旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

稲荷神社

狐と馬が…矢先稲荷神社

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台東区松が谷2丁目の「矢先稲荷神社」です。五穀豊穣を司る「倉稲魂命」と七福神の「福禄寿」が祀られています。倉稲魂命=伏見系の稲荷社なのですが神使(眷属)の狐はおりません。Pt↑)拝殿の格天井には神武天皇から昭和までの馬とゆかりの人物や馬の姿、武具、服装などが精密に描かれた「日本馬乗史」が設えてあります。解説には昭和39年に「海老根駿堂画伯」により約5年の製作期間を経て昭和39年に奉納されたとあります。天井画なので若干の距離もあり見上げ続けるのは結構シンドイ思いをします。(社務所に「日本馬乗史絵」なる図説/¥1200がありました)
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由来によると、寛永19(1642)年に3代将軍徳川家光により武道の練成のため、三十三間堂がこの地に建立建立されました。この堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど”的の先”になることから「矢先稲荷」となったそうです。元禄11年(1698)年の江戸大火で焼失し、三十三間堂は深川に移転するも稲荷社は再建され、関東大震災や東京大空襲などの困難をへて現在に至っています。
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よく判らない松尾芭蕉

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清洲橋と新大橋の間、江東区深川に”松尾芭蕉が延宝8年(1689)頃に江戸日本橋より移り住んだとされる一角があります。芭蕉はこの地を拠点として創作活動に励んだとされ、『江東区芭蕉記念館』や江東区側のテラスには句碑が紹介されています。清澄橋を望む史跡庭園には芭蕉像が置かれ「松尾芭蕉と清洲橋」というイマイチな景観になっています。Pt↓)は隅田川支流の小名木川に架かる『萬年橋』です。中々の美形でTVドラマの撮影にも使われているようです。この橋からの清洲橋の景観が「ケルンの眺め」として知られています。
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松尾芭蕉はこの付近の自宅から(スポンサーの家からの説もあり)元禄2年(1689年)に岐阜までの2400㌔の旅を開始しています。その自宅にしても元禄年間以降は町の姿も変わり芭蕉の住居も不明となったようですが、史跡庭園付近から芭蕉が愛好した(?)「蛙像」が出土、この場所と芭蕉の旧宅と想定し芭蕉稲荷を祀ったとあります。なんとも根拠に乏しいめちゃくちゃな話です。その「奥の細道」の旅立ちにしても、初日は隅田川を舟で千住大橋付近に上陸、”歩きだし地”として千住青果市場に芭蕉出発の地の銅像(最近は南千住駅前まで銅像を造って参戦)があります。つまり【家から出発】と【歩出しの出発】が数か所ずつあることになります。
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都の西北・水稲荷神社

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新宿区西早稲田の「水稲荷神社」です。参道から本殿、本殿裏の摂社や富士塚などいかにも古社の風格がありますが、昭和38年(1963)に早稲田大学との土地交換により引っ越してきた神社です。元は早稲田大学の構内にあり「冨塚稲荷」と呼ばれていたのが、神域に元禄15年に霊水が湧き出したことで『水稲荷神社』と改名、眼病や水商売、消防の神様として有名だったようです。この地へ鎮座してからそれほどの年月ではないのですが、雰囲気は古社ならではの重厚感が漂っています。
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社殿左側に見事な飛翔型のきつね像があります。「耳欠け狐 身体の痛い所を神狐と交互に撫でると痛みがやわらぐといわれます」と案内板があります。さらに社殿裏には「戸塚の町名の起源となった富塚古墳」があるのですが、驚くことにはこちらも神同様引っ越してきたようです。
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現 水稲荷社の敷地は、徳川御三卿・清水家の下屋敷で、区立公園の『甘泉園公園』の敷地の一部のようです。現在でも大名屋敷の面影を残しているとのふれこみなのですが、区立公園の限界なのでしょうか、手入れの悪い荒れ果てた感じがあります。
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東上野・下谷神社

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東上野3丁目の下谷神社です。浅草通りに面した大きな鳥居を有していますが、その割には本殿はこじんまりとしています。ご祀神は大年神(誰?)と日本武尊。神社の創建は天平2年(730年頃)とされ、けっこうな古社です。東京メトロ銀座線・稲荷町駅が最寄駅とですが、この「稲荷町駅」の駅名は下谷神社が古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と称する都内最古の稲荷社だったことにより、おみくじが『キツネおみくじ』ってのも「おぉそうきたか」という感じです。神社の歴史で主祀神が入れ替わるのは珍しい事ではありませんが。下谷稲荷社→下谷神社に下谷稲荷町→東上野に変わっても駅名に記憶が残っているのは面白いと思います。社内には「寄席発祥の地」の石碑があります。1700年代に神社境内で初めて寄席が開かれたことによります。
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麻疹祈祷・太郎稲荷神社

