旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

茨城県

笠間稲荷神社…(2)

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実際の話、稲荷神社の鳥居=朱色との決まりはありません。伏見稲荷大社のWebページのQ&Aには・【朱色は、魔力に対抗する色ともされていて、古代の宮殿や神社仏閣に多く用いられています。当社に限って云えば稲荷大神様のお力の豊穣を表す色と説明されています。ただ、お稲荷さんだけが朱塗りではなく、朱塗りの神社は他にも多くあります。また朱の原材料は水銀=丹です。これは昔から木材の防腐剤として使われてきました。】・解ったような解らないようなです(苦笑)。因みに眷属のきつねはそこらのきつねではなく・【眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめます】・目に見えないものを表現するのに白(白狐)としている訳です。
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今回は電車利用で常磐線・友部駅で小山方面の水戸線に乗り換えて2駅なのですが、電車上下線とも1時間に1本なので下調べが必要です。笠間駅からはバス10分(¥170)ですが、バスきません。歩くか(約20分)かTaxi利用となります。笠間焼関連の美術館も見るなら北関東自動車道で行く方が無難です。Pt↓)の神社に属するすぐ裏手の「笠間稲荷美術館」には小規模ながら良いものがありました。この日は、鬱陶しいことに2019.年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」の撮影をやっていました。参道の右からの「國際オリムピック豫選會」の横断幕は撮影用です。お陰で仲見世店舗は開店休業で「映り込むからどいてく下さい」とやらで、こっちこそお前らが写らんようにで大変でした。主演の中村勘九郎と阿部サダヲは良いとしても、脚本が宮藤官九郎とは(!)。もう話は見えたようです(苦笑)。
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笠間稲荷神社…(1)

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【かなりの「日本三大」は2つまでに有名な物件を例示し、宣伝文句のため3つ目が勝手に名乗っているだけのケースが非常に多く、例示される1つ目や2つ目が三大◯◯と名乗るケースは至って少ない】・・これホントに大笑いしました。因みに笠間稲荷神社は伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社とで三大稲荷社としています(苦笑)。日本に数万社あるとされる稲荷にも「三大稲荷」や「五大稲荷」があり、京都の伏見稲荷大社は異論はないとしても、祀神が仏教系の豊川稲荷はどうなんだ、との疑問も出てきます。つい先日、佐賀・祐徳稲荷に行ったばかりでなんですが、個人的感想としては「三大稲荷社」にノミネートには無理があるように思えます。
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社伝による創建は白雉2年(661年)とされ、『常陸国風土記』には、7世紀ごろには当地に「宇迦之御魂神」の信仰あったとされるかなりの古社です。江戸時代には歴代の笠間藩主が厚く崇敬し江戸の藩邸には別院まで造られています。別称として胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)紋三郎稲荷など呼称もあるそうですが、数社の稲荷社が集まって笠間稲荷を称しているのでしょうか?歴史のある稲荷社ならではの門前町や仲見世もあり、茨城県内ではかなりの参拝者を集めます。それでも社殿の雰囲気には何故か物足りなさを感じてしまいました。
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不可解な関係・東国三社

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利根川下流域に鎮座する鹿島神宮・息栖神社・香取神宮を総称して『東国三社』と称します。この付近の古代の地形は現在と異なり「香取の海」という内海が広がり、三社の位置は内海の入口半島の突端だったようです。鹿島神宮=香取神宮間が約12000m、鹿島神宮=息栖神社間が約9000m、息栖神社=香取神宮間が約8600mと距離的にも近く、位置関係は息栖神社を頂点とする【直角二等辺三角形】の配置に意識的なのか偶然なのかなっているのですが謎が深いようです。
【鹿島神宮】は常陸国一の宮・旧官幣大社で主神は『建御雷神/タケミカヅチ』です。創建は神社によると”神武天皇元年”とされ、神話時代となります。
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【息栖/いきす神社】は、鹿島と香取神宮に祀神が武神であるのに対し、息栖社の主祀神『岐神』は、天照の命により東国経営に赴いた鹿島・香取の神々を東国に導いた神とされ、神々の乗物の「天鳥舟」と神が祀られています。古来より鹿島・香取の両神宮との関係は深く、室町時代の「鹿島神宮年中行事」には祭礼などで密接な関係があった事が記載されています。位置関係からみても三社併せて一社ということなのでしょうか…?
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『東国三社巡り』とは、江戸時代に関東以北の人々が伊勢神宮の参拝後に”お伊勢参りの禊の三社参り”としてこの三社を参拝した慣習があった事によります。何れもが2000年以上の歴史のある神社とは(!)。【香取神宮】は、下総国一の宮・旧官幣大社で主神は『久那戸神/くなどのかみ』です。創建は第15代応神天皇の代に現・神栖市日川に創建され、後の大同2年(807)に現在地に移転したとされます。東国三社資料によると、鹿島神宮の本殿は「北向き」、息栖神社は「西向き」、香取神宮は「南向き」と社の配置としては3社ともに珍しい形式となっています。”鹿島神宮の一の鳥居”の項でふれた、鹿島~皇居~明治神宮~富士山~伊勢神宮~吉野山~高野山~剣山~高千穂への「レイライン」。更に三社の位置関係が「直角二等辺三角形」。興味深いお話が次々と登場してきます。

