旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

浅草あたり

待乳山の聖天様

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浅草寺の裏手(徒歩約10分)の待乳山の聖天様。浅草寺子院の「本龍院」で待乳山は”山号”です。隅田川の川端ですがこの付近だけが小高い丘になっています。『江戸名所図会』によるとここから見る隅田川の眺めが絶景とされていたそうですが、今は見る影もありません。本尊は歓喜天(聖天様)・十一面観音が安置されています。本堂へは階段を登っていきますが、裏手の駐車場側には年配者の参拝が多いのか”ミニ・ケーブルカー”が造られています。本堂から振り返ると聖天様の地形が”前方後円墳”のような形状です。例によって「日本三大聖天」と称されているようですが、他には浅草の待乳山聖天、奈良の生駒聖天、静岡県小山町の聖天堂、桑名市の桑名聖天(大福田寺)、熊谷市の妻沼聖天とあり、「三大」を選べということでしょう。作家の池波正太郎氏の生家はお隣との事で記念碑が造られています。
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浅草・嬉の森稲荷

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久々に浅草へ出かけたのですが…。まぁまぁ相も変わらず”外国人”の多いこと(!)。台東区民会館前(二天門駐車場)あたりでは、かん高い会話が飛び交っています。面白いもので容姿・髪型を観察していると、中国・台湾・韓国・タイの区別がつくようになります(笑)。連中はそのまま浅草寺に向かうので「姥ヶ池」も「嬉の森稲荷神社」も興味などあるはずもありません。まぁ日本人も同様でしょうが(苦笑)。
この『嬉の森稲荷神社』は台東区民会館前の向かい側の公園脇にあります。”うれしのもり”とはなんとも語感の良い神社でが、案内板によれば…【嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森に祀られていた。嬉の森は、(略)一説に入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。(略)嬉の森稲荷は、関東大震災に消失を免れ、また昭和20年3月の東京空襲の戦火も免れたという。嬉の森稲荷は火伏の神として信仰され、4月の2の午の日には、近隣人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。】…とあります。
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2015・伝法院庭園公開

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今年も浅草・伝法院庭園公開の季節がやって来ました。今年の開催期間は2015.03.13(金)~05.07(木)まで、入場時間はAM10:00~PM16:00となっています。正式には『大絵馬寺宝展と庭園拝観』と称します。流石に浅草寺、この”寺宝”がとても素晴らしいのですが…。残念ながら撮影禁止でした。今さらですが、伝法院庭園は約3700坪の「廻遊式庭園」で、江戸寛永年間(1624-44)に”小堀遠州(こぼりえんしゅう)”により作庭されたと伝えられています。伝法院庭園は2011年9月に国の名勝に指定され、通常は非公開なのですが、今の時期に期間限定で公開となります。人々で賑わう浅草寺にあってここは不思議な静寂感があります。お行儀の悪い中国&韓国に気が付かれる前に出かけることをお勧めします。
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Pt↑)庭園の池と五重の塔とスカイツリーが一緒に画角に収まります。やはり”絵”になります。
Pt↓)左・浅草公会堂が見えます。右・五重の塔とスカイツリー、昔と現代の高層タワーのそろい踏みです。
Pt↓)一石橋、湯島天神と触れてきた”迷子石標”。浅草寺境内にもあります。
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浅草・雷門が眼下に…

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『●●と煙は高い所へ』の5回目は”台東区・浅草文化センター”です。地上8階とたいして高くはないのですが、ここは”ただ”という事を優先させます。この建物は昨今流行の”クマ”の設計によるものです。そうしてみると赤城神社や新歌舞伎座に通ずる”よくよく見ると安っぽい感じ”が納得できます。50年後にはどう評価されているでしょう?当然、生きていないので知った事ではありません(笑)。2012年にリニューアルオープン、開館時間はAM09:00〜PM20:00/展望テラス・会議室はPM22:00です。要は浅草雷門前にある観光案内所なので、平日・休日問わず中・韓の甲高い言葉が耳につきます。眼下に見えるのは雷門~浅草寺参道の仲見世で”浅草の一部”です。
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1)目線の高さに透明なアクリル板があり落下防止柵となっています。 2)8階の隅田川側が”無料”展望室で上野側は喫茶室となっています。 3)7階フロアでは台東区の物産展示コーナーとなっています。
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見所満載の浅草寺境内…(Ⅶ)

