旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

群馬県

前橋東照宮は改修中

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前橋市大手町、前橋公園内の「前橋東照宮」です。東照大権現=徳川家康を祀る東照宮は日光や久能山が有名ですが、江戸時代には全国に700社ほど建立され現存でも130社あるとされます。前橋東照宮では徳川家康を主祀神として木花咲耶姫、菅原道真、長壁姫が合祀されています。社殿は「前橋東照宮創建400年令和の大改修」中となっていますが、この大改修を巡ってのゴタゴタがあったようです。
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神社は徳川家康の5男の結城秀康(結城松平家)が最初の領地の越前勝山に寛永元年(1624)に創建しています。結城松平家は転封を繰り返し寛延2年(749年)松平朝矩の時に姫路から転封となるのですが、利根川の治水に失敗(長壁姫の仕業)川越へ移ります。現在の社殿は川越時代に造られて前橋へ帰還、幕末の混乱を経て明治4年の再建されます。
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ゴタゴタの内容は良く判りませんが、Pt)に残っているのが本殿で、計画では鞘堂的な建造で本堂を覆い、手前にあった旧拝殿は再建しない計画のようで、旧拝殿のほぼ消滅に反対の声が氏子有志から上がったのが実際のようです。姿を変えずに保存か姿を変えて保存かは難しい事ですが(神楽坂の赤城神社のクマの例もあり)未来の数百年を思うならそれはそれで良いのではないでしょうか。
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という事で、仮の拝殿が設けられていました。向かいの社務所では徳川家康のアニメが放映され良い感じななっています。ただ合祀された
浅間神社の木花咲耶姫、天満宮の菅原道真は良いとしても、長壁姫伝説については神社のよると「松平家は代々長壁さまに安産を祈願し、家督は今も続いている」と安産祈願の神様となっています。荒魂・和魂という事でしょうか。旧厩橋を壊滅させたパワー溢れる姫路城天守の老いたるキツネの化身=長壁姫からすると、そうくるかぃです(苦笑)。
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前橋・長壁神社

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中村 禎里(なかむら ていり)の【狐付きと狐落とし】という書籍に前橋・長壁神社に纏わる伝承がありました。この伝承は前橋東照宮のHPにも記載がありますが、魑魅魍魎の類の伝承ではかなり面白く前橋迄出かけてみました。神社HPと中村氏著作では微妙に違いますが伝承という事で(笑)。この神社と前橋東照宮に祀られる長壁さま、姫路城天守に住む最強の女性妖怪で長壁姫、小刑部姫、刑部姫、小坂部姫とも称し正体は老いたキツネとされています。
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東照宮HPにも詳しいですが、松平朝矩が姫路より前橋への国替えに際して、姫路城天守に祀られていた「長壁さま」を前橋の守護としてお連れし城外に祠を建てますが、城内に祀られたかった「長壁さま」は不満爆発で利根川を氾濫させるなどの大暴れを繰り返します。これにより松平家は前橋を放棄する事となり川越に移ります。長壁様は松平朝矩に「一緒に川越へ連れて行って欲しい」と懇願しますが拒絶され前橋に放置され、激怒した
長壁様により松平朝矩は呪い殺されてしまいます。
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時を経て江戸時代終りに松平家は川越から戻るのですが、この時も
長壁様を城内に祀るのは拒絶され、この場所に祠が造られます。そして明治になると(東照宮HPでは)明治政府の指示によりは長壁様を東照宮に合祀する事になります。大東亜戦争時の前橋空襲のでは霊力を発揮して戦災から神社を守ったとの伝承もあるそうです。
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神社は氏子さん達が守っているようですが荒廃は進み、
長壁様が激怒したら大変な事になりそうです。稲荷社には長壁様の正体の「老いたキツネ」の関連でしょうか願掛け人形のキツネ人形が並んでいます。日本にはキツネや狸が祟りをなす伝承が数多くありますが長壁様ほどパワー溢れる事例は珍しいのではないでしょうか。
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前橋・街歩き