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こちちらが台東区下谷2丁目の『太郎稲荷』」です。ごく普通の街稲荷ですが、江戸時代には築後柳川藩立花家の江戸下屋敷があり、柳川より勧請した「太郎稲荷」が祀られていました。享和3年(1803年)頃、江戸の街に麻疹が大流行し柳川藩の若殿も罹患しています。下屋敷内の「太郎稲荷」に病気治癒を祈願したところ、たちまち病状が回復したそうです。この話が広まってご利益にあやかりたい人々が大挙して柳川藩下屋敷に押し寄せることとなりました。噂が噂を呼び、翌1804年になっても参拝者が殺到し続けたようです。江戸時代の町民は許可なく大名屋敷に立ち入れないため、立花家では月に4日間だけ神社を限定的に開放し、結果として益々の人気を煽ったようです。「陽がのぼる前から立花家下屋敷の門前には参詣者が詰めかけ、道脇に下水に落ち、泥だらけになる者数知れず」。…大変な混雑ぶりです。流行の拡大とともに、縁起類、はやり唄、小唄なども数多く創られたそうで、近くの浅草寺を上回る人気となり「太郎稲荷」近辺には新しい盛り場が形成されるというスゴイ事になりました。通常、流行は一過性ですが、「太郎稲荷」については、享和3年から文化元年にかけてが第一ピーク。天保年化に人気が再燃し、慶応3年(1867年)にも流行が再燃しています。
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現在の神社には繁栄の名残はありません。それでも人々に大切にされてきた様子が感じられます。 1)間口はこれだけです。住宅地に鎮座しているので注意しないと見落とします。 2)こじんまりとした本殿ですがさや堂が創られています。地元では大事にされてきたのでしょう。 3.)本殿の様子です。額の写真は講中での慰安旅行の記念写真のようです。
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茶ノ木稲荷と亀岡八幡宮

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JR市ヶ谷駅を防衛省方面に進みます。靖国通りから引っ込んだ場所の急な階段の上に「亀岡八幡宮」が鎮座しています。本殿への石段の途中に「摂社茶ノ木稲荷神社」があるのですが、稲荷社の縁起によると元々この近辺に「茶ノ木稲荷神社」が祀られており、その後太田道灌が江戸城西方の守護神として鶴岡八幡宮(鎌倉)の分霊を「亀岡八幡宮」として祀られました。この八幡社が江戸城の外堀工事により現在地に移転したとあります。つまりは…元々稲荷社の場所に八幡社が移転してきて、いつの間にやら「茶ノ木稲荷」が「亀岡八幡宮」の摂社へと立場が変わったという事になります。「茶ノ木稲荷」は弘法大師によって開かれたとされる都内でも指折りの古い稲荷神社で、江戸時代の「稲荷番付」…そんなものが(笑)…では全国のお稲荷様ランキングの前頭筆頭の地位にあった由緒正しき稲荷社です。「眼病平癒」に関して特にご利益があるそうです。
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日本橋の激セマ稲荷社

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銀座の豊岩稲荷神社も激セマですが、この中央区日本橋3丁目の『於満稲荷神社』も激セマでは負けていません。東京駅八重洲口からの方が近く「日本橋3丁目養珠院通り」が目印とありますが、ご覧の様な環境(赤いドアの左に鳥居が見えます)なので大変に分りにくいようです。この神社の周辺は、徳川幕府の休憩所があり、家康の側室『お万の方』一行が、日本橋付近に物資調達に訪れたという謂れがあるそうです。『於満の方=養珠院』信心深さや人柄を慕う日本橋界隈の商人たちが”養珠院が商業発展に貢献された”として於満稲荷神社を建立しました。以来350年間、関東大震災や東京大空襲にも耐え現在も祀られています。中央区は平成16年に、この通りを『お万の方』の院号から通りの名称を「養珠院通り」にしています。

神社を正面から撮影することはできない程の激セマです。撮影するのにかなり苦労しました。
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銀座のきつね・靏護(かくご)稲荷

