は宮前不動尊。足場に不安があって登りませんでしたが浅間神社と恵比寿と大黒天です。
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板橋・赤塚氷川神社…(1)

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板橋区の氷川神社巡りは双葉町氷川社で一区切りの予定でしたが、広大な面積を持つ板橋区には江戸以前の豪族の拠点や古刹が点在しています。交通の便が必ずしも良いとは云えす、場所によっては起伏あり、道は狭くで夏場の訪問は辛いものがあります。この赤塚氷川神社にしても資料では東武東上線成増駅もしくは都営地下鉄西高島平より徒歩15分とありますが、判り易い道ではなく国際興業バスの便も良いとは言えないようです。
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一之鳥居からの参道の長さも雰囲気も双葉町氷川神社と似た印象を受けます。創建は室町時代の長禄元年(1457)に地元の豪族千葉氏により武蔵一之宮大宮氷川神社より勧請されたとあります。ご祀神の須佐之男命は納得ですが、相殿神に藤原広嗣(ひろつぐ)命が合祀されています。「氷川御霊合社」を社号とした時代があったくらいの祀神ですが、
藤原広嗣を調べてみると藤原一族ですが、この方は政府に対して反乱を起こして刑死しています。なんでまた都を遠く離れたこの地に合祀されたのかは不明ですが、地元豪族の千葉氏との関係でしょうか?
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多くの「御霊社」は非業の死を遂げた人物が怨霊となり祟らぬよう「お祀りするから祟りなんかしないでね」という事です。
藤原広嗣が都に対して不満を持ち挙兵⇒惨敗と「御霊社」の条件は満たしていますが、「御霊社」は関東では神奈川に集中し東京では珍しの部類となります。ましてや須佐之男命と合祀は通常ではあり得ない話です。
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夏休み前、梅雨明け、酷暑では境内には通行人はいても、参拝者は誰一人見当たりません。コロナにため今年も夏祭りは中止になのでしょう。思えば
須佐之男命は疫病退散の神なのでご自身の役割をシッカリはたしていただきたいものです。接末社には天祖神社、八幡神社、白山神社、御嶽神社、浅間神社、阿夫利神社、榛名神社、大国神社と稲荷社とありました。位置的に見えにくいのですが本殿はコンクリート造りに鞘堂的な構造となっています。

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板橋・本蓮沼氷川神社

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都営三田線板橋本町駅の次が本蓮沼駅です。この辺りは江戸時代の中仙道と現国道17号(中仙道)が同じのようです。本蓮沼氷川神社は国道より数m奥まるのですが板橋宿を出て最初の神社なので旅人の休憩地ともなった事でしょう。この先で中仙道は下り坂となって行きます。「氷川神社」は多くが川の氾濫で苦労した場所にあります。本蓮沼氷川神社にしても移転の最終地として高台であるこの地に落ち着いたようです。
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神社由緒には武蔵一之宮・氷川神社より元は慶長年間に現在の浮間舟渡駅付近に創建されたとあります。ご祀神は須佐之男命 奇稲田姫命と2柱となっています。スサノウノミコトは『古事記』での代表的な表記で『日本書紀』では素戔男尊、更に『出雲国風土記』と神仏習合でも表記が異なっています。ややこしいのは「命」と「尊」の読みは「みこと」ですが、日本書紀の規定(?)では最も貴い神が「尊」で他の神が「命」となるようです。深入りは止めましょう(笑)。
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現在でも習慣的に残っていますが昭和21年までは全国の神社の格付け制度がありました。これが社格というヤツで崇神天皇の時代からとの説があり『延喜式神名帳』による官幣社、国弊社というヤツです。日本人は格付け、ランク付けが好きで順位を付けたがります。格付け制度が廃止されても神社本庁による『別表神社』があるくらいです。
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拝殿側から見ると整備中の様な感があります。 この地域にあった稲荷社をこの地へ遷座したとされる「蓮沼稲荷神社」です。 
祠という感じですが「御嶽神社」「榛名神社」「阿夫利神社」の3社です。
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中仙道・板橋宿・岩之坂

