旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

東京の橋梁

言問橋・いざこそ問はむ都鳥

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Pt↑)『言問橋』の台東区側からが一番「絵」になるようです。橋の長さは238.7m・幅22.0m、橋上の道路は国道6号・言問道りです。平成20年に両国橋と共に「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。この言問橋も他の隅田川の多くの橋と同様に関東大震災復興事業として大正14年に工事着工、昭和3年に完成しています。昭和20年の東京大空襲の際には、浅草方面からと向島方面の人達が橋の上で鉢合わせしてしまい、逃げ場がなくなった人達に多くの死者を出すという大きな惨事がおこっています。
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「言問」の地名は在原業平の 【名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思う人は ありやなしやと】 にちなんでいるのですが、実際はこの故事はここより上流の白鬚橋付近で詠まれたということです。ここから見る東京スカイツリーは墨田区側に高い建物が少なくスッキリと見えます。Pt↑)の”言問橋西交差点”からはスカイツリー建設当時から絶好の撮影ポイントとなっていました。気のせいかも知れませんが、隅田川を挟んで台東区側ににはホームレス達の住まいは見られず、墨田区側にはブルーシートが点々と並んでいます。
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カラフル浅草・吾妻橋

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隅田川を遡り浅草まで来ました。この赤く塗られた橋が『吾妻橋』です。最初の架橋は安永7年(1774)の事で、江戸時代の隅田川5橋の最後の架橋となります。はじめはこの付近の川名が「大川」と云われたことから『大川橋』と呼ばれており、武士以外の通行人からは通行料を収受していたようです。明治年間の明治18年(1887)に隅田川最初の鉄橋として架け替えられた橋は、関東大震災の火災で木製部分が焼け落ちたしまい、現在の橋は昭和6年(1931)に架橋されています。橋長:150m、幅:20m、橋上の道路は「雷門通り」です。
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台東区側は繁華街・浅草の入口にあたり、桟橋からは浜離宮経由で日の出桟橋やお台場方面の航路が発着しています。墨田区側には墨田区役所やアサヒビールの建物、悪名高き「炎のモニュメント」があり吾妻橋越に見る「東京スカイツリー」は展望のポイントとなっています。隅田川の橋梁は橋ごとの設計や塗られた色が異なっていますが、吾妻橋は”赤”で塗られており稲荷神社を思わせるような色合をしています。Pt↓)地下鉄の入口は日本最古のモノとされます。
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駒形橋と駒形堂

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『駒形橋』は橋の完成のより廃止となった江戸年間の「駒形の渡し」の場所に架橋されています。橋長:149.6m、幅:22m。台東区と墨田区を結ぶ浅草通り(都道463上野月島線)が通り、全体が青く塗られています。隅田川の他の橋と同様、関東大震災により崩壊してしまい復興事業として昭和2年に現在の橋が架けられています。『駒形橋』は橋の姿が珍しい構造となっていて、橋の中央部がアーチ部分が道路の上側になっていて、橋の両脇部分がアーチが下側になっています。因みに下流側の 『厩橋』 がアーチが上の構造、上流側の 『吾妻橋』 がアーチが下の構造になっています。
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橋の名称は台東区側の『駒形堂』に因んでいます。942年に浅草寺伽藍の建立の際に建立され、再三の消失・再建をへて現在のお堂は2003年に建立されたものです。ご本尊は「馬・別名「こまんどう」とも呼ばれ、元々は浅草寺に伽藍の一つで、推古天皇36年に漁師の兄弟の網に「聖観世音菩薩」 が掛かり、その場所に 建てられたのが「駒形堂」とされます。後に「聖観世音菩薩」 は浅草寺 に移され浅草寺の始まりとなっています。
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馬・うま・ウマの厩橋