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元々は「厩橋」と書かれ江戸時代に「前橋」と改められます。厩橋城は長尾景虎の関東進出の拠点となり、江戸時代には徳川重臣の酒井重忠が城主となり、後には徳川家康の次男・結城秀康を祖とする松平家5代松平朝矩(とものり)が姫路から入封しています。県庁前通りで幅の広い道路と並木道です、大手町の地名はいかにもの城下町です…。
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利根川の治水に失敗した松平家は川越に移り前橋城は1769年に廃城となります。100年を経て城は再建されますが、完成4年後の廃藩置県により再び廃城となります。明治となり初代の群馬県令は長州出身の楫取素彦(かとりもとひこ)が就任します。(前橋公園にTV影響下の銅像があります)よほど人材がいなかったのでしょう、楫取素彦の妻が吉田寅次郎の妹という縁故の匂いがします。後に県庁を高崎へ戻すとの約束で前橋に県庁を置くという約束を反故にして、高崎・前橋の確執の元となった犯人(?)が楫取です。
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群馬県庁舎は前橋城の跡地に1999年6月に完成しています。高さ153m、33階建てで都道府県庁舎としては東京都庁に次ぐ建物です。前橋市役所は高さ60.3m、14階建に対して高崎市役所は高さ102.5m、地上21階地下2階と圧倒的に「高崎の勝利です」。建物の下方は新庁舎以前の「昭和庁舎」で1996年に国の有形文化財に指定されています。取り壊さなかったのは英断でしょう。それにしても旧前橋城の広さが実感できます。
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群馬県庁舎の31階にはレストランが数軒と32階には無料の展望室があります。見えるのは上州の山々ばかりで、東京都庁やスカイツリーの景観との比較は野暮です(苦笑)。ガラス越しの撮影ではどうしても反射が写り込みます。赤城山方向に高層建築は見られずこれはこれの景観ですが、群馬県にこれだけの県庁(建物)が必要だったのでしょうか(?)
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県庁付近は総面積が18.50haもある広大な「前橋公園」で遊園地や「さちの池」や日本庭園等々。ヤマダ電機の会社名を冠した旧前橋競輪場の後継となる「グリーンドーム前橋」など充実しています。群馬地方自治の中心であり公園や関連施設も充実しているのですが、何故か【寂れた街】の印象がぬぐえません。
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前橋のマンホールはバラの花のデザインでした。 県庁庁舎展望室に群馬県ならではの大きな達磨が置かれていました。庁舎前の「ぐんまちゃん」ですが見慣れたカラーではありません。
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前橋駅は閑散として…。

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群馬県の県庁所在地「前橋」に行って来ました。高崎駅で乗換えの両毛線で15分程、県庁所在地がローカル線という珍しい事例です。高崎市と前橋市は遥か以前から仲が悪いことで有名ですが、前橋に行ってみるとその一端が見えてくるようです。Pt↑)の前橋駅ホームは、小山方面に1.2番線、立ち位置が高崎方面の3番線で4番線部分は線路すら轢いてありません。乗車の両毛線は4両編成なので、このホームの長さはなんなんでしょう。通勤時間帯には長い編成運行があるようですが、ターミナル駅の高崎駅とは比べ物にならないほど閑散としています。
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コロナ連休という事で構内は閑散としていると思いたいのですが…(苦笑)。駅舎や駅前のバス乗り場など広々として良い街だなぁの印象は時間とともにアレレッ感が湧いてきます。群馬県の県庁所在地の駅としても、これだけ静かな駅前はそうはないでしょう? 駅舎ないは物産展、観光案内所、ピザレストラン、マクドナルドとNew Daystで終りでした。
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どこかで見たような駅の記憶がよみがえってきます。JR旭川駅もこんな感じでしたでが、むしろJR佐賀駅により雰囲気が似ています。同じ城下町としての歴史があるからでしょうか、実際は佐賀駅の方がもっとショボいですが…(笑)。Ptは北口側です。東横インがやたら目立ちますが隣接ではありません。駅のフェンスは新幹線駅の様な感がありますが4両編成が基本運行とは(苦笑)。なにかと話題のホームまでのエスカレーターもエレベーターは設置されていました。
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Ptは南口側です。県庁や官庁街、繁華街(??)は北口側です。前橋にはJR線のほか上毛電気鉄道の「中央前橋駅」があるのですが両駅は距離的に離れて繁華街らしき場所は中央前橋駅のようです。JR駅前は北口駅前のイトーヨーカドーが撤退するくらいですから”閑散の程度”が理解できます。



狐と狸と館林…(2)

