旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

浅草あたり

ここは浅草たぬき通り

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浅草地区ですが、文では説明しきれない場所に「たぬき通り商店街」はあります。Pt↓)のように裏通り的でTV的な店があるわけでもない商店街で、長さにしたら100mていどでしょうか?札幌の狸小路商店街をイメージすると愕然とすることは確実です(笑)。商店街の売りは招福・愛情・大師・天神・大黒・夫婦・不動・地蔵・小町・開運・人情のご利益豊富の狸神達で担当ごとにお堂が造られています。近くのお狸様を祀る「鎮護堂」が由来ではなく”浅草では狸が身近だった”を由来とするそうです。「狸」はケモノへんに里ですから当たりまえなのですが…。
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目立たない裏通りに足並みを揃えて「たぬき通り商店街」を表現するのは大変なことだったと思われます。”狸像を撫でるとご利益がある”なんてのは実に簡潔な表現です。まぁよほどの狸マニア(?)以外にはお勧めできませんが、このての商店街にはありがちな粗大ごみがや自転車が放置されていたりの商店街です。Pt↑)何がある?何もない!
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浅草寺・鎮護堂

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浅草寺の鎮護堂、2018.01.22以来の2回目です。台東区教育委員会の至極簡単な案内板がありますが、書かれていない面白いお話もあったようです。そもそも浅草寺の鎮守が「鎮護大使者」=「狸の神」というのも面白いのですが、彰義隊の上野戦争から逃れてきた83匹の狸軍団(西国から来たようですが出身地は不明)は浅草寺裏の雑木林に住み着いたのですが、寺の拡張でこの住みかも追われることとなります。頭にきた狸たちは反抗的になり様々ないたずらで仕掛けるようになり、浅草寺用人の家では天井から石を落としたり落ち葉をまき散らしたりの狼藉や家の娘に憑りついたり大暴れを繰り返したそうです。このいたずらの模様は明治時代の「東京日日新聞」で報じられたのですから”さぞや”のものだったのでしょう。
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1883年頃に浅草寺と上野寛永寺のお二人の僧正様の夢枕に狸公が現れ「我に住みかを与えれば火伏の神となろう」と告げていきます。この縁により僧正様達の発起でこの鎮護堂が造られることとなります。「鎮護大使者」の称号は浅草寺の僧正様によるもので浅草寺の火伏の鎮守とは狸公達も大出世です。見ることはできませんが、祠に祀られているご神体は白狐に跨った「茶吉尼天」なんだそうで仏教系稲荷社のご神体と同じです。「鎮護堂・狸神」のご神体が「稲荷神」とは、なんだかか複雑模様です。祠前にはあちこちに狸の像が見られます。光量不足で見えにくいですが並んでいるのは「縁起物/ご神体」の像で3種の姿(1体 ¥1500)があります。
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浅草の街神社…(8)

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浅草の街神社、今回の『合力稲荷神社』は台東区浅草6-42-8と浅草でも山谷堀跡に近く、やや見つけにくい地に鎮座する稲荷社です。祀神は稲荷社でも少数派(?)となる『保食神/うけもちのかみ』になります。徳川4代将軍の日光参拝のおり千住宿で死亡した愛馬「荒波」の馬頭観音が合祀されていたり、伝説の江戸時代の怪力男「三之宮卯之助」の力石なんての境内に置かれています。吉原への道すがら「土手のお稲荷さん」と親しまれていたそうですが、江戸永禄年間に山谷村の農民らで鎮守として祀ったのが始まりの街稲荷社のようです。
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浅草の街神社…(7)