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緑色に塗られた『厩橋/うまやばし』です。橋の名称は厩=馬屋で、江戸時代はこの付近に米蔵の米を運搬するため多くの馬が飼われていた事によります。架橋以前は「御厩の渡し」が利用されたのですが、「三途の渡し」の言われるほど転覆事故が多発していたことにより、民間の手で明治7年(1874)に最初の橋が架けられています。他の渡船場と川幅も流れも変わらないのに”事故多発”とは不可思議な事です。架け替えられた現在の橋は、橋長151.4m、橋幅21.8mの現在の橋は昭和4年(1929)の完成です。橋の下を走る地下鉄大江戸線は橋台に影響を与えないよう橋を迂回しているらしいです。
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『厩橋』だけに橋の各所に「馬」を連想させるレリーフなどが施されています。Pt↑)橋の橋柱に施された数頭の馬が群れているレリーフで一番判りやすいです。Pt↓)老巧化と汚れているの「馬」をあしらったステンド・グラススです。これはじっくりと見ないと理解できません(苦笑)。フェンスの枠組みには疾走する「馬」の姿があります。台東区側には馬とは関係のないチョット目を引く建物があるのですが、これ交番と人の横顔を模したトイレです。
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蔵前橋と楫取稲荷

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橋全体が「稲の籾殻を連想させる」ということで黄色く塗られた『蔵前橋』です。橋長173.4m、橋幅22.0m、東京復興計画の一環1927年に架橋されました。橋の名称は岸側の「蔵前」のあたりに徳川2代将軍 秀忠 がこの一帯を埋立て3万坪にも及ぶ広大な敷地に「浅草御米蔵」 という米蔵を建てたのに由来します。お米が経済の中核をなしていた時代ですからかなり重要な施設だったと思われます。Pt↑)台東区側には昭和29年~59年までは「蔵前国技館」があり大相撲が開催されていました。「国技館」は両国回向院の旧領国国技館→蔵前国技館→現領国国技館と場所が変遷しています。現在は東京都水道局の「蔵前水の館」となっています。
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Pt↑)橋上の小さなバルコニー状の場所には力士のモチーフが造られています。その他にも橋の欄干部分には横綱土俵入りと芸子が屋形船に乗っているモチーフがあります。橋から少し離れますが蔵前橋通りに『楫取稲荷神社』があります。江戸幕府が御蔵の資材を熊本から運搬する際に事故が多発しそれに関連して創建されたとあります。台東区側の橋詰には「浅草御蔵」の碑があり、さりげなく街の歴史の記憶を臭わせています。
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隅田川・柳橋

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『春の夜や 女見返る 柳橋』‥正岡子規の句です。正確には神田川の河口、すぐ先が隅田川です。地名としての「柳橋」は江戸中期から花街として知られ時代小説にも度々登場しています。当時は橋のほとりに多くの船宿が軒を連ね大変な賑わいだったようです。明治の時代になっても花柳界として東京を代表する歓楽街となっていました。正岡子規をはじめ多くの文人に取り上げられ、今でも町には当時の面影を残した江戸の雰囲気を感じられる町とされています。この橋が最初に架けられたのは元禄11年(1698年)のことで、現在の鉄橋は昭和4年に架け変えられていて、永代橋のデザインが取り入られ、短いながらも美しい姿をした橋です。欄干には花柳界の街にちなみ、柳橋芸者をイメージした”かんざし”のレリーフが施されています。隅田川屋形船の納涼船の船宿が立ち並び、橋のたもとには佃煮の名店「小松屋」や老舗日本料理店の「亀清楼」など情緒あるお店があります。
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隅田川・両国橋東岸

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『両国橋』をテーマにした歌が2曲ありました。五木ひろしの「両国橋」は相撲力士がテーマになっています。もう1曲が由紀さおりや松平純子が歌った「両国橋」です。作詞:喜多条忠・作曲:吉田拓郎と70年代フォークの大御所の作詞作曲です。昭和の名曲「神田川」の続編のような内容なのですがヒットしたか否かはわかりません(苦笑)。♪ なんにも言いたくないけれど 新しい恋始めるならば 両国橋はいけないわ~♪ 何故「両国橋」が舞台でなにがいけないのかはわかりません。両国橋という音感と語呂だけで作詞したのでしょう。
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吉良邸や回向院、国技館などの名所旧跡は隅田川東岸となりますが、地名としての「両国」は隅田川西岸のことで東岸は「向領国」→江戸ではないとされていました。両国橋東岸の広場には「表忠碑」と書かれた地元本所区からの日露戦争戦没者を慰霊する大山巌元帥による巨大な石碑が、その隣には赤穂浪士・大高源吾による「日乃恩やたちまちくだく厚氷」の句碑があります。公園のすぐそばにある巨大なイノシシの看板は有名な「ももんじ屋」です。何が食べられるかは一目瞭然。昨今は「ジビエ料理」などと洒落た表現をしますが「気取るなバカタレ!」と言いたくなります。
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隅田川・両国橋西岸

