旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

栃木県

宇都宮・二荒山神社

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栃木県には「二荒山神社」という祀神も由来も異なる神社が二社あります。日光市が二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)で宇都宮市が二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)と二社は読み方が異なり、日光or宇都宮のタイトルをつけて区別しています。『延喜式神名帳』に「下野河内郡・式内社・一之宮」と記載ではピンポイントで場所の特定ができず議論となってきました。明治政府は明治4年に日光を式内社としますが明治16年には宇都宮も式内社となり、現在は両社とも「式内社・下野一之宮」となっています。ここにも一之宮論争がありました。
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JR宇都宮駅から徒歩10分(馬場通り1丁目)。いきなり大鳥居がデンと現れます。2008年に建替えられた鳥居で直径約90㎝の欅材で高さ約9.7m、幅約13.8mの両部鳥居です。社標には「式内大社 二荒山神社」の文字が入っています。鳥居後方広場の先にチョット待ってよの石段が見え(苦笑)この上に社殿があります。
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石段を登りきると左右に回廊を巡らした神門です。菊花紋章が設えられた雰囲気のある建物です。遥か昔は社殿は20年毎に建て替えられたようですが、数度の火災や宇都宮戦争で焼失を繰り返し現在の社殿は明治10年に建てられたもの、という事は太平洋戦争での空襲での焼失を免れたのでしょう。
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宇都宮は二荒山神社の門前町として栄えた街で、神社は河川が合流する地の山(明神山)に鎮座しています。もっとも元宮はここでなく後に遷座したようです。神門から見る大鳥居の先が宇都宮城址です。神社から城の内部が丸見で敵方がここに陣を張ったら溜まったもんではありません。
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神門を入ると右手に舞殿、左に手水舎、正面に拝殿と広々としています。毛野国が下野と上野に別れた約1600年前、下野国国造(第10代水神天皇の子)を下野・上野国の祖「豊城入彦命」として祀ったのが創建のようです。相殿には「大物主命」とその子供の「事代主命」が祀られています。
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神門内にも初辰稲荷神社や十二社(下野国の式内社の神)などの境内社があります。気になった摂社が2社ありました。一つは拝殿右の面白顔の狛犬を擁した「須賀神社・市神社」です。祀神は須賀神社が素戔嗚命(3社目です)、市神社は大市姫命。要は夫婦ですがこの社殿だけ妙に立派なのは元々はは違う神が…と疑問が湧きます。
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もう一社が本殿に組み込まれた様に建つ「女体宮」です。ご祀神は三穂津姫命(みほつひめ)で大物主命(大国主命)の奥さんです。この社殿の造りは出雲大社の大国主命の正面参拝位置を彷彿させます。旦那と子供が祭殿で奥さんだけ別とは、大宮氷川神社とは様相が違うようです。
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90段ほどの石段途中には左右に境内社が並んでいます。向かって左には剣宮(素戔嗚命)・菅原神社(菅原道真)・十二社(国常立神など)が右には松尾神社(大山咋神・中津嶋姫命 )・荒神社(素戔嗚命)・水を司る水神社(罔象女神/みつはのめのかみ)などがあります。国常立神はその他大勢と一緒に祀られ、栃木県に中津嶋姫命(宗像三女神)は意外な気がしないででもありません。
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栃木・宇都宮・街ぶら