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久々の浅草の街神社の7回目は『袖摺稲荷神社』、住所は台東区浅草5-48-9で浅草富士浅間神社の先になります。さすがにこの辺りともなると貧乏外国人どもは見かけません。逆にこのての街稲荷を巡っていたらかえって不気味です。祀神は1柱に素戔嗚尊。2柱に倉稲魂命とあります。源頼朝が伊豆流刑中に稲荷神を彫刻して社を建立したのが始まりで、北条氏が小田原に遷座、小田原北条氏以後は「お告げ」のより墨田の地に移り、徳川氏により当地に遷座したとの社歴があります。霊験あらたかにより多くの参拝者が列をなし、袖擦り通うことから「神寿里稲荷」、さらに『袖摺稲荷』となったとは(苦笑)。まぁ吉原への道すがらなので多くの参拝者は納得できますが・・。
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浅草の街神社…(6)

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地図にも無いような小さな稲荷社を探すのは大変で例の赤幟を目印とするのですが、浅草寿町の『黒船稲荷神社』にはその頼みの「幟」すらありません。浅草神社の資料によると・・【平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940年?)に創建、藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請したといいます。江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、「黒船三社稲荷大明神」と称されたといいます】・・ともかくの古社です。ご祀神は倉稲魂命(宇迦之御魂神)つまりは稲荷社です。Pt↓)では写っていませんが賽銭箱には寄贈者の「厩橋旅館」の文字と稲荷伸の紋が付けられています。
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浅草の街神社…(5)

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感応稲荷社の近くの『西浅草八幡神社』。こちらも浅草神社の兼務社とあります。「稲荷社」と同様にアチコチに鎮座している「八幡社」ですが浅草近辺にはあまりありません。この八幡社は元禄13年(1700)に鶴ケ丘八幡宮や岩清水八幡宮ではなく、宇佐八幡宮から勧請されたようです。関東大震災は無事だったものの東京空襲では消失してしまい、昭和24年(1949)に再建、現在の建物は昭和47年(1972)の完成です。
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浅草の街神社…(4)

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台東区西浅草4丁目の浅草ビューホテル近く、国際通りに面して『感応稲荷神社』があります。創建時期不明だそうで、元々浅草柴崎町(この辺り)あった神社がその後数回の遷座を繰り返し結局元の場所に戻って来たようです。これといった特徴は無く神官も常駐でなく浅草神社が兼務しています。この規模の神社には珍しく手入れが行き届いています。いまでこそ付近はラブホテル街となりましたが、近くの浅草ビューホテルは元浅草国際劇場なので踊子さんたちもお参りしていたことでしょう。Pt↑)のきつね像(左側)際立った特徴があるわけではないのですがいい雰囲気です。
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浅草の街神社…(3)

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台東区浅草3-19-6にある『箭弓稲荷神社』です。浅草寺の裏の雷5656会館の裏手辺りですが見つけにくい稲荷さんです。由緒書などはなく辛うじて社額と社殿に「箭弓稲荷社」の文字があり判別ができます。黒門町の箭弓稲荷と同様に埼玉県の箭弓稲荷神社の分社と思われますが、ご祀神が「保食命」なのか「宇迦之御魂神」すら分かりません。
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『箭弓稲荷神社』のほど近く浅草三業会館に稲荷神社が鎮座しています。三業とは明治以降に料亭(飲食提供可)・待合(飲食提供不か)・芸妓屋(芸者プロダクション)で、この地区が「花街です。浅草は向島に次に芸妓数が多いとされますが、浅草三業や芸妓の守り神として鎮座しているのでしょう。
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浅草・被官稲荷社

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安政元年(1855)、江戸町火消しの頭であった新門辰五郎の妻が重病となったおり、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ病気は全快したそうです。そのお礼の意味も込め伏見稲荷神社から分霊して創建されたのが『被官稲荷神社』で浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の「被官」とは”官を被(こうむ)”から就職・出世にご利益があるようです。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。社は創建時のもので「一間社流造」という神社本殿形式になっています。覆堂は大正時代に造られたようです。
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また、様々な形式の神使の狐があちこちに見られます。親子狐・鍵や玉を咥える狐。社額は石造りで狐が付けられています。本殿の隣にずらりと並んだ通称『お姿』は壮観で、これだけ並んでいるのは豪徳寺の猫くらいなもんです。浅草神社によると「浅草神社は九つの神社を兼務している」そうです。うち6社は「稲荷社」という構成です。
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浅草の街神社…(2)