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世の中にはマンホール(蓋)マニアという方々が居るそうで、確かに独自のデザイン・マンホールを採用している自治体も増えています。長野県某市でデザインの謂れを質問したら観光課職員が誰も知らずで笑ったこともあったような…(苦笑)。館林は狸民話で全国的に知られる街なので下水道の蓋は狸のデザインがありました。Pt↑)は「ポンポコくん」の愛称で、街のあちこちで見かけてるので特に関心も持たなかったのですが…(笑)。
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さすが「日本遺産」認定の街で帰路に駅前の観光案内所の観光資料も充実しています。職員氏から街のマンホールに施されてた仕掛けの話を聞きました。Pt↑)が胴体は分福茶釜で頭にツツジのキャラクターの「ぽんちゃん」です。このぽんちゃんマンホールは今のところ館林市内の3ヶ所にしかなく設置場所には微妙に違うポンポコくんもあるのだそうです。
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館林市は令和元年(2019)6月に文化庁「日本遺産」に「里沼(sato-muma)-『祈り』『実り』『守り』の沼が磨き上げた館林の沼辺文化―」として認定されます。「日本遺産」に付いては他項に譲りますが、市よりの申請項目に未認定の『尾曳稲荷神社』の項目がありました。館林はキツネのアドバイスにより造成された地とあり、「分福茶釜」の方が有名ですが「
尾曳稲荷神社」の伝承のほうが格段に面白いと思います。
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1500年代初期。大袋城主・赤井照光がいじめられている子キツネを助けると、お礼に現れた親キツネが「今の居城は要害ではないので館林に築城すれば天下の名城になるであろう」と告げ姿を消します。七夕の夜に再び現れるたキツネは自ら館林城の縄張りを描き始めます。キツネの尾による書き始めが待辺(現本町2丁目)の『宵稲荷神社』で別称『初曳稲荷』or『待辺稲荷』とも称する神社なのです。
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キツネの終夜の縄張り作業は朝日町3丁目の『夜明稲荷神社』で終了します。「稲荷の神は城下を守護するであろうから、社殿を創建するように」と伝え『尾曳稲荷神社』あたりで姿を消します。その地に城の鬼門の守護として造られたのが『尾曳稲荷神社』であり、創建以後は榊原靖政が社殿の改築をおこなうなど歴代の城主に崇敬されます。
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「分福茶釜」は茂林寺の守鶴狸の【澤蔵司稲荷】や四国の【八百夜狸】伝承と似た部分があります。民話にしても【助けた動物の恩返し】は国内各地によくある話です。キツネが街づくりの基本設計に関与した話はなどいたことがありません。こちらの話の方が面白いとおもうのですが…。  Pt)はつつじが岡第2公園にある「旧秋元別邸」です。最後の館林藩主・秋元家所縁の明治末期の建物です。

館林・狸の茂林寺…(2)

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日本昔ばなしとして知られる「分福茶釜」は何となく知っていると思います。【狸が茶釜に化けて見世物小屋で綱渡りをしている】映像が強く、意外とそれ以外の話はかなり曖昧なものです。東武伊勢崎線・館林の1つ手前駅が「茂林寺前」で分福茶釜の伝承の有る「青龍山 茂林禅寺」の下車駅です。寺入口の道路脇にPt看板がありました。ホントかよっと思う反面、さもあり感も漂っています。
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茂林寺前駅から寺までは徒歩10分ほどです。道すがら「ぶんぶく茶釜絵本案内板」が全13種あり物語の概要が解説されていますが、狸の曲芸が強烈でも根底は”罠にかかったて助けられた狸の恩返し”とは、そうだっけと思ってしまいます。これ日本昔話では良くあることで時代や作者によって異なるストーリーが何種類あり、年代によって記憶にあるストーリーが違う事がよくあります。それはそれで良いのでしょうか…(笑)
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面白い事には、江戸時代に書かれた「甲子夜話」には民話とは全く異なるストーリーがあり、狸が化けたのは寺の僧・守鶴で所有しているのが湯を汲み続けても尽きない茶釜とあります。化け狸・守鶴はインドで釈迦に学び日本(茂林寺)にやってきたというご長寿狸ということで、正体がバレて去っていく民話とは重なる部分がありません。これはこれという事で(苦笑)
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50年近く前、そして2014年以来と迎えてくれる狸たちは変わっていません。最近は寺裏手が「茂林寺低地湿原体」として整備されているようです。群馬県天然記念物の割には荒涼とした場所がどう変わっていくのでしょう。門前のある数件の土産物店も疲れが目立ってきています。日本昔話だけで集客にはつながらない時代になってしまいました。
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狐と狸と館林