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少しばかり浅草寺から離れますが…。浅草寺の東側の門「二天門」を背にして隅田川方面に歩くと「台東区産業貿易センター」に隣接して「花川戸公園」があります。台東区産業貿易センター駐車場は浅草寺周辺では貴重な大型の観光バス駐車場なのですが、昨今の観光バスは車高が高くなり多くの車輛が入庫できなくなってしまいました。そんな事での改装工事なのでしょうか(?)。今日も多くの一般観光ツアー客がこの付近でバスを降りて徒歩で浅草寺に向かっていきます。
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140818_02140818_03この花川戸公園内にある「姥ヶ池」は、池が明治24年に埋め立てられるまでは隅田川まで繋がる大きな池だったそうです。この姥ヶ池には、浅草寺の子院・妙音院の伝承によると、とんでもなく恐ろしいお話が残っています。…【この周辺が浅芽ヶ原(あさじがはら)と呼ばれていた頃、老女と若い娘が住んでいました。娘が旅人に宿を貸すと言って家に連れ込み、深夜になると老女が旅人を殺し金品を剥ぎ取ってしまう、といった手口で殺害れた旅人は都合999人におよび、記念すべき1000人目にこの家に泊まったのは、なんと観音様が変装した若者でした。老女はいつものように深夜にこの若者を殺して…のはずだったのが殺害したのは自分の娘。嘆き悲しみ悪行を悔やんだ老婆はこのとき仏眼を目覚め、自らを龍の姿に変えて「姥ヶ池」の中に消えて行った】…というのがこの池に伝わる伝説です。この伝説はオリジナルなんでしょうかねぇ?どこかで聞いたようなお話が混ぜ混ぜになっているような気がします。Pt右の池が龍になって消えて行った池なのですが…。祀られているのは弁天様のようですが「福寿稲荷大明神」とあります。
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140818_04140818_05位置的には「姥ヶ池」の反対側になりますが、こちらは「嬉の森稲荷神社」です。”うれしのもり”とはなんとも語感の良い神社です。案内板によれば…【嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森に祀られていた。嬉の森は、(略)一説に入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。(略)嬉の森稲荷は、関東大震災に消失を免れ、また昭和20年3月の東京空襲の戦火も免れたという。嬉の森稲荷は火伏の神として信仰され、4月の2の午の日には、近隣人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。】…とあります。地元の方によると、この4月の祭礼時に開かれる社殿の内部の狐関連の造作が施されており、それもかなりに傷みが生じてしまっているようです。

見所満載の浅草寺境内…(Ⅳ)

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久しぶりの「見所満載の浅草寺境内」となりました。浅草寺の境内は、石碑・記念碑などがやたらに建てられているので当分ネタは尽きないでしょう(笑)。さて、浅草寺の境内、本堂を正面に見て手前の左側に「鳩ポッポ」の歌碑があります。ご存知の♪ポッポッポ鳩ポッポ~♪という童謡です。歌の正式タイトルは「鳩ポッポ」、作詞は東くめ。作曲は滝廉太郎のコンビによる作品とあり、浅草寺の境内で鳩と戯れる子どもを歌ったものということが定説のようです。なかなかご立派なブロンズの碑にはリアルに造形された鳩が停まっています。この歌碑は昭和37年の建立されたもので、以前はこの辺りに”鳩のエサマメ”を売る店があったそうす。この時代は鳩も優遇されていたようですが、現在は「ドバトにエサをあげないで下さい」という立て看板が建っているのに苦笑してしまいます。
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Pt↓右)は鳩の碑隣に「迷子しるべ石」があります。この石柱を使って迷子を「見つけた人」と「探している人」の情報交換が行われていました。(昭和32年の再建)
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台東区寿町・本法寺