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「無事富稲荷神社」からほんの数m(台東区1-14まで同じです)に「御手洗稲荷神社」があります。困った事には由緒を始め”神社情報”がまったくありません。社額には「御手洗稲荷大明神」とあり稲荷社であることは確実ですが、まさか「おてあらい」とは読まないでしょうがそれすら分かりません。さらには入口の柵は施錠されていて境内に入ることすらできません。まぁ飲食街のことなので酔客がトイレ使いしたり寝込んだり対策での施錠でしょうが、参拝のできない神社というのも微妙です。付近で聞き込みをすれば由緒など判明するのでしょうが・・。
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浅草の街神社…(1)

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台東区浅草1丁目の『無事富稲荷神社』です。すしや横丁へ向かう食通街と称する場所にあるのですが、Pt↑)のようになんともこじんまりとした稲荷社です。困ってしまうのは二文字目がGoogleの地図検索では「無富」とあり神社では「無事富」となっています。となると「ぶじとみいなり」で良いのかとの疑問も生じてきます。神社の由来や社歴に関する掲示は一切ありませんが、神社前の旧町名由来案内にはこの近辺は以前は「旧)浅草新畑町」と云い、浅草寺境内の畑地として農作物を作っていたとあります。これでは稲荷社との関連のヒントにもなりませんが、「今年も無事に豊作でありますように」と云った感じなのでしょうか(苦笑)。
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浅草寺・おたぬきさま

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伝法院通り、浅草公会堂近くの「浅草寺本坊伝法院守護・鎮護大使者(おたぬきさま)」・「鎮護堂」です。伝承によると「おたぬきさま」として親しまれる鎮護堂は、彰義隊の上野戦争のおり上野の山から避難した狸どもが浅草寺に住みつきイタズラ放題のご乱行三昧。狸どもの乱行を鎮めるため伝法院の鎮守として「狸社」を祀ったことにはじまるようです。狸公との約束では「自分たちを保護してくれれば、いたずらせずに伝法院を火災から守る」という項があり、後には福徳を願う人達の参詣が増え一般開放となったとあります。お隣の幇間塚は昭和38年に造られたもので、幇間のことを「たぬき」と呼んだことによるものです。
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浅草不動尊と三宝荒神堂

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雷門から仲見世を抜け宝蔵門を仰ぎ見るあたりまで来ると左側に「三宝荒神堂」の幟が林立しています。このお堂には「仏法僧」の三宝および伽藍の守護神で日本仏教特有の仏神が祀られています。「三宝荒神堂」は「荒神さま」とも言われ、仏法僧の三宝の守護神⇒不浄や災難を除去する神⇒”かまど神”として祀られ、転じてかまど⇒台所⇒家計⇒家計の守護神となっています。礼拝方法も【一礼・三拍手・一礼でお札は仏壇ではなく神棚に祀る】作法ようです。
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そのお隣が「浅草不動尊」、関東三十六不動霊場の22番目の天台宗のお寺「宝光山大行院」です。Pt↑)は、厄除け、開運、虫封じにご利益のあるとされる「なで仏」です。膝やら肩やらに持病を抱える人達が病気平癒を念じて撫でいるようで、ピカピカに磨かれています。実は「三宝荒神堂」と「浅草不動尊」は「浅草寺」とはまったく別のお寺なのです。まぁそれをわざわざ表明する必要性はないのでしょうが【あまり知られていない浅草寺】といってもよいでしょう。
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雷門・2017年秋