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中央区銀座6丁目の老舗のデパート”松坂屋銀座店”が建て替えのため06月30日に閉店になります。建替え工事中は、屋上にある靍護(かくご)稲荷神社も暫くの間はどちらかへ遷座となるでしょうね。この靏護稲荷は文化12年に伏見稲荷大社より上野・根岸に勧請され昭和4年に松屋銀座店屋上に遷座、今日まで火災から守ってきた稲荷社になります。 このPt撮影中にも、初老のご婦人から「父がここで働いていたので…」とカメラのシャッターを頼まれました。古くからの『街稲荷』には、それぞれの思い出があるのでしょう。
そんなことはともかく…。閉店セールは大変な事になっていました(笑) なんとレジ待ちが15分(!)でした。
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山王稲荷神社

ブログネタ
桜が開花!お花見には行きますか? に参加中!
031702031701日枝神社の境内末社に『山王稲荷神社』が鎮座しています。説明では「昭和63年、千代田区指定有形文化財」となっています。山王稲荷神社は1659年(万治2年)に日枝神社が幕府の命により麹町隼町から現在の赤坂の地(福知山藩松平忠房の屋敷)へ移される以前から松平家邸内の鎮守として祀られていたとあります。稲荷社が先にあり、そこへ日枝神社が引っ越してきたという事になり、現在の稲荷社は日枝神社造営時に新たに『公儀普請』により造営されたとあります。さらに江戸時代の数々の災害を乗り越え昭和20年の東京空襲での社殿焼失の際にも戦災を免れ本社復興までの間は日枝神社の仮本殿として用いられるなど、末社でありながら唯の末社とは言い難いようです。
右の写真で鳥居の奥建物のさらに奥に写真左の社殿があり、厳重に金網で囲まれています。左の社殿は関東地方では稀な”縋形式の春日造の本殿”で、狛狐ならぬ狛犬となっています。

豊川稲荷東京別院・狐

032402032401『神使』の代表格となるとやはりキツネでしょう。写真は元赤坂の豊川稲荷東京別院のキツネ像です。豊川稲荷は大岡越前守忠相が三河より『吒枳尼天/だきにてん』を勧請したのが始まりのようです。何度か触れていますが、こちらは曹洞宗のお寺です。吒枳尼天はインドのヒンドゥー教の神様で一般的には”白狐に乗った姿”として表現されています。神道系の五穀豊穣の神様”宇迦之御魂神”とは神使が共通のキツネであるため一緒に祀られる事となったようです。明治年間の神仏分離の際しては多くの稲荷社は神道系になり一部が仏教系の稲荷社となっています。神道系、仏教系の二つの流れに身近にあり何でもお願いできる民間系の稲荷社が加わり、神社の数としては最多なっています。
本来、キツネは”神使”であり神様ではないのですが(受付の女性秘書に陳情するようなもんですが…)それしても、肉食獣のキツネが”油揚げ”が好物である訳はなく、この繋がりは何処からきているのでしょうか…?

左)豊川稲荷山門です。お寺ですからこちら側には「鳥居」がありません。
中)お寺側の本殿です。上のブロンズ製(?)の大狛キツネはこちらにあります。
右)大岡越前守の位牌を安置する”大岡廟”です。墓所ではありません。
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赤坂・美喜井稲荷‥写真

032003032001港区赤坂『美喜井稲荷神社』の2回目の掲載です。ある書籍に「もともとは、火事を知らせて飼い主を救い、自分は焼け死んだ猫の霊を祀ったもの」との記載がありましたが真偽のほどは判りません。青山通りを赤坂見附交差点から青山方面へ。道路反対側は、神道系と仏教系の稲荷社が同居している「豊川稲荷東京別院です。


032002032004豊川稲荷東京別院の向かい側、「とらや」の角を左に折れます。このお店、正式名称は「虎屋」なのですが…、駐車場にはいまどき案内係が誘導しています。老舗らしい”歓迎すべき無駄”ですね。隣のビルの2階が『美喜井稲荷神社』です。ビルの入口と神社階段は別々に造られています。植込みが見えるビルは「とらや」です。


032005032006見上げると「美喜井稲荷」との表記があります。境内はそれほど広くありません。銀座などで見かける”ビル敷地内神社”と大きく異なる印象はありません。普通に立ち寄って普通にお参りしても何の違和感も感じないと思いますが…。以下の写真のように狛犬ならぬ”狛猫”だったり、摩訶不思議な彫刻があったりします。