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台東区寿町に本法寺(ほんぽうじ)という日蓮宗のお寺があります。…昭和10年代日本は国をあげて戦争状態へと向かっていました。政府から「時局に合わない不真面目なことはいかん」との命令により自粛が求められた落語界では多くの噺(演目)をこの本法寺の『はなし塚』に葬ってしまいました。…
ということで、このはなし塚を見にいったのですが、本法寺には面白く謎深い”モノ”が数多くありました。
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140509_03140509_04左が「はなし塚」の由来です。封印された”不真面目”は噺とは、遊郭・妾・不義・好色に関連した噺53の演目だったそうです。江戸文芸の名作、明烏・五人廻し・木乃伊取りなどが高座では聞くことができなくなってしまい、この噺を得意にしている噺家はさぞや困ったことでしょう。”重大時局で国民の滅死奉公”を政府が要求していた時代ですから、当然だったのかも知れませんが…。昭和16年10月31日に当時の講談落語協会の方々が発起人となり、本法寺の境内に「はなし塚」を建立、53種の禁止演目の台本を納めています。この”自粛”は第2次世界大戦の終結後、昭和21年9月まで続いたそうです。この「はなし塚」は、台東区文化財の史蹟して台東区教育委員会製作の案内板も立てられています。
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140509_05140509_06左が「長瀧山・本法寺」のご案内です。開山から現在の地に移るまでの歴史が書かれています。面白いのは「熊谷稲荷の由来」とあるのですが、確かに山門の石柱は右が「本法寺」で左が「熊谷稲荷」とあります。が、左には稲荷社らしき鳥居もきつね氏もおりません。Pt右が「熊谷稲荷」と思われます。本法寺HPによると…『この稲荷は、江戸中期に熊谷安左衛門が勧請した稲荷で、数ある稲荷とちがって、白狐を祀った稲荷で、江戸浅草の熊谷安左衛門の墓所のある本法寺と、青森弘前の津軽藩公が祀った二ヶ所だけの、極めて珍しい稲荷です。もう一ヶ所の津軽の熊谷稲荷は、藩公が江戸へ参勤交代のさい、白狐があらわれて、不思議な霊験があったことで知られています。狐(きつね)にもさまざまな稲荷の神として種類があり、そのなかで人間に福徳を分かつ福狐(ふっこ)、つまり白狐(ぴやっこ)だけが、稲荷明神の御脊属(けんぞく)[侍者、従者、随伴者、取り巻きの者]に選ばれる資格があるといわれています。しかも白狐は一種の霊体であって、通俗の人間には姿を見せず、稲荷信仰のあつい人に対してだけ、その正体を現わすといわれています。江戸時代から巷間に熊谷稲荷の信者が多く、門前は人で賑わっており、熊谷稲荷がいかに栄えていたかが覗えます。(略)』…とあります。という事は、神道系(倉稲魂神)の伏見系でも仏教系(ダキニ天)の豊川稲荷系でもないという事でしょうか?。
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「はなし塚」の関連なのでしょうね。正門右側の玉石垣の塀は各放送局、落語協会や落語家、芸人達が奉納したものです。日本放送協会・ラジオ東京・日本文化放送・ニッポン放送や本牧亭・末廣亭等の寄席、伊豆栄(鰻や?)の名前も見えます
右は「吉見稲荷」です(熊谷稲荷とは違います)。所謂”町稲荷”のようで変遷をへてこの場所にあるようです。
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銀座線・浅草駅…(Ⅱ)

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↑は銀座線・浅草駅の4番出口。吾妻橋方面への階段を登ると、浅草寺をイメージ(?)のレトロな駅舎に出ます。銀座線は日本で最初の地下鉄で上野~浅草間に1927年12月に開業しています。距離は僅か2.2㎞、それでも開業当初は連日押すな押すなの超満員だったそうです。写真の駅舎は開業時の「東京地下鐵道株式会社」時代のもので、現存する地下鉄で最も古い駅舎です。『関東の駅百選認定駅』とあるのですが、聞きなれない”百選”です。上の写真の格子の部分の丸囲に”地下鉄出入口”とレイアウトされています。単にレトロでかたずけられないセンスを感じます。
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↓これらを見れば”あぁ、あそこか”と思い当ります。浅草寺をイメージした=言われてみればそうなんでしょう(笑)。1927年以来となると86歳という事になりますねっ。
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銀座線・浅草駅…(Ⅰ)