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栃木訛りの漫才コンビ”U字工事”によると宇都宮は栃木県一の都会だそうです。もっもと彼らは栃木の福島寄り出身なのでどうなんでしょう。餃子の街としても有名な宇都宮へ行ってみました。城下町の名残感があり雰囲気的には土佐の高知のようで、浦和、大宮、熊谷よりは賑いがあります。Pt↑)はJR宇都宮駅デッキの『餃子像』です。なんのこたぁないTV東京の番組の企画で造られたモノでした。どう見てもグロです.。
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宇都宮には新幹線が停車するJR宇都宮駅と東武鉄道の宇都宮駅があり両駅は徒歩10分程度離れています。Ptでの正面高層(栃木一?)ビルの先が東武の宇都宮駅、旧宇都宮城址は左へ徒歩20分位でしょう。旧城下町には良くあることで鉄道駅と城と繁華街が離れています。北陸・金沢ではJR金沢駅と金沢城(兼六園)と香林坊(繁華街)はかなり離れています。
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宇都宮城は亀ヶ岡城とも呼ばれ関東七名城の1つだそうです。城が築かれたのは平安時代で、江戸時代には徳川将軍の日光東照宮参拝時の宿泊施設(宇都宮釣り天井事件で有名)や戊辰戦争の西軍と大鳥啓介・土方歳三らの旧幕府軍の戦いで歴史の舞台に登場しますがイマイチ知名度が低いようです。現在の城址は2007年に公園として整備されたもので遺構などは殆んどありませんが行田の忍城や騎西城の残念至極に比べれば潔ささえ感じてしまいます。
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徳川家の重鎮本多正純の時代に日光街道・奥州街道の分岐として宿場町が確立されます。戊辰戦争の宇都宮戦争で街は焼尽くされ、明治以降は軍隊の街として復活、太平洋戦争時のの空襲で街は灰燼に帰します。そんな時の流れを見てきたのが「旭町の大銀杏」でしょう。元宇都宮城の土塁上にあり、樹齢は推定300年を超え、高さは約32m(ビル6階ほど)です。昭和20年の宇都宮空襲では黒焦げの状態っても翌年には新芽を吹き、ここまで復活しています。
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仙台(?)を彷彿させる「オリオン通り・アーケード商店街」です。東武百貨店・パルコ・MEGAドンキホーテを核商業施設として近くの商店会を含めての繁華街を形成しています。川口・浦和・大宮・熊谷にはこれほどのアーケードはありません。さすが「栃木一」です。さらに感心なのは「シャッター通り」ではないのです。地方の街を訪れると「昔は賑わっただろうなぁ」ばかりでこの商店街の雰囲気は意味もなくホッとします。
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宇都宮二荒山神社の大鳥居の道路反対側にある境外末社の「下之宮」です。二荒山神社は当初は街を眺望する丘の上の鎮座ではなかったようです。「下之宮」にしても元はこの場所でなく地区の再開発により1995年に移転・創建されたものです。拝殿の建物が妙に立派に造られ社殿が見え難いのですが(苦笑)。神社の移転・再建という話はよくありますが「元宮」の例は珍しいと云えます。
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帰路はJRでなく東武宇都宮線を利用しました。東武宇都宮駅はオリオン通りの端、東武宇都宮百貨店隣接しています。爆笑モンの東武スカイツリーラインには南栗橋駅で接続、JR乗換えは栗橋駅です。電車は1時間に2本ワンマンの4両編成で栗橋駅までは約90分かかります。都内迄の所要時間ならJR宇都宮線or新幹線利用の方が速いでしょう。訪問目的は餃子をではなく「下野の国一之宮・宇都宮二荒山神社」なのですがそれは次項という事で…。

日光・けっこう・陽明門

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今更ですが、1999年に日光東照宮・二荒山神社・輪王寺が「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。100棟を超える歴史的建造物や自然景観に点在する様は●岡製糸場や岩●銀山と比べるまでもなく世界遺産に相応しいといえます。特に徳川家康公を祀る東照宮は国宝が8棟、重要文化財が34棟あり、特に指名度があるのは「陽明門」でしょう。陽明門を紹介する文献資料は数多ありますが、前項で触れたように寛永の造替で甲良豊後守宗広の指揮により僅か1年半で工事が完了しているという驚異的な作業結果なのです!
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総工費を現在に換算するのは難しいのですが、一説には総工費56万8千両・銀100貫目、米1000石といわれ現約570億円相当が妥当な数字と思われます。延べ動員人数は450万人(!)この人数で1年半で完成です!造営費用の多くは徳川幕府が負担しています。さすが生まれながらの征夷大将軍・徳川家光公です。それでも新国立競技場の建設費が約1490億円(予想)。築地から豊洲への移転事業費が約6000億円。それに比べれば約570億円がどうなのかはピンときません。
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東照宮・猿、獅子&猫