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江戸時代の板橋宿は日本橋から2里25町20間、「上宿」「仲宿」「平尾宿」で構成される中仙道最初の宿場でした。石神井川に架かる橋が「板橋」の由来で、遊郭の街としても賑わい一時は幕府未公認の飯盛り女が150名ほど在籍していました。明治になると鉄道のルートから外れることで寂れ、東京屈指の貧民街へと変貌していきます。坂道を下った低地に川が流れる谷あいの地形は当時の東京最大の貧民街「四谷の鮫河橋」に酷似しています。
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この付近が昭和5年の日本の犯罪史でも稀有な殺人事件の舞台です。面影らしきものは何一つなく縁切榎の解説板に「岩之坂」の地名あるだけです。「岩之坂もらい子殺し」は諸般の事情で持参金付き養子に出された子供を引き取り、養育などせず子供を殺害し、持参金だけを着服するという耳を疑うような事件です。殺害された子供は40名以上(3ケタ名説も?)とされ、手にした金で皆で宴会を催すなど貧民街ぐるみが関与していたようです。しかも立証が困難で一人が罪に問われるだけと不可思議な結末になります。実際「津山三十人殺し」を上回る衝撃事件で、衝撃過ぎて知られていないという妙な事になっています。
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石神井川からの坂道(旧中山道)の途中にあるのが「縁切榎」です。交通信号は「縁切榎前」、隣の蕎麦屋の名物は「榎蕎麦」です。縁を断切るご利益との事でこの日も女性参拝者の姿がありました。この榎は元々は武家屋敷にあった「大六天神」の神木で、語呂合わせで「榎」と「槻」の木が⇒「縁尽き」⇒「縁切り」なっただけですが、皇女和宮が輿入の際に縁起を担いで迂回した事で知られたようですが、腐縁を断切るとは何の関係もありません。これを「パワースポット」などと言い放つ馬鹿な輩とは縁をきった方が良いでしょう。それにしても願掛けの絵馬の数には只々絶句です。
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江戸時代の「板橋宿」は千住、新宿、品川と同様に「飯盛女」で繁栄していました。明治になり”街道”から”鉄道”への時代変化に取り残され宿場は衰退しても、昭和中期までは「遊郭」の街は続くのですが、明治17年の板橋大火後は600世帯/2500人が暮らす「東京最後の貧民街」を形成します。現在の旧中山道にはそんな歴史は微塵も見えません。さほど大昔の出来事ではありません。Pt)のお寺は 真言宗豊山派の文殊院で三ノ輪の浄閑寺と同様に死んだ遊女の投込み寺として知られています。山門脇は表側には地蔵堂が、裏側は閻魔堂と面白い構造となっています。
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板橋・双葉町の氷川神社

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東京都板橋区には中仙道に沿って数社の氷川神社あり、その1社が「双葉町氷川神社」です。地図検索すると都営地下・板橋本町駅から環7沿いですが、環7側に裏参道はなく正参道側に辿り着くのにやや迷います。一の鳥居から参道を進むと注意事項の掲示がやたらと目に付き、神社は地域住民と上手くいってないのでは?との疑問が生じてきます。犬などペット禁足、子供の遊戯、昆虫採集、自転車の乗入れ、飲食、宴会、ポケモンGO、境内の撮影&撮影会、千社札等々の禁止はなるほどとしても「参拝以外の行為はご遠慮ください」と言い切ってしまうのはあまり見たことはありません。よほどこれらの行為で迷惑を被ってきた結果なのでしょうか?
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板橋区教育委員会の案内板によると、創建年代は不明としながらも社伝には1300年代後期頃の応永年間に大宮氷川神社から勧請したあるようです。素戔嗚尊を主祀神とし相殿に元は下板橋稲荷台にあった新堀稲荷社の蒼稲魂命(宇迦之御魂神)を遷座して祀っています。江戸期には江戸四宿の板橋上宿と旧根村の産土神として崇敬を集め「根村松山氷川大明神」とも呼ばれていたようです。Pt↑)拝殿正面の美しい姿です。
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埼玉・東京・神奈川に鎮座する氷川神社にはその地域に根付いた社殿構造をしていますが、双葉町氷川神社の神域は正直荒れ気味感があります。社殿は文政13年(1830)の造営、昭和37年に神門と参道の整備、昭和49年(1974)に翼殿、回廊の整備が行われています。一の鳥居から参道、神門、手水舎、舞殿、拝殿への姿は実に整っていて、総本社の大宮氷川神社をスケールダウンさせたようでもあります。
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Pt↑)神域はやや荒れ気味です。正面の横長屋根が回廊構造で、この様な配置構造の神社は東京では珍らしい部類になります。緑深い時期なので拝殿後方の幣殿と本殿の写真が撮れなかったのですが権現造りのようです。失礼ながら村社でありながら舞殿や石造りの神輿庫などを持ち侮れません。神社全体の縄張りは書籍にでてくる”代表的な神社の配置”のようで、お世辞抜きでも良い神社だと思います。
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