東国三社・香取神宮

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下総一の宮の『香取神宮』は、全国に約400社ある香取神社の総本社です。創建は神武天皇18年(紀元前643)と古い歴史のある神社です。祀神は『経津主大神/ふつぬしのおおかみ』もしくは『伊波比主命/いはひぬしのみこと』で。「軍神」としての性格が強く、武道道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた掛軸が掲げられていることが多い様です。経津主大神は天照大御神の命により鹿島の神と共に出雲の大国主命と折衝の結果、円満に日本国土を譲り受け、その後の国家の建設に力をそそいだとされる神々です。…つまりは、出雲の神がが築いた国を伊勢の神々が話し合いで譲り受けた(脅し取った)という事ですが…  昭和52年に重文指定の本殿は、元禄13年(1700年)徳川5代将軍徳川綱吉により造営されたものです。拝殿・幣殿・本殿の「権現造り」のようですが根津神社の権現造りとは感じが異なります。云わば「変形権現造り」のようです。香取・鹿島は対をなす神社となのですが、面白いことに鹿島の本殿の北向に対し香取に本殿は南向となっています。
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香取神宮を象徴する建物は、昭和58年に重文指定の朱塗りの『楼門』かも知れません。こちらも本殿と同じ元禄13年(1700年)に本殿と共に建造されています。楼門内の左大臣右大臣像は、正面向かって右が「竹内宿祢」、左が「藤原鎌足」のようです。楼門本殿側には一対の狛犬が置かれています。『古瀬戸黄釉狛犬/こせとおうゆうこまいぬ』という名称で、”阿像”は昭和28年重文指定され、通常切手のデザイン使われています。因みに『香取神宮』の社額も「東郷平八郎」のようです。
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東国三社・息栖神社

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東国三社の2番目は茨城県神栖(かみす)市息栖(いきす)神社です。関係各位には申し訳ありませんが、神栖市・息栖神社が読める方&場所が特定できる方は…?。ご祀神は鹿島神・香取神による葦原中国平定事業に於いて東国への先導にあたった『久那戸神/くねどのかみ』と相殿には鹿島神宮の『建御雷神/タケミカヅチ』の副神として葦原中国平定に赴いたとされる『天鳥船命/あめのとりふねのみこと』・上筒男神、中筒男神、底筒男神の住吉三神です。鹿島・香取の両神宮と比べると『静かで趣がある』神社です。言い換えれば『地味』なのですが…。Ptは利根川の支流にめんした息栖神社の一の鳥居です。鳥居左右に小ぶりな鳥居があり泉が湧きだしています。この井戸は、汽水の中に湧き出す非常に珍しいもので、 「忍潮井(忍塩井)=おしおい」と呼ばれ、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水(きました!)に数えられています。更に興味深いのは、この鳥居は鹿島神宮の南の一の鳥居を”兼任”しています。

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川辺の一の鳥居、奥の二の鳥居さらに拝殿へと続きます。食堂、土産やの類は何もなく”立派な神域を持つ鎮守のお社”といった感じです。主たるご祀神が鹿島・香取の神と”一緒に”とか”副神として”とか一歩引いた感じなので、どうしても地味に感じてしますようです。それでもこの息栖神社が入らねば”東国三社”や鹿島・香取を神宮含めた偶然にしてはでき過ぎの不可思議な関係も成り立たなくなってしまいます。…この辺りは「東国三社・香取神宮」からにします。
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東国三社・鹿島神宮…(2)