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日本には伝統芸の「猿回し」があります。訓練された猿が芸を披露して祝儀を得るのが一般的ですが、この猿回しは中国から奈良時代に日本に伝っており、元々、猿が馬の守護神と考えられ猿回しは馬の無病息災を祈願する宗教的行事でした。時代を経ると宗教色は薄れ芸能行事に変化します。東照宮神厩舎の猿の彫刻はそんな理由からなのでしょう。Ptの「見ざる・聞かざる・言わざる」の3猿が有名ですが、オリジナル中国では「せざる」が加わって「四猿」なのです。神厩舎の8面の彫刻は猿達の一生を表現しており、猿はトータルで16匹彫られています。
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陽明門への階段を登ると妙な「狛犬」があります。狛犬は神々のガードマンで狐などの神使とは立場が異なります。搭羽状は神門の左右に座し阿吽の姿をしているのですが、この狛犬は陽明門に向かってひれ伏し(逆立ち)しているように見えます。「飛び越えの獅子」ともよばれ柵を飛び越て着地した瞬間の模様です。さらには見にくいのですがこの獅子像は柱と一体彫りになっているのです。
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猫です。彫刻の名人・左甚五郎の作品と云われています。Pt↑)の彫刻からは判りにくいのですが、日本猫には尻尾が短いという大きな特徴があります。人に飼われた猫はねずみを捕獲するため食事がロクに与えられなかったとの話があり、これが「猫のねずみ捕獲の根拠」になっていると思いますね。多くの白猫は子猫時代の半年ほどは頭に黒い斑点があり成長に従い消えていきます。となるとこの猫は単なる黒白のブチ猫のようです。猫の彫刻の裏側には雀の彫刻が施され,雀を捕えようともせず惰眠をむさぼる猫の姿は平和そのもので,家康公の墓所への入口の彫刻として相応しいのかも知れません。ただねっ。家の猫たちはこんな寝かたは絶対にしません。これは「戦士の休息」の姿です!。
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東照宮・高良豊後守宗広

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「日光東照宮」は全国にある他の東照宮と区別するため”日光を冠していますが正式には単に「東照宮」です。その起源は源良義朝の時代に遡りますが、現在の東照宮は寛永11年(1634)に3代将軍家光の時代に始まった大造替によります。その大造替の設計・施行の総指揮に当たったのが、幕府作事方大棟梁の「甲良豊後守宗広」でした。この甲良豊後守は芝増上寺の台徳院霊廟や日光東照宮の造替、上野寛永寺の五重塔の造営にも関わっています。特に左甚五郎等を登用した日光東照宮の色彩と彫刻群の造形は驚く事には僅か1年半で造替完了しています。Pt↑)が「甲良豊後守」の像で東照宮駐車場の敷地内にありました。昭和52年に甲良町と日光市の姉妹契約記念として造られたそうです。
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Pt↑)は「御仮殿/おかりでん」です。メイン参道から少しそれた場所にあります。本殿の修理や造替時に本殿の神々を一時的に移すための仮の社の事で、この御仮殿は文久3年(1863)以降は使われいません。通常は本殿修理の完成時に撤去されるのがそのまま残してあるようです。この「御仮殿」昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
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龍頭の滝&華厳の滝