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銀座線・浅草駅の田原町方面の改札を出ると”大正ロマン”なるレトロ調装飾がなされています。(↑)のレリーフは目立たない場所にあり、解説らしきものも見あたりませんが、開業当時の「日本地下鐡道株式会社」の本社ビルにあったものだそうです。中央の丸い部分は会社の紋章でしょうか?紋章を挟んで2頭の龍が向かい合った意匠になっています。この本社ビルは現存せずこのレリーフが僅かに残っているだけのようです。
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デパート側の改札と比べると、天井、床、柱などがレトロ調装飾になっています。柱には浅草駅開業を報じる”中外商業新報”なる新聞の復古版が飾られています。地下鉄の開業は衝撃的出来事だったのでしょう。右の写真には浅草の年中行事一覧が掲示されています。イベントの多い街です(笑)
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見所満載の浅草寺境内…(Ⅲ)

070601070602”見所満載の浅草寺境内”も3回目となりました。左は改装なった本堂です。大多数の方がこちらでお参りとなりますね。本堂左側あたりにも多くの遺跡があります。右は【宝篋印塔(ほうきょういんとう)】と呼ばれる1761年(宝暦11年)に浅草寺信徒によって建立され、1907年(明治40年)に改修再建された、高さ9.6mの銅造りの搭です。【宝篋印塔】とは、塔内に『宝篋印陀羅経』を納めた塔のことで、参拝諸人は計り知れない功徳を得ると云われています。金龍山・草寺」とあります。

070606070605【宝篋印塔】の後ろ辺り、錦鯉が悠然と泳いでいる池があります。ここに架かる石橋は1618年(元和4年)に徳川秀忠が徳川家康を祀る東照宮を一般の武士や市民にも参拝させるために浅草寺境内に【浅草東照宮】を建立したおり、東照宮の神橋として和歌山藩主の浅野但馬守長晃の妻で、徳川家康の娘振姫が寄進したものとされます。その後1642年(寛永19年)に本殿などは火災で焼失していますが、この石橋は地震や戦災にも無事に残り約400年前の姿を伝えています。橋の全長は3.3m、幅は2.2.m、欄干高1.1m、都内最古の石橋と云われ重要美術品となっています。

070607070609こちらは【浅草六角堂】です。説明板には1618年(元和4年)の建立と記されていますが、一説では室町時代の建立ともいわれ、”都区内では最古の木造建造物”とされる。六角型造りの建物です。江戸時代の数度にわたる大火、大正時代の大震災、昭和20年の東京空襲と多くの災難を免れて残っている周囲が5.5m、背が低く瓦で全体を覆われている”奇跡の建物”です。もとは現在の影向堂の南に建っていたのを平成6年現在地に移りました。東京都の有形文化財に指定されています。

070610070611こちらが【影向堂/ようこうどう】です。平成6年に浅草寺中興開山慈覚大師ご生誕1200を記念して建立された境内では一番新しい建物です。内陣の須弥壇中央に聖観世音菩薩像、その左右に十二支生まれの年の守り本尊八体(影向衆)の像が安置されています。生まれ年の守り本尊は人それぞれの個性にあわせて、分担される仏様で、それぞれ真言を唱え、念持すると御加護が授かるといわれています。…因みに[子年]は千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)・無数の手により私たちを守ってくださる観音さまで、縁日は17日はとなっています…。【影向堂】のお隣に六角堂のご本尊【日限地蔵尊】のお堂があります。地蔵菩薩は慈悲の心で衆生を救われる仏さまとされ、この日限地蔵尊はお願い事に対し日数を定めて祈願すれば霊験があるとされています。

*浅草寺境内にはまだまだ遺跡・記念碑があるのですが、徐々に紹介していく予定です。

見所満載の浅草寺境内…(Ⅱ)

070501070502浅草寺境内の旧跡の多くには由来が記載された案内板が付いています。案内板の種類も『重要文化財』、『金龍山・浅草寺』、『台東区教育委員会』や『東京都教育委員会』によるのもの等の種類があるようです。この優しい顔をした婆さんは、瓜生岩子(うりゅういわこ/1829-1897/福島県会津生まれ)という方で、その半生を社会福祉事業や児童教育や女性・貧民救済などの社会福祉事業の推進に努め、晩年には”藍綬褒章”を女性としては初めて受賞している方です。”日本のナイチンゲール”とも称讃されたのですが、この辺は???です。以前に浅草生まれ育ちのお年寄りに…【この銅像の前を通ったら必ずお辞儀をしなさいと親から云われていて、どんな人かも知らずに通るたびにお辞儀をしていた】…との話を聞いて感激した覚えがあります。