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親子狸…柳森稲荷神社

121011121010JR秋葉原駅から電気街を抜け、徒歩10分弱に『柳森神社』はあります。神社は室町時代の1458年(長禄2年)に、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして祀られたのがはじまりとされます。1659年(万治2年)に、神田川掘割工事の際にこの地へ移されました。 境内社の福寿社は、五代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(実はタヌキ)を祀っています。京都の八百屋の娘から将軍の生母になった桂昌院にあやかりたい大奥の女性達に信仰されたといいます。境内には、『おたぬき様』と呼ばれる親子狸の石像に目を入ります。「たぬき=他を抜きん出る」という意味があり、勝負事や立身出世、金運向上などのご利益があるといわれています。おたぬき様の像は凛々しくも可愛らしくもあり、いい感じです。この柳森神社の縁起物は…親子(?)狸親子の置物のお守りで、お供え(甘いもがベストとあります)を供えお参りし、大は家に祀り小は持ち歩くと福徳を授かると言い伝えられているそうです。かなり小さい人形ですが…。

”お姿”麗し・被官稲荷

121003121004浅草・三社様、浅草寺の裏手にポツント『被官稲荷神社』があります。何故か就職活動にご利益があることで知られているそうです。江戸っ子は「ヒ」を「シ」と発音し、被官を”仕官”と読んだのが、こちらで就職祈願をするとなっ理由だそうでずが、あえて追求するのは止めておきましょう(苦笑)。創建は1854年。江戸町火消の新門辰五郎の妻女が重病で床に伏した時、京都の伏見稲荷神社に祈願。その効果(?)か病は平癒したとのことで、お礼を込めて京都より勧請しています。この稲荷社は三社様の裏手で目立ちませんが意外に面白い意匠があります。右は被官稲荷神社に祈願の際に供える『お姿』と称する今戸焼きの土人形です。白狐の人形でシンプルなデザインが素敵です。上野公園内の花園稲荷神社にも『神狐』という同様な狐人形があるのですが、記憶が明瞭でないのですが…。若干デザインが異なっていたと思います。

歌舞伎町・稲荷鬼王神社

120401120402稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)は東京メトロ東新宿駅よりすぐの場所に鎮座しています。職安通りの反対側は”あの”韓国街となり近接して都内屈指のラブホテル街となります。訪れた日は小雨模様で、銀杏の落ち葉がうらぶれた雰囲気を醸し出していました。神社の由来は、江戸時代の1831年、大久保村の氏神であった「稲荷神」と熊野から勧請された「鬼王権現」を合祀し、『稲荷鬼王神社』となったとあります。さらに熊野の「鬼王権現」は現存していないため”鬼王”の名を持つ日本唯一の神社となっているそうです。社格は村社らしいので、さほどの格式ではないようです。ご祀神は稲荷神の宇迦之御魂、鬼王権現の月夜見命・大物主命・天手力男命や大久保村の火産霊神々なども合祀されています。平将門の幼名「鬼王丸」に由来するという伝承もあるそうですが、平将門伝承ほど怪しいものはありませんね。社号に”稲荷”とありますが境内には”きつね氏”の姿はありません。やはりと云おうか、この神社での節分豆まきは…「福は内、鬼は内」だそうです。本当でしょうか”(?)。

新大久保・皆中稲荷

120601120602新宿区百人町の皆中稲荷のご利益は判り易く、皆中つまり”みんなあたり”と云う意味になります。写真は『的中絵馬』…絵馬は本来持ち帰るものではないのですが、昨今は持ち帰る方も多いとのことです…宝くじであろうが競馬であろうが、あらゆる”当りもの”に絶大なご利益があるのはなんとも頼もしい限りです(!)。江戸時代、この付近には「百人組」と呼ばれる鉄砲衆が多く住んでおり、「鉄砲がよく的に当たるように」と祈願したところから『皆中稲荷』と呼ばれるようになったとの事です。JR新大久保駅下車で韓国街と反対方向、大久保駅方面へ約50m、交番の隣と鎮座しています。韓国街の賑わいに比べて寂しい感もありますが、なんのなんの「ご利益」優先です!。
=他の授与品には”宝くじを収納しておく財布”なんてのもありました=