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湯滝・龍頭の滝・華厳の滝が日光三名瀑と云われ、さらに華厳の滝は和歌山県・那智の滝と茨城県・袋田の滝と「日本三名瀑」と云われます。大体がこの手の話は「そおかぁ?」と首を傾げるものがあるようですが、落差97mの華厳の滝の迫力には”合格”でしょう。小学生の頃に家族旅行で来たのが最初ですが”来た”という記憶しかありません。展望台から写真を撮るとよく霊が写り込むとの話がありますがこの景色なら無理からん事です。明治3年に藤村某というアホ学生が「厳頭之感」なる迷言を残して飛び込んだのが自殺の名所の所以のようです。迷惑千万とはこの事です。
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湯ノ湖からの流れの湯滝と華厳の滝の中間に位置するのが龍頭の滝です。この滝は全長が210m、幅が10mもあるのですが、滝全てを見渡せる場所はありません。観瀑所からみる滝は下部の流れが二枝に別れているので、これを「龍の頭」に見立てあたのでしょう。Pt↑)で見る限りはそうは思えませんが…。
Pt↓)明治天皇が華厳の滝を観覧した記念碑があります。今なら岩盤を100mくり抜いて設置したエレベーターで観瀑台に行けますが、明治天皇が見た滝の立ち位置はこんな感じでしょう。
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嘘だろうの奥日光

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餃子の街、宇都宮で車を借りて奥日光湯元までいってきました。10月だっていうのに宇都宮で30℃、日光湯元で26℃というふざけた温度です。知らなかったのですが昭和29年(1954)に日光町と小来川村が合併して日光市に、平成18年(2006)に今市市・足尾町・藤原町・栗山村と再合併してやたらと広い「日光市」になっていました(苦笑)。さらに栃木県日光市から群馬県沼田、草津を経て長野県上田市までの約320㎞を日本国内でドイツ的景観を持つ「日本ロマンチック街道」と称するんだそうです。「日光けっこう」の時代からすると大違いです。
「湯滝」は日光白根山麓の湯の湖から流れ落ちる幅25m、落差50mの滝です。この流れは戦場ヶ原の「龍頭の滝」を経て中禅寺湖へ、さらには「華厳滝」となります。奥日光の三名瀑の湯滝・龍頭の滝・華厳滝の源流は同じという事です。湯滝の観瀑台にはクマに注意の!看板があります。マイナス・イオン溢れる環境ですがケモノ編も数多くいそうです。それにしても環境維持の費用捻出もあるのでしょうが駐車場が¥500とは恐れ入ります。
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日光湯元温泉には30数年前はスキーでよく来ていました。ゲレンデはファミリー向けながら、寒い地区なので雪質は良かったのと温泉がやたら熱かったと記憶しています。残念ですがご多分に漏れず地域の老巧化、過疎化が進んでいます。例年だったら10月となると紅葉が始まる時期なのですが。この日は「26℃!嘘だろうの奥日光」です。立寄ったのが「日光湯元ビジターセンター」です。ここは北海道にある施設並みに充実しています。「アーネスト・サトウ」や「イザベラ・バード」の展示まであり、改めて明治初期の彼らの行動力には驚かされます。
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史跡足利学校跡

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日本で最も古い学校として知られる『足利学校』です。創建については1)奈良時代の国学の遺制説、2)平安時代の小野篁説、3)鎌倉時代の足利義兼説など諸説ありますが、実際に学校として機能するのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、鎌倉円覚寺の僧・快元(かいげん)を招き初代の庠主(校長)として足利学校の経営再興したことによります。応仁の乱以後も学校として隆盛しますが、江戸時代末期には衰退し、明治5年に廃校となっています。学校遺跡は大正10年に国の史跡に指定され、平成2年には往時の姿に復原されています。さらには文化庁により平成27年4月に『日本遺産』にも認定されています。日本遺産は「文化庁」管轄ですから権威はあるのでしょう(!)。
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足利・鑁阿寺(ばんなじ)

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足利・鑁阿寺(ばんなじ)は、真言宗大日派の本山で本尊は大日如来です。寺号は「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称し、12世紀の半ば足利氏の祖・源義康による足利氏の館で四方に門があり周囲には土塁と堀を巡らせ、寺というより城の感があります。鎌倉時代の「武士の館」の面影が残しており、本堂は国宝に、鐘楼、経堂、金銅鑁字御正体などが国の重要文化財、足利氏宅跡は国の史跡指定と境内は歴史的建造物が多々ありま、さらには日本100名城の1つなのです。”時の流れが醸し出す景観”は”材木問屋と観光船の街”では無理というものです。
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足利・織姫神社