070503070504写真は六区方面へむかった『淡島堂』にあります。説明版は『金龍山・浅草寺』の署名です。右の天水桶は1770年鋳造の貴重なものです。第二次大戦下、本尊の秘仏観音像を空襲から守るため一時的にこの天水桶に入れて地中深く埋めたそうです。幸い本尊は空襲被害を免れ戦後再び安置されています。写真左は「この灯篭の下を子供がくぐると病よけになる」と江戸時代から云われている灯篭です。確かに大人ではチョット無理かもしれません。こちらも説明版は『金龍山・浅草寺』です。

見所満載の浅草寺境内…(Ⅰ)

070401070402大多数の東京観光ツアーには”浅草自由散策”が組み込まれています。観光バス利用の場合は二天門駐車場で下車、浅草寺・本堂をお参りして、仲見世辺りでぶらぶらと云うのがパターンのようです。それはそれで良いのですが、浅草寺境内には見所が数多くあります。写真左は【重要文化財・二天門】です。1618年(元和4年)に浅草寺境内に「東照宮」が造営され「随身門(ずいじんもん)」として建立されています。この東照宮は1942年(寛永19年)に焼失、再建はされていません。右の鳥居奥が【浅草神社】です。元は三社権現(さんじゃごんげん)と称していました。三社祭りはこちらの祖神(漁師兄弟と地主)のお祭りで、浅草寺のお祭りではありません。社殿は徳川家光が1649.年に建立によります。神社右奥には【被官稲荷】と云うチョット面白い稲荷社があります。

070404070403写真左は【宝蔵門】です。スカイツリーとの2ショットの受けが良いようです。この宝蔵門は元禄時代に創建されたのですが戦災で焼失しています。現在の門は1964年にホテルニューオオタニの創始者・大谷米太郎夫妻の寄進により完成しています。「小舟町」と書かれた提灯がかかっていますが、これは日本橋小舟町からの寄進によります。吊り灯篭には魚河岸講(水産会社で構成)からの寄進なので「魚かし」となっています。右の写真は、徳川家光建立の五重の塔があった場所の碑です。現在の場所と異なり宝蔵門を正面からくぐった右側にあります。現在の五重塔はコンクリート製で1973年の再建です。どうした訳か江戸時代のものより15m高くなっているそうです。

浅草地下商店会

011002011001 前回の「東京メトロ銀座線・神田須田町地下街」に続いて、今回は「銀座線浅草駅・浅草地下商店会」です。現在では,虫食い状態の商店街ですが、小奇麗にリニューアルされる事もなく、味わいのある空間が形成されています。浅草らしい地下商店街と云われているようですが、確かに昭和20~30年代といった感じで、配管がむき出しの天井。DVDショップ、理容店、占い店や飲食店が昭和20年~30年代の面影を残しています。写真右の看板には『開業50年 レトロ通りをメトロで乗り降り』やら『明るい・あたたかい・ともだち感覚 浅草地下商店会』とのコピーがあります。東京スカイツリーが開業し浅草駅も単なる乗換駅になってしまった感もありますが、やはり”浅草”は東京を代表する観光地であり続けるでしょう。イメージとしての浅草を象徴するような浅草地下商店会…。これからも頑張っていただきたいと切に思います。

金竜山・浅草寺&猫の幸せ

010501010502台東区浅草2丁目の金龍山・浅草寺は今年も初詣での参拝者で溢れかえっていました。昨年は初詣の人出が第3位だったそうですが、今年はどうなることやらです。こんなことを言うのはナンなのですが本殿で手を合わせる方々はどなたにお参りしているのかご存じなのでしょうかねぇ?浅草寺は東京都内最古の寺で(二番目の古寺は麻布・善福寺)山号は金龍山。本尊は観音菩薩聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)です。元々は天台宗に属していたのですが、第2次世界大戦後独立して聖観音宗総本山となり、観音菩薩をご本尊とすることから「浅草観音」or「浅草の観音様」と広く親しまれています。観音様にお参りして、美味しいものを食べて、映画でも見て楽しむ…。嘗てはこれが”正しい東京の正月”だった日々もありました。元来、江戸幕府により観音様詣でののち歌舞伎や遊郭で”厄落とし”のパターンで栄えてきた歓楽地なのですが、伝統は今日でも引き継がれているようです。
浅草寺近くの路地の”いい味”の猫ちゃんです。良く肥えて穏やかな表情をして陽だまりに目を細めてる仕草は、幸せそのものに見えます(笑)。
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”お姿”麗し・被官稲荷