狐が僧侶に…澤蔵司稲荷・慈眼院

111302111301文京区・小石川に「慈眼院」という浄土宗の”お寺”があります。こちらがまた不可思議な(面白い)稲荷さんです。
慈眼院の創建年代は不詳ですが、伝通院の学寮に澤蔵司(たくぞうす)という名の修行僧おり、入寮から僅かか3年で浄土宗の奥義を極めたそうです。元和6年(1620)5月7日、澤蔵司が、学寮長樋山和尚の夢枕に立って「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし」と告げて白狐の姿で去っていったという事です。伝通院の住職、郭山上人は「澤蔵司稲荷」を境内に祀り、慈眼院を別当寺としたそうです。「澤蔵司稲荷」は伝通院の塔頭の一つである慈眼院内の稲荷社となります。さらに、稲荷社の前にある椋の木には、沢蔵司の魂が宿ると云われています。澤蔵司は”天ぷら蕎麦”が好物で、伝通院の門前近くのそば屋でよく食べていたそうですが、沢蔵司が来店すると、必ず売り上げの中に木の葉が混じっていたといわれています。 ・写真左、これだけだと神社かお寺かわかりません。が、あきらかに白狐が意匠されています。
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111303111307よく知られるように稲荷信仰は、五穀豊穣を司る「宇迦之御魂神」の神道稲荷(神社)。インドの女性の神様「荼枳尼天」の仏教稲荷(お寺)。その他の民俗信仰系稲荷の3系統稲荷があり、「澤蔵司稲荷」は仏教的稲荷とおもわれるのですが…?・江戸城内の稲荷大明神(前述の内、どちら様でしょうか?)が浄土宗を修めるべく修行し、成績優秀で修められた学僧が”天ぷら蕎麦”が好きで、毎日通った割には蕎麦屋の勘定をごまかしていた。なんだか笑えるような人物像です…。 ・入口には「鳥居」が見当たりません。右:一段下がった窪地に鎮座しています。所謂”お穴様”なのでしょう。
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111306111305お寺なのですが、本殿前に狛きつね氏はおります。右は足元に珠、左は子狐のパターンで、親子狐は丸々として犬の親子の様に見えます。要するに、徳川家康の生母”於大の方”の「伝通院」内「慈眼院」に末社として稲荷社を祀ったなら何の不思議もないのですが…。狐が僧侶に化けてとか、千代田の城の稲荷大明神と名乗っているとか、伝承に面白いものがあります。境内もごこまでお寺で、どこから神社の明確な区別がないようでお寺と神社が微妙な関係で融合しています。

左:入口階段左右にはにレリーフが…。日向延岡藩と記載されています。
中:無量山傳通院鎮守・澤蔵司稲荷とあります。
右:稲荷社前の椋の大木には「沢蔵司」の魂が宿るとされています。木の葉で蕎麦がたべられるのなら…。
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台東区・千束稲荷神社

101201101202台東区竜泉2-19-3の「千束稲荷神社」です。東京メトロ・三ノ輪駅下車、国際通りを浅草方面に5分ほどです。 ご祀神は稲荷社ですから当然ながら『倉稲魂命』です。江戸寛永年間の4代将軍徳川家綱の時代の創建とされています。当時は三ノ輪から浅草一円を『千束郷『と称し、千束郷に造られた2社の稲荷社の1社が千束稲荷神社で北千束郷の氏神となっていました。明治年間になってからは太政官令により竜泉寺町一円の氏神として今に至っています。神社の鳥居は江戸時代後期の文化年間に作られ鳥居とのことです。神社の境内は樋口一葉「たけくらべ」にある明治26年頃の祭礼の舞台となり、子供達が遊んでいた神社としも有名です。平成20年には本神社が一葉の「たけくらべ」由来ということで一葉の胸像を建立されています。…碑文には”借金名人”とか”夜逃げの達人”とは、さすがに書いてありません…

下谷・小野照崎神社

091101091102久しぶりに台東区・下谷に「小野照崎神社」に行ってきました。以前にも書いたのですが、あの寅さんこと渥美清氏が「仕事が順調になるなら、好きなものを断つ…」で禁煙(!)結果「寅さんシリーズ」の役が舞い込んだとのエピソードでTV取材などもあったようですが…。「小野照崎神社」は『小野篁』を主祭神として相殿に菅原道真公が祀られ「学問・芸能」の神様として有名な神社です。850年頃この上野照崎(現寛永寺敷地内)に小野篁を祀ったのが起源とされ、江戸寛永年間に寛永寺の造営のため幕府より移転を命じられ、現社地に移ってきているそうです。

091103091104この神社は空襲被害に合っていないそうで、さほど広くはない敷地に多くの境内末社が残っています。その分石碑や石像に風化や壊れが激しく首が取れた石像などが多く見かけられます。左は重要有形民俗文化財指定の下谷・富士塚(下谷坂本富士)の富士浅間神社です。1828年(文政11年)建造で都内でも有数な歴史のある富士塚だそうです。普段は塚の扉は閉じられ登山はできませんが、門脇の「猿」はチョット残念な状態です。