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旧武蔵の国と下総国を結ぶ『両国橋』です。現在の橋は昭和7年(1932)の完成で、橋長164.5m、橋幅24.0mあります。初代と橋は寛文元年(1661)に造られ、貞享3年(1686)に国の境が変更されるまでは下総国との国境とされ、武蔵国と下総の国を結ぶため『両国橋』と呼ばれました。江戸時代から数回の火災と再建を繰り返し、関東大震災では崩壊した両国橋の一部を「南高橋」として再利用していますが、アーチの形状が違っているため「南高橋」にはその面影はありません。平成20年(2008)には、上流の言問橋とともに東京都の「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。
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徳川幕府は防衛上から隅田川の橋は千住大橋と両国橋以外の架橋は認めていなかったことにより、1657年の明暦の大火では逃げ場を失った多くの死傷者をだしてしまいました。この犠牲者を弔ったのが「両国・回向院」で、その資金集め(勧進)のために両国で大相撲が開催されたと云われています。現代に残る「広小路」の地名は火災の延焼予防のため火ひよけ地として空地が設けられました。両国橋の中央区側には当時「両国広小路」が設けられ、即時の取壊しが可能な芝居小屋なども造られ明治時代初期まで歓楽街として賑わっていました。Pt↓)が広小路あたりでしょうか? 両国橋上のフェンスには両国の花火と相撲の軍配が施されています。
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微妙な名称・新大橋

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『新大橋』は旧橋のトラス橋が老朽化したため昭和51年(1976) に橋長170.0m、幅24m。2径間連続鋼斜張橋という様式で架け替えられています。橋の中央に2本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で歩道を広く取るなど近代的な 『新大橋』となっています。Pt↑)主塔には「歌川広重の名所江戸百景」の「大はしあたけの夕立」と”旧新大橋”のレリーフがはめ込まれています。この浮世絵を見たゴッホは腰を抜かして以後は広重のパクリに走り、ロートレックやモネらはショックのため布団を被って寝てしまったなんて話はありません。
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初代の新大橋は、元禄 6年(1693)幕府によって開発の進んだ深川方面と日本橋とを結ぶ橋として架設されています。これ以前は隅田川には千住大橋 と両国橋だけで、交通は「渡し船」が利用されていました。不便さを憂えた5代将軍 綱吉の母 桂昌院 が綱吉に橋を架けることを勧めたとされています。新大橋 の名称は 『両国橋』 の下流に架設されたことから『千住大橋』・『両国橋』 に次いでの橋ということで「新」といっても「新」でない『新大橋』です。
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よく判らない松尾芭蕉

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清洲橋と新大橋の間、江東区深川に”松尾芭蕉が延宝8年(1689)頃に江戸日本橋より移り住んだとされる一角があります。芭蕉はこの地を拠点として創作活動に励んだとされ、『江東区芭蕉記念館』や江東区側のテラスには句碑が紹介されています。清澄橋を望む史跡庭園には芭蕉像が置かれ「松尾芭蕉と清洲橋」というイマイチな景観になっています。Pt↓)は隅田川支流の小名木川に架かる『萬年橋』です。中々の美形でTVドラマの撮影にも使われているようです。この橋からの清洲橋の景観が「ケルンの眺め」として知られています。
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松尾芭蕉はこの付近の自宅から(スポンサーの家からの説もあり)元禄2年(1689年)に岐阜までの2400㌔の旅を開始しています。その自宅にしても元禄年間以降は町の姿も変わり芭蕉の住居も不明となったようですが、史跡庭園付近から芭蕉が愛好した(?)「蛙像」が出土、この場所と芭蕉の旧宅と想定し芭蕉稲荷を祀ったとあります。なんとも根拠に乏しいめちゃくちゃな話です。その「奥の細道」の旅立ちにしても、初日は隅田川を舟で千住大橋付近に上陸、”歩きだし地”として千住青果市場に芭蕉出発の地の銅像(最近は南千住駅前まで銅像を造って参戦)があります。つまり【家から出発】と【歩出しの出発】が数か所ずつあることになります。
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清洲橋・男女7人夏物語