121003121004浅草・三社様、浅草寺の裏手にポツント『被官稲荷神社』があります。何故か就職活動にご利益があることで知られているそうです。江戸っ子は「ヒ」を「シ」と発音し、被官を”仕官”と読んだのが、こちらで就職祈願をするとなっ理由だそうでずが、あえて追求するのは止めておきましょう(苦笑)。創建は1854年。江戸町火消の新門辰五郎の妻女が重病で床に伏した時、京都の伏見稲荷神社に祈願。その効果(?)か病は平癒したとのことで、お礼を込めて京都より勧請しています。この稲荷社は三社様の裏手で目立ちませんが意外に面白い意匠があります。右は被官稲荷神社に祈願の際に供える『お姿』と称する今戸焼きの土人形です。白狐の人形でシンプルなデザインが素敵です。上野公園内の花園稲荷神社にも『神狐』という同様な狐人形があるのですが、記憶が明瞭でないのですが…。若干デザインが異なっていたと思います。

浅草・今戸神社の猫

121001121002おなじみの台東区今戸の『今戸神社』の授与品「良縁招き猫」です。縁結び、恋愛運向上にご利益(?)があるとされています。そんな事から東京の縁起物のなかでも上位入賞の授与品です。左の黒ぶちがオスで右がで、揃って手招きする姿は微笑ましい限りです。10年以上前に出版された本に掲載されている猫の姿はこの写真とは材の質感も猫の表情(特に目のあたり)の印象が異なります。数種類あるようです…。今戸焼きは徳川幕府以前から今戸付近で産出の土を使っての瓦や人形を作っていたという伝統の焼き物とされています。江戸時代後期からは縁起物を造るようになり、被冠稲荷のきつねの人形、”お姿”なども今戸焼きの作品のようです。今戸焼きが”招き猫”を最初に作った”なんて話もあるようで、これが”今戸神社・招き猫”の伝承なんでしょうか?「飼っていた猫が恩返し」とか「小判を咥えて帰ってきた」のような伝承ではないようです。それしても、この縁起物は少々高額です。

乙女の祈り…今戸神社

101403101405最近は落ち着いたようですが、今戸神社は「恋愛のパワースポット」や「招き猫発祥の地」とのことで賑わっていました。地元の方に聞いた話では、今戸神社は昭和の始めに「元今戸八幡」と近隣の「白山神社」を合祀して現在の社殿になったそうです。ということで旧白山神社の神様であるイザナギ、イザナミの2柱が縁結びの神様として祀られてます。元今戸八幡の文字も敷地内に残されています。ここまではなんの疑義もないのですが…。「招き猫の発祥の地」となると、世田谷・豪徳寺の様に伝承があるわけでもなく、当時近隣には今戸焼の職人が多く住んでいたことからと強引にこじつけた話のようです。かと言って今戸焼き作品を代表するのが”招き猫人形”ということでもないようです。これを『捏造』と云ってしまえばそれまでなのですが…やはり『捏造』です(!)。さらには神社は”沖田総司終焉の地”なんだそうですが(碑があります)、”終焉の地”は新宿区にも存在します。お墓が数か所存在するのは不思議はないのですが、どう考えても”終焉の地”が複数箇所というのは…??。まぁそんなことは、お参りに来る乙女の皆さんにはどうでもいいことなんでしょう。乙女たちの幸あらんことを…(!)