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楼門を進むと国の重要文化財・本殿が参道の進行方向に対して右に位置する場所にあります。本殿の建物構造は本殿・石の間・幣殿・拝殿から構成され「権現造り」+「石の間」という変形権現造り(?)のような配置になっています。その拝殿も北方の蝦夷を意識した配置とも云われるのですが、何故か北を向いています。ここまでは外から見えるのですが、更に資料によると”ご祀神は拝殿正面の右側に鎮座し、拝殿からはご祀神と正対せず横顔を拝むことになります”これは出雲大社のご祀神の位置関係と同じ配置なのです。文章では表現するのが難しいのですが…。実に不可解な本殿の構造となっています。
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本宮社殿からさらに参道を進んだ先にこちらも本殿同様に北面して鎮座する「奥宮」があります。慶長10年(1605)徳川家康が関ヶ原の合戦の戦勝の御礼として建てられた本宮の旧本殿で、元和5年(1619)徳川2代将軍秀忠の命による造り替えの際に現在地に移されたものです。
この「奥宮」が境内の社殿では最も古く、国の重要文化財に指定されています。
奥宮への参道左には「鹿園」があり鹿島神宮の神使である日本鹿が飼われています。奈良春日大社の鹿達も元々は鹿島神宮が発祥の地となるようです。
「要石」は地震の元凶である地中にいる大鯰の頭と尻尾を押さえる杭であるとされ見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと伝えられています。神宮境内の東方に位置する「御手洗池」は、かっては西の一の鳥居から舟でここへ進み、潔斎をしてから参拝したと伝えられています。
 
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東国三社・鹿島神宮…(1)

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茨城県鹿島市宮中に鎮座する常陸国一の宮・『鹿島神宮』は全国にある鹿島神社の総本社です。千葉県香取市の下総の国一の宮・『香取神宮』と茨城県神栖市の『息栖神社』とともに「東国三社」として知られています。「東国三社」のそれぞれのご祀神は、タケミカヅチ・フツヌシ・アメノトリフネの神々でアマテラスにより天界より派遣され、地上を譲るように指示されたという「国譲り」神話に由来します。とりわけ神話の内では地上を治めるのに活躍した武甕槌神(タケミカズチ)を祀る『鹿島神宮』は2600年以上の社歴を有し広大な神域には神秘的な雰囲気さえ漂っています。
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平安時代の官社一覧の『延喜式神名帳』では「神宮」と表記されているのは伊勢神宮(内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社しかないそうですが、この事からも平安時代以前から鹿島の地が大和朝廷の東国経営で大きな役割があったことが窺えます。この付近の地形は現在と異なっているようですが、大洗磯前神社のご祀神である出雲系の大己貴命と少彦名命も海から降臨し、東国三社の祀神(伊勢系)海からやって来たという伝承は面白いものだあります。
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参道には西面して建つ楼門(国の重要文化財)は「日本三大楼門」…(苦笑)…の1つとされ、寛永11年(1634)水戸藩主・徳川頼房の命で造営されたもので、扁額は文字は「東郷平八郎」の書です。神域入り口の大鳥居は、高さが10.2m、幅が14.6mあります。元々は御影石の石鳥居でしたが東北震災時にものの見事に倒壊し、現鳥居は神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建された鳥居です。この鳥居の形式は「鹿島鳥居」と称される独特な形式です。
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鹿島神宮・東の一の鳥居

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1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスにより提唱された「古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがある」という仮説があます。遺跡群が描く直線をさす直線を『レイライン』と称するのですが…。日本にもあるんですねぇ(苦笑)。ここ鹿島灘に面した明石浜の『東一の鳥居』は「神々の通り道の東門」にあたる位置にあり、ここから皇居~明治神宮~富士山~伊勢神宮~吉野山~高野山~剣山~高千穂へと一直線に聖なる場所が続いていくお話で、理論的には鹿島灘に登る朝日は遥か高千穂からも望めるという事です。面白い仮説ですが、皇居~明治神宮と来たところで”なんだかなぁ”という感じです。
それはともかく、常陸の国一の宮・鹿島神宮に一の鳥居は古くは東西南北の4基あり、北の一の鳥居のみが現存していません。伝承では、「東の一の鳥居」のある明石浜に鹿島神宮のご祀神の『武甕槌大神/タケミカヅチノオオカミ』と香取神宮のご祀神『経津主大神/フツヌシノオオカミ』が上陸したと伝わっています。
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大洗磯前神社…(2)