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館林駅からつつじが岡公園までは徒歩30分程をフラフラと歩いて向かいました。Ptは館林市役所にあった狸のユルキャラの「ぽんちゃん」です。胴体は茶窯で頭には躑躅が乗っかっています。掲示板にはつつじの開花状況が書かれています。ヤマツツジ=満開、キリシマツツジ=5分咲き、遅咲きツツジ=咲き始めとあります。つつじが岡公園の入園は有料で咲き状況により入園料が変動します。因みにこの日は¥630でした。
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城下町として繁栄した街は、明治年間に大火に見舞われても興味深い神社、仏閣、名所がちょこちょこ残っています。Pt)は創建が天文元年(1532)の宵(よい)稲荷神社、別称として初曳(はつひき)稲荷、待辺の稲荷と称するとごく普通の稲荷社ですが、面白い伝説があり、曰く赤井照光なる武家が子供に虐待されている子狐を助けます。すると親狐が現れて現居城は不吉なので館林に移り居城の建設を勧めます。館林の始まりに関わったのは狸ではなく狐なのです。
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青龍神社=青龍の井戸は徳川5代将軍・綱吉に纏わるもので、綱吉が館林城主になった頃、現在は廃寺となった福寿院で突然と清水が湧き、青龍権現が現れます。これを聞いた綱吉生母の桂昌院は青龍権現社をこの地に再建したとあります。という事で現在も「葵のご紋」が許されているそうですが…。やたら信心深い桂昌院ならありそうな話ですが、徳川綱吉は江戸城内で生まれそして亡くなります。館林25万石でありながら館林で暮らしたことはないはずなので、どうなんでしょう(?)
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群馬県立館林女子高校は大正6年館林町立実科高等女学校を祖として館林城跡に造られたのでしょう。館林市は城下町であった歴史のわりには「藩校」に類する教育の場が無かったようです。却って珍しいのかも知れません。遥か昔の一時この学校に在籍した友人がいました。あれからの年月お互いにどんな人生を過ごしてきたでしょうか…。
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我が国初の女性宇宙飛行士と知られる向井千秋氏の名前を冠した1991年開館の「向井千秋記念子ども科学館」です。スペースシャトルや氏関連の展示品や天体観測質、プラネタリウムなどの施設があります。向井千秋氏は館林出身で中学途中から東京へ移り都立日比谷高校、慶応大学医学部、医学博士、日本初の女性宇宙飛行士と超が多数つくほどの経歴です。実は氏を含めて興味ある施設ではなく入館したことはありません(苦笑)。
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社名に館林を冠しない「八幡宮」は館林城築城の際に"八幡神"を祀ったのが始まりでしょう。神社は「八幡郭」と呼ばれる城内にあり、古墳のように見えないでもありません。明治4年(1871)の廃藩置県で館林城は廃城となり八幡宮は近くの「尾曳稲荷社」合祀されます。明治後期になると「上毛モスリン社」が建てられて時に現在地に戻ります。鞘堂が掛けられた八幡宮社殿は館林城の本丸土塁と共に昭和62年(1987)に市の指定史跡に指定されています。
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「向井千秋記念子ども科学館」、「八幡宮」、「田山花袋記念館」と「旧上毛モスリン事務所」はほぼ一か所に固まっています。館林製粉(日清製粉)と共に明治期の館林で栄えた上毛モスリン(株)の事務所として使用された建物は、1978年に群馬県の重要文化財に指定され市の資料館として開放されています。モスリンは薄手の毛織物で明治前期には盛んに輸入され、上毛モスリン(株)が国産化を手掛けたようです。モスリンがどんなものかは知りません。
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「旧上毛モスリン事務所」と同じ敷地内にお向かいのPt↓)の「田山花袋記念文学館」とは別に館林が誇る文豪「田山花袋」が明治11年から19年までの8年間を過ごした家屋が残されています。ご本人がどの様な階層の出なのか判りませんが、明治前期としては立派なお屋敷と云ってよいでしょう。田山花袋、1872年~1930年、58歳没。代表作は「布団」や「田舎教師」ですが読んだことはありません。
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躑躅と狸と館林…(2)