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2017.10.09の雷門は相変わらず凄い人出です。このPtには外国人は何人位なんでしょうか?正式名称は「風雷神」、向かって右側が「風神」で左側には「雷神」が置かれています。松下幸之助氏の寄進による提灯は高さ3.9m、直径3.3m、重量700㎏あるそうです。Ptにあるように現在工事中です。雷門を覆うシートは雷門の写真を原寸大まで引き延ばしたモノを使用しています。工事は大成建設が担当。約9500枚の瓦の交換と屋根を補修で2017年10月末の完成予定です。
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浅草寺は推古天皇の時代に隅田川の漁師兄弟の網にかかった観音様をお祀りしたのが始まりで、この漁師兄弟と長屋の大家が「三社権現/三社様」のです。彼ら3人の末裔は世襲特権があり「専堂坊」・「齋頭坊」・「常音坊」として浅草寺三譜代と呼ばれていました。このしきたりは約1360年後の平成元年にこの廃止されるまで続きました。説明しにくのですが都営浅草駅の出口付近に「専堂坊」屋敷跡の碑が建立されています。
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雷門、仲見世あたりは昔から賑わう街ですが、それらしき記憶は思いの外残っていません。Ptの「ホーロ看板」などは”珍しモン”の範疇かと思います。【火事と救急車一一九、犯罪は警察一一〇/許可第四八九三号】・【夕刊の王座・内外タイムス】。笑えるのが【野放しにした犬の糞街汚す】です。昭和30年代以前でしょうか?野良犬が多かったのでしょう(苦笑)。

浅草富士浅間神社

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浅草寺病院から言問通りを渡りアンデス(パン屋)の道を5分ほど進んだところに『木花咲耶姫命』を祀神とする浅草富士浅間神社があります。その昔は富士山に対する信仰は盛んで各地に浅間神社の勧請や富士山講が組織されています。江戸の庶民にとっては富士山を参拝するのは「夢」であり、とはいうもののそう簡単に富士登山ができる訳でもなく、富士山山開き(7月1日)には浅間神社にお参りしたとされます。Pt↓)のように境内にはごくこぶりな”富士山”が造られており、5、6月の最終土曜には植木市で賑うようです。案内板によると浅草寺が社務を兼ねているようで浅草寺境内に”お近くの神社を紹介”があり、神徳として安産、病気平癒、疱瘡(疫病除け)と記されています。
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浅草寺・弁天堂

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浅草寺への参拝(観光)は雷門(風雷神門)から仲見世商店街を進み宝蔵門から本堂へがパターンとなります。仲見世の終り辺り、宝蔵門を正面に見て右方向の弁天山と称する小さな丘の上にあるのが『弁天堂』です、お堂は昭和58年に再建されたもので、縁日の「巳の日」にはお堂の扉が開かれ弁天様を直接お参りできるそうです。なんと神奈川江の島と千葉柏市と当弁財天で「関東三弁財天」と称するようです。面白いのはご本尊は白髪のため「老女弁財天」と言われています。そりゃぁ弁天様だって老女にはなるでしょうが「婆さん弁財天」ってのは・・。鐘楼の鐘は5代将軍徳川綱吉時代の鐘で、芭蕉の句にある「花の雲 鐘は上野か浅草か」の”浅草の鐘”なんだそうです。
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花川戸・姥ヶ池

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浅草寺の東側の門「二天門」を背にして隅田川方面に歩くと「台東区産業貿易センター」に隣接の「花川戸公園」があります。この公園内のる「姥ヶ池」は明治24年に埋め立てられるまでは隅田川まで繋がる大きな池だったそうです。「姥ヶ池」には浅草寺の子院・妙音院の伝承に恐ろしいお話が残っています。…【この周辺が浅芽ヶ原(あさじがはら)と呼ばれていた頃、老女と若い娘が住んでいました。娘が旅人に宿を貸すと言って家に連れ込み”深夜になると老女が旅人を殺し金品を剥ぎ取ってしまう”といった手口で殺害された旅人は999人まで増えていきました。1000人目の客としてこの家に泊まったのが観音様が変装した若者でした。老女はいつものように深夜にこの若者を殺して、のはずだったのが殺害したのは自分の娘。嘆き悲しみ悪行を悔やんだ老婆はこのとき仏眼を目覚め、自らを龍の姿に変えて「姥ヶ池」の中に消えて行ったそうです】…というの伝説なのですが、東京都教育委員会による解説板に記載では微妙に異なっています。Pt↓)がその池なのでしょうが、祀られている社には「福寿稲荷大明神」とありました。この公園には歌舞伎の『助六歌碑』やら『履物問屋街発祥碑』なんてのもあります。
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浅草・日輪寺