下左)鳥居右の石柱には「今戸神社」と「元今戸八幡」の2種があります。
下中)拝殿の「猫の置物」。実は今戸焼きの猫とは似ても似つきません。色も姿も全く異なります。
下右)「ナミちゃん」「ナギちゃん」なる撫で猫像。頭が黒くなっていますが…。さらなる捏造の臭いが(苦笑)
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伝法院庭園

denpo_025月連休もグズグズのうちに過ぎていってしまいましたが、駆け込みのように「金龍山・浅草寺」の国指定名勝・伝法院庭園へ行ってきました(3/22~5/7迄)。この庭園は普段は非公開になっていますが、今年は”東日本大震災復興支援”と称しての特別展。今回の収益は震災義援金となるそうです。浅草寺の歴史ある縁起絵巻を始め、寺宝とされる大絵馬の数々が展示されていました。歴史のある寺ならでは、奉納主の依頼によりその時代の一流の絵師が担当した絵馬の数々、時を重ねた重厚感やホンモノの迫力はたいしたものです。展示ホールは撮影禁止となっており係員が目を光らせていましたが、これだけ大絵馬の数々が非公開とは…。

denpo_01上)池の向こうに浅草寺の五重の塔。伝法院は浅草寺の本坊で、安永6年建築の客殿・玄関や明治4年築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正の居間などがあり「伝法院」の名称はこれらの総称となるそうです。約3700坪の庭園は、寛永年間に小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」となっています。手入れも行き届き、すぐ塀の外が賑わう伝法院通りや浅草寺境内とはとても思えません。隠れていますが緑越しにおなじみの”東京スカイツリー”が見えます。左)浅草寺の五重の塔とスカイツリーが重なっています。
繰り返すようですが…これらが「非公開」とは”もったいない”限りです。

浅草・「舟渡御(ふなとぎょ)」

031801031802 【東京・浅草で18日、「三社祭」の起源とされる「舟祭」を再現した「舟渡御(ふなとぎょ)」が行われた。 舟渡御は、三社祭が今年で700年目を迎えることを記念し、54年ぶりに復活した。3基の神輿(みこし)が舟に載せられ、東京スカイツリーを間近に望む隅田川を約1時間、ゆっくりと進んだ。18日は、あいにくの天気にもかかわらず大勢の見物客が詰めかけ、舟と神輿の勇壮な姿に歓声を上げていた。】‥というのが報道記事なのですが、実際のところは‥1)天気予報が大ハズレで日中は14℃位に夕方から雨のはずが‥=13時頃から雨が降り出してかなり寒かったです。 2)お祭りですから、コメントや説明の放送は一切ありません=上り、下りともアットいうまに通過していきます。東京マラソン並みで歓声を上げると云うより落胆の声だった様な気がします。写真右の「綺麗どころ」‥遠めに見ても”白さ”が際立ちます‥は上りのみの登場でした。

031803031804左が三社さま。右が金龍と七福神の船です。54年振りの復活だそうですが、54年も前の事をどれだけの人が覚えているものでしょうか?とにかく浅草は年間行事で人集め(金集め)が巧みなところです。誰もが忘れてしまった様な祭りを記憶の彼方から引っ張り出してきたような気もしてきます。地元の人達にとっては「三社祭」はともかく特別なもの‥。それにしては盛り上がりも無く淡々とした祭りのようでした。

浅草‥待乳山聖天(本龍院)

matuchiyama_1「待乳山聖天/まつちやましょうてん」として知られる「本龍院」は浅草寺の子院のひとつです。創建は推古天皇の時代とされ、夫婦和合と金運にご利益のある「大聖歓喜天・十一面観音」が祀られています。
隅田川べりの小高い丘の上にあり、江戸時代は周囲が良く見渡せる名所だったそうで、多くの浮世絵や詩歌の題材ともなっていたそうですが、今ではその面影はありません。時代小説家の池波正太郎氏は1923年に待乳山聖天傍で生まれたそうで、本龍院の入口に池波正太郎生誕の碑が造られています。言問通り、言問橋西の交差点から墨田公園に沿って歩いた道路沿いにあります。”招き猫発祥の今戸神社”にも近いのですが、今戸神社=縁結びのパワー・スポットほどのインパクトに弱いのか、訪れる人もやや少ないようです。待乳山聖天と今戸神社の中間くらいに運河を埋めたてた公園がありますが、かつては王子方面から舟で吉原遊郭や浅草に来られたそうです。当時は歩く以外の交通機関と云ったら舟の利用が一番便利だったのですね。この付近には、隅田川・浅草側には待乳山聖天や今戸神社。さくら橋を渡って対岸には三囲神社、更に牛島神社と創建の古い特徴のある神社も多くあります。
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