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Pt)は伊勢崎線・佐野線・小泉線の3路線が乗り入れる東武鉄道の「館林駅」です。浅草を起点として約75㎞、微妙な距離感です。駅の開業は明治40年(1907)、この駅舎は平成10年(1998)に「関東の駅100選」に選ばれています。駅舎右手の東西の自由通路が増設工事によりPt)の駅舎が取り壊されなかったのは幸いでした。適度に田舎駅の雰囲気があります。
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館林駅前のローターリーには早速の狸像があります。隣の碑は昔々の昭和11年の読売巨人軍の前身の東京巨人軍が当時の「分福球場」でキャンプを行い今なら訴訟もんの猛練習をが行われた事を記念する碑です。【不屈のG魂誕生の地】とはお笑いです。夏場の館林は猛暑の街として知られ駅前の寒暖計には恐怖を感じたものです。計測方法が変り1位の座からは退いたようですが暑い街には変わりないでしょう。
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駅舎を背にして館林駅前通り線(花のまちクィーンズ通り)です。50年前にはこの道路はなかったような気がします。城下町だけあって神社や寺が多く残っているようですが、記録によると明治7年の火災により館林城下の大部分が焼けています。町名に残る本町が以前の商業中心地と思われますが、城下町らしくない城下町を感じます。
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館林の有名どころ駅前の「花山うどん」です。埼玉県の県北地区は有数な小麦の産地で、地名を冠した「●●うどん」が多くあります。館林を発祥の地とする館林製粉(株)の設立が明治33年。後々の日清製粉(株)と続いていくのですからさもアリなんです。「花山うどん」は明治27年の創業で120年の歴史があります。笑ったのが城址公園近くの街道に「丸亀製麺」がありました。いい度胸です(笑)。
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躑躅と狸の館林だけあって街のあちらこちらに「狸」がいます。設置された下水の蓋にも狸の絵が、証券会社の店先にも狸のキャラクターが…。かと思えば館林図書館のキャラは納得のきつねです。
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躑躅と狸と館林

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『躑躅』=この字が『つつじ』と読めても書くことはできないでしょう(笑)。上毛歌留多での”鶴舞う形の群馬県”の鶴の目のあたりが館林市です。江戸時代初期に徳川四天王の榊原康政により館林城を核とする城下町として確立し、5代将軍となる徳川綱吉(25万石)の時代もあります。最も綱吉公は江戸生まれの江戸育ちで館林で暮らした日々はないようですが…。その館林と云えば狸民話の茂林寺・分福茶釜や躑躅の名勝・つつじが岡公園が有名です。
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館林城址は細長い形状の城沼をお堀とした平城で、つつじが岡公園=花山は館林歴代の城主からの保護を受け継いでの歴史ある全国的に知られた名勝の地です。毎度のことながら良く判らない「日本歴史公園100選」にも選ばれた「つつじが岡公園」には約5万㎡の敷地に50種を超えるつつじが約1万株植えられ花さかりの季節となっています。昨年はコロナ禍の影響で中止でしたが、今年はもう一つの有名イベントの「こいのぼりの里まつり」は中止でも「館林つつじまつり」は開催中です。
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元々は自生していたヤマツツジ群に歴代館林城主があちこちから移植して、江戸中期には花見の名所となります。明治・大正と移植が続き大正年間に移植された「江戸キリシマツツジ」は今では貴重種となっています。昭和5年には公園の拡張がされ昭和9年には国の文化財、名勝の「躑躅ケ岡」に指定されています。入口の古びた標柱はその当時のものと思われます。
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前回の訪問は2014年5月のことでした。天候に恵まれ今年は例年により開花が早いようです。園内(入園料¥630)には時節柄マスク着用・間隔確保の看板が目立ちます。初めてここに来たのは高校3年の時、館林在住のガールフレンドらといわゆるダブル・デートってやつでした。記憶は薄れていますが躑躅の木はもっと巨木だったような気がします。躑躅・狸・館林女子高演劇部…。懐かしいの記憶ですが映像が出てきません(笑)。

前橋・總社神社…(2)

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Pt↑)は天保3(1832)造られた拝殿です。入母屋造りで左右の入口扉には十二支の彫刻があり破風や欄間には見事な彫刻が施されなかなかの風格です。上野国の国府近くに造られ、時代ともに周辺環境が変わっても、江戸幕府から約400年、明治からは僅か150年、その遥か以前からこの地に鎮座していた古社なのです。
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拝殿は古社の風格ですが、後方の本殿は極彩色に改修されています。江戸慶長年間に造られた本殿の形式は「三間社流造」。伊勢神宮の神明造りから発展した形式で正面側の屋根の庇が長く伸びています。代表的な例では上賀茂・下鴨神社ですが、なんでも全国的にはこの形式が最も多いのだそうです。そうですかねぇ?
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本殿の屋根の部分です。菊花紋章の使用は上野の国総本社(社紋は三つ鱗)ということで、この「流造」には屋根の強度確保が目的の千木や鰹木のが無いというが特徴です。
三間社流造の三間は間口が三間(柱が3本)あり、2柱神が祀られているという事になります。
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Ptには写りませんが拝殿の彫刻はお見事で、修復なった本殿の彩色も細部まで丁寧になされています。
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本殿の背面には松の絵が描かれています。慶長年間の造営ながら桃山時代の建築様式もみられるようです。
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拝殿横には「太々御神楽」と額を掲げた神楽殿があります。
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流石の古社だけあって総社神社には市の天然記念物の大木が6本あるそうです。確かにデカイです。
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本殿裏手の木製鳥居からの参拝口からは【神社は裏側が面白い】の通り總社神社の本殿裏にも三峯神社や養蚕の神「蚕影大神」や道祖神など多くの摂社が並んでいます。この稲荷社にあった「願掛けきつね」は願をかいて収めるという形式でしょうがきつねの数だけのお願い事とは多いのか少ないのか微妙です。