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『織姫神社』は1705年頃の創建で八雲神社の境内社となり、1879年(明治12)織姫山に遷座。1837年(昭和12)に宇治平等院鳳凰堂をモデルとした現在の社殿が完成しています。ご祀神は機織を司る織物の神天御鉾命(あめのみほこのみこと)と八千々姫命(やちちひめのみこと)の二柱が祀られており、縁結びにご利益があるとされています。八雲神社の境内社から遷座とは珍しい例かも知れません。神社入口から本殿まで229段の階段を登ります。渡良瀬橋や足利の街が一望できます。2006年4月に地域活性化支援センターが主催する『「恋人の聖地プロジェクト』や日本夜景遺産事務局の『日本夜景遺産』にの認定されたそうですが、「勲章」が欲しいのか、昨今は「意味不明な遺産」が妙に増えています。 神社造営碑題額は北海道開拓史で囚人を合法的に大量虐殺した「金子堅太郎」によるモノだそうです。
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足利・思いつくまま

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足利市には東武伊勢崎線・足利市駅とJR両毛線の足利駅の2つの駅があります。この2つの駅は相互乗り入れどころか、渡良瀬川を挟んだ位置関係にあります。市役所や鑁阿寺、足利学校などの旧跡はJR駅側なのですが観光案内所(レンタサイクル等)は伊勢崎線駅の方が充実しています。JR両毛線は電車の少なく伊勢崎線の方が東京方面には若干便利で普通運賃も安くなります。
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Pt↑左)緑のアーチ橋が”中橋”で、対岸のビル辺りが足利市駅です。Pt↑右が”渡良瀬橋”、この位置からだと鉄道の橋に見えます。前項にもあるように”渡瀬橋”は自動車橋で、歩行者専用橋が隣にあります。ここから眺める景観は石坂洋次郎(古!)の小説の「山と川のある町」を彷彿させます。
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道路脇には””渡良瀬橋歌碑”の案内板が設置されています。歌碑脇のスイッチを押すと名曲『渡良瀬橋』が頭の上のスピーカーから流れます。時間にして3分超えのまさかのフルバージョン、本人歌唱です。ここの道路は交通量が多くボ~と曲を聴いているのは照れくさいです。
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織姫神社の229段の階段の参道には”猪出没注意!”の看板が設置されていした。”イノシシ被害対策連絡会”なんて組織されているようで、けっこう暴れまわっているのでしょうか?織姫山は”八木節発祥の地”である石碑もあるのですが、暑さを避けて砂利の上で寝ていた黒ネコを採用しました。映画に因んで今年は”ルドルフ”と名前が付けられる黒ネコが増えるでしょう。
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街中に妙な自販機ありました。調べてみると地元の方による【いいねこ。のみせ 足利及び周辺地域振興応援、アニメ、コスプレ文化振興応援プロジェクト「いいね!」推進本部】とありました。キャラクターは「いいねこ」と「弁天ちゃんこと足利 瞳(あしかが ひとみ)」なんだそうです(笑)。