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関東それも鹿島市近辺には奈良や熊野に比しても見劣りしない社歴の神社が点在しています。この大洗磯前神社 (おおあらいいそさきじんじゃ)もその一社です。『日本分徳天皇実録』には斉衛3年(856)に常陸の国・鹿島郡に大洗磯前に神が現れたの記載があり、平安時代中期の『延喜式神名帳』には常陸国鹿島郡大洗礒前薬師菩薩明神社」と記載されるなどの由緒ある社歴を有しています。とはいうものの『延喜式神名帳』はまだしも、『日本分徳天皇実録』になると殆ど馴染みがありません。ご祀神は大己貴命(おおなむちのみこと)つまりは大国主命で境内前方の岬の岩礁に降臨したとさています。太平洋を一望する丘の上に鎮座し、那珂川対岸の酒列磯前神社のご祀神・少彦名命 (すくなひこなのみこと)とは2社で1つの信仰を形成しているとされます。
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東京の神田明神では祀神の「平将門」が天皇家対して逆臣であるとの理由から祀神から除外された時代があり、こちらの『大洗磯前神社』のから「少彦名命」が勧請されています。茨城出身のヨシミなんしょうか…?判りません(!)。 さらに良くわからないのは”絵馬”のような看板は大洗を舞台としたアニメらしいのです。”なんたらの聖地”という事で地元では盛り上がっているのでしょうか…?
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大洗磯前神社…(1)

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太平洋の荒波にさらされる鳥居は大洗磯前神社 (おおあらいいそさきじんじゃ)の『神磯の鳥居』です。神社HPには…【大御降臨の地を神磯(かみいそ)と称云う。海上の岩の上に鳥居が立っています。徳川光圀公が当神社を参拝の折に、此の景観を称え、あらいその岩にくだけて散る月を一つになしてかへる月かな と詠まれています。毎年元旦、宮司以下神職は神磯に降り立ち、太平洋に昇る初日の出を奉拝致します】…と書かれています。ここが上磯神社のご祀神が降臨された場所なのです。ここはアマチュア・カメラマンには人気の撮影スポットで、画像検索から流用すると昨今話題のお話となりますが探してみてください。
 …因みに当ブログでの使用のPtは、ほぼ自前(なのでヘタ)です…
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対象物がないのでピンときませんが神社二の鳥居です。本殿はこの急な階段を上った丘の上にあります。”最も海に近い神社”と云われているようですが、漁師の沖合からの絶好の目印になった事でしょう。この近辺が大洗見物の”アンコウ鍋”のお店が多くあるのですが…。
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阿見・予科練平和記念館

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茨城県・霞ヶ浦・茨城県稲敷郡阿見の『予科練平和記念館』」です。「予科練」=「海軍飛行予科練習生」&制度は昭和5年に旧日本海軍が14歳~17歳の若者を選抜し熟練した搭乗員を育てる目的に作られた制度です。実技・頭脳とも優秀なパイロットが養成され、太平洋戦争初期の”無敵の零戦神話”は彼らによるものです。時の経とともに彼らの多くは失われていきます。戦争末期には…【初心者マークのドライバーをポルシェに乗せて高速を走らせるようなもの】…未熟なパイロットばかりになってしまいました。搭乗する航空機も不足してしまい『人間魚雷・回天』やベニヤ・ボート『震洋』・ロケット機『桜花』など、およそ兵器とは呼べないようなシロモノの乗員として多く若い人達が逝ってしまいました。この『予科練平和記念館』には、彼らの日常資料が展示されています。 実際の彼らは、ごく普通の若者たちでした…。 館内は撮影禁止なので外観だけです。
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Pt↓)記念館に隣接して「陸上自衛隊土浦駐屯地」があり、予科練関連の雄翔館と雄翔園ついては自由に見学することができます。♪若い血潮の予科練の~”若鷲の歌”♪は西条八十の作詞とは知りませんでした。雄翔館入口には、学校長であった”山本五十六元帥”の銅像があります。
*土浦駐屯地の屋外展示の戦車や小火器の展示見学は事前予約制となっています
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筑波海軍航空隊記念館

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茨城県笠間市の【筑波海軍航空隊記念館】です。旧海軍航空隊の基地跡で、百田尚樹氏の小説「永遠の0」の映画化時にロケ地として使われた施設です。現在は「県立こころの医療センター」敷地内になっており、滑走路の跡などは住宅地に取り込まれています。映画公開に合わせて一般公開され好評だったのか(?) リニューアルオープンという事で元筑波海軍航空隊の隊員の遺族や関係者から寄贈された資料が展示されています。週末限定(かつ晴天時)には旧司令部庁舎から約1kmにある「地下戦闘指揮所」も平成27年3月迄期間限定で公開もされています。
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Pt左)建物2階の司令官室からの眺めです。現在は医療センターの敷地です。 Pt中)この廊下の雰囲気は司令部というより病棟といった感じです。左右の部屋を利用して写真や遺品が展示されています。 Pt右)1階の奥のスペースには映画「永遠の0」の巨大なポスターが貼られていました。因みに映画に登場する「空母・赤城」はコンピューター制作で、零戦21型は原寸模型だそうです。
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