前橋・總社神社…(1)

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群馬県前橋市元総社町の「総社神社」は「上野國總社神社」とも称します。JR前橋駅から徒歩20分(Taxi ¥630)、総社近辺には「元総社」の地名が多々残っており広大な神域の神社だったようです。総社とは中央からの国司が任地内の神社巡拝を効率化するため国府近くに国内の神を合祀した神社をいいます。
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「上野国々府」の場所は今でも特定されてないようですが、府中大國魂神社と同様に国府と神社は隣接だったのでしょう。交通手段に乏しく現代のハイキングコース的な街道では移動は大変な任務で、ましてや上野国国司拝命なんてのは中央からすれば未開の僻地ということで。生きて帰れそうもない閑職そのものです。
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創建は崇神天皇48年(紀元前50年)豊城入彦命の東征の際「経津主命」を祀った事によります。安閑天皇元年(531年)に上毛野君小熊王による社殿の改築を創建とする説もあるそうです。当時は『蒼海明神』と称し、天平10年(735年)に上野国549の神社を合祀し「総社明神」と称したともされます。まぁ良く判らんという事です(苦笑)。
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現在の祀神は群馬県の重要文化財指定の『上野神名帳』=神々の名簿=を神体として天津神の経津主神(香取神宮・軍神)・磐筒男神・磐筒女神(日本書紀では経津主神の子供)・国津神の宇迦之御魂神(稲荷神)・須佐之男命を祀り、相殿に神名帳記載の上野国内の鎮守十社を祀っています。
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元々の神社は数百mほど離れた宮鍋という地にあったようですが、永享年間に上杉氏のより築かれた蒼海城内に取込まれ、その城も時の流れに消えて神社だけが残ったようです。その
蒼海城跡地図の掲示がありました。現在の神社は城のほんの一角のすぎず実際の蒼海城はかなり大きな城だったようです。
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上野・一之宮貫前神社…(3)

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総門から先「楼門」へは石段を下ります。入母屋造りのこの楼門は重要文化財で平成21年~25年の平成の大修復により朱塗りの美しい姿になっています。貫前神社の社地は平坦な部分が少なく本殿のすぐ後方は崖です。下り宮の社殿配置は良く造ったなとので感があります。そうなると「何故この場所なのか?」との疑問が湧いてきます。
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続いての(?)はご祀神についてです。ご祀神は二柱で「経津主神(ふつぬしかみ)」は日本書紀にのみある神で物部氏の祖神とされています。もう一柱の「姫大神(ひめおおかみ)」は一説には養蚕の綾女庄神とされ元々は主神だったようです。そのせいか本殿の千木が女神の「内削ぎ」になっています。ご祀神の素性が良く判らないのようです(苦笑)。
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創建は安閑天皇の時代に物部氏が氏神の経津主神を祀ったことによります。一大勢力だった物部氏とは判らんでもないですが。江戸時代には徳川家の庇護を受け、国の重要文化財の本殿・拝殿・楼門・回廊は三代将軍家光による造営で、五代将軍綱吉により極彩色の社殿に改築されています。将軍二代に渡っての手厚い庇護とは異例なのではないでしょうか?
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敷地の関係でしょうか。拝殿に対して本殿の向きが「神明造り」ではなく「大社造り」のような外観です。Webによると「貫前造り」という独特な造りで、2階構造の内部の上段に神座が据えられ「雷神小窓」が付けられています。実に見事な極彩色です。埼玉県の国宝・妻沼聖天並みの美しさです。群馬県下仁田近くにこんな神社があるとは…。
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楼門には縁起物のカエルが並んでいます。この「無事かえる」は貫前神社所蔵の重要文化財「白銅月宮鑑」にあるかえる」と戦時中の出征兵士やその家族の参拝者らに「勝ってカエル・勝ちカエル」のお守りとして、高度経済成長期には「無事かえる」と姿を変えてお守りとし授与されています。
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拝殿・本殿に左側に小さめの摂社が鎮座しています。「抜鉾若御子神社(ぬきほこわかみこ)」は、ご祀神の「経津主神」の子供で安閑天皇の時代に元々鎮座の場所から明治38年に現在地に遷座したとありますが、どうなんでしょうか?
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神域には樹齢1000年超えの巨木が多数あります。さすがにコンデジでは難しいのですが、天然記念物だけでもPt↑)で門の左には大銀杏、右のダジイは推定樹齢が1000年超、いずれもの富岡名木10選の天然記念物です。総門裏手には「勝ってかえる、勝かえる」の由来となったタブノキや本殿の裏には樹齢1200年を超える藤太杉と呼ばれる大杉があります。Pt↑)の広場は12年毎に行われる式年遷宮時の「仮殿敷地」です。
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「総門」の位置からは「楼門」が見えるものの拝殿・本殿は見えません。
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「楼門」から「総門」を見上げます。登って登って下っての「下り宮」は出雲大社くらいしか知りません。
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「神楽殿」と参拝者休憩所です。勝手ながらこの色合いの方が落ち着く様なきがします。。