091105091106左が三峰・御嶽神社の「狼」です。三峰神社は埼玉県秩父を本社つする神社で、元々の三峰講には山犬信仰があります。そんな訳で「狛狼」なのですが…角が取れてほとんど「猫」です。右側の狼は「以前狼だった」です。が、これはこれで雰囲気があります。右の写真は庚申塚で、日本三大(得意の)庚申の一つだという事です。かなり立派な石碑は”いかにも”です。残念ながらこちらの「猿」は首が完全に飛んでしまっています。

091108091109当然のごとく境内末社に稲荷社もあります。織姫神社と稲荷神社が合祀されています。こちらのキツネさんは何とも不可思議な姿の姿をしています。。左側の狐は下顎部分が欠けてしまっています。右側の狐の顔はあらぬ方向を向いています。稲荷社のきつね像は稲穂や穀物蔵の鍵を咥えていたり、時代が下がると足元に玉や子ぎつねがいたりしますが、この様なクネクネした姿の狐像はあまり見かけません。
*実は右のキツネ像はかなりのお気に入りです…。

神田駿河台・太田姫稲荷神社 &

0730507306室町時代、太田道灌の娘が疱瘡に罹って死にかけた折、道灌が京都の天然痘に霊験のある一口稲荷神社(いもあらいいなり)に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、一口稲荷神社を勧請して旧江戸城(道灌江戸城)に稲荷神社を築いたとされる。社名の「太田姫」は”道灌の娘”という意味ではなく道灌に狐の姿で現れて江戸城鬼門に祀れと告げた「太田姫命」のことだそうです。もともと、この太田姫稲荷社は現御茶ノ水駅聖橋口に在り、昭和6年(1931年)に総武線の拡張工事により現在の地へ移転したそうです。
本殿には太鼓に乗っかっている狐がいます。遠目に見ると”木彫”らしいのですが…。見事な”飛び姿”です。

07302「太田姫稲荷社」から少し離れて、神田小川町に「幸徳稲荷神社」があります。写真の様にビル2階なので普通の街稲荷かと思いましたが、これがどうして由緒ある稲荷社のようです。=旧幕時代山城の国淀の城主・稲葉但後之守(三代将軍徳川家光の乳人、春日の局の後裔)の江戸小川丁中屋敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し代々五穀豊穣武運長久を祈願された由緒ある社と伝えられています=との由緒はともかく、こうやって地域の人達に愛され大事にされてきた神社さん…良いですねぇ!とはいうものの千代田区も秋葉原からお茶の水界隈は、規模こそ大きくないものの古社が実に多い地域です。

群馬・太田市・冠稲荷神社

f_1f_2妻沼の聖天さまから車で30分程、群馬県は太田市の『冠稲荷神社』です。HPに「日本七大稲荷」の一つとあります、胡散臭さは確かめねばなりません。で、立寄ってきました。=古墳時代六世紀より1500年の間、義経公 冠奉安を始め、祭祀祭礼が行 われてきた宮の森。冠稲荷神社は平安時代の天治2年(1125)新田氏の始祖 新田義重公の父、源義国公創建とされ、伏見、豊川、信田、王子、妻恋、田沼と合わせ、日本七社のひとつといわれています。承安4年(1174)源義経公は奥州下向の折、当社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請(かんじょう)してきた京都伏見稲荷大社の御分霊を鎮祭しました。また、時を経て、新田義貞公は元弘3年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げるにあたり、当社神前にて兜の中に神霊の来臨を請い戦勝を祈願されたと伝えられています。この故事にちなみ、いつしか冠稲荷大明神と人々から呼ばれるようになりました。=写真は本殿と、本殿に施された「白狐」の彫刻です。妻沼聖天にも劣らない作品です。

f_3f_5「源氏縁の地」・「源義経の鎮祭」・「新田義貞の戦勝を祈願」…というような事もあったのでしょう。それはともかく、思いの外”感じの良い神社”です。結婚式場もあります。幼稚園も併設されています。小さな子供たちが元気に走り回っています。「故郷のお宮様の杜」という感じに満ちています。この感じけっこう好きです。境内社の「実咲社」は実にユニークはきつね達が並んでいます。「子宝きつね」・「縁結びきつね」・「安産きつね」・「子育てきつね」と、様々なお願い事ならなんでもOKの懐の大きい神社さんのようです。

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