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関東には「平将門」にまつわる伝承が数多くあり、ニュアンスこそ違え浅草・日輪寺も将門縁の寺とされています。天慶の乱で戦死した平将門の首は京都で晒され、3日目に故郷に向かって飛んで行きました。。首が落ちたとされる伝承は数か所あり、江戸時代初期に武蔵国豊島郡柴崎村といった現千代田区大手町の『将門塚』が最も有名です。首は柴崎村の村人により丁重に祀られたのですが、将門怨霊による天変地異頻発するようになっていたようです。1300年頃この地を訪れた「時宗二祖他阿真教上人」により将門を祭神とする神田明と日輪寺を時宗柴崎道場として開いています。徳川時代には江戸城の拡張で神田明神は外神田に移り、日輪寺はこの地に移っています。平将門を祭神としているのが「神田明神」で、菩提寺が「日輪寺」の解釈で良いと思いますが・・。Pt↑)の後方建物は浅草ビューホテルで旧浅草国際劇場です。日輪寺近くには、嘗てSKDスターに憩いの場であった「喫茶シルクロード」が今も営業しています。
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今戸・弾左衛門屋敷

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山谷堀から奥州街道越しの都立浅草高等学校あたりからが”浅草弾左衛門屋敷跡”です。組織としての弾左衛門は穢多の頭として関八州の非人や傾城屋(遊郭)などを統括し被差別民が被差別民を統括するという支配構造でした。穢多身分は皮革の生産や罪人の管理など「穢れ」の仕事に携わり、車善七を頭とする非人は社会化からの落ちこぼれ民で穢多身分とは異なります。さらに武家が困窮して大道芸等で暮らす「乞胸(ごうむね)」と呼ばれる人達も被差別民として存在します。幕府公認、非公認の遊郭、遊女達を含めると”浅草近辺地域の特殊性”が見えてきます。
山谷堀公園の公衆トイレ付近が、浅草橋~浅草~小塚原と移転した処刑場の跡地のようです。その隣には明治24年に西巣鴨に移転した「西方寺」があり、箕輪の「浄閑寺」とともに吉原遊女の投げ込み寺でした。この弾左衛門、非人頭の車善七、乞胸、吉原傾城屋の話は、実に興味深いのですが…。とてもじゃないけど手に負えそうもありません(苦笑)。

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そうだっのか?今戸神社

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江戸幕藩体制化から明治初期に関八州の穢多・非人身分を支配する『弾左衛門』という職名(同時に人名)がありました。身分的は被差別階層で、皮革加工や行灯の芯などの製造販売の独占的な支配が許されてた人達です。学校教育の場には絶対に登場しませんが『弾左衛門制度』を調べていくと『そうだったのか!』と目から鱗の話が続々と登場します。山谷堀を渡たり、現今戸神社近辺が弾左衛門屋敷跡なのですが、今戸神社は江戸の地図には「八幡社」とあります。神社縁起には1063年頃源頼義・義家が創建した「今戸八幡」と弾左衛門縁の「白山神社」を1937年に合祀したとあります。という事は…白山神社の祭神が”伊弉諾尊・伊弉冉尊”の夫婦の神なので『縁結びの神』ですかね(?)。「招き猫発祥の地」の伝承も、浅草寺で売られた”今戸焼きの猫”によるらしいのですが(?)猫の伝承なら山谷堀の西芳寺(巣鴨に移転)の”高尾太夫伝承”のほうがしっくりきます。さらに『新撰組・沖田総司の終焉地』との碑もあるのですが、お墓ならともかく”終焉の地”は千駄ヶ谷にもあります。実にミステリーに溢れた神社です(笑)。
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