足利・渡良瀬橋

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東武伊勢崎線足利市駅の電車到着メロディには、森高千里の『渡良瀬橋』が使われています。25年前の1993年に発表された曲で「渡良瀬橋で夕日を見ながら別れた人を思い出す」という内容の歌詞は多くの歌手にカバーされています(個人的には”松浦亜弥”のカバーがお気に入りです)。東武足利市駅から500mほど離れており、今回初めて『渡良瀬橋』を"歩いて"渡りました。渡良瀬川に架かる全長2437mの自動車専用橋で、歩行者は並行した専用橋を渡ります。足利市には”渡良瀬橋を訪ねて…”なるパンフレットまで用意されていて、森高千里自身による曲の紹介、歌詞に実在の場所の地図など、ご親切な事です。Ptの様に実際の渡良瀬橋は思いの外ゴツイ造りで、隣のアーチの「中橋」の方がそれらしいのですが(苦笑)。
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Ptは2007年に市の出資で造られた歌碑です。歌詞にあるようにこの方角に夕日が沈んでいくのでしょう。箱のボタンを押すと『渡良瀬橋』の曲が、インストではなく本人歌唱のフルバージョンで流れます。碑の歌詞を読みながら風景を見渡すと、これほど歌詞の情景がしっくりくるのは不思議なくらいです。歌の主人公達は、当時が20代なら25年が過ぎ50歳の声が聞こえる年代になっているはず。別れた2人がその後どんな人生を過ごしてきたのでしょうか?フィクションの世界とはいえ気がかりです。ところで足利市役所前には「旧足利市歌」の碑がありますが、全国的には『渡良瀬橋』の碑の方が有名でしょう。
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栃木市・蔵の街

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栃木市と言えばの”定番景色”です(笑)。白壁の土蔵が巴波川の水面に映り・・。テレビなどに幾度も登します。この白壁土蔵は「塚田歴史伝説館」で、江戸弘化年間(1844頃)に材木を巴波川から利根川経由で江戸まで運ぶ木材回漕問屋の商家跡です。実際はこの”遊覧船”は手前の橋脇の乗船場からの約120m(?)を往復しているだけです。映像で切り取れば九州・柳川や松江、倉敷、彦根、水郷佐原の景観と似ていますがホントに”これだけ”です。映像のマジックとはこの事です。
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贔屓目に見ても”物資の集配地”として栄えた街という共通項で、「小江戸」やら「関東の倉敷」とは言い過ぎです。県観光交流課によると平成26年度は563万人も訪れているようで、街の観光案内パンフ、道案内板などは充実しています。それはそれとして、街で感じる”違和感”は何なんでしょう?。古そうな街並み、似たようなB級グルメ、ノスタルジーを喚起する仕掛け、そしてユルキャラとお祭。どこの街も変わり映えがしません(苦笑)。栃木駅~新市役所~例幣使宿場町~県庁堀~ここまで、各々の間は徒歩15分程度なので1日で充分楽しめます。
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Pt↑)も観光資料に良く使われる写真です。昔の県庁があった地に場所に”町役場庁舎”として建てられた木造2階建塔屋付の洋風建築です。数年前まで市役所庁舎として使用していたのですが、現在は空家のような感じです。栃木市は廃藩置県令により下野の国が栃木と宇都宮県に分割され、明治6年(1873)に宇都宮県が廃止、当時の栃木町が県庁所在地となのですが、明治17年(1884)には県庁が”宇都宮”移転し、県都の栄光は僅か13年です。当時の県庁敷地跡を囲む「県庁堀」と呼ばれる約1kmの掘割には旧市役所庁舎や県立栃木高校残っています。街には緑も多く巴波川や県庁堀、点在する古家や寺社などに街の栄枯盛衰の歴史風景が点在していますが…。
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このあたりが例幣使街道のようです。『例幣使』とは、徳川家光により日光東照宮に徳川家康霊廟が造営されると、幕府は朝廷に幣帛(へいはく)の奉納(要は”頭を下げに来い)と要求。朝廷側は正保3年(1646)から日光に勅使 (例幣使) を派遣するようになります。『例幣使』となった貧乏公家は朝廷と幕府の権威をを持って道中ここぞとばかりの我儘放題で、宿場町は大変な迷惑をこうむったようです。そのために整備された街道が『日光例幣使街道』で、中仙道倉賀野宿から日光西街道・楡木宿までの14宿を言います。日光東照宮では4月15日から家康の命日の17日まで大祭が行われ、これに合わせて京都を出発。15日に日光到着し翌日の奉幣後はとっとと東海道を通って帰っていきます。そんな宿場町跡が残っているようですが、面影なんざぁ何処にもありません(笑)。
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この倭町(ヤマチマチ)信号辺りが商業的に賑わった場所なのでしょうか(苦笑)。なんか寂しい感じがします.昨今は大型商業施設などは郊外に出店し、以前の街の中心の商業施設は寂れてしまいます。この街にも。登録文化財、看板と異なる商店、資料館などの観光施設がポツリポツリと並んでいますが、朽ち果ていく普通の店舗の方が圧倒的に多いようです。残念ながらこの傾向は全国的な現象です。
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栃木県栃木市には江戸から明治時代の蔵や商家などが残っており「小江戸」や「関東の倉敷」とも呼ばれているそうです。巴波川(うずまがわ) を中心とした船運や京都朝廷から日光東照宮への使者(例幣使/れいぜいし)の宿場町として繁栄した時代があったにしても 「関東の倉敷」は言い過ぎです(笑)。Pt↑)はJR両毛線と東武日光線の駅舎です。駅再開発の象徴にしても駅近には飲食店もまばらで、駅前は「蔵の街って何処じゃい?」の感があります。「蔵の街」へは、駅北口からは”蔵の街大通り”を1km(15分)ほど歩きます。道路は広く交通量は少なく、電柱は撤去され景観はよろしいのですが、高い建物がなく商店もまばらです。駅前広場には「山本有三氏」=路傍の石の作者の文学碑なんてのもあります。
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JR日光駅から…(3)