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隅田川の数ある橋の内でも圧倒的な”美人”なのは『清洲橋』でしょう。清洲橋は平成19年6月に永代橋・勝鬨橋と3橋同時に国の重要文化財に指定されています。清州橋は、橋長186.2m、幅22.0m、鋼自碇吊橋という工法で昭和3年に架橋されています。当時の内務省復興局技術陣が【力学的合理性を追求して近代的橋梁美を実現し昭和初期を代表する吊り橋として重要】称しているのですが、実はドイツ・ケルン市の大吊り橋の”まねっこ”です。本家が戦争で失われたので、これはこれで良しとしましょう。
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いまから30年ほど前、この橋はTVドラマで一躍有名となりました。隅田川(中央区側)沿いのマンションに主人公(男性)の住んでいて、対岸の萬年橋近くのアパートにヒロイン住んでいるという設定で、この橋を挟んで物語が進行していきました。その後、私生活でもお二人は結婚、そして離婚。まさに『男女7人夏物語』でした。~「お前が橋渡る姿、好きやったなぁ」~東京メトロ半蔵門線も大江戸線もなかった時代だからこそのセリフです。この部分を「アァ」と納得できる方は、それなりの年配者なのですが(苦笑)。
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隅田川大橋と佐賀稲荷神社

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Pt↑)は『隅田川大橋』です。東京都管理のこの橋は、橋長391.7m、幅27.5m、3径間連続鋼床版箱桁橋という難しい工法により昭和54年(1979)の完成しています。隅田川橋唯一の2層式構造で上段は首都高速で、下段が『隅田川大橋』です。川面の下には東京メトロの半蔵門線が走っており、実質3層構造と云えます。橋梁特有の優美さに欠けた機能性重視の設計と言われているようですが、一つ下流には『永代橋』が上流には『清洲橋』が優美な姿を見せています。以前はこの美人さんが隣どうしだったのですが、とんだブサイク野郎が邪魔にはいったものです。
隅田川大橋の江東区側、佐賀2丁目に『佐賀稲荷神社』があります。江戸初期には近辺は干潟を埋立てた土地で、海上運送の起点として賑わいました。寛永年間に造られた稲荷社は、明治以降に米問屋の集まる街と姿を変えても商売繁盛の稲荷として崇敬され続けてきたようです。
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永代橋と紀文稲荷神社

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『永代橋』は橋長184.7m、幅22.0m、大正15年(1926)に完成しています。【放物線状の大規模ソリッドアーチを中心とする荘重な造形により近代的橋梁美を実現】なんだそうです(苦笑)。「東京復興事業の華」と称された清州橋に対し「帝都東京の門」と言われた永代橋は、ドイツ・ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルとしています。しかしながら橋梁支間100mを超え橋の構造は、当時の大規模構造物建設の水準を超えるす事例として評価されていました。実際のところ架橋工事にはかなりの高度な工業水準が必要とされるそうです。
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初代の『永代橋』の架橋は元禄11年(1698年)。5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して現在のよりも100m程上流に隅田川で4番目として架橋されました。元禄15年の赤穂浪士の吉良邸討ち入りでは浪士はこの橋を渡って泉岳寺に向かっています。享保4年以降、財政の困窮により永代橋の廃止が決定したのですが、運営の民間委託ということで橋の維持の諸経費を町方が負担することを条件に存続を許されています。文化4年(1807)には富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆の重で橋が崩落、死者・行方不明者は実に1400人を超える史上最悪の落橋事故をおこしています。永代橋の江東区側に橋から近いとは言い難いですが、江戸元禄時代の豪商・紀国屋文左衛門に所縁の「紀文稲荷神社」があります。実際は紀文の屋敷跡とは違う場所のようですが、まぁ良しということとしましょう…。
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中央大橋と霊岸島