上野・一之宮貫前神社…(2)

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「一之宮貫前神社」は鳥居or神門より拝殿・本殿が下方に造られている「下り宮」です。下り宮で知られる宮崎・『宇土神宮』や東京国立市・『谷保天満宮』などは下る一方で、登って更に下る神社は知る限りでは『出雲大社』以来です。上州一宮駅から徒歩15分。旧道沿いの「国幣中社貫前神社」の社標から坂道を300mほど登ります
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坂道を登って終りではなく、さらにこの鳥居まで石段を100段ほど登ります。汗だくで振り返ると上州の山々が…。
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大鳥居を過ぎると同平面の200mほど先にあるのが総門です。両脇にある銅の灯籠は市指定文化財だそうです。これで参拝かと思うととどめの一撃がこの先に待っています(笑)。
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総門を抜けると下方に楼門や拝殿・本殿、社務所などが見えます。つまり社標の旧道から坂道を登る。更に石段を登って大鳥居。200m先に総門、石段を下って楼門です。
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総門左側、12年ごとの式年遷宮の仮殿敷地と末社です。社領内の神社を纏めた長屋のような「二十二社」、「日枝神社」、「伊勢内宮・外宮」があります。なんと「伊勢神宮」が末社です。更には天然記念物の巨木が…。
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石段の下、左側に末社「月読神社」があります。明治時代に近在4社を纏めたとありますが、天照大御神・
月読命・素戔鳴命は兄弟神ながら月読命は記紀にもあまり登場せず実績や性別すら不明な神です。月読命を祀る神社は珍しいといえます。
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坂道を登りきるとこの場所です(笑)。石段上の大鳥居先の総門前に駐車スペースはあります。
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別名「不明門/あかずのもん」の「勅使門」。以前は天皇からの勅使参向時のみ開門されたそうです。
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創建は古くは清和天皇の時代。Ptの社額は明治6年の有栖川宮幟仁親王によるものです。

上野・一之宮貫前神社…(1)

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台東区上野(ウエノ)ではありません。群馬県は上野(コウズケ)です。遥々高崎から初めての上信電鉄で「上野・一之宮貫前(ヌキサキ)神社」へ行ってまいりました。下車駅は「上州一ノ宮」あの世界遺産登録で有名な「富岡」の少しばかり先です。
貫前神社と云っても判らんでしょうが、例の上州かるたにも【ゆかりは古し貫前神社】とある神社です。下車駅の「上州一ノ宮」はご覧ような無人駅、食堂、売店一切なし、コンビニまで徒歩15分です。
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高崎~下仁田間の上信電鉄はJR高崎駅で乗換です。JR改札を出て上信電鉄乗車まで7-8分必要です。1時間に2本程度しかないのでトイレは済ませるなど乗換時間の考慮が必要です。スイカなどは使えません。ラーメンの券売機のようなのが2台並んでいます。
「上州一ノ宮」は所)45分・運賃が910円。世界遺産富岡製糸場は所)39分・810円の上州富岡駅下車で徒歩10分です。
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列車編成は2両のワンマン運行、Pt↓)の全路線はこれだけです。無人駅と有人駅があり上州一ノ宮駅は無人駅なので下車の際は一両目の先頭に移動して乗車券を渡します。下手すると降りそこないます(苦笑)。帰路は一両目先頭で待たないと乗りそこないます。この電車は上下左右に良く揺れます。消化には良いでしょうが寝てられません(笑)。久々のローカル線利用、ラッキーな事に乗継ぎが実に上手くいきました。
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上信電鉄の高崎~下仁田間の路線図。社内広告の地方色も良いもんです。
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上州一ノ宮駅。飲料自販機がポツンとあるだけの無人駅です。北海道ローカルにあるような…。
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JR高崎駅は初めて降りたような気がします。駅舎が大きな分乗換え時間が結構かかります。