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この季節ならではの”緑”に囲まれた「二荒山神社です」。家康公を祀る「日光東照宮」の方が有名なのですが、実際は「二荒山神社」の方が歴史も古く、今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や神橋、華厳の滝、いろは坂などは神社の境内に含まれ、伊勢神宮に次ぐ3400haというとんでもない面積を有しています。古来より修験道の霊場として崇敬され江戸時代に日光東照宮の造営により神社も重要視されています。現社殿は元和3年(1617)の東照宮造営の際に現在地に移し、社殿はその時の造営のもので、本殿や拝殿などの11棟が重要文化財に指定されています。
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JR日光駅から…(2)

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Pt↑)は徳川3代将軍家光公の霊廟『大猷院廟』の入口です。ここから拝殿・本殿(国宝)まで仁王門・二天門(修復中)・夜沙門と重要文化財の門が続きます。家光公は大の家康公のファンで、自分が死んだ後も東照証大権現/家康公の側に埋葬して欲しい旨の遺言を残しています。正保4年(1651)に家光公は48歳で亡くなり、遺言に従って承応2年(1653)に『大猷院廟』は完成しています。祖父である「家康公」(東照宮)を凌いではならないという遺言により、東照宮の煌びやかさとは違った落ち着いた造りになっています。
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PT↓の『夜叉門』…「阿跋摩羅(あばつまら)、毘陀羅(びだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)、犍陀羅(けんだら)」…が、安置され霊廟(れいびょう)を守っています。【烏摩勒伽】は全国でもめずらしい仏様だそうです。拝殿・本殿は、さすがに国宝だけあって権現造りの極地です。
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JR日光駅から…(1)

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1999年12月に世界文化遺産に『日光の社寺』…日光東照宮・日光二荒山神社・日光山輪王寺…として登録された『日光』へ久しぶりに出かけてきました。建造物としての国宝が9棟、重要文化財が94棟(!)これはこれ驚きの数なんです。とは云ってもこの寺社群はうち常にどれかが修復中となっていて、現在も輪王寺・三仏堂、東照宮・陽明門、大猷院・二天門が修復中となっていました。行程都合により宇都宮経由のJR利用したのですがPt↑)のJR日光駅は経年劣化とはいえ、かなり良い感じになっていましす。 同じ二社一寺を廻っても若い頃と今では大きく印象が異って見えるものですが、意外と世界遺産日光にハマってしまうかも知れません(苦笑)。
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誰もが知る東照宮”三猿”の彫刻は、全体として猿の生涯を表現しているのですが…。家康の霊廟入口にある”眠り猫”も有名です。頭の黒の部分がはげてきました。実は眠り猫の真裏には”雀”の彫刻があります。
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