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隅田川の数ある橋にも”平成生まれ”が登場してきました。東京都管理の『中央大橋』は橋長210.7m、幅24.0m、平成6年の完成です。平成18年2月には『千住汐入大橋』が完成して最新の座は明け渡しましたが、機能性とコスト重視の昭和年間の橋とは異なり優美なデザインになっています。主塔は云われてみれば「兜」をイメージだそうで、隅田川とセーヌ川が「姉妹川」の提携を結んだ記念としてパリ市からブロンズの女神像が寄進されています。それにしても都が管轄する橋としては、バブルの絶頂期とのこともあり分不相応なほどの贅沢な造りです。この後年東京都はゲート・ブリッジの建設に於いて予算がなくなり、国に泣きつくという失態をやらかすことになります(笑)。
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Pt↑)は石川島側からの眺めです。右に中央大橋の主塔、左に亀島水門、中央が霊岸島あたりです。この地に明治年化に造られたのが「霊岸島水位観測所」です。日本の高さの基準は国会議事堂前の公園に設置された「日本水準原点」ですが、使用される数値は霊岸島で観測された海面高の平均値(現在は「油壷検潮所」の観測値を使用)から決められていました。また江戸慶長年間に幕府により「江戸湊」が作られ江戸水運の中心地として、昭和11年までは伊豆七島など諸国航路の出発地として賑わっていいました。
Pt↓)は友好の印としてパリ市長から贈られた「メッセンジャー」と称する彫像です。彫像は川側向きなのでこの位置からだとなんだかわかりません。もう一つの橋が中央区佃と江東区越中島を結ぶ橋が長さ149m、幅22mの「相生橋」です。
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佃大橋と佃

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勝鬨橋(築地大橋)に次いでの『佃大橋』です。長さ476.3m、幅25.2m、東京都の管理で昭和39年(1964)に架橋されています。佃大橋は隅田川最後の渡船場として320余年続いた「佃の渡し」跡に架けられた橋で、東京オリンピックの開催を控えて増大する交通量は永代橋や勝鬨橋で対応が困難となった為、戦後初めて隅田川に架橋されています。隅田川橋梁群でもデザイン的に特徴に乏しいと評価ですが、東京オリンピックに間に合わせるという命題をうけ、当時の技術の粋を凝らして完成させた高度成長期の日本を象徴する橋なのです。
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江戸情緒を残すレトロな町として人気の『佃島』です。佃は天正18年(1590)徳川家康が摂津国佃村から漁民33人を呼びよせ鉄砲州向干潟を埋立て「佃島」に住まわせたのが始まります。住吉神社は正保3年(1646年)住吉大社の分社として建立されています。池波正太郎の「鬼平犯科帳」 に登場する石川島人足寄場もこの近くです。Ptにあるマンション群は”リバーシティ21”で、佃の風景とのバランスは微妙です。Pt↓)鳥居の先に住吉神社があります。漁師達が舟から参拝できるよう墨田川に面しています。作り直したのか塗り直しか鮮やかな朱色です。
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勝鬨橋と築地大橋

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環状2号線隅田川橋梁(銅3径間連続中路式アーチ橋、長さ:245m、幅約32~48m)が完成して『築地大橋』と名称が決まったは平成26年9月のことでした。橋の完成により『勝鬨橋』から『築地大橋』へ隅田川最下流の橋の座がめでたく譲られたのでしたが、それから数年がすぎてもこの橋を渡ることができないとは思いもよりませんでした(笑)。Pt↑)の隅田川右岸の施設が何かと話題の『築地市場』です。橋の左岸の約2㎞先に造られたいる豊洲市場への道路が築地の建物が現存しているため『築地大橋』を開通させられないというのが現在の状況なのです。
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現時点での隅田川最下流の橋『勝鬨橋』です。管轄は東京都。長さ:246m、幅;22m、シカゴ型双葉跳開橋で1940年(昭和15年)の完成、「清州橋」や「永代橋」そして「勝鬨橋」は平成19年に国の重要文化財に指定されています。勝鬨橋は1940年に「皇紀2600年」に月島地区で開催予定の日本万国博覧会のための道路として計画され、日本の技術力を誇示できるよう日本人により設計施工されています。結果的に博覧会は軍部の反対により中止でしたが、橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの橋でした。1947年~1968年までは橋上を都電が通行、月島地区への足となっていました。物流の変化や交通量の増大により橋は役目を終え「東洋一の可動橋」も1970年11月29日を最後に開閉することはなくなっています。
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