館林・狸の茂林寺

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東武伊勢崎線・館林駅の1つ手前の「茂林寺前駅」より徒歩700m(館林駅から約3㎞)に曹洞宗・茂林寺があります。日本昔話に登場する『分福茶釜』で有名と言った方が判りやすいかも知れません。 =多くの人が”ぶんぶくちゃがま”でなく”ぶんぶくちゃまが”と言ってしまうようです= 流石に”狸”で有名なお寺だけあって総門から山門までの参道には約20体の狸の像が建っています。1体毎に造作が異なり戯れ唄などがあって結構楽しめます。その昔、館林在住の女の子とデートしたのが、つつじの季節に茂林寺から花山でした。茂林寺の狸たちも今ほど狸像がカラフルでなく、もっと大きかったような気がするのですが…。
左)山門から総門方向です。狸が動員されてお出迎えといった感じでしょうか。こちらは”分福茶釜伝承”で”狸囃子”の證誠寺は木更津市です。
中)本堂です。昔は狸が飼われていたような記憶があるのですが…曖昧です。
左)茂林寺前駅。狸親子が出迎えです。茂林寺までの道すがら昔話が13枚のパネルが造られています。
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館林・つつじが岡公園

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群馬県は館林市つつじが岡公園へ行ってまいりました。この「つつじが岡公園」は日本でも有数の”躑躅”の名所で、日本一どころか世界一だとのたまう研究者もいらっしゃるようです。歴代の館林城主や市民に保護され、季節には樹齢800年を超える高さ5mのヤマツツジや50品種以上約10,000株のツツジが咲きほこります。昭和9年には国の名勝に指定されています。…「つつじが岡公園」は新旧の園を合わせると5haあります。確かに年々整備されてはいるのですが、遥か以前の方が”花のトンネル”などはもっと迫力があったような記憶があります。 花の盛りが過ぎているので”絵”になる場所探しは大変でした…。 ↓中は館林駅前に設置された温度計です。この時点の気温が24℃。”熱中症に注意ボード”によると、この温度は”注意”の下限にあたります。館林は真夏日は当たりまえ猛暑日の全国最高記録をしてしまう街として今年の夏も賑わしてくれることでしょう。 
右は館林第二資料館で、旧上毛モリスン㈱の事務所の建物が資料館となっています。同資料館付近には文豪・田山花袋の旧居や記念文学館、向井千秋記念子ども科学館なんてのもあります。歴史的、文化的見所が多い街なのですが…。暑いのは勘弁ですね!
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群馬・太田市・冠稲荷神社

f_1f_2妻沼の聖天さまから車で30分程、群馬県は太田市の『冠稲荷神社』です。HPに「日本七大稲荷」の一つとあります、胡散臭さは確かめねばなりません。で、立寄ってきました。=古墳時代六世紀より1500年の間、義経公 冠奉安を始め、祭祀祭礼が行 われてきた宮の森。冠稲荷神社は平安時代の天治2年(1125)新田氏の始祖 新田義重公の父、源義国公創建とされ、伏見、豊川、信田、王子、妻恋、田沼と合わせ、日本七社のひとつといわれています。承安4年(1174)源義経公は奥州下向の折、当社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請(かんじょう)してきた京都伏見稲荷大社の御分霊を鎮祭しました。また、時を経て、新田義貞公は元弘3年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げるにあたり、当社神前にて兜の中に神霊の来臨を請い戦勝を祈願されたと伝えられています。この故事にちなみ、いつしか冠稲荷大明神と人々から呼ばれるようになりました。=写真は本殿と、本殿に施された「白狐」の彫刻です。妻沼聖天にも劣らない作品です。

f_3f_5「源氏縁の地」・「源義経の鎮祭」・「新田義貞の戦勝を祈願」…というような事もあったのでしょう。それはともかく、思いの外”感じの良い神社”です。結婚式場もあります。幼稚園も併設されています。小さな子供たちが元気に走り回っています。「故郷のお宮様の杜」という感じに満ちています。この感じけっこう好きです。境内社の「実咲社」は実にユニークはきつね達が並んでいます。「子宝きつね」・「縁結びきつね」・「安産きつね」・「子育てきつね」と、様々なお願い事ならなんでもOKの懐の大きい神社さんのようです。

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